先月は令和6(2024)年のお盆休みは滋賀県と三重県で4泊5日の城攻めツアーへ行って来た[a]両県ともに人生初上陸 😉️。。今回、事前に調べてみると攻めてみたい城跡がいろいろ出てきた上に、直前に台風7号が発生[b]発生当初は本土への上陸の可能性が出ていた。結局は上陸することはなかったが 🙂️。したりしてスケジュールを組むのに苦労したが、何とか 8 つの城攻めに絞ることができた[c]実際はスケジュールどおり全て攻めきることはできなかったのだが 😁️。。
初日[d]【今日は何の日?】北海道大学の前身である札幌農学校が開校した日。浅間山が噴火し11人の犠牲者がでた日。は安土城跡。天気は晴天で気温35℃の中を、安土駅前からレンタサイクルで移動し、見学ルート(大手道ルート)を2.5時間ほどかけて登り下りしてきた。やや脱水状態で麓まで下りて、水分を補給してから、再びレンタサイクルで移動して東門跡・御茶屋平跡を攻めていたのだが、その途中で左足が痙って《つって》しまい、歩くだけでも難儀するほどになったので、無念ながら途中で下山した[e]収まって歩くとまた痙ると云った感じで、ホント下山するのもキツかったが、一応はレンタル時間もあったので堪えて下山した 😥️。。それから駅前へ戻る途中に安土城天主信長の館と安土城郭資料館に立ち寄ってきた。
このあとレンタサイクルを返却し琵琶湖線で宿泊地の彦根まで移動。ホテルへ向かう前に駅西口にある御食事処で夕食を摂ることに:
この日は早めのお昼を新幹線の中で頂いただけで、酷暑の中での登山とサイクリング中は水分(とアミノ酸)の補給だけで済ませていたせいで、ここに至っては完全に腹ぺこな状態 。まずは瓶ビール(500円)で喉を消毒し、そのアテに自家製だし巻き(650円)を頂いた:
関西ともあって甘い味のだし巻き。疲労がたまった身体にはやさしく落ち着く味だった。それからミニそば付きの「ひこね丼」(1,440円)を注文した:
彦根市のご当地グルメの丼ぶり。これは「ひところ丼」が正式名らしく、近江牛のスジ肉、赤糸こんにゃくと普通の糸こんにゃく、玉ねぎを醤油ベースのタレで煮込み、温泉卵、青じそ、そしてネギと共に御飯の上にかけたものらしい。スジ肉は近江牛らしく、御飯は近江米とのことで調味料を除いた地産地消のコンセプトで作られた丼ぶり。赤色の糸こんにゃくは同県近江八幡市の特産品らしいが、やはり彦根藩祖で赤鬼と呼ばれた井伊直政にあやかっているっぽい:
牛丼とはまた違った味わいがあった。そして平たい蕎麦はやや温かったが美味しく頂けた。と云うことで「干食」(完食)。
八千代 彦根駅前店
滋賀県彦根市旭町9-1
ここからはオマケ。
初日であるこの日は、まず東海道新幹線のぞみ107号・広島行きで名古屋へ。車内では早めのお昼として駅弁(1,269円)を頂いた。茶飯の上に蛤、蛤仔、蜆、貝柱、焼き帆立がたっぷりのった食べ応えがある弁当:
当時は8月8日に発生した巨大地震注意(南海トラフ地震臨時情報)を受けて静岡県の三島〜愛知県の三河安城まで速度を落としての運行のため、名古屋から次に乗り継ぐ新幹線こだま767号・新大阪行きの出発時間ギリギリに到着したのだが、全体的に他の列車も遅れが出ていたので「こだま767号」は出発せずに停車したままだった[f]オマケに乗り継ぐホームが到着した向かい側だったのもラッキーだった 😉️。。結局は一番に割りを食った「こだま767号」の出発は遅れたが、下車した米原からは予定通り琵琶湖線快速・加古川行に乗り継ぐことができ、予定通りに目的地である安土駅に到着 。
それから駅北口一階にある観光案内所のロッカー(当時500円)に旅行バッグ一式を預け、安土城跡について情報を収集。加えて、案内所の人には安土城の東門跡や移築門について確認してみたが、なんとそれらの存在は初耳とのことで特に知っている以外の情報は得られず。え〜、地元の人間なのに知らないのか?と、なんか「灯台下暗し」の案内所だった 。
安土城跡へ向かう前に、ロータリーに建つ織田信長公像に挨拶する:
信長公と通りを挟んで向かい側にあるレンタサイクル屋でママチャリを5時間借りた(1,000円)。軽量タイプらしいが、普通のママチャリ。電動の場合、このレンタル時間だと+700円:
まず向かったのは県道R201沿いのドラッグストア。そこで数本のポカリを調達。そこから県道R2へ真っ直ぐ向かう農道を走って城跡へ。この道からだと左手に安土城跡、右手に観音寺城跡を拝むことができる:
今回、夏場の観音寺城跡攻めは回避して安土城跡を選択したのだが、こちらも暑くて大変だったので、どちらが正解かは分からない 。
こちらは安土城郭資料館に展示されていた安土城と観音寺城のジオラマ:
登城口兼券売所と、そこにあった見学ルートがこちら。安土城跡は国の特別史跡で入場料を支払う必要がある。また現在も傍らで発掘調査が行われているようで、公開されているのは本来の城域の一部のみ。たとえば大手道跡の石段を登って本丸跡と天主跡を巡り、摠見寺跡を経由して再び大手道跡へ戻ってくるコースでも、しっかり見て回ると往復1時間では全然足りない :
入場料(大人700円/当時)を払って大手道跡の石段を登る:
大手道沿いには家臣らの屋敷があったと云う。たとえば伝・羽柴秀吉邸跡は上段と下段の二段構えだったらしい:
大手道から七曲りに入るあたりから振り返って麓(大手門跡)を見下ろしたところ:
安土城築城の際に石材が足りなくて近隣の寺院などから石仏や墓石を集めて使用したことは知られている:
伝・織田信忠邸跡から本丸跡へ、更に尾根道の石段を登る:
尾根道の頂部は櫓門形式の黒金門が建っていた枡形虎口跡:
黒金門跡を過ぎた腰郭跡から更に櫓門跡を経て伝・二の丸跡へ向かう:
二の丸も上段と下段の二段構えと伝わる。上段には、現在は信長公本廟がある:
この御廟所は、本䏻寺の変の翌年に羽柴秀吉が織田一族や旧家臣らを集めて一周忌法要を行ったとされる場所で、信長遺愛の太刀や烏帽子、直垂《ヒタタレ》などが埋葬されたとも。また昨年は令和5(2023)年に御廟の門が真新しく改築された。
そして伝・本丸(本丸御殿)跡:
向かって右手が本丸御殿跡で、正面が本丸御殿から伸びた屋根付きの廊下であった本丸取付台跡。石段を登った左手上が天主台跡。
本丸跡奥の伝・三の丸石垣の石材には焼け焦げた跡が今も残る:
本丸取付台の石段と天主台へ向かう石段:
こちらは信長の館で展示されていた地上6階・地下1階の天主(想像)の模型:
実際の天主地階面(地下1階部分)、いわゆる穴蔵跡がこちら:
こちらは信長の館で観覧した天主最上部二層(5階と6階部分)の原寸大の復元:
さらに安土城郭資料館に展示されていた天主の分割模型(1/20):
天守台に上がって(現代の)琵琶湖を眺めると随分と遠くに見えたが、往時は城下まで琵琶湖だったらしい:
このあとは伝・本丸跡を下りて摠見寺跡方面へ向かう。摠見寺は安土城築城の際に城下にあった社寺を城内に移築したもの。本䏻寺の変後の焼失を免れたものの、江戸時代に本堂を初めとする主要な建造物を焼失した。現在残っているのは三重塔と仁王門(共に重要文化財)、そして裏門[g]明治時代に、城跡近くにある超光寺の山門に移築さている。こちらは後日、足を運んで見に行った 🙂️。:
そして摠見寺曲輪跡からの眺望。見えているのは西の湖。往時は、そのあたりまで琵琶湖だった:
こちらは城跡で見たその他のオブジェ:
これは宣教師が描いたとされる信長の肖像画(コピー)。実物は、この年のGWに攻めた天童陣屋跡ゆかりの天童織田藩の菩提寺にある:
最後は城跡で見かけたマンホール。刻印にある ANZUCCI の文字は、往時の宣教師による「安土」のポルトガル語表記。詳細は日本マンホール蓋学会の近江八幡市のマンホールを参照のこと:
と云うことで、この時のフォト集はこちら:
安土城攻め (フォト集)
2024年8月 信長の館と安土城郭資料館巡り (フォト集)
参照
↑a | 両県ともに人生初上陸 😉️。 |
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↑b | 発生当初は本土への上陸の可能性が出ていた。結局は上陸することはなかったが 🙂️。 |
↑c | 実際はスケジュールどおり全て攻めきることはできなかったのだが 😁️。 |
↑d | 【今日は何の日?】北海道大学の前身である札幌農学校が開校した日。浅間山が噴火し11人の犠牲者がでた日。 |
↑e | 収まって歩くとまた痙ると云った感じで、ホント下山するのもキツかったが、一応はレンタル時間もあったので堪えて下山した 😥️。 |
↑f | オマケに乗り継ぐホームが到着した向かい側だったのもラッキーだった 😉️。 |
↑g | 明治時代に、城跡近くにある超光寺の山門に移築さている。こちらは後日、足を運んで見に行った 🙂️。 |