タグ別アーカイブ: 日本の名勝・名跡・名所

日本各地にある名勝や名跡や名所

徳樹庵 前橋店 − A Very Different With On The Menu.

先週は、平成30(2018)年初秋の連休を利用して群馬県にある城攻めへ。今回の初日のターゲットは以前から気になっていた城跡であったのだけれど、公共機関によるアクセスが不明だったので敬遠していた「崖端城(がけばたじょう)」と云う類の城で、周囲の三方が急崖になった全国的にも珍しい山城。越後の軍神・上杉謙信が整備した城で、のちに武田家重臣・真田昌幸によって攻略されるなど知る人ぞ知る城址。

どうやらJRの最寄り駅から少し歩いた昭和村なるところから関越バスで城の入口まで行けるらしいという情報をインターネットで発見して初日に攻略することに。ついでに二日目は上毛電鉄上毛線の沿線付近にある小粒な城がいくつか未攻略だったので一気に攻めてきた。
ありがたいことに、この連休の群馬県は晴天の上、夏日の予報だったので迷うことなく[a]本当の話、この三連休が秋の行楽シーズンであり、自らの出遅れもあって群馬県以外では宿を取れなかっただけだけど。 😥 宿を予約した :)

午前中のうちに移動を済ませて、たっぷり攻めた後、宿近くのチェイン店ながら好物の唐揚げを堪能できるレストランで城攻めの疲れを落とすといった予定だったので、時間的にはかなり無理したところがあった。
実は、これがあとで災難を呼ぶことになるのだが :$

この日は陽が昇る前に起床して朝6時過ぎの電車で移動を開始、4時間かけて初日の最寄りであるJR上越線・岩本駅に到着。そこからバス停まで歩いて、バスに乗って、城址入口前で下車。そこから30分ほど上り坂を歩き、城跡に到着したのが昼少し前。ここまでで意外と疲れた。それから帰りのバスの時刻まで、晴天で夏日の中をたっぷり3時間ほど歩き回ってきた。
そういうこともあり、今晩は熱々の唐揚げをツマミに生ビールを飲んでまったりと疲れを癒やし、明日の城攻めに臨みたいなぁと勝手に想像していた。

そして城攻めを終えてバスに乗りJR岩本駅まで歩いて、次の電車がくるまでの小一時間を駅舎で休み、宿があるJR前橋駅に着いたのが夕方5時過ぎ。で、そのまま予定していたレストランの徳樹庵前橋店へ:

手作り料理とお酒処の徳樹庵(本当か?)

勝手にファミレス系の建物を想像していたのだけど、実際のお店は料亭風の建物で個室に案内された。おおぉ、これは期待できそうな雰囲気 :)。そして席につくやメニューから生中と唐揚げやつまみを選択して注文した:

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個室でまったり

それから一杯目のジョッキが無くなりそうな頃に、楽しみにしていたお店「自慢の逸品・一本唐揚げ」(4本)が登場。大きな唐揚げみたいだから量は小サイズにしたのだけれど:

鶏もも一本唐揚げ4本(490円+税)

あれぇ? 実物を見ると何かメチャクチャ小さい。メニューを見直しても全然小さいぞ :O。こんなに小さいなら8本の方を頼めばよかったけど、それはそれで何か違うよなぁ:|。でレモンを絞って食べたけど、なんだこれ、普通の唐揚げ。油臭いし。

まぁ最初はこんなものなのかなぁと自分を納得させつつ他のツマミを頂くことに。
勘八の刺し身は、なぜかワサビが付いていなかったから別途もらう羽目に :$。おまけに活〆にしてはメチャクチャ堅い身で、脂はほとんどなかった:$。:

勘八のお造り(690円+税)

つけ忘れのワサビ

そこでローストビーフと胡瓜の漬物を頼んでおいて良かった〜と思った:

カルパッチョ(690円+税)と胡瓜の一本漬け(390円+税)

あと洋風トマトサラダも:

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洋風トマトサラダ(290円+税)

なんだかなぁ、値段がチープな品はそれなりの味。特に記憶に残らなかった:|。ここで唐揚げは全く納得がいかなかったのでもう一度、注文。あと勘八も。

しかし相変わらずメニューとは全然別物の品物が出てきた :(。最初の方がマシかも。左がメニュー、右が実物:

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メニューの写真

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実物(490円+税)

ここまできたら詐欺だね :X。それでいて価格[b]いいかげん内税表示にしろよ、食品業界。は首都圏レベル。ド田舎の群馬県前橋は、この程度なのかと呆れて何も言えなくなった。

最後は何も注文する気になれず、梅酒ロックと勘八刺しを食べて早々に退店した。最初の期待が完全に裏切られた上に、会計ではたいそうな金額を払う目になったこともあってイラッとしてしまった:

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勘八のお造り(690円+税)

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梅酒ロック(490円+税)

そんなこんなで知らずに酔っぱらっていたようで、店を出た後にちょっとした災難が。と言っても、これは徳樹庵は関係なく自業自得なのだけど。
まったく電灯のない暗闇の歩道をスマフォでコンビニを探しながらウロウロしていた際に、フラっと躓いて転倒しそうになり、持っていたスマフォを庇う形で利き腕一本で道路に手をついたら、手の甲の一部が削れてしまった :$。この時は、すかさず持参していた絆創膏でなんとか出血を抑えることができたものの、どうも利き腕に力が入らなくなっていた。それでも宿泊先では疲れを癒やすための風呂には注意しながら入ることができたし、寝ている最中も酷い傷みで起こされることは無かった。さらに翌日は、予定どおり城攻めもできたのは(痛かったけど)不幸中の幸いだった 0:)

振り返ってみると、今回は寝不足からか、うっかりしたりイライラすることが多く、悪いことが重なったこともあって、ホント何か群馬県前橋とはつくづく縁がないと痛感した[c]二年前には前橋公園で警察沙汰(自分は無関係だけど)があったりして、ここは嫌な街の一つ。。ということで、もう二度と来たくない街だねぇ、ここ前橋は :O

徳樹庵 前橋店
群馬県前橋市本町3-15-10


気を取り直して、ここからはオマケ。

こちらが初日の城攻めで利用したJR上越線4両編成の211系と岩本駅の駅舎(無人駅):

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JR上越線の211系

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JR岩本駅

ここから長井坂城跡の入口まで連れて行ってくれる関越バスのバス停まで歩いた時に観た風景を。まずは利根川を渡って昭和村へ:

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利根川に架かる橋

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橋の上から利根川の風景(拡大版)

橋を挟んだ反対側も:

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橋の上から利根川の風景(拡大版)

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昭和村

今回の城攻めツアーの戦勝祈願のため、途中にあった川額八幡宮なる神社に立ち寄った:

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川額八幡宮

バス停のある入沢部落あたりで見た木の実(詳細不明):

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木の実

あと畑を介して沼田方面の眺望:

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沼田方面の眺望(拡大版)

関越バスは入沢部落あたりから乗車し、下車したのは関越自動車道の真下あたりのバス停:

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バス停から見上げた関越自動車道(拡大版)

この長井坂城跡の地下には関越道が貫通しているということで、それはとどのつまり、この高架の上まで登る必要があるということである。ということで関越道を見上げながら坂道を延々と登った:O

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関越自動車道

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関越自動車道

こうやって見ていると建築物としては芸術レベルではある:

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芸術的な橋脚(拡大版)

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関越自動車道

で、これが関越自動車道の上にある城址から見下ろした眺め(沼田方面):

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関越自動車道(拡大版)

城跡は大部分が畑ではあったが保存レベルが良く、周囲三方の断崖の他、空堀や土塁など土の城を堪能できた。但し、この時期にしては蜘蛛や藪蚊が多かったが:

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馬出跡

こちらは城内の展望箇所から沼田方面の眺望:

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初日は晴天だった(拡大版)

関越バスの下永井停留所近くには円乗院の宝篋印塔(ほうきょういんとう)なる名跡があった。バスを待つ間、喉が渇いて水を探していた時に見つけた。おかげで冷たい水道水にありつけた。ありがたいことだった。寛政5(1793)年に建立された高さ2.5mの彫刻が大変に美しい石塔で、県指定の重要文化財:

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円乗院の宝篋印塔

最終日は上毛電鉄沿線にある城跡を4つ攻めてきた。ただ天気予報が外れて晴天どころか小雨が降るといった悪天候になってしまったのが残念。
でも運良くワンデーフリーパスの存在を発見。この日は1,000円(大人/当時)で乗り放題:

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城攻めで利用したワンデーフリーパス

乗車した車両[d]ちなみに、上毛鉄道の車両は京王井の頭線の中古車両を使用している。はハロウィーン仕様だった:

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728編成

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車内もハロウィーン仕様だった

これは膳(ぜん)城址公園にあった模擬天守風の遊具:

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膳城址公園の滑り台

膳城は蜘蛛の巣と藪蚊が多かったけど、予想外に見どころが多かった城跡。城マニアの中には改変しすぎとか云ってた野郎がいたけど、宅地化の波が激しい古城ならばこの程度は全然許容できるけどな :/

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膳城の外堀跡

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膳城の外堀跡

上毛線沿線最後の城攻めは大胡駅近くの大胡城。こちらも意外と見どころが多かったが、見学者が全くいなかった[e]そう言えば途中、群馬ナンバーの家族連れを見かけたが「何にもないぞ、この城は。」と言って、さっさといなくなっていた。こいつらは何を期待していたのだろうか。

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本丸虎口跡

本丸を囲む空堀とか:

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全石垣が残った枡形など見どころは大いにあった。

この古そうで閉鎖になった幼稚園へ渡る木橋なんか趣あり:

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城跡の幼稚園は閉鎖されていた

こちらは大胡駅と付属の車両基地。上毛鉄道も無人駅が多いが、大胡駅には車両基地があった:

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大胡駅(線路側)

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大胡駅(ホームと車両基地)

こんな模型も:

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大胡駅構内にあったジオラマ模型

全ての城攻めを終え大胡駅をあとにして終点の中央前橋駅まで乗ってから、上毛電鉄の中央前橋駅とJR前橋駅との間を結ぶシャトルバス(100円)に乗車した。来た時と同様に歩いても良かったけど、疲れたし前日の負傷もあったので :)

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初めて乗ったシャトルバス

帰りは高崎まで行って始発となる湘南新宿ライン快速に普通車グリーン席で。しかし連休で、最後は満席だったけど。お菓子やらビールやらを持って、埼玉県に入るまでは悠々とした電車旅だった。こちらは前橋駅構内のお土産屋で購入した群馬県渋川銘菓の「こがねいも」(108円)。味は普通。残念ながら北海道のわかさいもの方が旨い:p:

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群馬県渋川銘菓の「こがねいも」(108円)

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also長井坂城攻め (フォト集)
See Also山上城攻め (フォト集)
See Also膳城攻め (フォト集)
See Also女渕城攻め (フォト集)
See Also大胡城攻め (フォト集)

参照   [ + ]

a. 本当の話、この三連休が秋の行楽シーズンであり、自らの出遅れもあって群馬県以外では宿を取れなかっただけだけど。 😥
b. いいかげん内税表示にしろよ、食品業界。
c. 二年前には前橋公園で警察沙汰(自分は無関係だけど)があったりして、ここは嫌な街の一つ。
d. ちなみに、上毛鉄道の車両は京王井の頭線の中古車両を使用している。
e. そう言えば途中、群馬ナンバーの家族連れを見かけたが「何にもないぞ、この城は。」と言って、さっさといなくなっていた。こいつらは何を期待していたのだろうか。

宮城・笹巻きえんがわずし – Some Ekiben that I ate on the Touhoku Tour 2018.

先月は、平成30(2018)年9月最後の連休を利用して、福島県浜通りを南北に走るJR東日本の常磐線沿いにあった城攻めに行って来た。ただし未曾有の災害であった東日本大震災から七年経った今でも常磐線の完全復旧には至っておらず、一部区間[a]福島第一原発付近を通る富岡駅から浪江駅の間。予定では2020年春頃開通とのこと。が運転見合わせのため、宿がとれた仙台から南下して行ける城に限定することになったが[b]なので、いわき市にある磐城平城は別の機会にゆずることにした。

さらに、予定では仙台で牛タンとか小高で復興ラーメンとか食べたいなぁと考えていたのだけれど、実際には「連休」による超激混み状態で全くありつくことができなかった;(。ということで、今回は駅弁情報を:)

まずは東京駅から仙台駅へ向かう新幹線はやぶさ3号の車内で朝飯がわりに食べたのが「唐揚げざんまい弁当」(950円)。駅ホームの弁当屋で購入したパッケージには生姜醤油風味とニンニク醤油風味、そして南蛮黒酢たれ和えと書かれていた:

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新幹線の中で朝弁当

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「唐揚げざんまい弁当」(950円)

開けてみた内容は、こんな感じ。唐揚げがそれぞれの味付けで2個づつ。他に大根サラダ、香の物、そして梅干しと佃煮:

肉が冷たいので…

あと何に付けるものなのか、タルタルソースが付属していたが、お肉はそれぞれに十分に味が付いていたので自分は不要だった。で普通にパクパク頂ける弁当なのだけど、やっぱり唐揚げは温かい方が断然に美味しい(自分の最近の御用達はこちらのお店)。おそらく冷たくても美味しく頂けるように研究・工夫はされているとは思うが。

そして今回の旅行は、どこもお店は行列で、特に名物系は全くありつけず、オニギリで我慢していたが、ぜひとも帰りの駅弁くらいは希望していたものを食べたいと仙台駅構内をうろうろして運良く最後の一個を手にすることができた。
それが仙台駅で人気の駅弁、第二位(当時)の「笹巻きえんがわずし」(1,100円):

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「笹巻きえんがわずし」(1,100円)

包装をはぐと笹の香りが広がり、さらに笹を開くと酢の香りが鼻をつくと同時に、美味しいそうな脂の香りもした:

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笹に包まれた押し寿司風

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脂がのった大きな「えんがわ」

ちなみに、この「えんがわ」はヒラメではなくカレイ。笹の上にあったライムを絞り、付属の専用醤油をかけて頂いた:

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脂のりのりで美味しい

予想外の脂の多さに驚いたけど、ライムと酢飯の中のシソの葉のおかげで、柔らかいえんがわを美味しく頂けた。途中は少し脂に飽きがきたけど、くどい後味ではない ;)

しかし今回の旅行で一番美味しかったのは人気第二位の駅弁ではなく、この「ずんだシェイク」(250円)かも:

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「ずんだシェイク」(250円)

9月最後の三連休中は、自分が訪れた東北・宮城あたりだけ晴天で、それ以外の全国的に雨だったという。これはこれで運が良かったが、おかげで横田友好祭に続いて二週連続で日焼けしてしまった :$。そういうこともあり、仙台駅構内で売っていたこのシェイクの存在はピカイチ。いろんな場所で売っていて、ほとんど行列だったし。
甘すぎず、ずんだの香りを味わえる一品だった:

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ずんだシェイクの中身

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暑かったので一気に飲み干せた

JR東日本・仙台駅
宮城県仙台市青葉区中央1丁目


ここからはオマケ。

初日の午前中は、まず仙台から常磐線に乗って相馬にある中村城跡へ。こちらは原ノ町行きの701系:

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常磐線701系1000番台

そして相馬駅の駅舎。仙台駅から1時間ほど。ここから相馬中村城跡がある馬陵公園までは徒歩15分ほど。その途中、リスが出迎えてくれた:

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JR相馬駅

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リスのオブジェ

相馬は文字通り相馬野馬追(そうまのまおい)で有名である:

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県道R228から相馬中村城へ向かう

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相馬野馬追のレリーフ

馬陵公園は相馬中村城跡であり、さらに相馬中村神社と相馬神社が建立されている。ちなみに相馬中村神社には狛犬ならぬ狛馬だった:)

これは相馬中村神社境内にある北野天満宮(御祭神はご存知、菅原道真公):

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北野天満宮

そして相馬中村城の妙見曲輪跡に建つ相馬中村神社の社殿。江戸時代の中村藩・相馬家の氏神「妙見(みょうけん)」は千葉県の千葉氏と同じ一族である:

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相馬中村神社の社殿

さらに本丸跡には相馬神社が建つ。ちなみに相馬中村城には三層の天守が建っていたが、落雷で焼失後は藩政を優先して(お飾りの天守は)再建されず:

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天守閣が建っていた本丸跡

本丸には御殿と庭園があったと云われ、現在はこのような石庭ならず「土庭」があった :D

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相馬神社境内にあったオブジェ

こちらは相馬中村城周辺で目撃した(リス以外の)動植物たち:

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彼岸花

相馬中村城のあとは更に常磐線を南下して小高(おだか)にある小高城跡へ。まずは相馬駅まで戻り原ノ町まで行って、そこから浪江行きに乗り継ぐ:

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701系@原ノ町駅

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719系@小高駅

こちらが小高駅の駅舎:

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JR小高駅

小高駅近くには双葉食堂なる有名な復興ラーメン屋があるのだけれど、駅についた時には既に閉店時間だったので諦めて城跡へ向かった。で、店の前を通ると大勢の行列ができていた。閉店間際でこんなに並んでいるのかぁと、少し呆れてしまったが :X

ここ小高を歩いていると人通りが少なく、まだ震災の傷跡が残っているところもあり、なんとも言えない寂しい感じがした。

小高城の本丸跡には相馬小高神社が建っており、蜘蛛の巣がたくさんかかった社殿の裏手辺りにある土塁と空堀くらいが遺構になるが、伊達家と最後まで争った相馬家の本城であったので是非、攻めたかった城跡である。
これは城の西側から眺めたところ。現在は鬱蒼とした杜になっているが、往時は手前の田んぼが堀で、舌状台地上に築かれた平山城だった:

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小高城跡の遠景(拡大版)

城跡の西側にある堀跡は現在、田んぼになっており、金色に輝いた稲が沢山実っていた:

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金色の稲

驚いたことに、この田んぼの周囲には電気が走っていて動物が近づけないようになっていた[c]もちろん人間も。 :O:

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アニマルキラー 4300II

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只今、通電中

9000V(無負荷時)の高電圧がかかっているらしい。危なく田んぼを横切って城跡へ向かおうとした。ホント、案内板が小さくて、広い田んぼに数カ所にしかないので、ヘタしたら危なかった :$

城攻めを終えて小高駅へ向かう途中、カマキリにガン見された:

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ガン見してきたカマキリ

小高駅から原ノ町経由で、宿のある仙台についたのが夜6:00過ぎ。先に夕飯にと考えていた牛タン屋は駅の東口から見えるほど行列だったので、そのまま宿へ直行。近くの牛丼屋で済ませて風呂入って寝ることに。この日は朝が早かったので、すぐに眠りに入ることができた。

翌日の最終日は有名人のお墓参りへ。まずは、以前に城攻めした福島県は棚倉町にある棚倉城を調べているときに知った、戊辰戦争中の流行り唄『細谷烏と十六ささげ 無けりゃ官軍高枕』で有名な、官軍から大いに恐れられた仙台藩士・細谷十太夫の墓を訪問してきた。
お墓があるのは、仙台駅西口のバスプールからバスに乗って15分ほどのところにある龍雲院。ここには他に林子平や万城目正といった人の墓もあった。

これは細谷地蔵。細谷十太夫は戦後、自分が尊敬した林子平の墓があるここ龍雲院の住職になって、戊辰戦争で亡くなった人達の菩提を弔ったという:

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細谷地蔵

それからバスで再び仙台駅へ戻り、そこから伊達政宗公が眠る伊達家の墓所がある経ヶ峰(きょうがみね)へ。仙台駅前からだと周遊バスであるループル仙台を使って入口まで行けるようだけど、乗り場へ行って見ると大行列だったので、片道の値段が安い市営バスを使った。市営バスの最寄りのバス停は「霊屋橋・瑞鳳殿前」。ここから経ヶ峰墓所の入口である霊屋下へは徒歩10分くらい。

停留所からまずは広瀬川に架かる御霊屋橋を渡り、橋の上から墓所の名についた経ヶ峰(は丘陵の名前)を眺めた:

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御霊屋橋

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広瀬川と経ヶ峰(拡大版)

御霊屋下からは坂道になる:

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経ヶ峰墓所の参道

伊達政宗公が眠る御霊屋「瑞鳳殿」までは坂道を登って行くことになるが、まず先に仙台藩・二代藩主で伊達政宗公の次男・忠宗公によって創建された瑞鳳寺がある:

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正宗山・瑞鳳寺の山門

そう言えば、この瑞鳳寺を瑞鳳殿だと勘違いしていた日本人観光客を何人も見かけた :O。外国人観光客も多かったけど、ちょっと同じ日本人として恥ずかしい。この先の瑞鳳殿もそういう輩が目についた :/

再び長い坂を登って行くが、経ヶ峰の杜はとても清らかだ[d]大勢の観光客が居なければ、だけど。

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並木道(拡大版)

ここ経ヶ峰に政宗公は生前から墓を作ることを指示していたという。これらの木々はもしかしたら政宗公も見ていたのかも:

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歴史を感じる大木(拡大版)

この参道の順路では、まず伊達政宗公の墓所である瑞鳳殿(ずいほうでん)があり、その先の二代目と三代目の墓所も含めて入場料を払って観覧することになる。もし入場料を払わないと、再び登ってきた石段を降りる羽目に[e]下りの石段が別にあるので、本来は一方通行のようだけど。

ちなみに経ヶ峰墓所は大戦中の仙台空襲で全焼している。そのため現在見ることができる建築物は戦後に復元されたものであり、その一部は(予算の都合で)往時のものを簡略化して復元しているものがある。
ここでも、まるで瑞鳳殿が本物だと思っている日本人の輩が多かったっけ。まったくおめでたい連中である :$

まず手水鉢の龍の口から流れる水でお清めする:

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手水鉢の上の龍

これは瑞鳳殿へ入る所に建つ涅槃門:

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復元された涅槃(拡大版)

涅槃門をくぐった先の石段脇に復元された御供所(竹楼)の内部は資料館になっている。この資料館が素晴らしい。これだけお金を払って観る価値は大いにある 8):

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復元された御供所は、現在は資料館

資料館は特に、焼失した御霊屋の再建に先立って伊達政宗公の遺骨や副葬品を発掘し学術調査を実施した時の貴重な史料や映像を堪能できる。公は身長は189cm、血液型はB型だったらしい。

瑞鳳殿前に復元された拝殿。拝礼のために設けられた施設:

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拝殿

この拝殿をくぐって橋廊下なる空間の上段にあるのが唐門で、この中に瑞鳳殿が復元されていた:

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復元された唐門

こちらが伊達政宗公が眠る御霊屋・瑞鳳殿:

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瑞鳳殿(拡大版)

瑞鳳殿は仙台城方面を正面にして建ってた:

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瑞鳳殿

伊達政宗公の辞世の句:

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く

昭和20(1945)年のの米軍による仙台空襲を受け、この瑞鳳殿の他、感仙殿(二代藩主・忠宗の御霊屋)・善応殿(三代藩主・綱宗の御霊屋)は全て焼失した。それから34年後の昭和54(1979)年に瑞鳳殿が再建され、昭和60(1985)年には感仙殿と善応殿も再建された:

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瑞鳳殿

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瑞鳳殿

この後は感仙殿と善応殿にもお参りして、経ヶ峰を下山して、再び市営バスで仙台駅へ:

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仙台駅

こちらは仙台駅構内で見かけたもの。珍しいところでは日本酒の自販機。あと、いろいろあった今年の楽天イーグルスは「栄冠」を勝ち取るところか「栄冠」を他球団に譲っただけだった[f]ファンには申し訳ないが。

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日本酒の自販機

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もっと頑張れ!!

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also相馬中村城攻め (フォト集)
See Also小高城攻め (フォト集)
See Also細谷十太夫と林子平の墓所 (フォト集)
See Also伊達政宗公墓所と伊達家経ヶ峯墓所 (フォト集)

参照   [ + ]

a. 福島第一原発付近を通る富岡駅から浪江駅の間。予定では2020年春頃開通とのこと。
b. なので、いわき市にある磐城平城は別の機会にゆずることにした。
c. もちろん人間も。
d. 大勢の観光客が居なければ、だけど。
e. 下りの石段が別にあるので、本来は一方通行のようだけど。
f. ファンには申し訳ないが。

會津城下町と新選組ゆかりの地巡り − A Tour of castle towns and places associated with the Shinsengumi at Aizu-Wakamatsu.

今となっては、一昨々年は平成27(2015)年の初秋に自身初の「奥州攻め」として、シルバーウィークを三日間の日程で福島県内に残る城跡を巡ってきた。
その二日目は自身初の訪問地である会津若松市の會津若松城跡の他に、その城下町やかっての會津藩に関わりの深い松平家や新選組にゆかりある寺院を巡ってきた。城跡だけでも十分に見所が多い上に、市内各所には名所・名跡が沢山あるので、当然ながら散見できる箇所は限られてくるが、少しでも多く巡れるように今回はレンタサイクルを活用した。これが結果的には大当たりで、飯盛山や会津さざえ堂には行けなかったけど個人的には満足している ;)。二、三日、会津若松に宿泊できるのであれば十分に機会はあるだろうが、実際のところ宿泊先はどこも一杯で、この時期にしては近場の郡山になんとか確保できただけ良かった方だ 8)

ということで、限られた時間内に見て回って来たのは鶴ヶ城公園と蒲生氏の菩提寺の他に、会津藩ゆかりの名跡や新選組ゆかりの寺院、そして会津藩主松平家墓所と云ったところ:

会津若松市街図(Google Earthより)

会津若松市街図(コメント付き)

  1. 本光寺(ほんこうじ)には蒲生忠郷公の五輪塔がある。忠郷公は蒲生氏郷の嫡男・秀行の長男で、陸奥会津藩2代藩主。
  2. レオ氏郷南蛮館には再現された天主の間や呂宋茶壷(るそん・ちゃつぼ)などが展示されているらしい[a]と云うのも、着いたのが開店前だったので実際には見学できなかった。でも11:00amが開店時間とはかなり遅すぎ。
  3. 阿弥陀寺(あみだじ)には、會津若松城の本丸にあった御三階(現存)が移築されている他、新選組三番組組長・斎藤一(藤田五郎)の墓所がある。
  4. 興徳寺(こうとくじ)には蒲生氏郷公の五輪塔や、公の有名な辞世の句の碑がある。
  5. 直江山城守屋敷跡は、「日本の道徳教育の生みの親」とも云われた山鹿素行(やまが・そこう)誕生の地でもある。
  6. 日新館(にっしんかん)天文台跡は會津藩の藩校である日新館の天文台。校舎が戊辰戦争で焼失しているので、唯一の藩校の遺構である。
  7. 會津若松城(鶴ヶ城公園)と甲賀町口郭門跡については、こちらで詳しく紹介している。連休の秋晴れともあって、ホントに沢山の人達が訪れていた。
  8. 西郷頼母(さいごう・たのも)屋敷跡は幕末の會津藩家老の屋敷。頼母は會津戦争後、函館戦争にも参加した。
  9. 天寧寺(てんねいじ)は曹洞宗の寺院で、會津蘆名家の菩提寺であり、刑死した新選組局長・近藤勇の墓所がある。
  10. 會津藩主松平家墓所には会津藩2代藩主・保科正経(まさつね)公から9代藩主・松平容保(かたもり)公までが眠る御廟である。ちなみに初代藩主・保科正之公は猪苗代の土津(はにつ)神社に眠っている。
  11. 八角(やすみ)神社は會津若松城の前身にあたる鶴ヶ城の起源にあたり、會津蘆名氏の館があった。
  12. 飯盛山は云わずと知れた悲劇の場所である。滝山本陣跡やさざえ堂が近くにある
  13. 向羽黒山(むかいはぐろやま)城は會津蘆名氏を戦国大名にした中興の祖・蘆名盛氏の隠居城で、會津若松城の支城だった。こちらは、この翌年に会津若松市に宿を取って攻めてきた。
  14. 会津若松駅はJR磐越西線と只見線が乗り入れしている。今回の城攻めのスタート地点。

ここでは太字の名所・名跡について紹介する。


まずは会津若松駅。乗り入れはJR磐越西線とJR只見線、そして会津鉄道会津線。駅舎を正面からみると會津若松城の天守にある切妻造(きりつまづくり)の出窓みたいだった ;)

会津若松駅

この当時は郡山から磐越西線を使ってきたが、今となっては只見線+会津鉄道会津線も乗車済み。実は、この翌年は平成28(2016)年の夏に向羽黒山城跡を攻めた際に、ここ会津若松駅から利用した

こちらは駅前ロータリーに置かれていたオブジェで、白虎隊士の像と赤べこ:

白虎隊士の像

赤べこ

この時は駅舎の外にあるコインロッカーに荷物を預け、用を足してからそのまま北端にある駅レンタカー屋でママチャリをレンタルした(1日1,500円/当時)。

これは、駅前から国道R118へ向かう途中に目撃した地下道の出入り口は櫓風だった。石灯籠風の街灯もまた「城下町」って雰囲気があった:

櫓風の地下道の出入り口

この後は国道R118(神明通り)を南下して本光寺に立ち寄り、会津若松郵便局から国道R252に折れて七日町駅方面へ。で、これがレオ氏郷南蛮館:

レオ氏郷南蛮館

ここに到着したのが09:00ちょっと前だったが営業中ではなかった。なんと11:00にならないと開かないらしい:O。ここには氏郷公が建てた會津若松城の七層七階の天守閣にあった天守の間が再現されていたり、戦国時代に流行した呂宋茶壺(るそん・ちゃつぼ)が展示されているらしいが、さすがに二時間も待つわけには行かないので訪問は次回にスキップすることにした。

で、このまま国道R252(七日町通り)を七日町駅へ向かって行くと會津戦争の戦死者が祀られている阿弥陀寺にたどり着く:

阿弥陀寺

この日は秋の彼岸であり「会津まつり」ともあって殉難者秋季祭典とか斎藤一忌記念講演会なんかが開催されていた。

こちらは本堂で、その左手前に新選組・斎藤一の墓所、その奥には會津若松城の本丸にあった御三階(おさんがい)が移築されている:

本堂

阿弥陀寺は慶長8(1603)年に蒲生氏郷公の嫡男・秀行の時代に、下野国(しもつけのくに)からきた良然(りょうねん)和尚が開山したと云う。

會津戦争の犠牲者が眠る、いわゆる東軍墓地。会津藩戦死者が埋葬できたのは阿弥陀寺と長命寺(ちょうめいじ)だけで、ここ阿弥陀寺には1300余の亡骸が埋葬されているのだとか:

會津東軍墓地

こちらが新選組隊士・斎藤一(藤田五郎)の墓所:

新選組隊士・斎藤一の墓所(拡大版)

斎藤一は壬生浪士組の時代から参加し、のちの新選組では副長助勤、三番隊組長として活躍、隊内では沖田総司、永倉新八、吉村貫一郎と並ぶ剣客で撃剣師範も務めた。鳥羽・伏見の戦いで負傷して會津若松城に入城した副長の土方歳三にかわって隊を指揮する。新政府軍が迫る中、會津中将・松平容保のため會津に残り土方と別れる。戊辰戦争後も生き残り、藤田五郎と名前を変えて大正時代まで生きた。後半生を會津人として生きた本人の希望により、ここ阿弥陀寺に眠っている。現在、彼の剣術の流派は無外流(むがいりゅう)[b]辻月旦(つじ・げったん)により開かれた流派で、土佐藩主・山内容堂も学んでいるとか。とされている。享年72。

さらに、本堂裏には會津藩最強の武芸者の呼び名が高い黒河内伝五郎(くろこうち・でんごろう)と息子たちの墓(右手)もあった:

黒河内伝五郎の墓(右手)

伝五郎こと黒河内兼規(くろこうち・かねのり)は神夢想一刀流居合術の他に宝蔵院流槍術、柔術、手裏剣術、薙刀術、吹き針など武芸百般を極め、藩校日新館で武芸指南役を務めた。晩年は失明したが、「座頭市」を彷彿させるように武芸の技が衰えることはなかったと云う。會津戦争では長男は戦死、次男は負傷し、會津城下に新政府軍が攻めいった慶応4(1868)年に次男を介錯した後、自刃した。その際、頸を井戸に投げ込んで敵には渡すなと言い残したと云う。享年65。
右手の墓碑には伝五郎と二人の息子の法名が彫られ、左手の墓碑は母または夫人のものと思われる。

そして會津若松城の遺構(現存)として唯一残る現存櫓の御三階(おさんがい):

御三階(拡大版)

外観は三階建だが、内部は四階になっており、二階と三階の間に天井の低い部屋があるらしい。三階に上がる梯子は上から引き上げる仕組みになっており、当時は密議所に使用されていたとも。會津戦争の戦火で阿弥陀寺が焼失したために移築されて、長い間、本堂として使用されてきたらしく、正面の唐破風は本丸御殿の玄関の一部だったとか。
しかしながら、背面は傷みがかなり目立っていたが:

玄関の唐破風と葵御紋

背面

この後は再び国道R118へ戻り、蒲生氏郷公の墓所がある興徳寺へ。ここには松平容保が蒲生氏郷公「若松開市300年祭」で贈った歌碑が建っていた。公は二千首以上の和歌を残しているのだとか:

興徳寺に建っていた松平容保公の歌碑


”百年(ももとせ)を三たび重ねし若松乃 さとはいくちよ 栄え行らん”

興徳寺から鶴ヶ城公園へ向かってさらに南下していくと愛の文字が透かされた「直江兼続屋敷跡」なる案内板を見つけた:

直江兼続屋敷跡

ここは、往時は城下町の主要な道路である「本一之丁」と「大町通り」が交差する場所にあたるそうで、蒲生氏郷公が町割りして以来、重臣らの屋敷が置かれていたとか。慶長13(1598)年に越後から會津120万石で入封してきた上杉景勝は、筆頭家老の直江山城守の屋敷をここに与えたと云う。

が、この敷地内に入った先の石碑には「山鹿素行先生誕生地」と彫られていた :|(分かるように、敢えて大きな写真にしてみた):

「山鹿素行先生誕生地」の碑(拡大版)

おそらく2つとも間違いではないであろう。初めは直江山城守の屋敷が建っていたが、関ヶ原の戦後に米沢に転封となって、それから20数年後の元和8(1622)年、山鹿町と呼ばれたここで山鹿素行が誕生した。彼の偉大な功績は思想家(儒学者・古学派)として「日本道徳教育の生みの親」としての働きであるそうだ。彼の教えは、のちに武士道精神につながる。この碑は、大正時代の東郷平八郎の書によるものらしい。
山鹿素行はのちに赤穂藩に仕え、忠臣蔵で大石蔵之助が鳴らす太鼓は、山鹿流陣太鼓と呼ばれた。

それから、更に国道R118を南下し、會津若松城の西出丸跡と水濠が見えてきたありに、もしかしたら通りすぎてしまいそうな石碑が建っていた。
ここが会津藩校・日新館跡:

会津藩校・日新館跡

会津藩の最高学府である日新館に、藩士の子弟は10歳で入学し学問や武道に励み、心身の鍛錬に努めたと云う。往時は、約8千坪の敷地に武道場や天文台、日本最古の「プール」と云われる水練水馬池があったと云う。現在、ここからかなり離れたところに忠実に再現された藩校があるらしい。

この場所の裏手(西側)には會津戦争で焼失を免れた藩校の施設・日新館天文台(会津若松市指定文化財)があった:

史跡・天文台跡(拡大版)

ここは、藩校・日新館の天文方の天文観測の場として設けられたもので、主として星の観測に使われたが、その他に冬至の日には学校奉行・天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を偏したところだったという。往時の規模は、この二倍はあったのだとか:

日新館天文台跡

日新館天文台跡

この後は、この日の目玉である會津若松城攻めへ:

日新館跡から眺めた天守(拡大版)

こちらはお昼を食べに「輪箱飯」の田季野へ向かう途中に見かけた會津藩家老・西郷頼母(さいごう・たのも)邸跡:

西郷頼母邸跡

新政府軍が會津若松城下に侵攻してくると、ここ西郷邸では頼母の留守を預かる妻やその一族の中で足手まといとなり恥辱を受ければ家名の恥になるとして、頼母の母をはじめ娘ら二十数名が自刃したと云う。これもまた會津戦争の悲劇の一つである。

遅いお昼を摂ったあとは、鶴ヶ城公園から東へ向かい県道R325(東山街道)に合流して、少し登った先にある萬松山天寧寺(てんねいじ)へ:

天寧寺の本堂

ちょっと長い階段を上がった先が本堂脇で、その前には境内案内図が建ち、ちょうど本堂裏の墓所入口があった。その入口前には、大きく「近藤勇之墓」という説明板が建っていた:

萬松山天寧寺・境内案内図(拡大版)

ここ天寧寺は會津蘆名家の11代当主・盛信の建立で、代々蘆名氏の菩提寺とされたが、のちに伊達政宗に攻められた際に焼失し、その面影は本堂の礎石に僅かに残るだけである。

境内には新選組局長の近藤勇(大久保大和)の墓所がある。近藤は戊辰戦争中に下総国(千葉県)流山で薩長に捕縛され斬首となった。享年35。亡骸は江戸の龍源寺に埋葬され、首級は京都の三条大橋下流に晒された。しかし、何者かが持ち去って、この會津の地に埋めたという伝説が残る。実際、土方歳三ら新選組の残党が會津で戦闘に参戦した際に、ここにある墓所を参詣したと云う。

 また他に會津藩城代家老で、松平容保を命がけでかばい、会津戦争の全責任を負って切腹した萱野権兵衛長修(かやの・ごんのひょうえ・ながはる)と、彼の次男で郡長正(こおり・ながまさ)の墓所、そして田中家之の墓所があるそうだが、今回は時間が無くて参詣できなかった。

こちらが近藤勇の墓所(左手)。土方歳三が持参した彼の遺髪が眠っている。その右は土方歳三の慰霊碑。毎春4月25日の命日には墓前祭が執り行われているのだとか:

近藤勇の墓所と土方歳三の慰霊碑(拡大版)

そして脇には辞世の句が彫られた句碑が建っていた:

漢詩で作られた辞世の句(拡大版)


孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺劔 只將一死報君恩

天寧寺をあとにして再び県道R325に向かい、さらに会津武家屋敷の前を通って、さらに南下した:

會津武家屋敷

すると「国指定史跡・会津藩主松平家墓所」の案内板が見えてくるので、ここを左折して御廟へ向かうと「松平家塋域入口」(まつだいらけ・えいいき・いりぐち)の石碑があった:

松平家塋域入口

国道R325沿いにある

こちらは入口に建っていた案内板:

「国史跡・会津藩主松平家墓所」の案内図(拡大版)

「会津藩主松平家墓所」は会津若松市にある院内山(いんないやま)と、猪苗代町にある見禰山(みねやま)の二つの総称であり、後者は會津藩初代藩主である保科正之が眠っており、二代藩主・正経から松平姓に復名した三代・正容(まさかた)、そして九代・容保までが眠る、ここ院内山の墓所を「院内御廟」(いんない・ごびょう)と呼んでいる。院内御廟は約15ヘクタールの広さがあり、けっこう長い石段を上って行く。

院内御廟の入口には冠木門が建っていた:

院内御廟の入り口

この入口から頂部にあたる入之峰墓所(三代藩主から九代藩主が眠る墓所)までは石段となっていて、登りは20分くらいかかった:

入峰墓所へ向かう石段

こちらは藩主の墓所に向かって、それぞれ立ち並んでいた亀趺坐(きふぎ)。亀の形をした亀趺の上に乗る碑石には藩主の業績、表石には官職名と氏名、鎮石には霊神号(れいしんごう)が刻まれている:

亀趺坐(きふぎ)

亀趺坐(きふぎ)

こちら入之峰には東から三代・五代・六代・七代・九代藩主の墓所が横一列に並んでおり、それに合わせて亀趺坐も同じように並んでいた。ちなみに四代と八代の墓所は、この下の中丸山という段にある:

入之峰墓所

こちらが会津松平家の最後の当主・松平容保の墓所:

正三位・松平容保之墓(拡大版)

九代藩主で京都守護職・會津中将であった松平容保は会津戦争末期に滝沢本陣に進軍、そこで白虎隊を戦線に投入するも敗戦し若松城に撤退、籠城戦ののち、慶応4(1868)年9月に開城・降伏した。厳しい戦後処理のち明治26(1893)年に東京小石川の自邸にて死去。享年59。本来ならば、すぐにでも院内御廟に祀られるが、朝敵であったことで大正6(1917)年に、やっと他の藩主と同様の墓所が建てられた:

真新しい亀趺坐

九代藩主・松平容保

と云った感じで足早に回ってきたが、今回は残念ながら巡ることができなかった名跡が沢山あった。是非、また機会を作って訪れたい。

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also會津若松の城下町 (フォト集)
See Also會津にて新撰組ゆかりの地巡り (フォト集)

参照   [ + ]

a. と云うのも、着いたのが開店前だったので実際には見学できなかった。でも11:00amが開店時間とはかなり遅すぎ。
b. 辻月旦(つじ・げったん)により開かれた流派で、土佐藩主・山内容堂も学んでいるとか。

ねぎし 東京駅八重洲北口鉄鋼ビル店 − An OX Tongue Restaurant established at SHINJUKU.

先週は平成30(2018)年5月の週末。前日の大雨からうって変わっての五月晴れ。その週は夏日が続いて体力的にもキツかったが、この日だけは快適に過ごすことができた。ということで、この日は都内にある城跡のうち以前攻めたところで見落とした遺構や場所を巡ってきた。特に、この年の正月に見て回って来た江戸城外郭の見附跡のうち、震災後の復旧工事[a]と、正月恒例の箱根駅伝による交通規制のため道路を渡ることができなった。で見ることができなかった常盤橋御門(ときわばしごもん)跡は、先月末にその工事が完了しているはずなので楽しみにしていた。あとは世田谷城跡で見忘れた土塁跡など。そういうことで、お昼は東京は日本橋にある老舗の洋食店であるたいめいけんでオムレツでも食べる予定を組んでいた。

しかし、いざ巡ってみると見事にこれらの期待が外れてしまった 。特に常盤橋御門跡。正月に見た後に知らべた予定では既に工事が完了しているはずなのに、遅れに遅れて、なんと年末まで延期されていた。実際に現場を見たけど、本当にあと半年ほどで完了するのかと疑ってしまう状態だった :(。さら追い打ちをかけるかのように、たいめいけんは案の定、長蛇の列[b]ある程度は予想していたが、流石に考えてしまう待ち時間だったので諦めた。。さらに一橋徳川家屋敷跡も未だに工事壁の中にあって直に見ることができなかったし、有楽町駅前に残る南町奉行所跡は某製薬会社の製品キャンペン[c]久光製薬のサロンパス。CMの小道具なんかを展示し、無料でサロンパスを配布していた。で囲われてしまっていたため探し出すことができなかった :$

そんなこんなではあったけど、お昼は東京駅近くをたまたま通りかかって、たまたま見かけたの牛たんチェイン店へ。この際は何でもよかった。でも、昔は「新宿ねぎし」って呼んでいたと記憶しているが、何時から変わったのだろうか:|

牛たん・とろろ・麦めしのねぎし(鉄鋼ビルB1)

この日は牛たん三種盛りセット(1,880円)と生ビール(タンブラー)(420円)を注文。だけど、ビール飲み終わる前に、セットが出てきて、ちょっとたじろいだが :$
で、こちらが三種盛りセット。白たん厚切2枚(4切)、白たん薄切2枚、赤たん薄切り2枚(4切)の盛り合わせ:

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3種類の食感が楽しめる三種盛りセット(1,880円)

他に麦飯、とろろ、テールスープ、そしておみ漬け+味噌南蛮というお馴染みの構成。まずは牛タン一種をビールのツマミとして頂いてから、麦めし+とろろで完食した。ビールを飲んでいるので、麦めしのおかわりは無し。肉は脂がのっていて美味しかった。

ねぎし 東京駅八重洲北口鉄鋼ビル店
東京都千代田区丸の内1-8-2 鉄鋼ビルB1


ここからはオマケ。

この日は、春先に攻めた時に見忘れた二重土塁跡を見に再び世田谷城跡へ。藪化が進んでいて、どうかなぁと思っていたがギリギリ大丈夫だった。そして見終わって少し時間があったので豪徳寺前を通って、次の城跡へ移動した。
こちらは彦根藩井伊家菩提寺である豪徳寺の参道で有名な松並木。今回は朝08:00ちょっと過ぎということもあって全く参拝客がおらず、前回よりも「井伊(良い?)」感じに撮れた:P。正面奥に見えるのが山門:

豪徳寺参道の松並木(拡大版)

そして山門と、その脇に建っていた「都史跡・井伊直弼墓」の碑:

「都史跡・井伊直弼の墓」の碑

豪徳寺の山門

このあとは皇居の東御苑へ向かうため、世田谷線・上町駅から三軒茶屋経由で大手町駅まで一気に移動した。大手町駅に到着したのは10:00前だったにもかかわらず、皇居の大手口近くの出口へ移動するのに(途中、迷ったこともあり)10:00過ぎになってしまった。ホント、東京メトロの構内は迷路だ :$

こちらは大手門交差点前から眺めた大手御門:

内堀通り越しに見た大手御門

初めて攻めた時は東日本大震災の影響で耐震補強工事があったので渡櫓門を見ることができなかった。その後は何回か新年の一般参賀で遠くから見ただけ[d]新年の一般参賀では東御苑は休園のため立入りできない。なので、間近で見るのはおよそ三年越しになる。

大手御門は一の門(高麗門)と枡形、そして二の門(渡櫓門)からなる外枡形門となっている:

一の門は高麗門

一の門と二の門の大小二つの門に囲まれた枡形は侵入する敵を阻止・挟撃しやすい構造だった:

枡形

一方の二の門である渡櫓門は昭和20(1945)年4月の東京空襲で焼失し、それから20数年後に復元されたもの。そして二年前(当時)に耐震補強工事を終えた:

「大手渡櫓門」の碑

二の門は二階建ての渡櫓門

大手御門をくぐった先で入園票を受け取り、その近くある三の丸尚蔵館前の松の木とクルメツツジ:

クルメツツジと松の木

これは、さらに進んで二の丸跡に残る下乗門前あたり:

大手三の門(下乗門)前

二の丸と本丸へ通じる要所となる大手三の門の前に設けられた百人番所。長い:

百人番所

百人番所

そして本丸中の門跡を通り、中雀門跡へ。妙な形をした石垣だが、これは文久3(1863)年の火災で類焼し、石垣の表面がボロボロになったため:

中雀門(書院門)跡に残る石垣

こちらは富士見櫓。江戸城で現存する三棟の一つであり、三重櫓としては唯一の建築物。今回、櫓前の広場が整備されて従来よりも近くから眺めることができるようになった:

富士見櫓(拡大版)

このあとは江戸城攻めのもう一つの目的である富士見多聞櫓の中を見てきた。昨年11月(当時)から櫓内が公開されるようになった。

それから本丸に建つ天守台へ:

天守台

これは明暦の大火の後に、百万石の加賀前田家が半年かけて再築した「日本一の天守台」:

天守台(拡大版)

明暦の大火のあと、ついに天守が建てられることはなかった:

天守台

加賀前田家が半年かけて再築した天守台石垣は、現在は下部1mほど埋没していた:

天守台石垣

天守台石垣

いわゆる「寛永度天守台」は徳川三代将軍家光の時代の建造である:

天守台石垣

現在、天守台石垣は一種の展望エリアになっており、そこから東京の摩天楼を拝むことができる:

天守台から眺めた摩天楼(拡大版)

このあとは東御苑の出口の一つである平川御門へ向かった。
これは白鳥濠。本丸と二の丸の間にある内堀で唯一残っているもの:

二の丸跡、白鳥濠、本丸跡(拡大版)

二の丸跡から見上げた本丸高石垣と汐見坂。左手奥の石垣は徳川家康の時代、右手前は徳川二代将軍秀忠の時代の石垣:

本丸汐見坂(拡大版)

本丸石垣と二の丸跡。江戸城築城当時は、この辺りまで海だった:

二の丸跡と本丸高石垣(拡大版)

こちらが平川御門の二の門である渡櫓門。これも外枡形門である:

平川御門(二の門)

平川御門に架かる平川橋から清水濠を眺めたところ。この先に見えるのが竹橋御門跡:

平川橋と清水濠(拡大版)

平川橋をわたって内堀通りへ向かう。通りの向かいに建つのがパレスサイドビル。そして振り返って眺めた平川御門:

平川橋と平川御門

パレスサイドビル(拡大版)

この平川門交差点で見かけたマリオカートの集団:

マリオカートの集団

ちなみに、この近くの元・丸紅東京本社ビル脇には一橋徳川屋敷跡があるが、ビルの解体工事が長く続いているようで、まだ写真でしか拝めていない。この手の工事延期といった情報はどこを見れば分かるのだろうか? このあとに行った常磐御門跡もそうだけど、毎回、現地まで行って落胆することに腹立たしくなるのは自分だけだろうか :|

このあとは将門塚にお参りし、江戸城36見附跡の一つである常磐御門跡へ。今年の正月に来た時は所々の事情で見ることが叶わなかったので、復旧工事が終わっているはずのこの時期に足を運んだのだが、なんとこの年の年末まで延期されまたもや見ることができなかった。

そしてお昼を食べる店へ向かう途中、日本橋川にかかる日本橋の手前には「日本橋魚河岸跡」があった。関東大震災のあとに築地へ移転したそうで、今年(当時)には豊洲へ移転予定だ:

江戸時代にあった日本橋魚河岸跡

昭和通が走る日本橋。首都高が上を走っているのは景観がよろしく無いということで、東京オリンピックに向けてこの部分は地下に潜るのだそうだ。確かに、日本橋と云われないと、そのまま通過してしまいそうな「無機質感が漂う」景観だった:

日本橋

このあと、お昼をと思って寄ってみたお店(たいめいけん)は、ランチタイムと見事にぶつかって大行列だったのでパス。それから呉服橋御門跡を見てから東京駅八重洲口方面へ。

八重洲北口にある、この鉄鋼ビルディングとトラストタワー(右手)の間には江戸城外堀の石垣の他に、北町奉行所の一部の遺構が復元された歴史散策ゾーンになっていた:

江戸城外堀石垣の復元ゾーン

さらに東京駅付近にあった鍛冶橋御門、数寄屋橋御門などを見て回って有楽町方面へ。

これはJRの高速バスターミナルのグランルーフ

グランルーフ

一度、東海道線の反対側へ渡って旧・東京府庁舎の跡地に建てられた東京国際フォーラムへ。フリーマケットで大変な混雑だった。

これはガラス棟の天井。吹き抜けになっている上に、船底をイメージした構造だった:

東京国際フォーラム・ガラス棟の天井

さらに有楽町駅前にある「大岡越前守」で有名な南町奉行所跡も見ることができず。そうして、この日の最後は有楽町・日比谷あたりに建つ(意外と小さな)ゴジラ像を見てから:

ゴジラ像

ゴジラ像

これは呉服橋御門跡の近くで見たもの。何のギャラリーかは不明だが:

常盤橋ゴジラ・ギャラリー

この鹿児島県のアンテナショップ・遊楽館でお土産を購入して終了:

かごしま遊楽館

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also世田谷城攻め(2) (フォト集)
See Also江戸城攻め(6) (フォト集)
See Also江戸城攻め(7) (フォト集)

参照   [ + ]

a. と、正月恒例の箱根駅伝による交通規制のため道路を渡ることができなった。
b. ある程度は予想していたが、流石に考えてしまう待ち時間だったので諦めた。
c. 久光製薬のサロンパス。CMの小道具なんかを展示し、無料でサロンパスを配布していた。
d. 新年の一般参賀では東御苑は休園のため立入りできない。

とん汁たちばな − Tonjiru, A local delicasy of ARAI, NIIGATA.

今年は平成30(2018)年のGWは、昨年に続いて「越後攻め」。三日目の午前中は新潟県妙高市にある標高185mの鮫ヶ尾城跡へ。ここは今から10年前(当時)に国指定史跡に指定され、昨年には続100名城にも選定された城跡だ。
この日は長岡駅近くの宿を出て7時発のJR信越線で直江津まで移動し、直江津からえちごトキメキ鉄道妙高はねうまライン・妙高高原行に乗り換えて北新井駅に着いたのが9時くらい。無人駅だけど構内に置いてあった城址までの案内図を参考に40分くらいかけて、田園風景と遠く妙高山を眺めながら城跡へ向かった。途中、勝福寺へ立ち寄ってから東登城口から攻める予定だったが、トイレに行きたくなったので北登城口近くにある「斐太(ひだ)歴史の里・総合案内所」[a]斐太神社の裏(西側)にあり、県道R85沿いに「ようこそ鮫ヶ尾城跡」という看板があるので、そこから登ると駐車場があり、更に登ると「斐太遺跡群・斐太遺跡」の敷地に入る。そこを進むと案内所がある。へ向かった。用を足して案内所の展示物や説明板を読んでいたら、案内所のおばさんからお茶と梅干や辣韮なんかを頂いた。この日も晴天で暑さに注意していたので、このおもてなしには感謝。さらに案内所脇にある北登城口は、上信越道の工事で通行止めが延期になっていると云う現地情報も入手できた。ちょっと遠回りになったけど立ち寄っておいて良かった。これはオススメ 8)

それから2時間くらいかけて城址一帯を攻めて、大手道であった南登城口から下りて、午後の城攻めに向かうために再び北新井駅へ。ちょっとゆっくり城攻めしたため予定の時間を1時間ほど超えていた。そのため、お昼は次の城攻めの最寄りである高田あたりで摂ろうかと思ったけど、どうしても行ってみたいお店があったので、炎天下を片道20分ほど歩いて行ってきた。そのお店は豚一家も制覇したとん汁の店たちばな

国道R292沿いにある新井名物とん汁・たちばな

この日は平日だけど、GW中は平日を含めて営業中だったので助かった :)

国道R292沿いにあるとん汁の店たちばな

豚肉・玉ねぎ・豆腐・白味噌で作ったとん汁と、矢代産コシヒカリの御飯の組み合わせは城攻めでの疲れを癒やし、さらに次の城攻めのパワーの源となること間違いなかった :D。炎天下、駅前から歩いてきてお店に到着したのは昼時を過ぎた13時半。カウンターに何人か居るぐらいで、すんなりテーブル席に通してもらえた。注文した品は、店一番人気のとん汁定食(ライスは並):

とん汁定食(950円)

ライスは並だけど、丼ぷり一杯ある。コシヒカリで粘り気があり、甘く美味しい。そこに少し塩っぱ目のとん汁がベストマッチだった;)

たっぷりのとん汁(豚肉・玉ねぎ・人参・白味噌)

玉ねぎが甘かったが、玉ねぎ好きの自分としては問題ない。白味噌のコクある汁も美味しかった。

とん汁の店たちばな
新潟県妙高市栗原2丁目3-10


ここからはオマケ。

直江津から乗車した妙高はねうまラインのET127系妙高高原行きと、北新井駅から高田方面の眺め:

ET127系(直江津〜妙高高原)

北新井駅(無人駅)のホーム

こちらは城址へ向かう途中に眺めることができた妙高山・火打山。未だ雪が残っていた:

田園風景と妙高山方面の眺望(拡大版)

こちらは籠町南葉山・南葉山・青田難波山:

上新バイパスと籠町南葉山・南葉山・青田難波山(拡大版)

その手前に見える低い(150mクラスの)山が鮫ヶ尾城跡と斐太遺跡地区:

田園風景と鮫ヶ尾城跡+斐太遺跡地区

矢代川の支流と、その近くに生えていた乙吉の大けやき(妙高市指定文化財)。大けやきは高さ30m、樹齢は約500年:

矢代川(支流)

乙吉の大けやき

炎天下をとぼとぼ歩いていると出会った野鳥。物珍しそうな眼差しだった:

途中に出会った野鳥

こちらは斐太神社。うっそうとした杉にすっぽりと囲まれていた:

807年創建の斐太神社(拡大版)

鮫ヶ尾城址の麓には、弥生時代の遺跡も多数発掘されているそうで、この辺りは斐太遺跡群斐太遺跡(国指定史跡)が広がっていた:

矢代山B地区の斐太遺跡

浅い窪みとして確認できる竪穴式建物は60箇所を超え、尾根筋を分断する鋭い傾斜の空堀が二重に巡らされていた(外環濠跡):

外環濠跡

外環濠跡

こちらが鮫ヶ尾城の本丸跡:

標高185mの山頂部にある本丸跡

最後に、総合案内所で頂いたお茶と香の物:

総合案内所にて休憩

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also鮫ヶ尾城攻め (フォト集)

参照   [ + ]

a. 斐太神社の裏(西側)にあり、県道R85沿いに「ようこそ鮫ヶ尾城跡」という看板があるので、そこから登ると駐車場があり、更に登ると「斐太遺跡群・斐太遺跡」の敷地に入る。そこを進むと案内所がある。