日本の名勝・名跡・名所」タグアーカイブ

日本各地にある名勝や名跡や名所

北斗の拳デザインマンホール − SAKU City Collaboration MC.

先々週は令和二(2020)年の正月明けに長野県佐久市と小諸市にある城を攻めてきたが、宿泊地の最寄り駅である佐久平(さくだいら)駅前には、漫画『北斗の拳』の原作者である武論尊が佐久市出身ということで、市とのコラボレーションの一つとして北斗の拳の登場人物をプリントしたデザインマンホールが昨年は令和元(2019)年9月にお披露目されたらしい。そんな情報を偶然知って、城攻めで移動する合間に観てきた 8)

まずは佐久平駅。JR北陸新幹線と在来線であるJR小海線が乗入れされており、駅ビルである佐久平駅プラザ佐久には武論尊ら漫画家たちの交流会の情報や貴重な品々が展示されていた:

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JR佐久平駅

佐久平駅の南口前には「北斗の拳・デザインマンホール案内図」が立っていた:

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「北斗の拳・デザインマンホール案内図」

昭和58(1983)年から少年ジャンプに連載された『北斗の拳』で、35周年を記念してコラボレーションによるデザインマンホールが作成され、主人公であるケンシロウの胸の7つの傷の形にちなんで北斗七星の形に主要なキャラクターが印刷されたマンホールの蓋が配置されている。

案内図に従って順番に並べてみる:

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①ラオウ

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②トキ

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③ユリア

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④ジャギ

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⑤ケンシロウ

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⑥サウザー

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⑦レイ

こちらは駅に隣接したプラザ佐久内で展示されていたものの中から:

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プラザ佐久内の展示コーナー

まずは「武論尊」先生の肖像画:

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佐久市出身の武論尊

そして劇中でも有名なシーンである「わが生涯に一片の悔いなし!!」のサイン付き原画:

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ラオウ死す

こちらはJR佐久平駅の改札前エントランスに建っていたもの。佐久市は『北斗の拳』を全面押しだった:

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「佐久市に来い!」

こちらはオマケ。小諸市のマンホール蓋:

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小諸城大手門

大黒家天麩羅 − The first Asakusa visit in 2020, and second time.

今年は令和2(2020)年の初詣は例年と同様に浅草寺[a]これに対し、今年は皇居での新年一般参賀には参加しなかった。令和時代初となる徳仁天皇からのお言葉はテレビで頂いた。。ということで初詣の行動パタンはブログのタイトルにあるとおり昨年とほぼ同じ:

朝9:00浅草駅に到着 → 浅草観音・浅草寺で参拝 → 家内安全祈願御札購入 → 御籤をひく → 被官稲荷神社参拝 → 浅草寺周辺散策 → 大黒家で天丼食べる

初詣を終えた午後は毎年違うが、今年は仙台藩上屋敷跡がある新橋を散策し、箱根駅伝を横目に見つつ太田道灌城なる出郭[b]本当に太田道灌が築いたものかどうか個人的に疑問ではある。跡を攻めてきた[c]毎年、この時期にボヤいているが、本当は常磐御門へ行きたかったのだが、未だ復興工事が完了していないようなので。

前年の御籤は「凶」であったが、今年はすべてに良し[d]上手くいく、出てくる、治る、出会いある、と言った感じ。の「吉」だった 8)。気分が良かったので浅草神社の奥にある被官稲荷神社にもお参りしてから、お昼を食べに「公園通り」と「伝法院通り」を経由して大黒家天麩羅の本店へ:

大黒家天麩羅(本店)

開店40分前ぐらいに店の前に行ってみたら既に行列ができており、自分が並んだ場所も昨年とほぼ変わらず。そして11:00の開店で入店した:

開店して店内へ

さらに店内で座った席も昨年と同じだった :D
そしてオーダーも連年どおり。先にビールと「らくきょう」をつまんで、天丼が出てくるまでしばし待つ:

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今年は瓶ビール中(650円)

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らくきょう(300円)

ただ残念なことに辣韮が「痩せていた」ので、楽しみにしていた噛みごたえを堪能できず :O。値段が30円安かったけど、これはその影響なんだろうか!? :/

そしてお待ちかねの天丼(えび2、かき揚げ1、ししとう1)の登場:

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天丼(えび2本、かき揚げ1本)(1750円)

今回はビールとらくきょうが出てくるのが遅かったため、ゆっくりビールを飲んでいる間もなく天丼が出てきた。

おまけに冷たいし。ご飯も少なめで海老も小さいし :$。うーm。なんか正月の大黒家はハズレが多い感じがする。ただ、いつものごま油の味で変わらぬ美味しさではあったが :D

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ご飯少なく天麩羅冷たい、海老も小さめ

正月に並んででも大黒家の天丼を食べたいと云う思いが年を越すごとに小さくなってきている :X。なんかこう20年以上前に初めて食べた時の感動とは雲泥の差なのである


ここで、正月に食べた大黒家の天丼が今ひとつであるかどうかを改めて確かめるべく、実は本日は令和2(2020)年1月中旬の週末に浅草寺でお焚き上げしてきたついでに寄ってみた。

前日は都内でも雪がちらほら降るほどの寒さであったが、この日は一転して晴天で暖かかったもので、ホント『超』が付くぐらい大勢の観光客でごった返していた浅草寺界隈。おかげで境内へ向かうだけでも一苦労だった。そのため今回は本店ではなく別館へ直行した。昼2:00過ぎではあったが行列はできておらず、すぐに席へ通してもらえた :)

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大黒家別館(午後2:00過ぎ)

まずはビール中瓶と「らくきょう」が出てきた。こちらは残念ながら正月に食べたものと変わらず「痩せた」辣韮だった :|

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「痩せた」らくきょう(300円)

そしてお待ちかねの天丼(えび2、かき揚げ1、ししとう1)の登場:

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天丼(えび2本、かき揚げ1本)(1750円)

今日の天丼はご飯も普通の盛りで、かき揚げにもプリプリした小エビが多くて食べ応えがあった :)。それに海老天の海老が大きくて、何よりも天麩羅が温かかったぞ[e]もちろん初めて食べた時ほどの満足度まではいかないけど  😥 。

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ごま油の風味と衣の色が良い感じ

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正月の時よりも美味しかった

こんな感じで食べ比べして分かったことは、正月の大黒家の天丼には期待してはいけないということだ :X。ということで来年は釜飯とかロシア料理とか洋食とか別のものにした方が良いかも :|。浅草界隈はまだまだ他にも美味しいものがあるはずなんで。

大黒家天麩羅本館
東京都台東区浅草1-38-10


ここからはオマケ。と云っても浅草寺界隈は昨年と殆ど変わらない風景だけど :P

まずは門の左右に奉安されている風神と雷神が守護する浅草寺の総門で、「雷門」こと風雷神門(ふうらいじんもん)。トレードマークの赤い大提灯は平成25(2013)年に新調された五代目で、高さ3.9m、幅3.3m、重さ約700㎏:

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朝09:00過ぎの光景

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五代目の大提灯

こちらは朝09:00過ぎの仲見世。まだ人はまばらなのは店が開いていないから。一時間後には大変なことになっている:

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仲見世

こちらも例年通り仲見世は通らずに、その側道を使って境内へ向かった。正面に見えるのが安政元(1854)年創業の甘味処の老舗・浅草梅園:

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朝09:00頃の様子

仲見世を抜けて「宝蔵門」こと仁王門までくると流石に人が多くなってきた。トレードマークの赤い大提灯は平成26(2014)年に新調された四代目で、高さ3.75m、幅2.7m、重さ約450㎏:

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朝09:15頃の宝蔵門前

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四代目の大提灯

この辺りまで来ると恒例の出店もあってか、いかにも下町を思い起こさせるの「食べ物」の匂いが漂っていた :D

そして「観音堂」である本堂。御本尊聖観世音菩薩(ごほんぞん・せいかんぜおんぼさつ)を祀る中心堂宇である:

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朝09:20頃の本堂前(拡大版)

こちらは本堂前にある常香炉(じょうこうろ)とお水舎(おみずや)。本年は初めて線香を購入(100円)した:

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常香炉

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お水舎

そして本堂内部へ。正面に掛かる新橋大提灯は平成16(2004)年に新調された八代目。高さは4.5m、重さは約600kg。本堂外陣(ほんどう・げじん)と奥にあるのが御宮殿。お賽銭を投げて今年の健康無事を祈った:

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大提灯と向拝の聯

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上にある正面額は「施無畏」

このあとは「家内安全祈願」の御札を購入(1,000円/枚)した。朝09:30頃の本堂前は、こんな感じ:

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本堂外陣からの眺め

そして御籤をひいてから浅草寺界隈を散策しながら大黒家へ向かった。こちらは境内から眺めた五重塔とスカイツリー:

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五重塔(拡大版)

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東京スカイツリー(拡大版)

浅草神社はかなり行列だったので、その奥にある江戸の火消し一番組の新門辰五郎で有名な被官稲荷神社でお賽銭(100円)をなげて祈願した:

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朝10:00少し前

このあとは浅草花やしきの前を通って六区ブロードウェーに向かい、演芸ホールから伝法院通りを通って大黒家へ向かいお昼を摂った。

午後は仙台藩守屋敷跡がある新橋へ向かうため、来た時と同じ都営浅草線に乗るために浅草駅へ。雷門通りは歩行者天国になっていたが、既に規制線が設けられて大変な人混みになっていた:

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朝11:30頃の雷門通り

昼近くには来たくない浅草寺である :X

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歩行者天国になっていた雷門通り

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雷門の前もこんな感じ

こんな光景を見るたびに早起きしてよかったと思う新年である 0:)

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朝11:40頃の雷門前

新橋へ向かう前に久しぶりに吾妻橋上から首都高6号線向島線、アサヒビールタワー、そして東京スカイツリーを眺めてきた:

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吾妻橋上からの眺め(拡大版)

こちらは江戸時代に仙台藩の上屋敷があったとされる新橋駅東口の日テレタワー近辺:

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日テレタワー・汐留シティ・センター・カレッタ汐留(拡大版)

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日本テレビの敷地

それから新橋の西側の神谷町辺りにあったとされる太田道灌城跡へ向かう途中、日比谷通りでは箱根駅伝2020の10区の走りを見かけることができた:

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二位から五位の走り

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御成駅前の日比谷通り(拡大版)

最後は、本日浅草寺から秋葉原まで歩いた際、昨年の柳河藩立花家の江戸屋敷跡巡りでも立ち寄った宋雲院の総門に掲げられていた今日の一言。なんとも複雑な感じ =)

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立花宗茂公の御母堂を祀っている

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テレビの見過ぎだろ

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also浅草寺参拝と散策 2020 (フォト集)
See Also仙台藩上屋敷跡巡り (フォト集)
See Also太田道灌城攻め (フォト集)

参照   [ + ]

a. これに対し、今年は皇居での新年一般参賀には参加しなかった。令和時代初となる徳仁天皇からのお言葉はテレビで頂いた。
b. 本当に太田道灌が築いたものかどうか個人的に疑問ではある。
c. 毎年、この時期にボヤいているが、本当は常磐御門へ行きたかったのだが、未だ復興工事が完了していないようなので。
d. 上手くいく、出てくる、治る、出会いある、と言った感じ。
e. もちろん初めて食べた時ほどの満足度まではいかないけど  😥 。

手打麺処・寿限無茶屋 − A Hand-Kneaded Noodle at the Traditional Architectures.

先週は、令和元(2019)年の暑いお盆休みは『桶狭間古戦場』を巡るため三泊四日の日程で愛知県へ。初日は炎天下[a]同じ時期に台風が日本列島を縦断する予報があったので、どうなるものかとハラハラしたが、旅行の大部分はフェーン現象の煽りを受けてとにかく大変な暑さだった 😥 。の中を主に織田勢の砦跡などを巡ってきたが、二日目はこちらも酷暑の中を今川勢に関係のある史蹟や城跡を巡ってきた。

この日の午前中は、宿泊先の三河安城(みかわあんじょう)を朝8時前に出て刈谷(かりや)と知立(ちりゅう)を経由し名鉄の中京競馬場前まで移動。この駅の近くにある桶狭間古戦場伝説地からスタートして、今川義元の本陣跡や桶狭間古戦場公園、信長による義元の首実検が行われた長福寺、信長が嵐の中を桶狭間山へ向かって駆け上ったとされる「信長坂」、そして今川勢の先陣が陣をおいたとされる高根山などを3時間近くかけて[b]涼を取るために無人のコインランドリーや巨大なホームセンターなどに立ち寄ったり、コンビニで水分補給するなどの時間を含む。ホント、外に立っているだけで暑さにヤラれる大変な天気だった。や徒歩で巡ってきた。

お昼は、有松の伝統的な町屋建築が残る旧東海道沿いにあった手打ちうどん屋で頂くことにした:

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手打麺処・寿限無茶屋

この味わいあるとおりには残念ながらお食事処が少なかったこともあって、昼時を外して行ったもののほぼ満席。オマケに店員が少なくて新規の注文や片付けができていない「てんやわんや」状態だった。自分も店に入ってから席が片付けられるまで10分ほど待つ羽目に :$

席についてもなかなか注文をとりにきてくれず、自分も午前中は予想外の暑さのため休憩を多くとったため、ちょっと予定より時間が押していたため諦めて店を出ようかと云う思いがよぎったが、ここで何か食べておかないと午後の城攻めに響くような気がしたので我慢して待つことにした。幸いにも向かいに座っていた年配の方(地元の人)が話し相手になってくれたので大分気を紛らわすことができたが :)

そして20分ぐらい待ったあとに、このお店のオススメ「梅おろし」(860円)が出てきた:

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この店オリジナルの梅おろし(860円)

なにやら三年間、自家製の完熟梅を蔵で熟成させたソースがかかった冷やしうどんだそうで。他に紫蘇、天カス、胡瓜がのっていた。午後も歩きづくめを考えたら丼物を考えたけど、ちょっと夏バテが入っていたので選択したのが、店オリジナルのひと品。

うどんはコシ強く、ちょっとキツ目の酸味の効いたタレが絶妙。胡瓜と梅の組み合わせにより午前中の暑さから解放され、午後の暑さにもバテること無く城攻めすることができた。大盛りにはしなかったけど腹持ちしたし、大変に素晴らしいうどん。これは予想外でちょっと感動した 8)

手打麺処・寿限無茶屋(じゅげむぢゃや)
愛知県名古屋市緑区有松2339


ここからはオマケ。

こちらは名鉄・中京競馬場前駅・南口のホーム脇に建っていた「よろいかけの松旧地」の碑。信長が桶狭間の戦いに勝利して凱旋途中、休憩のため鎧をかけたとされる松があったと云う。大正時代まで立っていたそうだが現在は石碑のみ:

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「よろいかけの松旧地」の碑

こちらは駅ちかくにある「桶狭間古戦場伝説地」に建つ石碑。ここには、この他にも義元の墓や七石表なる石碑群、さらに桶狭間の戦いに関する説明板があった:

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「桶狭間古戦場址」の碑

ここは愛知県豊明市が管理しているが、実はもう一つ同じ桶狭間古戦場として、あとで行くことになる名古屋市が管理する桶狭間古戦場公園が離れたところにある。

実際のところ、現存する古戦場跡はすべて「伝承地」であり、古文書に記載されている遺構が複数あるそうで、どれが本物であるかは確認できないとのこと。

そして伝説地と通りを挟んだところにある古刹・高徳院の境内には「今川義元公本陣跡」の碑が建っていた:

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「今川義元公本陣跡」の碑

この他、墓所脇には今川勢の先鋒・松井宗信の墓もあった。

高徳院を出て、炎天下を徒歩20分くらいかけて桶狭間古戦場公園へ向かった。途中、義元本陣跡に立ち寄ったが、この時点で体の沸点が限界に近づきつつあったので、公園近くの DCM Kahma 桶狭間店 なる巨大なホームセンターに立ち寄って、しばしの涼をとった :O。この後も、クーラーがかかったこのお店には何度か足を運ぶことになり大変ありがたかった。でも何度もぶらぶらしているのもなんなんで、最後は汗拭いにタオルを購入したっけ。

こちらは公園内に建っていた織田信長と今川義元の銅像:

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「織田信長公」像

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「今川義元公」像

義元公の墓碑:

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「今川義元の墓」碑

公園を出て南にある「大池」と云う貯水池前を通って長福寺[c]桶狭間の戦いの後、信長が境内で義元やその武将の首検証をしたとされる。にも足を運んだ:

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大池(拡大版)

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マガモたち

この後は、あまりの暑さで桶狭間神明社という神社に立ち寄るのをうっかり忘れてしまったが、さらに井伊直盛陣地跡、七ツ塚を経由して武路釜ケ谷・信長坂へ移動した。これがまた大学の敷地内にあったため、暑い中をぐるりと回り込んで大学の正門へ移動する羽目に。お盆休み中とあって構内はひっそりとしていたが、なんとか[d]結果的には無断で立ち入ることになったが、なぜ大学の敷地を通らないと史跡にいけないのだろうか。辿り着いた:

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豪雨の中を駆け上った信長坂(拡大版)

そして、お昼を摂った寿限無茶屋周辺は旧東海道にあたり、江戸時代には尾張藩の奨励で有松町屋が造られたとされる伝統的な場所。とういことで有形文化財に指定された豪壮な町屋の一部が残されていた:

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旧東海道有松の町屋街跡

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旧東海道有松の町屋街跡

服部良也邸土蔵(愛知県指定文化財・都市景観重要建築物指定)。この家は寛政2(1790)年創業の絞問屋(しぼりどんや)。有松・鳴海を中心として作られた手ぬぐいなどの絞り染めの名産地である:

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服部良也邸土蔵

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服部良也邸土蔵

同じく有松絞りの井桁屋(服部家住宅)。屋根瓦が豪壮な造りになっているが、これは火災に備えて漆喰による塗籠造で萱葺(わらぶ)き屋根を瓦葺きにしたもの:

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独特の瓦葺き

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服部邸の大屋敷

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井桁屋(都市景観重要建築物指定)

最後は山与遊歩道。名鉄・有松駅と旧東海道を結ぶ遊歩道。平成の時代につくられた。「山与」はここにあった絞問屋が由来だとか。右奥に見える建物が有松駅:

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山与遊歩道

この時のフォト集はこちら:

See Also桶狭間古戦場(今川勢他)巡り (フォト集)

参照   [ + ]

a. 同じ時期に台風が日本列島を縦断する予報があったので、どうなるものかとハラハラしたが、旅行の大部分はフェーン現象の煽りを受けてとにかく大変な暑さだった 😥 。
b. 涼を取るために無人のコインランドリーや巨大なホームセンターなどに立ち寄ったり、コンビニで水分補給するなどの時間を含む。ホント、外に立っているだけで暑さにヤラれる大変な天気だった。
c. 桶狭間の戦いの後、信長が境内で義元やその武将の首検証をしたとされる。
d. 結果的には無断で立ち入ることになったが、なぜ大学の敷地を通らないと史跡にいけないのだろうか。

あつた蓬莱軒 神宮店 − My Second Time to the Local Delicasy Here.

先週は、令和元(2019)年の暑いお盆休みは三泊四日の日程で、愛知県にある城攻めの他、前々から気になっていた『桶狭間古戦場』を歩いて巡ってきた。何もわざわざ「暑い所」へ行くこともないのに :$ と思ってしまいそうだけど、今年は北海道を含めて日本全国どこも異常な暑さ[a]云わずとしれたオゾン層破壊による地球温暖化である。間違いなく 😯 であり、結局はどこへ行っても変わりはないと云う訳であったが、やっぱり名古屋周辺は暑かった :O

初日は、主に信長が率いる織田勢の砦跡の他に松平元康が兵糧を運び入れた大高城跡、今川勢にあって猛将の誉高い岡部元信が守備していた鳴海城跡[b]と云ってもほぼ完全に児童公園に変わっていたが。を徒歩で巡ってきたのだけど、平均気温は36℃(当時)で肌に突き刺ささんばかりの強い日差しのおかげで、かなり難儀した ;(。今思えば城跡(公園とか)で自分以外の人に出会ったのは皆無だったっけ。

この日は前夜から旅行の準備やらで寝不足のまま朝9時過ぎには名古屋駅に到着し、それから金山を経由して最初の目的地である大高へ。ここから大高城跡、丸根砦跡、鷲津砦跡、そしてお昼を摂って中嶋砦跡、鳴海城跡、丹下砦跡、善照寺砦跡など6時間くらい[c]暑さのための小休止も含む。小刻みに。あと大型スーパーとかコインランドリーなんかはクーラーがかかっていて快適なので、見かけたらなるべく入るようにした。かけて巡り、最後は名鉄で鳴海から神宮前へ移動して熱田神宮へ。ここには桶狭間で勝利を得た信長が御礼言上のために奉納したと云う「信長塀」なるものがある。これで初日の日程は終了。

このあと宿泊先の三河安城へ移動する前に、その昔に神宮近くの鰻屋さんで食べた名物「ひつまぶし」を再び食べてみたくなった[d]「ひつまぶし」は「あつた蓬莱軒」の登録商標なのだとか。

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あつた蓬莱軒・神宮店 〜 待ち時間は1時間

夕餉の刻前とはいえ行列必至であると覚悟して店前まで行ってみると、実際には行列はなく、玄関に「お席の待ち時間は1時間」とあった。ここまできて小一時間待つのはどうかと思ったが、行列ではなかったのでとりあえず店内へ。諦めて予約をとろうとしたら、運良くカウンター席でよければ一人分が空いているとのことで、早速とおしてもらった 0:)

1Fの調理場が目の前にあるカウンター席にに通してもらい、ビール中瓶と肝焼、そしてひつまぶしを注文した。混んでいるから時間差ででてくるだろうと先にビールに手を付ける:

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うなぎにはYEBISUビール(750円)

なにせ半日とはいえ37℃の炎天下を歩きまわって火照った体をクールダウンさせる必要があったけど酔いすぎると美味しい鰻を味わえなくなりそうなので中瓶でちびちびいくことにした :)。それでも半分くらい飲んだところで薬味と香の物が目の前に並べられた:

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「ひつまぶし」用の薬味と香の物

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薬味(ネギ+わさび+海苔)

ビールを飲み干す前に肝焼き来ないかとまっていたら、ひつまぶしと一緒に登場 :O。ちなみに、左奥の土瓶の中はお茶漬け用の出汁:

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ひつまぶし(3,900円)+肝焼(950円)

肝焼のためにビールを残しておいたが、メインが登場してしまったので冷めないうち食べたいから、そそくさと肝焼をいただいた:

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肝焼

甘辛いタレは「140年継ぎ足しの秘伝タレ」らしい。ビールの苦味と相まって口の中一杯に旨みが広がった。もう少しゆっくりと味わいたいところだが、メインがお待ちのようなので美味しい間に食べ終えた。

そして、ついにお櫃の蓋をあける

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お店自慢の名物「ひつまぶし」

蓋をあけると漂う甘辛タレと鰻の脂が融合(?)した匂いが漂い、目の前には食べやすく刻まれた鰻がびっしりと載っていた。

ビールを飲みながら眺めた「ひつまぶしのお召し上がり方」に従い、まずお櫃の中に埋もれた鰻とご飯を上から十字形に四等分する。そして一膳目は薬味は入れずに、脂ののった鰻本来の味を味わえた:

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一膳目は鰻丼

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吸い物

肝焼もそうだったけどタレが美味い :)。ご飯によくあうし。二膳目は三種の薬味を加えて食べる:

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鰻丼(薬味あり)

わさびによって秘伝のタレがいっそう引き立つ感じ。自分はこれが一番美味しいと思った。

三膳目はお茶漬け。ちょっと時間がたっちゃて出汁が温るくなっていたのが気になったが、猫舌の自分としてはさらさらいけたので悪くはない:

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三膳目はお茶漬け

最後の四膳目は悩んだ挙句に、お茶漬けで頂いた。薬味が残りすぎていたので全部入れたら見た感じ分からない食べ物になっていたけど :D。さらに、さっきまで鰻で一杯だったお櫃が空っぽに。当たり前だけど:

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最後もお茶漬け

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完食

この翌日も炎天下の中、桶狭間古戦場巡りをする予定であったこともあり十分にエネルギーを補給することができた :)。ちなみに、このお店で豚一家も完食している。

あつた蓬莱軒 神宮店
愛知県名古屋市熱田区神宮2-10-26


ここからはオマケ。

まずは熱田神宮の正門(南門)。このそば近くにあつた蓬莱軒神宮店がある:

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熱田神宮の正門(拡大版)

そして弘法大師のお手植えと伝えられている大楠。樹齢は約1000年だとか:

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大楠(拡大版)

こちらが熱田神宮でのお目当てである信長塀。桶狭間出陣の際に熱田神宮に願文を奏し勝利したので、その御礼として奉納した塀。本宮を囲むように建っていた:

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信長塀

次は大高駅ホームからJR東海の在来線「キハ313形」豊橋行き:

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JR東海のキハ313形

これは、この日一番に攻めた大高城址。今から460年近く前の桶狭間の戦いの時、織田領内で今川勢に寝返り、織田勢に包囲されている中を徳川家康こと松平元康が兵糧を運び入れることに成功したという。現在は公園になっていたが藪の奥には見事な空堀が残っていた:

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大高城跡

そして丸根砦跡の遠景。信長が今川義元の上洛に備えて築いた砦の一つで、大高城の監視の任についていた。佐久間大学盛重が守備していたが松平元康に攻められて落城した。現在、周囲は宅地化されているが砦跡は国指定史蹟として残されていた:

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丸根砦跡

これは鳴海城跡近くに復元されていた「東海道・鳴海宿高札場」。桶狭間合戦とは関係はないが、江戸時代の宿場に建っていた屋根付きの高札場で、さまざまな高札が掲げられていた:

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東海道・鳴海宿高札場(復元)

これも桶狭間の戦時に築かれた織田勢の砦の一つであった丹下砦跡:

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丹下砦跡

現在は光明禅寺が建っているが、山門の風神雷神両像はインパクトが強い彫り物だった:

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雷神像

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風神像

最後は同じく織田勢の砦の一つであった善照寺砦跡。こちらは完全に児童公園となっていたが、結構な高台の上にあった:

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善照寺砦跡

この時のフォト集はこちら:

See Also大高城攻め (フォト集)
See Also桶狭間古戦場(織田勢)巡り (フォト集)

参照   [ + ]

a. 云わずとしれたオゾン層破壊による地球温暖化である。間違いなく 😯
b. と云ってもほぼ完全に児童公園に変わっていたが。
c. 暑さのための小休止も含む。小刻みに。あと大型スーパーとかコインランドリーなんかはクーラーがかかっていて快適なので、見かけたらなるべく入るようにした。
d. 「ひつまぶし」は「あつた蓬莱軒」の登録商標なのだとか。

飯盛山と滝沢本陣の散策 − A Notable Heartbreaking Story on Iimori Hill.

我が人生初の「国民の祝日」10連休を利用した毎年恒例のGW城攻めの第一弾は、二泊三日の日程で福島県内の城攻めへ。また特に意識した訳ではないけど最終的には自身初として、福島県全域となる浜通りから中通り、そして会津まで横断することができた。

まずまずの天気であった初日は、浜通りはいわき市の城跡から中通りは三春町の城跡を攻め、郡山市の宿に一泊した。残念ながら二日目は一転して全国規模で雨または曇りと云った天気になってしまったので、悩んだ挙句に予定より遅めに会津若松入りし、動きの早い雨雲をかわす予定に切り替えた。その甲斐があってか会津若松駅を降りたら雨は降っていなかったのでレンタサイクルで知る人ぞ知る城跡や、四年前の城攻めでは時間が無くて見れなかった会津若松城の外郭に残る遺構を巡ってきた。途中、雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気で何度か雨宿りするはめになったが、これと云ってひどい目にあうことはなく、なんとか無事に平成最後の日を終えることができた。

そして城攻め第一弾の最終日であり、新しい「令和」の世の初日は帰京する前に、これもまた四年前に行けなかった観光地の飯盛山周辺を巡ってきた。


飯盛山と白虎隊霊場

朝、ホテルをチェックアウトしてから駅前へ移動。その際に見かけた白虎隊士の像:

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「白虎隊士の像」

駅前のバスターミナルから市内観光まちなか周遊バスの「あかべぇ」に乗り込んで飯森山下で下車した[a]駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。

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飯盛山

おみやげ屋が立ち並ぶ参道を進んで石段を登って行くことになるが有料(当時250円)のエスカレータ[b]正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。もあった。まぁ行列してまで乗る必要はなかった ;)

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飯盛山の登山口

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飯盛山動く坂道

石段を登った先に建っていた「飯盛山案内図」:

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「飯盛山案内図」(拡大版)

案内板の隣には白虎隊記念館なる史料館があった。白虎隊士をはじめとした會津・戊辰戦争に関係する史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵・展示しているのだとか。「記念館」と云う名前が気に入らなかったので立ち寄ることもしなかったけど :|

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史料館・白虎隊記念館

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白虎隊士・酒井峰治の銅像

愛犬と一緒に銅像になっていた酒井峰治(さかい・みねじ)は白虎隊士中二番隊の所属で、會津戦争中の戸ノ口原からの退却の際に仲間とはぐれ、のちに農民らに助けられ帰還を果たし鶴ヶ城籠城戦に参加して、戦後も生き残った御仁なのだとか。

さらに石段を登った先が白虎隊霊場の参拝口:

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白虎隊霊場の参拝口

ここ飯盛山[c]この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。は古墳の一つであり、神社仏閣の境内にあたる。そして自刃した白虎隊士の霊場でもある。

まずは白虎隊十九士の墓:

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白虎隊十九士の墓

幕末の會津戦争で會津藩が組織した部隊の一つ[d]中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。に、16〜17歳の少年たちから成る白虎隊があったが、慶応4(1868)年8月23日(旧暦)にその士中二番隊が戸ノ口原の合戦場から退却し、滝沢峠の間道を抜け、戸ノ口堰(とのくちせき)の洞門をくぐって飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣が黒煙の中に見え隠れしていたことから城は陥落したと誤認し、主君のために殉じようと全員が自決した。唯一、飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)が命をとりとめ、のちに白虎隊の忠義と悲運の物語が広く知られることになったと云う。

墓所の脇には會津藩最後の藩主・松平容保公の弔歌の碑が建っていた:

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松平容保公弔歌の碑


幾人の涙は石にそそぐとも  その名は世々に朽ちじとぞ思う

そして少年武士慰霊碑と吉田伊惣次(よしだ・いそじ)篤志の碑。自刃した白虎隊士の亡骸が戦後しばらく風雨にさらされていたため近くの村の吉田伊惣次と有志が密かに寺院に仮埋葬したが、それが新政府軍に見つかり獄舎に繋がれるも後日に解放された。その篤志を称えるための碑と云う:

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少年武士慰霊碑

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吉田伊惣次篤志の碑

こちらは會津藩殉難烈婦碑。會津戦争で亡くなった會津藩の婦女子230余名の御霊を弔うために建立された:

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会津藩殉難烈婦碑

珍しいところでローマ市民慰霊碑。れは戦前、白虎隊士の精神に感心したイタリアのファシスタ党首・ムッソリーニから贈られた古代ローマ時代の宮殿の柱であるが、戦後に進駐軍によって一度破壊された。その後に一部が復元され「ローマ市民からの寄贈」に改められた:

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ローマ市民慰霊碑

こちらは郡上藩・凌霜隊之碑。鶴ヶ城に籠城したのは會津藩だけではなく、美濃国・郡上藩の凌霜隊(りょうそうたい)も籠城して奮戦した。昭和の時代に事績を偲び石碑が建立された:

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郡上藩・凌霜隊の碑

そして霊場の南側には白虎隊士が自刃した場所がある:

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白虎隊士自刃の地

自刃するも一命を取り留めた唯一の隊士である飯沼貞吉の墓。一人苦しんだが、晩年には重い口を開いて白虎隊について語ったのだとか:

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飯沼貞雄(貞吉)墓

白虎隊自刃の地に建つ碑:

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白虎隊士自刃の地の碑

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白虎隊殉難士各霊塔

銅像の隊士が眺めている方角に鶴ヶ城の天守閣が見えるのだが、目視だと結構きびしいかも(ヒントは写真中央に建つポール):

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自刃の地からの眺め

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ズームで眺めた鶴ヶ城(拡大版)

この後は霊場の下にあるさざえ堂へ向かった。こちらは、その途中に眺めた会津若松駅方面の眺望:

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飯盛山からの眺望(拡大版)

世界に唯ひとつの會津飯盛山・さざえ堂。江戸時代は寛政8(1796)年、飯盛山に建っていた正宗寺(しょうそうじ)の住職である僧郁堂(いくどう)和尚が考案・建立した六角三層の建築物である。現在は国指定重要文化財で、横から見ると栄螺(さざえ)のように螺旋状になっているのが分かる:

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旧正宗寺・円通三匝堂(通称はさざえ堂)

正式名は旧正宗寺・円通三匝堂(えんつうさんそんどう)。一度通った通路を再び通ることなく外に出ることが可能な珍しい構造をしている。正面入口は唐破風の向拝を付していた:

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さざえ堂

入館料(大人400円/当時)を支払い、向かって正面にある唐破風の屋根を持つ入口へ:

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さざえ堂の入口付近

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さざえ堂の入口付近

この入口から延びる螺旋状のスローブを上って三層頂上にある太鼓橋へ向かう。ちなみに出口はこの背後にある:

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正面入口

頂上にある太鼓橋を渡るまで上がりは右回りの螺旋状スローブになっていた:

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上がりのスローブ

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上がりのスローブ

ここが三層頂上にある太鼓橋とその天井:

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頂上にある太鼓橋

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天井の様子

太鼓橋を渡って向こう側へ渡ると、今度は左回りのスローブになる:

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下りのスローブ

そして、こちらが入口とは反対側にある出口:

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出口

ということで上がって下りてくるのは正味5分ほど。かつてはスロープに沿って西国三十三観音像が祀られ、一度上がり下りすると巡礼を終えたことになるのだと云う。

こちらはさざえ堂の目の前にあった宇賀神社:

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宇賀神堂

この神社の背後にある「天空カフェ」こと飯盛山展望台からの眺めも素晴らしかったが、令和元年の初日と云うこともあって御朱印状を求める人たちが長い列を作っていたのには驚いた :O

このあとは宇賀神社脇の石段を降りて厳島宗像神社の境内へ。この神社は、天照大神の御子神である「宗像三女神」の一つにして古くから信仰が厚かった。主神は市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)さま:

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鳥居

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社殿

社殿は、蘆名家七代目当主の直盛が會津の領主であった南北朝の時代[e]すなわち永禄年間(1381〜1383年)。に石塚、石部、堂家の三家によって建てられたと云う。

これが白虎隊士が潜ってきたと云う戸ノ口堰洞穴(とのぐち・せきどうけつ)と呼ばれる岩盤を掘って穴を開けた洞門:

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戸ノ口堰洞穴

猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地へ水を引くための農業用水路で、全長は31㎞にも及ぶと云う:

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戸ノ口堰洞穴(拡大版)

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洞穴

慶応4(1868)年の會津戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎隊士中二番隊20名が潜って飯盛山まで戻ってきた洞穴である:

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戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰洞穴の脇に建つのが戸ノ口堰水神社:

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戸ノ口堰水神社

最後は子育地蔵尊:

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子育地蔵尊

この後は厳島神社の本参道を下って旧滝沢本陣へ。


會津藩・旧滝沢本陣

飯盛山を下りた麓に残る旧滝沢本陣は、現在は国指定史跡であり国指定重要文化財となっている。参観料は大人300円(当時):

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史跡・旧滝沢本陣の碑と冠木門

文禄4(1596)年に建てられた茅葺書院造の建築物で、遠州流の庭園があり、藩主の参勤交代や領内巡視の際の休息所に使われた:

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旧會津藩・御本陣

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通称は滝沢本陣

慶応4(1868)年の會津戦争時には会津藩の本営となり、松平容保が白虎隊に戸ノ口原へ出陣を命じ、あるいは新撰組が駐屯していたと云う場所である。茅葺屋根に覆われた書院造りの建物には御入御門、御座の間、御次の間などが当時の姿のまま残されている:

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滝沢本陣・横山家住宅(拡大版)

別宅にある受付で参観料を支払って、この勝手口から中に入ると「にわ」と「おめえ」が設けられていた:

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この中がにわ

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てまえ、なんど、ざしき

ざしきの奥が御次の間、そして御座の間:

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奥が御座之間、手前が御次之間

ここには今も当時の銃弾や刀傷が十数ヶ所になまなましく残っていた:

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戊辰戦争時の弾痕

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柱に残る弾痕跡

御座の間には会津藩の最後の藩主・松平容保公の肖像画が置かれていた:

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松平容保公の肖像画

こちらは御座の間から望む遠州流庭園。敷石として石臼も使われていた:

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遠州流庭園

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敷石に石臼

柱に残る刀傷:

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戊辰戦争時の刀傷

本陣には御湯殿・御厠が設けられていた:

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歴代藩主が使用した御湯殿と御厠

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御湯殿

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御厠

御座の間にすぐに取り付くことが可能な藩主用の御入御門:

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御入御門

以上で、「国民の祝日」10連休を利用したGW城攻め第一弾は終了。この日は午後一で郡山へ移動し、新幹線で帰京したのだけれど自由席はほぼ満席だった :$


ここからはオマケ。

まず会津若松駅の構内で見かけたいろいろな赤べこたち:

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会津赤べーこ

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赤べこ

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赤べこ

会津若松の初日は雨が止んだ隙を、このレンタサイクル(1日1,500円/当時)で走り回ってきた:

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駅レンタカー会津若松営業所のレンタサイクル

いろいろな所で見かけた「あいづっこ宣言」:

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「ならぬことは ならぬものです」

高瀬の大木(ケヤキ)は現在は国指定文化財であるが、そのもとは慶長5(1600)年に関ヶ原の戦に先立って會津の上杉景勝が徳川家康との対決に備えて直江兼続に命じて築こうとした神指(こうざし)城の土塁に生えていたケヤキとされている:

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高瀬の大木(拡大版)

城が完成する前に家康が上杉追討令を出したため工事が中断となり、神指城は未完のまま、のちに廃城となった。このケヤキは築城前から既に大木として生えていたと云われ樹齢は約500年と云われている。

また會津戦争で斎藤一ら新撰組が本陣を置いた如来堂もまた神指城跡の土塁上に築かれたものである:

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如来堂

こちらは高瀬観音堂:

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会津三十三観音第15番札所

八角神社、そしてウグイス:

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八角神社

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桜とウグイス

会津若松城の二の丸跡にあるひょうたん濠:

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ひょうたん濠(拡大版)

鶴ヶ城こと會津若松城:

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鶴ヶ城(拡大版)

そして、こちらは令和元年の朝、会津若松駅近くの宿泊先からの眺め。遠くに雪が残る山が標高2,105mの飯豊山(いいでさん):

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令和元年の朝の風景

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雪が残る飯豊山(拡大版)

対して、こちらは標高1,816mの磐梯山:

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令和元年の朝の風景

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薄っすらと雪が残る磐梯山

最後はJR会津若松駅でのE721系と、JR郡山駅の新幹線ホームの乗車位置標識:

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JR東日本のE721系の郡山行

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郡山駅の新幹線ホーム

ということで平成と令和の世を股にかけた福島県の二泊三日の城攻め旅行は終了。途中、悪天候のため予定通り城攻めできなかったことと、会津若松市内は大勢の観光客でごったがえしていたこと、そして三年前に初めて来て、今回も楽しみにしていた居酒屋には満席で入れなかったことなど全体的に残念な結果だった:(

この街には休日に来ちゃダメだなということがよく分かった :/

この時のフォト集はこちら:

See Also神指城攻め (フォト集)
See Also會津若松城外郭攻め (フォト集)
See Also蒲生氏郷公墓所 (フォト集)
See Also會津蘆名家墓所とゆかりの地巡り (フォト集)
See Also飯盛山と滝沢本陣散策 (フォト集)

参照   [ + ]

a. 駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。
b. 正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。
c. この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。
d. 中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。
e. すなわち永禄年間(1381〜1383年)。