日本の名勝・名跡・名所」タグアーカイブ

日本各地にある名勝や名跡や名所

越後長岡小嶋屋 本店 − A Niigata Local Dish Hegi soba.

今年は平成29(2017)年のGWは「越後攻め」で、三日目は某大河ドラマの主人公としても知られる直江山城守兼続公の居城であった与板城と、その近くで直江一族の居城でもあった本与板城などを攻めてきた。本当は前日に攻める予定だったのだけど天候が思わしくなかったので予定を変更した。やっぱり山城は晴れの日に攻めないと :)。そして、この日から三日連続で新潟県長岡市を中継して、長尾景虎こと上杉謙信公にゆかりある山城を攻める予定で、まずはその初日と云うことで。

この日は早朝7:00amに新潟から信越本線を1時間半近くかけて長岡駅まで移動した。この駅の西口にあたる大手口[a]JR長岡駅は長岡城址でもある。へ移動して、12番のりばから与板方面へ向かう越後バスに乗り上与板と云う停留所で下車した(当時450円)。そこから「城山(じょうやま)」と呼ばれている与板城址へ向かった。その途中、天地人通りと呼ばれる遊歩道[b]これも某大河ドラマの副産物らしい。前にトイレ付きの立派な道の駅があったので、しっかりと用をすまして万全な体制で城攻めしてきた。

その与板城址では集団でトレッキングしていた地元の中学生らと遭遇し挨拶合戦で応酬した。結局彼らとは今日一日、街のアチラコチラで挨拶の応酬をすることになった;)。そして与板城跡を攻略した後、お昼を摂ろうと予め見つけておいたお店へ行って見ると定休日で閉まっていた:O。「えっ!?」ちゃんと確認したんだけどなぁと訝しく思ったが、それは「昨日」のことであり、自分が予定を変更したことが仇になってしまったようだ;(。とはいえ今日からGWが始まると云う日なのに定休かよぉ!と思ってしまったが[c]いや自分のせいであることは十分に分かっているのだが・・・。。周囲を見ても御食事処が見つからなかったので、仕方なくお昼を摂るのを諦めることにした。と云っておきながら、実はこの店に来る前に同じ商店街にある「大判屋」という店の前を通り過ぎた時に、焼きたての良い匂いに負けてクリーム入りのオヤキ(120円)をついつい頬張ってしまっていたのだが :D。そういうことで、この後は与板陣屋跡と本与板城址と歩きまわって攻略してきた。それから帰りのバスが来るまで兼続お船ミュージアムこと与板歴史民俗資料館で時間をつぶすことにした。

帰りは与板仲町と云うバス停から越後バスで長岡駅へ。駅に着いたのが5:30pm過ぎで、流石にお腹が空いていたので、駅近くの越後長岡小嶋屋なるお蕎麦屋さんで越後名物の「へぎそば」と「タレかつ丼」の「合わせ」を頂くことにした:

皇室献上・越後長岡 小嶋屋 殿町本店

席にとおしてもらって落ち着いちゃうと、やっぱり今日一日の疲れを癒やすために生ビール(584円)が欲しくなった。さらに今日の一品なる献立から、(明日攻める予定の)栃尾町の名産である厚揚げ(ハーフ、432円)も併せて注文してしまった :D

栃尾油揚げハーフ(432円)

これはビールにも合うし、素晴らしく美味しい食べ物だった。その巨大でぶ厚い油揚げは、中央にねぎ味噌や梅肉が挟んであった:

栃尾油揚げ(梅肉)

栃尾油揚げ(ねぎ味噌)

主食が来る前に既に満足した感が強いが、頃合いを見て、へぎそばとミニ・タレかつ丼のセット(1586円)が登場:

へぎそばセット(1586円)

へぎそばは越後魚沼地方の名品の一つで、つなぎに布海苔(ふのり)という海藻を使った蕎麦を、ヘギという独特の器に盛ったものらしい。この蕎麦は喉ごしが素晴らしかった。

そして既にこのGW越後攻めの初日に食べているが、温かいタレかつ丼(ミニ)もまた美味しかった:

へぎそばセット(1586円)のタレかつ丼

越後長岡小嶋屋 本店
新潟県長岡市殿町2-2-9


ここからはおまけ。

これが与板町の「与板・天地人マップ」。兼続公と公の妻であるお船ゆかりの町である:

長岡駅大手口の12番のりば前にあった案内板(拡大版)

こちらは与板城を攻める前に用を済ませた「天地人通り」のトイレ:

天地人通りにあったトイレ

この通りには、他に観光案内所なんかの他、兼続公とお船さんゆかりの門が建っていた:

天地人通りの北端にあるお船門

本与板城跡へ向かう途中に見かけた三国街道(みくにかいどう)。ここには江戸時代の与板宿があった。中山道の高崎から北陸街道の寺泊へ至る街道で、その昔は上杉謙信が関東遠征の際に利用したんだと云う:

三国街道

三国街道と県道R274の合流点

こちらは与板陣屋跡にある長岡市与板支所の前に建っていたゆるキャラのよいたん:

与板のよさと愛を届ける男の子「よいたん」

こちらが城攻めで助かった大判屋のクリーム入り大判焼き。焼きたてのホヤホヤでクリームが一杯だった:

大判屋の大判焼き(120円)

与板は国産麦酒(ビール)の醸造に携わった中川清兵衛の生まれ故郷だった。彼がサッポロビールの生みの親である:

日本ビールの生みの親・中川清兵衛生誕地の碑

こちらは旧黒川と与板河川緑地たちばな公園:

旧黒川と与板河川緑地

ということで、この時のフォト集はこちら:
See Also与板城攻め (フォト集)
See Also与板陣屋・與板城攻め (フォト集)
See Also本与板城攻め (フォト集)

参照

参照
a JR長岡駅は長岡城址でもある。
b これも某大河ドラマの副産物らしい。
c いや自分のせいであることは十分に分かっているのだが・・・。

安田製麺所 − A Restaurant with a Noodle-Making Factory.

今年は平成29(2017)年の春の三連休、仕事の関係で全く予定を入れていなかったのだけれど、思い立って中日に栃木県にある城を二つほど攻めてきた。午前中は栃木県小山市にある祇園城跡。思川(おもいがわ)と云う利根川系の川沿いにある丘陵に造られた平山城で、現在は城山公園となって市民の憩いの場として開放されている。時期的に花見で混雑が気になったが、ここを会場として開かれる「小山祇園城さくらまつり」は来月の開催だった。ここ小山の有力豪族であった小山氏は小田原北条氏に攻められて軍門に下ったため、その後、祇園城は北条流築城術により拡張・整備されているようで堀切跡が見所であった。特に小山氏の菩提寺である天翁院近くの曲輪は、何百年の月日がそのまま流れていたかのように綺麗に遺構が残っていた:)

午後は小山市から栃木経由で下都賀郡壬生という町にある壬生城址を攻める予定だったので、お昼を小山市(というか栃木県)のグルメでも食べようかと駅に向かって歩いてみた。B級グルメなのだろうか、ホルモン屋が目についたがけど開店していなかった。駅近くになってきたので、おもむろに Google Map で探してみると製麺所直結の「安田製麺所」なんて云う御食事処があるようで、「やきそば」や「やきうどん」を食べれるようだ。時間的に開いているか不安だったけど、行ってみたらすぐにわかる、いかにもと云う店構えだった:P

安田製麺所

店に入ってみると中でおじさんとおばさんが仕出し風の小さな弁当をテーブルいっぱいに広げて作っていた。おそるおそる聞いてみると問題なく食べることができるそうで、早速目玉焼きがのった焼きそばの大盛りを注文した。御食事処にしては不釣り合いな超大型TVで高校野球を見ながら出来上がりをまっていると、まずは前菜三品が出てきた:

前菜三品

肉無しの酢豚+切り干し大根+きんぴらごぼう。これがほんと「家庭風」の味付けでなかなか美味かった:D。それから5分ほどして目玉焼きがのった焼きそば大盛りがきた。ついでにオニギリも付いていた。おばちゃんがカレーライスもあるけど?と云ってくれたけど、大盛りにしてしまった以上ここはオニギリで:

目玉焼きのせの焼きそば大盛り(780円)+おにぎり+前菜付き

大盛りだけど支払いは普通盛と変わらなかったっけ:D。野菜や豚肉がたくさん入っていて、ソースも甘辛く食欲をかき立ててくれた:

目玉焼きのせの焼きそば大盛り

焼きそばだけで大分お腹が一杯になったので、午後からの城攻めの合間に食べようとオニギリはそのまま持っていくことにした。口の回りがソースで一杯になる焼きそばは旨い。

安田製麺所
栃木県小山市城山町2丁目11-12


ここからはオマケ。

こちらは小山氏の菩提寺である天翁院に建っていたコウヤマキ(天然記念物)。スギ科の常緑針葉樹らしく、防火樹として社寺の境内に多く植えられたものだとか。樹高は約27m、樹齢四百年以上と推定される:

天翁院のコウヤマキ

こちらは壬生城跡に建っている民俗史料館前においてあった「孔子の宥座の器(ゆうざのき)」。宙に浮いている器に水をほどほどいれると起き上がる。しかし一杯入れるとひっくり返るから「満ちて覆らない者はいない」と裕福になって慢心を戒めることを弟子に教えたと云う(いわゆる「中庸」):

宥座の器

最後に、壬生町大字藤井にある国指定の前方後円墳「吾妻古墳(あづまこふん)」の玄門石(入口に置かれた石材)と天井石:

吾妻古墳の玄門石

吾妻古墳の天井石

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also小山評定跡と小山御殿跡 (フォト集)
See Also祇園城攻め (フォト集)
See Also壬生城攻め (フォト集)

足柄古道 − Old Ashigara Pass.

今年は平成29(2017)年の春近い週末に神奈川と静岡の県境に残る足柄城址を攻めてきた。この城は、その名の通り足柄峠に造られ戦国時代まで存在していた城で、他には奈良時代から古東海道として利用された足柄道が通っていた場所でもある。鎌倉時代には今東海道(いま・とうかいどう)の本路になる箱根路の隆盛により廃れたが、別名を矢倉沢往還と云って一時は関所が設けられる程であったという。

今回の城攻めに際しては公共機関のバスで足柄峠を登る予定であったが、現地に着いて途中からバスが運行していないことが判明し、残りの道程は徒歩で登ることになってしまった:$。まぁ、そのおかげで足柄古道の存在を知り実際に歩くことができたのだけれども:)

で、今回利用した古道は地蔵堂から足柄城跡があるところまで:

足柄古道案内図(拡大版)

地蔵堂から城址までの上りは、途中まで古道の存在を知らなかったため、こんなアスファルト舗装の足柄街道(R78)をひたすら登っていった。40分ほど登って「見晴台」というバス停前にあった四阿(あずまや)で一休みした際に、上の案内図を見つけて足柄古道の存在を知り、無事に短時間で城攻めすることができた:

足柄街道(県道R78)

上りは城攻めの予定時間のことを気して黙々と登り続けたが、下りは帰りのバス時間まで余裕があったので、ゆっくりと風景を眺めたり、寄り道したりして地蔵堂まで戻ってきた。ちなみに時間でいうと上りは45分程、下りは60分ほど。ということで、ここで紹介するのは足柄峠から地蔵堂までの下りの道程。


まずは足柄峠から。足柄峠に関する古文書の記録は古く、例えば景行43(113)年に倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東征の帰路、相模湾を渡った際に亡くした妻を嘆いてここ足柄峠で「吾妻はや」(あゝわが妻よ)と詠んだとか、天慶2(939)年には平将門が乱を起こし、足柄と碓氷の関を支配下に置いたとか、寛治元(1087)年には新羅三郎義光が後三年の役に際し、ここ足柄峠で露営し、兄義家のもとに向かっただとか、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原仕置では徳川家康が足柄峠を越えて小田原城の寄せ手に加わるだとかあるらしい。

そして、これはその昔、足柄峠にあったという「足柄の関」跡。平安時代の昌泰2(899)年、足柄坂に出没していた野盗らを取り締まるために設けられた関らしく、ここを通過するには相模国の国司が発行する通行手形が必要で、鎌倉時代に箱根道が開通するまでここ足柄峠は東海道最大の難所であったと云う:

古代の「足柄の関」跡

この効果は抜群だったらしく、この関跡の脇には取り締まった野盗や悪党らの首塚があるほどだったらしい。、それから一年後に関は撤廃されたらしいが、鎌倉時代の「源平盛衰記」によれば、源平の動乱の時期には臨時の関が設けられていたそうだ。

これは関所跡の側にあった「おじぎ石」。関所を通過する通行人が、この石に手をついてお辞儀をし、手形を差し出したと云う:

おじぎ石

関跡と足柄街道を挟んで向かいには足柄山聖天堂(あしがら・しょうてんどう)がある。弘法大師の開基と伝承され、現在は曹洞宗の寺院で、御本尊は「大聖歓喜双身天」。浅草聖天、生駒聖天と合わせて日本三体聖天尊として数えられており、商売繁昌、縁結び、厄除け、開運を示し表すと云う:

足柄山聖天堂

こちらは聖天堂前にあった御神木と、足柄山の金太郎の像:

聖天堂前にある御神木

足柄山の金太郎

そして関跡から現在の街道沿いに東へ少し行った所に足柄道に入る口があった:

足柄古道

この足柄道(矢倉沢往還)は、今から約1200年前の奈良・平安時代にあった官道で、西の都から遠江(現在の静岡)へ、さらに御殿場からここ足柄峠を越えて坂本(現在の関本)を通り、小総(現在の国府津)から箕輪(現在の伊勢原)、そして武蔵(現在の神奈川県と東京都)へ続いていた。延暦19(802)年に富士山が噴火して足柄道が埋まってしまった時は、御殿場から箱根へ出て碓氷峠から明神を越えて関本に下る碓氷道が利用されたが、古代の官道の殆どは足柄道であった。その後、鎌倉時代以降は今の東海道が主流となり、足柄道の往来も少なくなってしまったとか。とはいえ、南足柄地方は京から関東に入る玄関口でもあったので、中央の文化がもっとも早く伝わる場所でもあった。

この入口から下りていくとすぐに足柄明神社との分岐点があった。この足柄明神社が建つ場所は足柄城の明神郭(みょうじんくるわ)跡であり、1500年以上も前からここ足柄の開拓者が足柄明神を産土神(うぶすながみ)として祀ってきた元宮の地である:

足柄明神の入口

こちらが、明治6(1873)年に建てられた足柄明神の祠。「古事記」によれば足柄明神は、東国平定の帰りに立ち寄った倭建命(ヤマトタケルノミコト)を白い鹿となって襲ったが逆に討たれた坂の神で、坂東人[a]ばんどうびと。関東地方の人の呼称。の誇りを守った古代の英雄であった:

足柄明神の祠と足柄明神の白鹿立像

足柄明神の鳥居

足柄明神は天慶3(940)年に創建されたとされ、のちに矢倉岳に遷座して矢倉明神と改名した。その後、苅野に移転し、足柄上郡十八ヶ村の鎮守となり、昭和14(1939)年に足柄神社となった。祠の奥に見えるのは、この明神が変化した白鹿の立像で、近くの高校生が作ったものらしい。また、鳥居には「茅(ち)の輪くぐり」と云う無病息災を願うくぐり方があった。

さらに、この社の前からは南足柄市を望むことができた。左手に見えるのは矢倉岳(標高870m):

明神社前から南足柄市の眺望

案内板には「横浜のランドマークタワーから房総・三浦半島、江ノ島・酒匂川(さかわがわ)、大涌谷(おおわくだに)・金時山までの旧五ヶ国を展望できる景勝地である」とあったが、本当だろうか:

20170312-足柄古道-014.resized

南足柄市の眺望(拡大版)

明神社を後にして足柄古道へ戻り峠下りを再開した。時々巨岩がむき出しになっているところがあったが、流石に元は街道ともあって、特に想像していたほど急坂はなく安心して下りることができた:

巨石が横たわる足柄古道

ゆるやかな坂道の足柄古道

ゆるやかな坂道の足柄古道

しばらく下りていくと、なにやら案内板が建つ場所にたどり着く。ここには「源頼光の腰掛け石」や「金太郎の金ぶた石」を見ることができた:

足柄街道

ただ残念なことに案内板の文字は消えて全く読めなかったけど:$

この「源頼光の腰掛け石」は、平安時代中期の武将である源頼光(みなもとのよりみつ)が総州太守の任期を終えて都への帰途に、ここ足柄峠を越えて休息した場所らしい。頼光は清和源氏三代目で、御伽草子(おとぎぞうし)などの物語では、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時[b]幼名は、ここ足柄山生まれの金太郎である。、碓井貞光、卜部季武)と共に酒呑童子退治や土蜘蛛退治などの伝説が残っているらしい:

「源頼光の腰掛け石」

「源頼光の腰掛け石」

これは「金太郎の金ぶた石」なるものらしい。説明がなかったので、どれが石なのか全くわからなかった:

「金太郎の金ぶた石」

「金太郎の金ぶた石」

たまに岩がごろっと横たわっていたりする:

足柄古道

と思ったら石畳があったりする:

足柄古道

そして、ここが「見晴台」停留場で現代の足柄街道。当時は、季節運行[c]足柄万葉公園ゆき。4月・5月・10月・11月のみ運行。のためバスは走っていなかった。四阿(あずまや)の他に古道の説明板があった:

見晴台停留場

奈良時代に官道として東西を結ぶ重要な道路であった足柄古道は、のちに足柄道(路)と呼ばれていた。九世紀初めに起きた富士山の延暦噴火で、足柄古道は一時通行が途絶え、箱根声の路が利用されたが、噴火が止んだ一年後には復旧したという。徳川家康が幕府を開くと箱根声の路が東海道となったが、この古道はその脇往還である矢倉沢往還となり、物資の輸送や富士講の人々で引き続き賑わったと云う。

ここからは少し足柄街道を下って行き、再び古道に入った。以後は、こんな感じで足柄街道と付きつ離れつつして下りていくことになる:

足柄古道

尾根に沿ってできた古道を下りていく:

足柄街道(拡大版)

ちょっと大きめの旧坂がある:

足柄古道

それでもゆっくりと景色を眺めて下りてきた:

足柄古道

現代の足柄街道はくねくねした車道のため、それをショートカットするように古道が延びているので、注意しながら街道を横切った:

足柄古道

たまに下り道を見上げると、こんな急坂だったりする:

足柄古道

街道を横切った向こう側に新しめの案内板もあった:

足柄古道

古道とは言えよくよく整備されていたのでトレッキング気分で歩くことができる:

足柄古道

こちら、下り最後の古道の入口と思ったら行き止まりだった。なので、しばらく足柄街道である車道脇を歩くことになった:

足柄古道と足柄街道

晩春に近づいていた時期ではあったが、ここ足柄峠はまだまだ肌寒い空模様だった:

足柄峠から眺めた空

しばらく歩くと矢倉沢郷が見えてきた。この辺りまで下りて来ると、地蔵堂まであともう少しである:

矢倉沢郷

矢倉沢郷

地蔵堂まで最後の足柄古道。足柄街道とほぼ平行に歩くことになった:

足柄古道

この辺りからは矢倉岳も綺麗に見えた:

矢倉岳

舗装された古道を地蔵堂へ向かて歩く:

足柄古道

神奈川県の矢倉沢郷ではお茶も作っていた:

矢倉沢郷の茶畑

そして終点の地蔵堂へ到着した。この後は万葉うどんを食べて冷たくなった体を暖めた:

地蔵堂

登山道といった程ではないけれど整備された古道は歩きやすく、車が無くても問題なく峠を登ることができた。ということでバスが無くて最初はどうしようかと思ったけど、結果的にバスに乗れなかったことが良い機会となった:)

See Also足柄古道散策 (フォト集)

参照

参照
a ばんどうびと。関東地方の人の呼称。
b 幼名は、ここ足柄山生まれの金太郎である。
c 足柄万葉公園ゆき。4月・5月・10月・11月のみ運行。

万葉うどん本店 − Man’yō Udon.

先週は、平成29(2017)年の少しだけ暖かくなった週末に神奈川県と静岡県の県境にある足柄城跡を攻めてきた。城跡のあるここ足柄峠は歴史的にも古くから有名な場所らしく、日本武尊(倭建命/ヤマトタケルノミコト)の伝説などが残り、さらには富士山の眺めが良い所だそうで大勢の観光客がいたが、今回は車ではなく公共機関を使って攻めてきた。しかしながら、現地に着いてから乗り継ぎ予定だったバスが季節運行のため[a]足柄万葉公園ゆき。4月・5月・10月・11月のみ運行。走っていないことが分かったので、公称90分ほどの坂道を徒歩で登ることになったけど :$

この日はJR小田原駅から伊豆箱根鉄道大雄山線で大雄山まで行き、駅を出てすぐ隣りにある関本バス停から箱根登山バスで地蔵堂まで移動。予定では、ここから足柄万葉公園行きのバスに乗り継いで、下車して10分ほど歩くと足柄城跡と云うものであったのだけれど、このバスが運行していなかった。仕方がないので県道R78の足柄街道沿いを一時間近くひたすら登って行くことにした。歩き始めは歩道があったけれど、その後には車道脇を歩くことになった。坂を登ること40分ほどで「見晴台」と云うバス亭まで到着。一休みがてら近くに建っていた案内板をよく見ると、足柄街道とは別に足柄古道なる奈良時代から使われていた峠越えの道があるようで、街道沿いを歩くよりも近道であったことに気づいた:)。ということで、この山道を使って足柄峠を無事上り切ることができた。ショートカットする山道ということで、どんなにキツイものかと想像していたが、ところどころに急崖はあったが、まったく普通の山道で、グネグネしたアスファルト舗装の車道を歩くよりは断然マシだった:D

城攻めを終えた後、この古道を通って帰りのバスがある地蔵堂へ下りた。この際は下りということもあり、ゆっくりと風景や名所・名跡を楽しむことができた。バスまで時間がたっぷりあり、既に城跡でお昼は済ませていたのだけれど、小腹を埋めて体を温めるために万葉うどん本店と云う近くにあったお店で「とろろうどん(温)」を食べてきた。入口側で大分待たされたが、木目調のしっぽりとした暖かい店内だった:

温かいとろろうどん(720円)

実はあまり期待はしていなかったが、いざ食べてみると暖かいのに喉越しがよく、思ったよりもコシもあるうどんだった。甘出汁を使っているそうで、現地で採ったとろろも良かった。

万葉うどん本店
神奈川県南足柄市矢倉沢2393


ここからはオマケ。

これはJR小田原駅に乗り入れしていた伊豆箱根鉄道大雄山線。何処かで見た青い色の車両。その昔、小田原城を攻めた時に目撃していた。この時は間違って小田急線・箱根登山鉄道の改札を通ってしまったけど:D

伊豆箱根鉄道の5000系 (大雄山線)

大雄山(だいゆうざん)駅を降りてすぐのところにあった足柄山の金太郎の像:

金太郎の像

現代の足柄街道はかなりクネッているため多くのドリフト族らのメッカともなったのだろうか、タイヤ痕を多数見かけた:

足柄街道R78

足柄街道R78

最後に、足柄城一の郭(本丸)跡から眺めた富士山。この時はお昼近くともあって靄が出始め、これ以後は完全に包まれて全く見えなくなったので、運良くギリギリ拝めることができたといったところ:

足柄城址と富士山

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also足柄城攻め (フォト集)
See Also足柄古道散策 (フォト集)

参照

参照
a 足柄万葉公園ゆき。4月・5月・10月・11月のみ運行。

うなぎ桜家 − A Grilled Eel Restaurant Started in 1856.

先週は、平成29(2017)年2月末日に静岡県三島市近郊にある城を攻めてきた。城と言っても共に宅地化が進んだ街の中で市民の憩いの場となり、遺構のようなものはほぼ残っていない所ではあったが、久しぶりに暖かい週末の城攻めと云うこともあって、のんびりと散策してきた;)。そして、ちょっと遅めのお昼を伊豆箱根鉄道の三島広小路駅すぐ近くにある安政3(1856)年創業の有名な鰻屋で食べてきた。人気店ともあって行列は必至と予想していたけど、15:00と云う遅めの時間だったからか30分も待たずに入ることができた[a]店の前で記名した時には1時間以上待ちと云われたが、これは店側の配慮だろう。

うなぎ櫻家

どこもそうだけど店の外で待っている時は鰻を焼いた時の匂いが良い具合だった。そして、お店は予想外に大きく、中にはたくさんの客がいたが、店員も多かった。1Fのテーブル席の他に2Fと3Fに御座敷があった。

今回はビタミンA補給に奮発して鰻3枚の重箱(お吸い物・香の物付き)と瓶ビールを注文した。やっぱり鰻屋はジョッキではなく瓶ビールとコップが合っているなぁ :D。そして鰻がくる5分ほど前に肝吸いと香の物が運ばれてきた。これは計算されているっぽい:

最初に香の物と肝吸いがくる

小ぶりな肝だったけど、玉子焼きが入った出汁は美味しかった:

肝吸い

そして堂々と登場の鰻3枚が乗ったお重箱:

うなぎ(3枚)重箱 (4,950円)

身は思ったほど厚くはなく、ちょっと小骨が多かったが、これが三島流の鰻と云うものなんだろうか。まずはタレをかけずに鰻→御飯→鰻→御飯という感じでしっかりと味わった。そのあとは備え付けのタレを軽くかけ、山椒をふって御飯と一緒にモリモリ食べた。メニューには書いていないけど、オプションで御飯大盛りってのもあるようだ:

うなぎ(3枚)重箱

ホント焼き具合と照り具合は絶妙で、やはり老舗店だった。

うなぎ桜家
静岡県三島市広小路町13-2

 


ここからはオマケ。

この日、最初に攻めた戸倉城跡(現在の本城山公園)の展望台から眺めた富士山。この時は雲がかかって拝めなかったが、手前の愛鷹山(あしたかやま)は見事だった:

本城山公園の展望台からの眺め

この公園がある丘陵は狩野川に囲まれていた。その川で見かけた鵜(う)。回りに幼鳥が泳いでいたから母親だろうか、周囲を警戒していた:

狩野川で観た鵜

こちらは泉頭城跡(現在の柿田川湧水公園)で見かけた桜。東海地方はもう桜の季節である:

八分咲きの桜

八分咲きの桜

園内にあった休憩所で「豆腐アイスクリーム+桜色」(250円)なるものを食べた。ホントに豆腐味だった:

桜色の豆腐アイスクリーム(250円)

そして自然公園らしく、こんなのも置いてあった:

柿田川湧水公園にて

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also戸倉城攻め (フォト集)
See Also泉頭城攻め (フォト集)

参照

参照
a 店の前で記名した時には1時間以上待ちと云われたが、これは店側の配慮だろう。