先々週は令和4(2022)年の立冬を過ぎたよく晴れた週末、横浜への用事の前に鎌倉まで足をのばして散策してきた。鎌倉へは太田道灌公の墓所を巡って以来七年ぶり。その時は鎌倉駅西口から源氏山公園あたりを目指していたが、今回は自身初の鶴岡八幡宮界隈へ。と云っても単に(時間つぶしで)大河ドラマ館へ行きたかっただけなのだけど
:

鶴岡八幡宮
大河ドラマ館は八幡宮境内にあるようなので、今回は駅東口へ。時刻は午前10時半近くで、既に有名な小町通りは大勢の観光客で混雑していた。そして若宮大路《ワカミヤオオジ》(県道R21)の二の鳥居から参道へ:

二の鳥居
参道を歩いて八幡宮前から境内へ向かう。行き交う外国人観光客が多いこと多いこと:

若宮大路沿いの参道

八幡宮前の三の鳥居
八幡宮前すぐの太鼓橋から眺めた本宮(上宮):
左右にある橋を渡って境内へ入るが、往時は中央にある太鼓橋だけで、八百数十年前の太鼓橋は朱塗りの木造橋だったらしい。現在は昭和の時代に架け直されたものだが通行不可。代わりに、その左右にある橋を使う。そして、その周囲の松の木も見事だった:

太鼓橋

見事な松
太鼓橋を渡ると源氏池と平家池(源平池)がある。夏は蓮で水面《ミナモ》が覆われるらしい:

平家池

源氏池
源氏池に浮かぶ旗上弁財天《ハタアゲ・ベンザイテン》脇にある政子石と呼ばれる陰陽石《オンミョウイシ》:

政子石
目的地のドラマ館は源平池の先に建つ鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム:

「鎌倉殿の13人・大河ドラマ館」

鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム

舞殿
ここは源義経の妾・静御前が舞った若宮廻廊跡らしい。このあたりは七五三の家族連れで多い賑わいだった。
石段を上がった上に建つ楼門が重要文化財の本宮(上宮):

本宮(上宮)
治承4(1180)年に源頼朝が、源氏の氏神・八幡神を由比ヶ浜《ユイガハマ》から遷座して建てたのが①鶴岡八幡宮。戦国時代は天文9(1540)年に大永の乱で焼失した社殿を北條氏綱が再建、江戸時代は文政11(1828)年に十一代将軍・家斉《イエナリ》が本殿を造営、大正12(1923)年の関東大震災で多くの建造物が倒壊したが、昭和の時代初めに復興された。境内は国指定史跡。

本宮から若宮大路方面の眺め(拡大版)
境内をいろいろ散策したあとは人気ドラマにあやかり、ここ鶴岡八幡宮を含む鎌倉殿に関係する13ヶ所の遺構や名跡を巡ってきた。
こちらが散策中に入手した『ヨリトモくんと巡ろう!鎌倉大蔵散歩地図』(大蔵頼朝商店会):

この地図を片手に巡ってきた(拡大版)
まずは八幡宮近くある②宝戒寺《ホウカイジ》へ。境内参観は有料で大人300円(当時):

金龍山 釈満院 円頓宝戒寺
境内は当時「小町邸」と呼ばれていた北條執権邸跡らしい:

「北條執権邸舊蹟」の碑
石畳の門前を進んで境内へ。正面にある本堂(堂内は撮影不可)。本堂屋根の棟には北條家の三つ鱗紋が掲げられていた:

本堂

三つ鱗紋
その昔、執権の北條時政が江の島弁財天を参詣した時、二十丈もある大蛇からお告げを受け、大蛇が海中に姿を消した後に残っていた三枚の鱗を手に入れたが、それを竜の鱗として北條家の家紋にしたと伝わる。
本堂脇にある德崇大権現堂《トクソウ・ダイゴンゲン・ドウ》。鎌倉幕府第十四代執権・北條高時を祀る:

德崇大権現堂
鐘楼と三つ鱗紋が刻まれた梵鐘:

鐘楼

梵鐘
このあとは宝戒寺を出て県道R204(金沢街道)を歩いて鎌倉宮を目指すことに。
こちら清泉《セイセン》小学校近くにあった③大蔵幕府舊跡の碑:

「大蔵幕府舊跡」の碑
鎌倉入りした頼朝は大蔵の地に御所を構え、頼朝・頼家・実朝の三代46年間、ここで政治を行い、まさに鎌倉幕府の中心であったと云う。政所跡に小学校が建っているが、学校の塀には小学校史跡委員会自作の説明板がたくさん貼られていて、読んでいて勉強になった
。
さらに進むと④荏柄天神社《エガラ・テンジンシャ》がある:

荏柄天神社
鎌倉幕府鬼門の守護する社で、谷を挟んで西側の丘陵に法華堂跡がある。また、現在は菅原道真公が御祭神となっており、京都の「北野天満宮」と福岡の「太宰府天満宮」とともに日本三大天神の一つに数えられている。
そして住宅街の中を歩いた先にあるのが⑤鎌倉宮。後醍醐天皇の皇子・護良親王《モリナガ・シンノウ》が御祭神:

鎌倉宮
親王は後醍醐天皇の鎌倉倒幕に呼応して幕府軍と戦い、幕府滅亡後は天皇親政を復活させた「建武の新政」を成し遂げ、征夷大将軍に任じられた。しかし足利尊氏と対立し、ここ鎌倉宮社殿裏が親王最後の地と伝えられる。
明治天皇が護良親王を祀るために建立したので、社殿の鬼瓦には皇室の象徴である菊花紋《キクカモン》が掲げられていた:

菊花紋
このあとは八幡宮方面へ戻って法華堂跡を目指した。
こちらは⑥東御門《ヒガシミカド》跡の碑。大蔵御所の東門にあたる:

「東御門」の碑
そして⑦法華堂跡の碑:

「法華堂跡」の碑
大蔵御所の北隅にあり、頼朝の持仏を祀っていた御堂で、頼朝死後はその廟所となる。しかし宝治元(1247)年の宝治の乱で三浦泰村が立て篭もり、一族郎党が自刃した場所。明治時代に白旗神社と改められた。
こちらが現在の⑧白旗神社。御祭神は源頼朝公:

白旗神社
もともとは、源頼朝が石橋山の合戦にあたって髪の中に納めて戦に挑んだと云う小さな観音像が安置されていた持仏堂だった。正治元(1199)年に頼朝が亡くなったあとは、ここに葬り法華堂と呼ばれ、命日には歴代将軍や御家人らが参詣した。現在の社殿は昭和の時代に再建されたもの。
そして、頼朝の享年と同じ53段の石段を登って江戸時代に建立された源頼朝の供養塔へ:

白旗神社奥の丘陵上へ

源頼朝の家紋「笹竜胆」
こちらが石段を上がった先にある⑨源頼朝の供養塔:

源頼朝公の供養塔
この供養塔が建つ平場は頼朝公の法華堂(墳墓堂)跡で、幕府滅亡後も御堂は存在していたが、のちに廃絶して堂舎が無くなった。そして江戸時代に源氏の子孫を自称する薩摩藩八代藩主で蘭学者でもある島津重豪《シマヅ・シゲヒデ》が高さ186cmの五層の石塔を再建したと云う。
源頼朝は、治承4(1180)年に平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2(1185)年に平家を滅ぼし、鎌倉幕府を大蔵の地に開いた。建久3(1192)年に朝廷から征夷大将軍に任じられ、約680年続く武家政権を興した。正治元(1199)年に死去。享年53。
このあとは石段を下りて、この丘陵の東側にあるもう一つの墓域へ向かう:

この上に北條義時公・大江広元公らの墓所がある
この石段の上には鎌倉幕府執権・北條義時公の墓所の他、大江広元公らの墓所がある。
こちらが⑩伝・北條義時の墓所の標柱:

「史跡・法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓」の碑
ここが北條義時の法華堂(墳墓堂)跡らしい。あくまでも鎌倉幕府の公式文書とされる『吾妻鏡《アヅマカガミ》』の「頼朝の法華堂の東の山の上を墳墓の地となす」との記述に従ったもので、墓石も供養塔も無い。
鎌倉幕府の二代執権で、得宗家二代当主である北條義時は源頼朝ら三代将軍に仕え、承久の乱では後鳥羽上皇ら朝廷側の倒幕戦に勝利する。元仁元(1224)年に急死。享年62。令和4(2022)年の大河ドラマの主人公。
ここから少し先には三浦一族のやぐら(横穴式供養塔)がある:

三浦氏が供養されているやぐら

三浦泰時ら一族が眠る墓所
宝治元(1247)年の宝治の乱で、五代執権・北條時頼に敗れ自刃した三浦泰村の一族郎党が眠っているとされる。
そして奥にある左手の石段を登って大江広元公らの墓所へ。ちなみに右手の石段は島津忠久公の墓所:

大江広元らの墓所へ続く石段
こちらが⑪大江広元のやぐら(墓所):

大江広元公のやぐら
鎌倉幕府の懐刀《フトコロガタナ》とも云われ、幕府政所初代別当を務めた大江広元は、執権の北條義時を上回る官位を得ており、名目的には将軍に次ぐナンバー2の存在として遇されていた。嘉禄元(1225)年に死去。享年78。
公の墓所の隣には毛利(大江)季光《モウリ・スエミツ》の墓所がある

毛利季光公のやぐら
毛利季光は広元の四男で、相模国毛利荘を領し毛利を名乗っていた。その子孫が恩賞として与えらた安芸国吉田荘を相続して戦国大名の毛利氏へ継承されることから、季光は毛利家の祖と云われる。彼の妻は、三浦泰村の妹であり、宝治元(1247)年の宝治の乱では義兄を見捨てることを良しとせず、共に幕府軍と戦い、最後は法華堂で自刃した。享年46。このとき多くの郎党もあとを追ったが、唯一残った四男・経光《ツネミツ》の子孫が毛利元就である。
二人の墓所は、江戸時代に長州藩の毛利氏が祖先を顕彰するために整備したものと云われており、墓所入口にある燈籠には毛利家の一文字三星紋があしらわれていた:

大江広元は安芸毛利家の祖
さらに隣の石段上には薩摩島津氏の祖とされる幕府御家人の島津忠久《シマヅ・タダヒサ》の墓所がある:

島津忠久公のやぐら(墓所)
忠久は、縁者である比企能員《ヒキ・ヨシカズ》の変に連座していた疑いから本領の大隅国・薩摩国・日向国の守護職を没収されたが、のちに御家人として復帰し、和田義盛の乱では幕府側について功をあげた。嘉禄3(1227)年に病死。享年49。公の墓所も島津重豪により江戸時代に建立されたもの。
このあとは再び八幡宮方面へ移動。これは、その途中に建っていた⑫西御門《ニシミカド》跡の碑。大蔵御所の西門にあたる:

「西御門」の碑
そして最後の遺構は、八幡宮東門近くにある⑬畠山重忠邸址の碑:

「畠山重忠邸趾」の碑
重忠は初めは平氏の郎党であったが、のちに源頼朝に帰伏した。そして鎌倉入り、富士川の戦いでは先陣を務め、宇治川や一ノ谷合戦、あるいは奥州藤原氏討伐などで抜群の手柄をたてた。その後も頼朝の信頼厚く、坂東武者の中心的人物として、そして鎌倉幕府創業の功臣として重きをなした御仁。大蔵御所近くに屋敷を与えられたのも納得である。
こんな感じで、やや強引に大河ドラマのタイトルを文字って鎌倉殿に関係する13ヶ所の遺構と、八幡宮境内をぶらぶらしてきたが、あとで調べてみると他にもいろいろ史跡があるようだし大河ドラマ館にも行ってみたいので、機会あれば再訪したい。
と云うことで、この時のフォト集はこちら:
2022年11月 鎌倉散策 (フォト集)
【参考情報】