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評価が二つ星

Cafe Pappelburg − where provides the expensive Home-Roasted Coffee.

記憶は定かではないが、その昔、東京都八王子市の城攻めを終えて帰宅する途中、国道R16沿いで西欧の古風な居館を見かけたが、最近になってそこがカフェであることを知った。それも人気あるお店らしく、店前にある駐車場の空き具合でその時の混雑具合がわかるらしい :$

で、令和5(2023)年の処暑《ショショ》の週末のこの日[a]巨人軍の王貞治選手が通算756号ホームランを打ち、Major リーグのハンク・アーロン選手の世界記録を塗り替えた日。、 R16沿いにあったとされる殿丸城《トノマル・ジョウ》跡の下調べ[b]主に駐車スペースの有無。の帰り、店前をのぞいてみたら丁度一台分の空があったので一休みがてら立ち寄ってみることにした :)

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パペルブルグ

こちらは R16側からみたところ。カフェの HomePage によると「中世南ドイツ騎士の館」をモチーフにした建物なのだとか:

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中世南ドイツ騎士の館がモチーフ

ただ、この周囲にはダンプが行き交うような産廃系のリサイクル業者が多いようで、正直なところ欧風な気分にしたれるような場所ではないのだが :X、逆にそんな場所に建っているから目立つのかもしれない :D

駐車場は開いていたが(予想していたとおり)店前には数組の待ち客が居た。ひとまず木製の丈夫そうな扉を開けて名前を書いて待つことにした。その時、建物内を眺めてみたが、店内は意外と広かった。豆の他にプリンやクッキーのようなものも展示販売していた。

それから店前をうろうろしてみた:

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窓に描かれた営業時間

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特に騎士とは関係ないようだ

騎士の館と云うより、木と草が豊かなただの古い居館を演出しただけな感じもしたが、各所にあった扉は確かに欧風だった:

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店前の大扉

さらに建物の壁面には満月と魔女が描かれていた他、トンボも紐でつるされていたが、これと騎士館との関係は不明:

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トンボ(レプリカ)が居た

へぇ〜、駐車場は店前の他にもあるんだねぇ[c]店頭前に7台分、テニスコート側に6台分 😮️。 :O

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店頭前に7台、隣の6台分あるらしい

そのうち名前を呼ばれたので店内へ入り、一人客と云うことでカウンター席に通された[d]待ち時間は15分ほどだった 😑️。。くどいけど、店内には騎士(Knight)の武具や鎧の類の展示は一切なかった:O

The first time と云うことで、分厚いメニューの中から選択したのはブレンド珈琲(ドリップ)とアップルパイ。自分が座っていた席がめちゃちゃクーラがキツくて、温かいものが欲しがっていたのかも。

店内では WiFi (pappel 5G)を利用できた8)

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Free Wifi @ Pappel

こちらがドリップ珈琲で一番安価だった Burg (ブルグ)。ブラジル産+メキシコ産+コロンビア産のブレンド。苦味が強いが酸味は少なめ:

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BURG(720円)

一番安価なブレンドで720円。毎日飲んでいるペットボトルコーヒーの4.5倍の値段である:O。しかしながらドリップ式だけあって香りが違う。安い方だけど美味しい8) 。結局、二杯も飲んでしまった。あとでレシートを見たら、二杯目以降は50%引きだった8)

アップルパイと一緒に飲むので砂糖やミルクは不要。そして20分位かかってできたアップルパイがこちら:

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Apple Pie(1,350円)

値段がすごかったので期待していたが、アップルが少なくて、パイを食べているだけだった :!。パイ自体は焼き立てなので暖かく、皿上のカラメルと一緒に頂くのだけれど、上面に乗っていたアップルが味気のない物体で、中に数切れのアップルがあったのが救いかも:

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見た目も味も期待はずれ🤬️

どこぞのクチコミのレビューではアップルパイは美味いとあったが、どうだろう。ホント、職人は客に美味しいものを食べさせたいと思っているのか不思議だった。

あと自分が座ったカウンター席のすぐ近くがトイレだったので、終始、人がうろうろしていた感じがした[e]イヤフォンしていてよかった😕️。:(

最後はトイレにある手洗い場の写真。ペダルを踏むとヤカンから水が出る仕組み:

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これも騎士と関係があるのだろうか?

思っていたよりも値段も味も、居館の雰囲気もだいぶ違っていたので、正直なところ、もう来ることはないかも[f]また運良く駐車できそうだったら考えるかも知れないけど 😐️。珈琲は値段分は美味しく感じれたが、それ以上の値段の珈琲を注文するだろうか疑問なところ。

パペルブルグ
東京都八王子市遣水530-1

参照

参照
a 巨人軍の王貞治選手が通算756号ホームランを打ち、Major リーグのハンク・アーロン選手の世界記録を塗り替えた日。
b 主に駐車スペースの有無。
c 店頭前に7台分、テニスコート側に6台分 😮️。
d 待ち時間は15分ほどだった 😑️。
e イヤフォンしていてよかった😕️。
f また運良く駐車できそうだったら考えるかも知れないけど 😐️

つぼ焼きいも・幸神 − This sweet is Hot? or Cold?

今年は令和5(2023)年のGW城攻めツアー2023は三泊四日で岐阜県を中心にいくつかの城攻めと古戦場跡巡りしてきた。

最終日の四日目は帰宅する前に岐阜市周辺にある城跡をいくつか攻めてきた。お昼を食べたあと、次の目的地である墨俣城跡へ。まず名鉄岐阜駅へ向かい、駅前のバス乗り場1から岐阜バスのおぶさ墨俣線(墨俣−おぶさ)・墨俣行へ乗車して、終点の墨俣で下車。ここから墨俣城跡までは、かって美濃路[a]江戸時代に東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結んだ脇往還。の宿場町であった墨俣宿跡を通って徒歩15分ほど。

但し、そこは城跡と云うほどの場所ではなく、豊臣秀吉が木下藤吉郎と呼ばれていた頃に織田信長の命で築いたと云う伝説[b]実際のところ『信長公記』《シンチョウコウキ》などの有力な史料には全く記述されていない 😮️。を、古文書を元に後世に伝えるために鉄筋コンクリート製の歴史資料館が建っているだけである。その資料館が城郭をイメージさせる天守閣を模していることから城跡と間違える人が多い :$一応、自分は資料館を観に行くと云う目的で行って来た次第[c]ただの時間つぶしとも云えるかも知れないが 😁️。せっかく岐阜へ来たので。 :P

資料館を堪能したあとは、最後の城攻めに向かうため墨俣のバス停へ移動。このバス停でただ待っているのもなんなので、偶然見つけた焼き芋屋へ:

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岐阜元祖・つぼ焼きいも・幸神

この日も暑かったので初めは焼き芋のペーストが載ったソフトクリームと思ったが、「つぼ焼き」と「焼き芋」の関係がよくわからなかったので、お店の人に話を聞いていたら「つぼ焼き芋」の冷製があるとのことで、そちらを購入した(350円)。あるいは、一昨日の関ヶ原古戦場巡りの帰りに見た焼き芋の自販機のことが頭の中に残っていたからかも :D

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冷やし・つぼ焼き芋(350円)

こんな感じでセロファンに包まれた冷たい焼き芋ながら、持っているだけでも皮の下の柔らかさが指に伝わってきた。セロファン半分を引っ張ってとってから頂く。皮をムクのは面倒なので、そのままパクついた:

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甘くて美味しい芋

柔らかくて、ねっとりとして、甘みがあって、冷たくて、意外といけると思った。皮の苦味は全く気にならず、むしろあった方が食べやすいかも。片手で食べれるのもいい。ベタつかないし。

壺の中にある芋が炭の熱で時間をかけて焼かれることでデンプンから糖質にゆっくりと変化していくところが、このつぼ焼きの原理らしい。電気釜より炭火の釜の方がお米が美味しくなるのと似たようなものだろうか:

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「つぼ焼き」方式

つぼ焼きいも・岐阜総本舗・幸神(中乃神本店)
岐阜県大垣市墨俣町墨俣472


ここからはオマケ。

まずは、現代の「墨俣一夜城」こと大垣市墨俣歴史資料館を犀川ごしに眺めたところ:

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大垣市墨俣歴史資料館と犀川

「太閤出世橋」なる橋を渡って資料館へ。欄干には秀吉の馬印にも使われた瓢箪のオブジェが:

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大垣市墨俣歴史資料館と瓢箪

さらに木下藤吉郎秀吉の像がお出迎え:

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木下藤吉郎秀吉の像

資料館は有料(大人200円/当時)で、最上階は展望台になっていたが、それほど眺めが良いわけではなかった :X

今回のツアーでは、いろいろな方角から岐阜城を眺めることができた:

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今回のツアーではお馴染みの構図

バス停はこちらの方向。バス停と資料館との間に墨俣宿跡がある:

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展望台から眺めた墨俣宿跡あたり

資料館に展示されていた墨俣宿のジオラマ。右手下がこの資料館が建つ場所で、さらに奥には伊吹山がそびえる:

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墨俣宿周辺のジオラマ

ここが墨俣宿跡。右隣の矢倉風の建物はトイレ:

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墨俣宿跡

墨俣宿本陣跡近くには、美濃路墨俣宿渡船常夜燈が復元されていた:

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渡船常夜燈(復元)

墨俣宿跡からバス停へ行く間は寺町界隈と呼ばれ、めちゃくちゃ寺院が隣接しているエリア:

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寺町界隈

たとえば廣専寺。右手上が鐘楼:

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廣専寺

その目の前が本正寺。これは脇本陣の門が山門になっていた:

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本正寺の山門は墨俣脇本陣の門

門のすぐ脇に立派な鐘楼:

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本正寺の鐘楼

光受寺。左上が鐘楼:

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光受寺

満福寺。右手が鐘楼:

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満福寺

といった具合に鐘楼持ちの寺院が密集している。これって除夜の鐘の時は大合唱ならぬ大梵鐘つきなのだろうか。もしかしたら108回を毎年分担するとか、あるいは27回ずつ順番に鐘くとか? :D

最後は、愛知県犬山にある楽田城跡。こちらは城址の碑と説明板が建っていた:

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楽田城址の碑

以上でGW城攻めツアー2023は終了で、無事に帰宅。三週間ほど経過しているが特に体調不良はなし。

と云うことで、この時のフォト集はこちら:
See Also墨俣城攻め (フォト集)
See Also楽田城攻め (フォト集)

参照

参照
a 江戸時代に東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結んだ脇往還。
b 実際のところ『信長公記』《シンチョウコウキ》などの有力な史料には全く記述されていない 😮️。
c ただの時間つぶしとも云えるかも知れないが 😁️。せっかく岐阜へ来たので。

中華料理 萬新菜館 − A Local Chinese Eatery near the Kanagawa Sta.

昨日は、令和5(2023)年の清明の候過ぎの週末に神奈川県横浜市にあった城跡を攻めてきた。この日は天気予報が大ハズレの日で、まったく晴れ間のないぐずついた天気。前の日の予報では晴天だったのに〜 :(

この城跡、遺構は全くないが高低差の激しい公園とその界隈を歩き回ったこともあって[a]このあたりはさすが横浜。坂が多い 😞️。、予定していたコースを巡り終わった頃にはお腹はペコペコ :D。そして最寄り駅である京浜急行・神奈川駅周辺のお店[b]COVID-19 の感染蔓延が少なくなってきたこの時期は居酒屋系、カレー系などがお店が普通に営業していた。を一通り見たあと、今回は町中華をいただくことに:

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ひと目で中華屋とわかる朱色の看板

手を消毒して店内に入ると、意外と奥行きのある店のようで、既に奥の方の丸テーブルには複数人の先客が食事していた。それに対して店員は一人[c]どうやら週末は夫婦二人だけのようだ。で忙しく動き回っていたが、そのうち目があって自分が立っていた傍で空いていたテーブル席を指示された。と云っても、その他のテーブル席は食べ終わった食器が放置された状態だったので、実際のところは選択肢はなかったのだが :|

席についてテーブルの上にあるややベタついたメニューを手に取ってみると、町中華によくあるランチメニュー[d]酢豚とか青椒肉絲とかのメインにサイドメニューが数品ついて、御飯+中華スープと杏仁豆腐がつく、ホントどこにでもある代わり映えのない定食 🤐️。の他に一品料理と飲み物メニューだった。ここ「横浜」はある意味、中華な街だと思っていたので、町中華としてもメニューの内容は今ひとつって感じ :X

それから壁に貼ってあったメニューに目を移していた時に気になったのが「あんかけあさり焼きそば」(900円)と「あさり炒飯」(900円)。結局、写真からはイマイチ細かい具材が分からなかった焼きそばを注文することにした。あと青島ビール(480円)も注文。ビールは先か後か聞かれたので先にしてもらった:

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「チンタオ」ビール(480円)

ビールが出てきたあとしばらくして、忘れていたかのようにピーナッツの小皿が出てきた。もうビールは飲み干していたが :O

あと注文を受けた店員が厨房に入って料理人に伝えていた中国語が(かたことに)耳に入ってきたのだが、(料理人)「やきそば? めんどうだなぁ」(店員)「ただあんかけを麺の上にかけるだけでしょ。簡単よ。」的な会話だった。たぶん :|

で、しばらくして出てきたのがコレ:

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「あんかけあさり焼きそば」(900円)

小さなアサリがいくつか入った中華丼の餡が堅焼きそばの上に無造作にかかっていた。やけどはしなかったが餡は激アツ。味はごくごく普通だが、どちらかと云うと今ひとつ。玉になっていなかったのが救いか。麺の量は多めだったけど、やっぱり腹にたまらなかった。あと、物価高のこの時期だからか「うずらの卵」は入っていなかったなぁ。練り辛子も。

結局、この店を出て、帰りにコメダ珈琲で珈琲二杯とケーキを食べてしまったっけ[e]実のところ突然の雨に遭遇したので雨宿りが目的だったが。 :O

萬新菜館(旧・萬珍菜館)
神奈川県横浜市神奈川区青木町1-7 グランドメゾン青木橋1F


ここからはオマケ。

この町中華屋があるのは旧・東海道沿い。駅近くには江戸時代の「神奈川宿」の説明板が建っていた:

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「神奈川宿歴史の道」

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宮前商店街通りは旧・東海道

近くにあったマンホール風のプレートがいかにも「ハマっぽい」デザイン:

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横浜旧東海道

実は、お昼でこの町中華屋と迷ったのが、こちら「オカモト★タンメン。」なる店。行列していたので今回は諦めた:

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オカモト★タンメン。

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メニューはそれほどそそらなかったが

店の外に貼ってあったメニューを見て正直そそられなかったが[f]自分がタンメンを好まない方だからだと思うが 🤐️😞️。、それでも行列だったのはタンメンよりもスープの方が美味いのか、あるいはセットメニューがお得なのか :|

個人的に食いついたのは、このタンメン屋の前に置かれていた「仙台直送・牛たん・焼肉の自販機」なるもの:

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「仙台牛たん」の自販機

このタンメン屋の眼の前にあるのが由緒ある洲崎大神。鎌倉幕府公認の神社。境内にそびえていた欅は鎌倉時代からではないと思うが見事であった:

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洲崎大神

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境内にあった大木

国道R1を挟んで駅の西側にある本覚寺は、幕末に開港した横浜港を眼下に望む、この場所に米国領事館が建っていた跡地らしい:

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「史蹟・アメリカ領事館跡」

上の写真の中央奥に見える高台が幸ケ谷公園(権現山の一部)。

その公園を散策中に目撃したカラス。めちゃくちゃデカかったが、これはやはり美味しい中華の残りものを食べているからだろうか :D

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カラス@幸ケ谷公園

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でかいカラス

最後は、COVID-19が感染蔓延する直前に修復が完了したと云う千代田区の情報を知って、ここ横浜へ来る前に攻めてきた江戸城の常磐御門跡であるが、なんと再び工事によって枡形門跡への立ち入りは不可であった :/

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また工事かよ(拡大版)

現地へ行かないと現在の状況が分からない、いつ工事が終わるのか分からないのは千代田区ではいつものことらしい。ここにあった説明板に書いてあった工事期間は全てバラバラ。

この千代田区の対応、渋沢栄一扇も呆れているぜ:

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「渋沢栄一 像」朝倉文夫

と云うことで、この時のフォト集はこちら:

See Also江戸城攻め(9) (フォト集)
See Also権現山城攻め (フォト集)

参照

参照
a このあたりはさすが横浜。坂が多い 😞️。
b COVID-19 の感染蔓延が少なくなってきたこの時期は居酒屋系、カレー系などがお店が普通に営業していた。
c どうやら週末は夫婦二人だけのようだ。
d 酢豚とか青椒肉絲とかのメインにサイドメニューが数品ついて、御飯+中華スープと杏仁豆腐がつく、ホントどこにでもある代わり映えのない定食 🤐️。
e 実のところ突然の雨に遭遇したので雨宿りが目的だったが。
f 自分がタンメンを好まない方だからだと思うが 🤐️😞️。

生そば 柳屋 − A trivial set of SOBA and box lunch with Tempura.

先々週は、令和5(2023)年の建国記念の日[a]日本の初代天皇である神武天皇の即位日で、旧暦だと紀元前660年1月1日。に六年前に攻めた城跡を再び巡ってきた。六年前は事情 :(があって[b]詳細は、城攻め訪問記を参照のこと 😥️きちんと攻めきれていなかったのと、関係の深い城跡が隣駅にあることを知ったので再訪した次第。

しかしながら再訪した前日の関東地方は大雪で大荒れの天候で、城攻め当日は雪が残っていた公園を歩き回る羽目に :|。ただ当日は打って変わって快晴となった上に、午後から暖かくなってくれたのが救いだった :)

昼過ぎに城攻めを終えたので、何か食べてから帰ろうと思ったのだけれど、最寄り駅に適当な店がなかったので、帰路の途中でもあり御食事処の選択肢が多い久喜駅へ移動。昼どきと云うことで、事前にいくつか決めておいた店へ順に行ってみることした。まずは駅西口にある蕎麦屋へ。暖簾越しに覗いてみると空いていたので、そのまま店内へ:

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柳屋・生そば

一応、注文するものも決めておいたのだが、テーブル上のメニューを眺めて変更。少々グレードをあげて天重のセットメニューにした:

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天重セットもりそば(1,300円)

ザルの上にのっていない蕎麦そのものは普通。その分、みずみずしかったが、あまり香りがしなかった。久しぶりの天重だけど、これまた普通。いかの天ぷらは硬かった。来る前に決めておいた「いか天丼」のセットしなくて良かったなぁと。みそ汁はあってもなくても同じ。味が薄かった〜。
ふm,至ってどこにでもある「町」蕎麦屋の天重セットだった :|。でも店員さんのサービスは Good!;)。お茶や蕎麦湯を出すタイミングはバッチリだった。

生そば・柳屋
埼玉県久喜市久喜中央1丁目1-1


ここからはオマケ。

この日の午前中に攻めた花崎城跡。現在は花崎城址公園。前日に降った大雪が気になったが、実際には心配するほどではなかった:

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花崎城址公園

城址公園ともあって、遊具なんかがある児童公園よりかなり広い。こんな感じで城跡ぽい土塁や堀が復元されているし:

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堀跡

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土塁跡

ここは東武伊勢崎線が横断する城跡。もちろん線路内には立ち入ることは不可;

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特急りょうもう

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特急りょうもう

でもなぜか公園が別々になっていた。こちらは線路の北側にある花崎城跡公園:

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花崎城跡公園

この城跡の最寄り駅である花崎駅からお隣の鷲宮駅へ移動。駅北口から鷲宮神社へ向かった:

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宮前橋

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武蔵國・鷲宮神社

境内の奥にある拝殿。今年、銅板屋根葺き替えが行われるらしい:

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拝殿

境内には鳥小屋もあって、ちゃんと鶏が居た:

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午前中の花崎城の本城にあたる粟原城(鷲宮城)跡へ向かう前に、宮前にあった茶屋で一服した:

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大酉茶屋 田々

甘酒好きなので、その幟を見て入ることにした:D。思ったほど混んでいなかったし。

こちらが甘酒セット(税込み410円)。芋ようかんかどら焼きを選択できる:

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甘酒セット(410円)

暖かい甘酒は、麹の味が前面にでて、やや酸っぱ味があった。ついでに、どら焼きも暖かくして欲しかったが、この地方ではそんな習慣はないようだ :/

このあと鷲宮神社と青毛堀川と東武伊勢崎線を挟んで西側にある粟原城跡を攻めてきた。こちらは東武伊勢崎線。この先は花崎駅:

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東武伊勢崎線

青毛堀川と東武伊勢崎線:

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桜並木と東武伊勢崎線

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青毛堀川と踏切

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also花崎城攻め (2) (フォト集)
See Also鷲宮神社と粟原城攻め (フォト集)

参照

参照
a 日本の初代天皇である神武天皇の即位日で、旧暦だと紀元前660年1月1日。
b 詳細は、城攻め訪問記を参照のこと 😥️

鎌倉散策 − The 13 Remains for the SHOGUN.

先々週は令和4(2022)年の立冬を過ぎたよく晴れた週末[a]洋服記念日。平成30(2018)年には大谷翔平がアメリカンリーグ最優秀新人選手賞に選出された日。ジョン万次郎が亡くなった日。、横浜への用事の前に鎌倉まで足をのばして散策してきた。鎌倉へは太田道灌公の墓所を巡って以来七年ぶり。その時は鎌倉駅西口から源氏山公園あたりを目指していたが、今回は自身初の鶴岡八幡宮界隈へ。と云っても単に(時間つぶしで)大河ドラマ館へ行きたかっただけなのだけど :D:

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鶴岡八幡宮

大河ドラマ館は八幡宮境内にあるようなので、今回は駅東口へ。時刻は午前10時半近くで、既に有名な小町通りは大勢の観光客で混雑していた。そして若宮大路《ワカミヤオオジ》(県道R21)の二の鳥居から参道へ:

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二の鳥居

参道を歩いて八幡宮前から境内へ向かう。行き交う外国人観光客が多いこと多いこと:

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若宮大路沿いの参道

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八幡宮前の三の鳥居

八幡宮前すぐの太鼓橋から眺めた本宮(上宮):

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太鼓橋ごしに

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眺めた

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本宮

左右にある橋を渡って境内へ入るが、往時は中央にある太鼓橋だけで、八百数十年前の太鼓橋は朱塗りの木造橋だったらしい。現在は昭和の時代に架け直されたものだが通行不可。代わりに、その左右にある橋を使う。そして、その周囲の松の木も見事だった:

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太鼓橋

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見事な松

太鼓橋を渡ると源氏池と平家池(源平池)がある。夏は蓮で水面《ミナモ》が覆われるらしい:

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平家池

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源氏池

源氏池に浮かぶ旗上弁財天《ハタアゲ・ベンザイテン》脇にある政子石と呼ばれる陰陽石《オンミョウイシ》:

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政子石

目的地のドラマ館は源平池の先に建つ鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム:

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「鎌倉殿の13人・大河ドラマ館」

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鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム

実際にミュージアム前まで行ってみると、これまたすごい行列 :O。ドラマの人気ぶりがよく分かるが、建物に入るだけでも時間がかかりそうだったので、今回はいさぎよく諦めた[b]さらに順番待ちのキツキツな観覧になりそうだったし、単に時間つぶしのつもりで来たので諦めも早い 😉️。。代わりに 、ここ八幡宮界隈を散策することにした。

参道へ戻って本宮を目指して北上すると出現するのが舞殿(下拝殿):

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舞殿

ここは源義経の妾・静御前が舞った若宮廻廊跡らしい。このあたりは七五三の家族連れで多い賑わいだった。

石段を上がった上に建つ楼門が重要文化財の本宮(上宮):

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本宮(上宮)

治承4(1180)年に源頼朝が、源氏の氏神・八幡神[c]平安時代の河内源氏二代目の棟梁・源頼義が京の石清水八幡宮を勧請したもの。頼義の嫡男が八幡太郎義家、次男が賀茂次郎義綱、三男が新羅三郎義光。を由比ヶ浜《ユイガハマ》から遷座して建てたのが①鶴岡八幡宮。戦国時代は天文9(1540)年に大永の乱で焼失した社殿を北條氏綱が再建、江戸時代は文政11(1828)年に十一代将軍・家斉《イエナリ》が本殿を造営、大正12(1923)年の関東大震災で多くの建造物が倒壊したが、昭和の時代初めに復興された。境内は国指定史跡。

 本宮前の石段から若宮大路方面の眺め:

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本宮から若宮大路方面の眺め(拡大版)

境内をいろいろ散策したあとは人気ドラマ[d]自分は途中から見始めたくち。ドラマの序章はよく知らない🤐️。にあやかり、ここ鶴岡八幡宮を含む鎌倉殿に関係する13ヶ所の遺構や名跡を巡ってきた。

こちらが散策中に入手した『ヨリトモくんと巡ろう!鎌倉大蔵散歩地図』(大蔵頼朝商店会[e]「現在地」が示す桜道沿いにあった案内板。脇にある箱からも色刷りの地図を入手できた。

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この地図を片手に巡ってきた(拡大版)

まずは八幡宮近くある宝戒寺《ホウカイジ》へ。境内参観は有料で大人300円(当時)

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金龍山 釈満院 円頓宝戒寺

境内は当時「小町邸」と呼ばれていた北條執権邸跡らしい:

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「北條執権邸舊蹟」の碑

石畳の門前を進んで境内へ。正面にある本堂(堂内は撮影不可)。本堂屋根の棟には北條家の三つ鱗紋が掲げられていた:

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本堂

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三つ鱗紋

その昔、執権の北條時政が江の島弁財天を参詣した時、二十丈もある大蛇からお告げを受け、大蛇が海中に姿を消した後に残っていた三枚の鱗を手に入れたが、それを竜の鱗として北條家の家紋にしたと伝わる。

本堂脇にある德崇大権現堂《トクソウ・ダイゴンゲン・ドウ》。鎌倉幕府第十四代執権・北條高時を祀る:

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德崇大権現堂

鐘楼と三つ鱗紋が刻まれた梵鐘:

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鐘楼

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梵鐘

このあとは宝戒寺を出て県道R204(金沢街道)を歩いて鎌倉宮を目指すことに。

こちら清泉《セイセン》小学校近くにあった③大蔵幕府舊跡の碑

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「大蔵幕府舊跡」の碑

鎌倉入りした頼朝は大蔵の地に御所を構え、頼朝・頼家・実朝の三代46年間、ここで政治を行い、まさに鎌倉幕府の中心であったと云う。政所跡に小学校が建っているが、学校の塀には小学校史跡委員会自作の説明板がたくさん貼られていて、読んでいて勉強になった 8)

さらに進むと荏柄天神社《エガラ・テンジンシャ》がある[f]向こう側に長い階段が見えたのと時間の都合で境内は行かず 🤐️。

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荏柄天神社

鎌倉幕府鬼門の守護する社で、谷を挟んで西側の丘陵に法華堂跡がある。また、現在は菅原道真公が御祭神となっており、京都の「北野天満宮」と福岡の「太宰府天満宮」とともに日本三大天神の一つに数えられている。

そして住宅街の中を歩いた先にあるのが鎌倉宮。後醍醐天皇の皇子・護良親王《モリナガ・シンノウ》が御祭神:

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鎌倉宮

親王は後醍醐天皇の鎌倉倒幕に呼応して幕府軍と戦い、幕府滅亡後は天皇親政を復活させた「建武の新政」を成し遂げ、征夷大将軍に任じられた。しかし足利尊氏と対立し、ここ鎌倉宮社殿裏が親王最後の地と伝えられる。

明治天皇が護良親王を祀るために建立したので、社殿の鬼瓦には皇室の象徴である菊花紋《キクカモン》が掲げられていた:

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菊花紋

このあとは八幡宮方面へ戻って法華堂跡を目指した。

こちらは⑥東御門《ヒガシミカド》跡の碑。大蔵御所の東門にあたる:

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「東御門」の碑

そして⑦法華堂跡の碑

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「法華堂跡」の碑

大蔵御所の北隅にあり、頼朝の持仏を祀っていた御堂で、頼朝死後はその廟所となる。しかし宝治元(1247)年の宝治の乱で三浦泰村[g]三浦義村の次男。が立て篭もり、一族郎党が自刃した場所。明治時代に白旗神社と改められた。

こちらが現在の⑧白旗神社。御祭神は源頼朝公:

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白旗神社

もともとは、源頼朝が石橋山の合戦にあたって髪の中に納めて戦に挑んだと云う小さな観音像が安置されていた持仏堂[h]「持仏」とは守り本尊として、常に身近において侵攻する仏像のこと。だった。正治元(1199)年に頼朝が亡くなったあとは、ここに葬り法華堂と呼ばれ、命日には歴代将軍や御家人らが参詣した。現在の社殿は昭和の時代に再建されたもの。

そして、頼朝の享年と同じ53段の石段を登って江戸時代に建立された源頼朝の供養塔へ:

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白旗神社奥の丘陵上へ

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源頼朝の家紋「笹竜胆」

こちらが石段を上がった先にある⑨源頼朝の供養塔

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源頼朝公の供養塔

この供養塔が建つ平場は頼朝公の法華堂(墳墓堂)跡で、幕府滅亡後も御堂は存在していたが、のちに廃絶して堂舎が無くなった。そして江戸時代に源氏の子孫を自称する薩摩藩八代藩主で蘭学者でもある島津重豪《シマヅ・シゲヒデ》が高さ186cmの五層の石塔を再建したと云う。

源頼朝は、治承4(1180)年に平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2(1185)年に平家を滅ぼし、鎌倉幕府を大蔵の地に開いた。建久3(1192)年に朝廷から征夷大将軍に任じられ、約680年続く武家政権を興した。正治元(1199)年に死去。享年53。

このあとは石段を下りて、この丘陵の東側にあるもう一つの墓域へ向かう:

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この上に北條義時公・大江広元公らの墓所がある

この石段の上には鎌倉幕府執権・北條義時公の墓所の他、大江広元公らの墓所がある。

こちらが⑩伝・北條義時の墓所の標柱

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「史跡・法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓」の碑

ここが北條義時の法華堂(墳墓堂)跡らしい。あくまでも鎌倉幕府の公式文書とされる『吾妻鏡《アヅマカガミ》』の「頼朝の法華堂の東の山の上を墳墓の地となす」との記述に従ったもので、墓石も供養塔も無い。

鎌倉幕府の二代執権で、得宗家二代当主である北條義時は源頼朝ら三代将軍に仕え、承久の乱では後鳥羽上皇ら朝廷側の倒幕戦に勝利する。元仁元(1224)年に急死。享年62。令和4(2022)年の大河ドラマの主人公。

ここから少し先には三浦一族のやぐら(横穴式供養塔)がある:

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三浦氏が供養されているやぐら

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三浦泰時ら一族が眠る墓所

宝治元(1247)年の宝治の乱で、五代執権・北條時頼に敗れ自刃した三浦泰村の一族郎党が眠っているとされる。

そして奥にある左手の石段を登って大江広元公らの墓所へ。ちなみに右手の石段は島津忠久公の墓所:

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大江広元らの墓所へ続く石段

こちらが⑪大江広元のやぐら(墓所)

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大江広元公のやぐら

鎌倉幕府の懐刀《フトコロガタナ》とも云われ、幕府政所初代別当を務めた大江広元は、執権の北條義時を上回る官位を得ており、名目的には将軍に次ぐナンバー2の存在として遇されていた。嘉禄元(1225)年に死去。享年78。

公の墓所の隣には毛利(大江)季光《モウリ・スエミツ》の墓所がある

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毛利季光公のやぐら

毛利季光は広元の四男で、相模国毛利荘[i]現在の神奈川県厚木市。を領し毛利を名乗っていた。その子孫が恩賞として与えらた安芸国吉田荘[j]現在の広島県安芸高田市。を相続して戦国大名の毛利氏へ継承されることから、季光は毛利家の祖と云われる。彼の妻は、三浦泰村の妹であり、宝治元(1247)年の宝治の乱では義兄を見捨てることを良しとせず、共に幕府軍と戦い、最後は法華堂で自刃した。享年46。このとき多くの郎党もあとを追ったが、唯一残った四男・経光《ツネミツ》の子孫が毛利元就である。

二人の墓所は、江戸時代に長州藩の毛利氏が祖先を顕彰するために整備したものと云われており、墓所入口にある燈籠には毛利家の一文字三星紋があしらわれていた:

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大江広元は安芸毛利家の祖

さらに隣の石段上には薩摩島津氏の祖とされる幕府御家人の島津忠久《シマヅ・タダヒサ》の墓所がある:

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島津忠久公のやぐら(墓所)

忠久は、縁者である比企能員《ヒキ・ヨシカズ》の変に連座していた疑いから本領の大隅国・薩摩国・日向国の守護職を没収されたが、のちに御家人として復帰し、和田義盛の乱では幕府側について功をあげた。嘉禄3(1227)年に病死。享年49。公の墓所も島津重豪により江戸時代に建立されたもの。

このあとは再び八幡宮方面へ移動。これは、その途中に建っていた⑫西御門《ニシミカド》跡の碑。大蔵御所の西門にあたる:

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「西御門」の碑

そして最後の遺構は、八幡宮東門近くにある⑬畠山重忠邸址の碑

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「畠山重忠邸趾」の碑

重忠は初めは平氏の郎党であったが、のちに源頼朝に帰伏した。そして鎌倉入り、富士川の戦いでは先陣を務め、宇治川や一ノ谷合戦、あるいは奥州藤原氏討伐などで抜群の手柄をたてた。その後も頼朝の信頼厚く、坂東武者の中心的人物として、そして鎌倉幕府創業の功臣として重きをなした御仁。大蔵御所近くに屋敷を与えられたのも納得である。

こんな感じで、やや強引に大河ドラマのタイトルを文字って鎌倉殿に関係する13ヶ所の遺構と、八幡宮境内をぶらぶらしてきたが、あとで調べてみると他にもいろいろ史跡があるようだし大河ドラマ館にも行ってみたいので、機会あれば再訪したい。

と云うことで、この時のフォト集はこちら:

See Also2022年11月 鎌倉散策 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 洋服記念日。平成30(2018)年には大谷翔平がアメリカンリーグ最優秀新人選手賞に選出された日。ジョン万次郎が亡くなった日。
b さらに順番待ちのキツキツな観覧になりそうだったし、単に時間つぶしのつもりで来たので諦めも早い 😉️。
c 平安時代の河内源氏二代目の棟梁・源頼義が京の石清水八幡宮を勧請したもの。頼義の嫡男が八幡太郎義家、次男が賀茂次郎義綱、三男が新羅三郎義光。
d 自分は途中から見始めたくち。ドラマの序章はよく知らない🤐️。
e 「現在地」が示す桜道沿いにあった案内板。脇にある箱からも色刷りの地図を入手できた。
f 向こう側に長い階段が見えたのと時間の都合で境内は行かず 🤐️。
g 三浦義村の次男。
h 「持仏」とは守り本尊として、常に身近において侵攻する仏像のこと。
i 現在の神奈川県厚木市。
j 現在の広島県安芸高田市。