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だるま八ラーメン − A Ramen Shop where is in front of the Ōmihachiman Sta.

先々月は令和6(2024)年のお盆休みは滋賀県と三重県で4泊5日の城攻めツアーへ行って来た[a]両県ともに人生初上陸 😉️。。今回、事前に調べてみると攻めてみたい城跡がいろいろ出てきた上に、直前に台風7号が発生[b]発生当初は本土への上陸の可能性が出ていた。結局は上陸することはなかったが 🙂️。したりしてスケジュールを組むのに苦労したが、何とか 8 つの城攻めに絞ることができた[c]実際はスケジュールどおり全て攻めきることはできなかったのだが 😁️。

三日目[d]【今日は何の日?】盆の送り火(本来は旧暦だが、現代は新暦のこの日に先祖の御霊を送り出す)。Elvis Aron Presley が死去した日(享年42)。の午前中は近江八幡市にある近江八幡山城跡を攻めてきた。まずはロープウェイで八幡山を登り、山頂にある城跡を巡ってから、ロープウェイで下山して麓の八幡公園内にある豊臣秀次居館跡を巡った。この日も朝から猛暑日でたまらなく暑かったが、近江八幡駅へ戻るバス待ちの間は、少しでも涼みたいので八幡堀沿いを散策してきたものの、暑くて余計に体力を使い減らした感じ :O

午後は長浜まで移動する予定だったので、駅前で一番に目を引いたラーメン屋へ[e]この日は勝手にラーメンの日にした。近江八幡市と長浜市、そして彦根市城のラーメン屋で胃袋をつないでいく計画だった 😁️。

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だるま八ラーメンの店前

ドアを開けて入った先は奥にもドアがある待合室を兼ねた玄関口になっていて、先客2人がベンチに座っていた。ここで、一般的によくある順番待ちで名前を記すようなものは無く、見たままの暗黙の順番に従ってベンチの末端に座った。さらにメニューの類も置いてなかったので、一旦外へ出て店前に掲げられていたメニューを眺めてきた。そして食べ終えたのであろう客と入れ違いに、再び玄関口へ戻り、先客2人が居なくなった玄関口のベンチの先端に坐り直して呼ばれるのを待った[f]玄関口に居た先客が店内に入った時に俺は居なかったタイミングなので、次に呼ばれるのか正直なところ不安だったが 😅️。

数分後、奥のドアが開き、店員に促されて店内へ。玄関口からはドアに遮られて店内を伺えなかったが、既にカウンター席とテーブル席が満席。空いているとこは大きな長テーブルがある奥座敷しかなく、一人にはもったいないほど広いテーブル席に案内された :)

さすが駅前のラーメン屋。席も多く(全35席)昼時は満席。ちょっと期待できそうなこんなお店では基本のメニューから選択すべしと云うことで[g]あくまでも個人的なルール 😁️。、店名を冠した「だるま八ラーメン」醤油とんこつ(980円)と餃子6ヶ(290円)を注文した :)

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だるま八ラーメン・醤油とんこつ(980円)

見てのとおり、Default としては意外とトッピングが豪華だった :)。豚バラのチャーシュー4枚と半熟卵2切れと云う主役級のトッピングの他にネギ、すりおろしのニンニク、キムチ、そして焼き海苔が添えられていた。背脂が浮ぶ豚骨の出汁をベースに醤油ダレで味付けしたスープの中には細麺が隠れていた。特に指定しなかった麺の固さは好みの硬め。少々、塩っぱかったが、暑くて汗をかいていることもあって嫌味にはならなかった。

パリパリした Shell を持った餃子は至って普通。餃子が6ヶでこの値段なので注文も多いのだろう、やや残り脂で焦げ目が目立ったが、中の餡はフンワリ、野菜がメインだった。本当は酸コショウで頂きたかったが、コショウは置いていなかった[h]関西だから?🤔️

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餃子(290円)

自分が食べている間も客の出入りがあり、この奥座敷にも客があがりはじめところで店を出ることに。やや塩っぱめのスープを飲み干してしっかりエネルギーを補給できたので、このあとは長浜まで移動しながら身体を休め、復興天守よりも城下町を歩き回る予定だった[i]個人的に海洋堂Musiumにも立ち寄る予定 😁️。

巷のラーメンDBase のエントリはこちら

だるま八《ダルマヤ》ラーメン
滋賀県近江八幡市鷹飼町1494


ここからはオマケ。

この日は近江八幡駅北口から近江鉄道バスに乗って八幡堀(大杉町)八幡山ロープウェー口で下車。八幡山ロープウェーに乗って八幡山の山頂へ:

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八幡山ロープウェー

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八幡山ロープウェー

ロープウェイは5分ほどで山頂にある八幡城址駅に到着:

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八幡山ロープウェー

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八幡城址駅

八幡城址駅に掲げられていた名城シリーズ157番目の認定証:

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日本城郭協会認定の続日本百名城#157

八幡城址駅は近江八幡城の二の丸跡で、駅を出た直ぐ目の前に石垣が出現する:

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二の丸石垣

二の丸跡にある展望館は1Fは資料館、2Fは展望台。この城跡、なぜかハートマークの飾りが多かった[j]あとで調べてみると八幡山城址は「恋人の聖地」に指定されていた 🙄️。

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展望館の展望台のハートマーク

こちらは展望台から眺めた安土城跡と観音寺城跡方面の眺め:

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山頂展望館からの眺め(拡大版)

二の丸跡には他にも遊歩道が風鈴プロムナード(リンクは PDF)として彩られていた:

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風鈴プロムナード

二の丸跡には石垣がたくさん残っていた:

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二の丸石垣

西の丸跡からの眺め(パノラマ):

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西の丸跡からの眺め(パノラマ)

さらにこの郭の南側にある出丸跡へ。栗を栽培中だった:

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出丸跡

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栗を栽培中です

ちなみに麓から出丸跡を見上げると、現存の石垣を眺めることができる:

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出丸跡(拡大版)

このような場所に築かれた郭なので、もちろん京方面の眺めが良かった。こちらは比叡山(標高848m)や坂本城跡方面:

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正面が比叡山(拡大版)

琵琶湖とその奥にそびえる比良山地《ヒラサンチ》:

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琵琶湖西岸に連なる比良山地(拡大版)

北の丸跡を経由して本丸跡へ。こちらは本丸石垣:

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本丸石垣

本丸跡に建つ村雲瑞龍寺の山門と御神木:

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御神木

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瑞龍寺門跡に建つ山門

往時の城主で関白・豊臣秀次の生母・瑞龍寺殿が秀次の菩提を弔うために建立した瑞龍寺境内では、いい感じで昼寝していた猫に遭遇した:

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昼寝中の猫

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昼寝中の猫

初め見た時、暑くてお亡くなりになったのかと驚いたが、寝返りをうっていたので生存を確認できた。この日は何か良いことがあったのだろうか :D

城主気分で城跡を巡ったあとは(登山道もあるようだが)再びロープウェーに乗って下山した:

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八幡山ロープウェー

麓へ降りると一層のこと暑さを感じたが、このまま歩いて秀次公居館跡がある八幡公園へ。こちらは園内に建っていた従一位・左大臣・関白の秀次公像:

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豊臣秀次卿像

八幡公園の隣が秀次公の居館跡。段郭跡の上段あたりに残る石垣をみることができた:

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居館跡の石垣

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居館跡の石垣

段郭状に石垣を見ることができた:

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居館跡の石垣

居館の大手道跡:

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大手道跡

そして八幡公園をあとにしてバス停へ向かう途中、八幡堀沿いを歩いて城下町をぶらりしてきた。

八幡堀と近江八幡城下町

八幡公園から近江鉄道バスのバス停へ向かいながら八幡堀と城下町の一部をほんの少しだけ散策してきた:

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八幡山全景と八幡堀(拡大版)

秀次が八幡山城を築いた際に城下町を整備し、琵琶湖から水を引いて八幡堀を築いた。城を守る水濠でありながら、城下町を横断する水路は琵琶湖を介して人や物資の往来を活性化し、お金や情報が集まる城下を繁栄させたと云う。現在、全長4㎞に及ぶ八幡堀は、昭和の時代に不法投棄により水質汚濁などで公害源となったが、きれいに清掃され、「甦る水百選」に選定されるほどの水質と周辺の景観で観光地となった他、時代劇などのロケ地として知られるようになった。

猛暑日のこの日も八幡堀で小舟ツアーしている観光客が結構いた :)

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八幡堀と小舟ツアー@本町橋

八幡堀に交差するように筋(小路)が敷かれ、それ沿いにあった建物は近江八幡市の重要伝統的建造物群に指定されているらしい。それ以外にも城下町の町屋を思わせる建物がいろいろあった:

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城下町@新田通り

城下町に残る背割排水の名残り。筋を境界線として隣り合う町屋の間には八幡堀につながる小さな水路が設けられたと云う:

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背割排水の名残り

映画のロケ地としても知られる八幡堀沿い:

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四季を感じることができる八幡堀めぐり:

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八幡堀めぐり

堀の沿道は石畳になっていて情緒深かった。近江国を本宅・本店として他国への行商を主とした近江商人の町としての繁栄の一部を垣間見れた感じ :)。「質素倹約」、「薄利多売」などの精神は現代の商業でも通用するもの。

こちらは日牟禮八幡宮《ヒムレハチマングウ》の一ノ鳥居:

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日牟禮八幡宮の鳥居

こちらは白雲館。明治時代に築かれ旧校舎。平成の時代に往時の姿に復元された:

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白雲館

と云うことで、この時のフォト集はこちら:

See Also近江八幡山城攻め (フォト集)
See Also豊臣秀次居館攻め (フォト集)
See Also2024年8月 近江八幡城下町散策 (フォト集)

参照

参照
a 両県ともに人生初上陸 😉️。
b 発生当初は本土への上陸の可能性が出ていた。結局は上陸することはなかったが 🙂️。
c 実際はスケジュールどおり全て攻めきることはできなかったのだが 😁️。
d 【今日は何の日?】盆の送り火(本来は旧暦だが、現代は新暦のこの日に先祖の御霊を送り出す)。Elvis Aron Presley が死去した日(享年42)。
e この日は勝手にラーメンの日にした。近江八幡市と長浜市、そして彦根市城のラーメン屋で胃袋をつないでいく計画だった 😁️。
f 玄関口に居た先客が店内に入った時に俺は居なかったタイミングなので、次に呼ばれるのか正直なところ不安だったが 😅️。
g あくまでも個人的なルール 😁️。
h 関西だから?🤔️
i 個人的に海洋堂Musiumにも立ち寄る予定 😁️。
j あとで調べてみると八幡山城址は「恋人の聖地」に指定されていた 🙄️。

はやの食堂 − A Long-Standing Restaurant of Castletown.

先月は令和6(2024)年のお盆休みは滋賀県と三重県で4泊5日の城攻めツアーへ行って来た[a]両県ともに人生初上陸 😉️。。今回、事前に調べてみると攻めてみたい城跡がいろいろ出てきた上に、直前に台風7号が発生[b]発生当初は本土への上陸の可能性が出ていた。結局は上陸することはなかったが 🙂️。したりしてスケジュールを組むのに苦労したが、何とか 8 つの城攻めに絞ることができた[c]実際はスケジュールどおり全て攻めきることはできなかったのだが 😁️。

二日目[d]【今日は何の日?】大日本帝國による太平洋戦争終結の日(終戦の日)。織田信長が稲葉山城を岐阜城に改名した日(旧暦)。は彦根市内にある城跡を二つ攻めてきた。午前中は宿泊先から徒歩20分ほどの場所にある佐和山城跡。標高232mほどの佐和山に築かれていた山城で、現在はハイキングコースとして登山道が整備されている。

猛暑の中の登山を終えたあとは汗びっしょりになったので、一旦ホテルに戻って着替えしてから[e]部屋は清掃中であったが、無理を云って10分ほど時間を空けて貰って着替えした。ホテルの対応に感謝 😉️。、國寳に指定された天守がある城跡へ向かい、その途中にある食堂で腹ごなしをした:

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はやの食堂

店の前に到着したのがお昼時と云うタイミングであったので、満席ならば諦めて別の店を探すつもりで半開きしていたドアを開けて中に入ると案の定、満席。と思った時に奥のテーブルから食べ終えたらしい人が席をたったのが見えたので、ひとまずその場で待つ。店員サンに来店を告げると相席でお願いしますと云われたので、席が空いたテーブルへ。その際に観光客よりも地元の客の方が多いように見えたが、多分そうなのだろう :)

食べたいものは既に決めていたので注文待ちするも、店員サンが一人で忙しくしていたので、とりあえず夏の甲子園の放送を観ながら待つ[f]ちょうど滋賀県代表の滋賀学園がプレイしていた 😁️。。そして前の人の皿を片付けにきたタイミングでオムライス(600円)を注文。しばらくして、さらに忙しくしていた店員サンに水もらえますかと告げると、入口付近を指さして水はセルフでお願いしますとの返事があった。其の際、周囲の客の目がテレビから俺の方に向けられたのに気づいたが、そこでやはり観光客は俺ぐらいなんだと改めて認識できた :D

セルフの水をとりに向かうと、いろいろな形をしたコップが並んでいて少し戸惑っていたところ、店員サンからお好きなコップでお好きなだけ飲んで下さいと云われた。アットホーム感がある食堂である。確かに、店内を眺めてみると「昭和の時代」の家によくあるような置物や壁掛けなどが目に入った :D

席に戻ってしばらくして「お待たせしましました。」と出てきたオムライスがこちら:

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オムライス(600円)

まさに普通の家で頂くような昔ながらのオムライス。全然、問題なし。ナプキンで包まれたスプーンは昭和の食堂スタイルの証 ;) 。ならば昭和の食べ方で頂くのが礼儀であろう。と云うことでスプーンを立てて、カチカチと少々音をたてながら頂いた:

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昔ながらのオムライス

暑い夏に甲子園の熱闘を観ながらオムライスを頂く。まさに昭和の時代にタイムスリップしたかのような何とも云えない懐かしい時間を過ごすことができた。これで600円は安いものである 8)

インターネットで見かけた記事によれば、創業は昭和3(1928)年とのこと。さらに長く続いてほしい[g]たぶん彦根にはまた来ることになりそうなので 😉️。

はやの食堂
滋賀県彦根市佐和町7-11


ここからはオマケ。

こちらは彦根駅の東口通路のスポットから眺めた佐和山城跡。その昔、関西方面へ出張の折に新幹線の車窓から「石田三成の城・佐和山城」の看板をよく目撃して、いつか攻めてみたい城の一つだった:

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城跡のある風景

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佐和山城跡

治部少に過ぎたるものが二つあり、嶋の左近と、佐和山の城

と三成を揶揄する流行詞に出てくることで知られるが、もともとは鎌倉時代に源氏の佐々木氏が築いた砦を、戦国時代に北近江の雄・浅井《アザイ》氏が六角氏に対する前線基地として利用していた。のちに織田信長と対立した浅井長政の家臣・磯野丹波守が城代として籠城したが、開城したあとは丹羽長秀が大型軍船の建造基地とした。そして関白秀吉による小田原仕置後に三成に与えられ、関ヶ原の戦いまでの10年間に城主をつとめた。

関ヶ原の戦いで西軍が敗れた翌日には井伊直政・小早川秀秋らに包囲され落城。直政が18万石で入城して居城とし、彦根城を築城し居城を移したのちに廃城となった。その際、山上の城郭は徹底的に破壊されたため、遺構はほとんど残っていない[h]その一方で、城址東側の麓にある大手跡の土塁は今でも見事に残っているよう模様 😎️。

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佐和山城跡

この日は、まずハイキングコース入口がある龍潭寺《リョウタンジ》へ向かう前に石田三成屋敷跡に立ち寄ってきた:

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石田三成屋敷跡

この途中に置かれていた「佐和山城跡」の看板あたりからは彦根城を眺めることができた:

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石田三成屋敷跡近くから彦根城の眺め

歩きながら意外と近いんだなぁ思ったその時、目の前を黒い物体が横切って竹林の中に入って動かなくなった。よくよく見ると野生の猿だった:

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よくよく目を凝らしてみると

佐和山城跡で目撃した野生の猿

猿がこちらを警戒していた

こちらとしては、特に警戒されるような行動はとっていないが、このあと龍潭寺境内で注意板を見て納得した:

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城跡に野猿が出没するので注意して下さい!

龍潭寺へ向かう途中にある井伊家の菩提寺[i]直政の次男で三代藩主・直孝が父の菩提を弔うために開基したもので、山号と寺号は井伊直政の戒名からとっている。清凉寺の境内は、一説に三成から破格の待遇で迎えられた嶋左近の屋敷跡だったとも:

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祥壽山清凉寺の山門

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三成の軍師・嶋左近の屋敷跡(伝)

井伊直政死後に、遠江国の井伊谷の龍潭寺五世・昊天《コウテン》和尚が、彦根の地に分寺して創建したとされる弘徳山龍潭寺:

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弘徳山龍潭寺の山門

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弘徳山龍潭寺の本堂

龍潭寺の門前には、昭和の時代に「彦根石田三成公顕彰会」が建立した石田三成公の坐像があった:

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石田三成公像

顕彰の理由として、佐和山城主の時代には近隣住民の徳望を集めたこと、そして没後に密かに祀られた石田地蔵を偲んだことが挙げられていた。

なお、この像が置かれていた場所は、かって徳川家康の不興を買って改易処分となった大久保忠隣が彦根藩預りとなって幽居されていた場所でもあるらしい。

ハイキングコースへ向かう途中に置かれていた七福神像:

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この先がハイキングコース入口

この内奥にあるハイキングコース入口(北登山口)から登山を開始。西ノ丸跡や竪堀などを見ながら30分くらいで本丸跡に到着。あまりにも何も残っていないので琵琶湖や彦根城、伊吹山などの眺望を楽しんだ:

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彦根城と琵琶湖

すると、背後の方からカラカラと音とするので、もしやまた野猿が現れたか?と思い、音がする方へ向かってみると、この先で賽銭箱をこねくり回している奴がいた :(。どうも俺の気配に気づいたようで、賽銭箱を置いて小走りに下山して行ったのだが、自分としてはあまりに突飛な光景に遭遇しカメラを向けるだけの対応しか出来なかった:O

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こいつは賽銭箱を

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こねくり回していた野郎です🤬️

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(泥棒かどうかは不明)

ふm。白昼堂々と賽銭箱をこねくり回す奴がいるんだねぇ。ちなみに、仏前に置かれたこの賽銭箱上面には「仏様が見てござる」と書かれていたので、結構な頻度で出現しているのだろう[j]野猿並に? 😶️ :(

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萬霊供養地蔵尊とお賽銭入れ

このあとは千貫井跡や太鼓丸跡などを巡りながら国道R8側の南登山口に向けて下山。こちらは本丸石垣の隅石と伝わる石材。これだけだと今ひとつ分からない:

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本丸隅石垣跡

南登山口から出ると国道を挟んで向こう側に天守閣や四脚門のような建築物が目に入ってきた:

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模擬天守?

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どこかの山門?

遠目で見る限り、放置された建造物に見えたが、あとでインターネットで知らべてみると、こんな記事を発見。どうも遊園地跡らしい。ある事業家が構想した石田三成のテーマパークらしく、建造物はなんと全て手作り。しかしながら完成することなく現在は放置されたままらしい(立入り禁止) :|

最後は彦根駅西口2Fからの眺め。佐和山城攻めの後は彦根城攻めへ。暑くてあまり人が居ない。この下のロータリーには井伊直政公騎馬像があるが、彦根城が完成したのは直政死後である:

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JR彦根駅西口の眺め

と云うことで、この時のフォト集はこちら:

See Also佐和山城攻め (フォト集)

参照

参照
a 両県ともに人生初上陸 😉️。
b 発生当初は本土への上陸の可能性が出ていた。結局は上陸することはなかったが 🙂️。
c 実際はスケジュールどおり全て攻めきることはできなかったのだが 😁️。
d 【今日は何の日?】大日本帝國による太平洋戦争終結の日(終戦の日)。織田信長が稲葉山城を岐阜城に改名した日(旧暦)。
e 部屋は清掃中であったが、無理を云って10分ほど時間を空けて貰って着替えした。ホテルの対応に感謝 😉️。
f ちょうど滋賀県代表の滋賀学園がプレイしていた 😁️。
g たぶん彦根にはまた来ることになりそうなので 😉️。
h その一方で、城址東側の麓にある大手跡の土塁は今でも見事に残っているよう模様 😎️。
i 直政の次男で三代藩主・直孝が父の菩提を弔うために開基したもので、山号と寺号は井伊直政の戒名からとっている。
j 野猿並に? 😶️

八千代・彦根駅前店 − The Local food of Hikone City is not only Omi-Beef.

先月は令和6(2024)年のお盆休みは滋賀県と三重県で4泊5日の城攻めツアーへ行って来た[a]両県ともに人生初上陸 😉️。。今回、事前に調べてみると攻めてみたい城跡がいろいろ出てきた上に、直前に台風7号が発生[b]発生当初は本土への上陸の可能性が出ていた。結局は上陸することはなかったが 🙂️。したりしてスケジュールを組むのに苦労したが、何とか 8 つの城攻めに絞ることができた[c]実際はスケジュールどおり全て攻めきることはできなかったのだが 😁️。

初日[d]【今日は何の日?】北海道大学の前身である札幌農学校が開校した日。浅間山が噴火し11人の犠牲者がでた日。安土城跡。天気は晴天で気温35℃の中を、安土駅前からレンタサイクルで移動し、見学ルート(大手道ルート)を2.5時間ほどかけて登り下りしてきた。やや脱水状態で麓まで下りて、水分を補給してから、再びレンタサイクルで移動して東門跡・御茶屋平跡を攻めていたのだが、その途中で左足が痙って《つって》しまい、歩くだけでも難儀するほどになったので、無念ながら途中で下山した[e]収まって歩くとまた痙ると云った感じで、ホント下山するのもキツかったが、一応はレンタル時間もあったので堪えて下山した 😥️。。それから駅前へ戻る途中に安土城天主信長の館安土城郭資料館に立ち寄ってきた。

このあとレンタサイクルを返却し琵琶湖線で宿泊地の彦根まで移動。ホテルへ向かう前に駅西口にある御食事処で夕食を摂ることに:

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八千代 彦根駅前店

この日は早めのお昼を新幹線の中で頂いただけで、酷暑の中での登山とサイクリング中は水分(とアミノ酸)の補給だけで済ませていたせいで、ここに至っては完全に腹ぺこな状態 :D。まずは瓶ビール(500円)で喉を消毒し、そのアテに自家製だし巻き(650円)を頂いた:

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自家製だし巻き(650円)

関西ともあって甘い味のだし巻き。疲労がたまった身体にはやさしく落ち着く味だった。それからミニそば付きの「ひこね丼」(1,440円)を注文した:

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ひこね丼 with ミニそば(1,440円)

彦根市のご当地グルメの丼ぶり。これは「ひところ丼」が正式名らしく、近江牛のスジ肉、赤糸こんにゃくと普通の糸こんにゃく、玉ねぎを醤油ベースのタレで煮込み、温泉卵、青じそ、そしてネギと共に御飯の上にかけたものらしい。スジ肉は近江牛らしく、御飯は近江米とのことで調味料を除いた地産地消のコンセプトで作られた丼ぶり。赤色の糸こんにゃくは同県近江八幡市の特産品らしいが、やはり彦根藩祖で赤鬼と呼ばれた井伊直政にあやかっているっぽい:

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具材を混ぜて頂いた

牛丼とはまた違った味わいがあった。そして平たい蕎麦はやや温かったが美味しく頂けた。と云うことで「干食」(完食)。

八千代 彦根駅前店
滋賀県彦根市旭町9-1


ここからはオマケ。

初日であるこの日は、まず東海道新幹線のぞみ107号・広島行きで名古屋へ。車内では早めのお昼として駅弁(1,269円)を頂いた。茶飯の上に蛤、蛤仔、蜆、貝柱、焼き帆立がたっぷりのった食べ応えがある弁当:

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品川名物・貝づくし

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茶飯の上に貝がたっぷり

当時は8月8日に発生した巨大地震注意(南海トラフ地震臨時情報)を受けて静岡県の三島〜愛知県の三河安城まで速度を落としての運行のため、名古屋から次に乗り継ぐ新幹線こだま767号・新大阪行きの出発時間ギリギリに到着したのだが、全体的に他の列車も遅れが出ていたので「こだま767号」は出発せずに停車したままだった[f]オマケに乗り継ぐホームが到着した向かい側だったのもラッキーだった 😉️。。結局は一番に割りを食った「こだま767号」の出発は遅れたが、下車した米原からは予定通り琵琶湖線快速・加古川行に乗り継ぐことができ、予定通りに目的地である安土駅に到着 :)

それから駅北口一階にある観光案内所のロッカー(当時500円)に旅行バッグ一式を預け、安土城跡について情報を収集。加えて、案内所の人には安土城の東門跡や移築門について確認してみたが、なんとそれらの存在は初耳とのことで特に知っている以外の情報は得られず。え〜、地元の人間なのに知らないのか?と、なんか「灯台下暗し」の案内所だった :(

安土城跡へ向かう前に、ロータリーに建つ織田信長公像に挨拶する:

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織田信長公像

信長公と通りを挟んで向かい側にあるレンタサイクル屋でママチャリを5時間借りた(1,000円)。軽量タイプらしいが、普通のママチャリ。電動の場合、このレンタル時間だと+700円:

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レンタサイクル屋

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普通のママチャリ(1,000円/5時間)

まず向かったのは県道R201沿いのドラッグストア。そこで数本のポカリを調達。そこから県道R2へ真っ直ぐ向かう農道を走って城跡へ。この道からだと左手に安土城跡、右手に観音寺城跡を拝むことができる:

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安土城跡

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観音寺城跡

今回、夏場の観音寺城跡攻めは回避して安土城跡を選択したのだが、こちらも暑くて大変だったので、どちらが正解かは分からない :D

こちらは安土城郭資料館に展示されていた安土城と観音寺城のジオラマ:

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安土山と観音寺山のジオラマ

登城口兼券売所と、そこにあった見学ルートがこちら。安土城跡は国の特別史跡で入場料を支払う必要がある。また現在も傍らで発掘調査が行われているようで、公開されているのは本来の城域の一部のみ。たとえば大手道跡の石段を登って本丸跡と天主跡を巡り、摠見寺跡を経由して再び大手道跡へ戻ってくるコースでも、しっかり見て回ると往復1時間では全然足りない :|

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登城口兼券売所

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安土城址・推奨ルート

入場料(大人700円/当時)を払って大手道跡の石段を登る:

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大手道跡

大手道沿いには家臣らの屋敷があったと云う。たとえば伝・羽柴秀吉邸跡は上段と下段の二段構えだったらしい:

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伝・羽柴秀吉邸跡(上段)

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伝・羽柴秀吉邸跡(下段)

大手道から七曲りに入るあたりから振り返って麓(大手門跡)を見下ろしたところ:

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大手道頂部からの眺め

安土城築城の際に石材が足りなくて近隣の寺院などから石仏や墓石を集めて使用したことは知られている:

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大手道脇に残る石仏

伝・織田信忠邸跡から本丸跡へ、更に尾根道の石段を登る:

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尾根道

尾根道の頂部は櫓門形式の黒金門が建っていた枡形虎口跡:

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黒金門台座石垣

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桝形虎口跡

黒金門跡を過ぎた腰郭跡から更に櫓門跡を経て伝・二の丸跡へ向かう:

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腰郭跡

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櫓門跡

二の丸も上段と下段の二段構えと伝わる。上段には、現在は信長公本廟がある:

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伝・二の丸(下段)

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伝・二の丸(上段)ある信長公本廟

この御廟所は、本䏻寺の変の翌年に羽柴秀吉が織田一族や旧家臣らを集めて一周忌法要を行ったとされる場所で、信長遺愛の太刀や烏帽子、直垂《ヒタタレ》などが埋葬されたとも。また昨年は令和5(2023)年に御廟の門が真新しく改築された。

そして伝・本丸(本丸御殿)跡:

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伝・本丸(本丸御殿)跡(拡大版)

向かって右手が本丸御殿跡で、正面が本丸御殿から伸びた屋根付きの廊下であった本丸取付台跡。石段を登った左手上が天主台跡。

本丸跡奥の伝・三の丸石垣の石材には焼け焦げた跡が今も残る:

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赤茶色した石材

本丸取付台の石段と天主台へ向かう石段:

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本丸取付台の石段

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天主台跡

こちらは信長の館で展示されていた地上6階・地下1階の天主(想像)の模型:

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天主(想像)の模型

実際の天主地階面(地下1階部分)、いわゆる穴蔵跡がこちら:

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天主地階面(穴蔵)跡(拡大版)

こちらは信長の館で観覧した天主最上部二層(5階と6階部分)の原寸大の復元:

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天主最上部二層部(1/1)

さらに安土城郭資料館に展示されていた天主の分割模型(1/20):

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天主の移動分割式の模型(1/20)

天守台に上がって(現代の)琵琶湖を眺めると随分と遠くに見えたが、往時は城下まで琵琶湖だったらしい:

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天主台上から長浜方面の眺め(拡大版)

このあとは伝・本丸跡を下りて摠見寺跡方面へ向かう。摠見寺は安土城築城の際に城下にあった社寺を城内に移築したもの。本䏻寺の変後の焼失を免れたものの、江戸時代に本堂を初めとする主要な建造物を焼失した。現在残っているのは三重塔と仁王門(共に重要文化財)、そして裏門[g]明治時代に、城跡近くにある超光寺の山門に移築さている。こちらは後日、足を運んで見に行った 🙂️。

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摠見寺の仁王門は重要文化財

そして摠見寺曲輪跡からの眺望。見えているのは西の湖。往時は、そのあたりまで琵琶湖だった:

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摠見寺曲輪跡からの眺望

こちらは城跡で見たその他のオブジェ:

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非公式キャラの弥助

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天下布武の草刈り機

これは宣教師が描いたとされる信長の肖像画(コピー)。実物は、この年のGWに攻めた天童陣屋跡ゆかりの天童織田藩の菩提寺にある:

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信長の肖像画

最後は城跡で見かけたマンホール。刻印にある ANZUCCI の文字は、往時の宣教師による「安土」のポルトガル語表記。詳細は日本マンホール蓋学会近江八幡市のマンホールを参照のこと:

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永楽通宝(ANZUCCI)

と云うことで、この時のフォト集はこちら:

See Also安土城攻め (フォト集)
See Also2024年8月 信長の館と安土城郭資料館巡り (フォト集)

参照

参照
a 両県ともに人生初上陸 😉️。
b 発生当初は本土への上陸の可能性が出ていた。結局は上陸することはなかったが 🙂️。
c 実際はスケジュールどおり全て攻めきることはできなかったのだが 😁️。
d 【今日は何の日?】北海道大学の前身である札幌農学校が開校した日。浅間山が噴火し11人の犠牲者がでた日。
e 収まって歩くとまた痙ると云った感じで、ホント下山するのもキツかったが、一応はレンタル時間もあったので堪えて下山した 😥️。
f オマケに乗り継ぐホームが到着した向かい側だったのもラッキーだった 😉️。
g 明治時代に、城跡近くにある超光寺の山門に移築さている。こちらは後日、足を運んで見に行った 🙂️。

東京国立博物館 展示 #7658、#7675 etc. − TOKYO NATIONAL MUSEUM 2024.

先々週末は令和6(2024)年の大暑の候を過ぎた週末[a]【今日は何の日?】菜っ葉の日(語呂合わせ)。江戸川乱歩が没した日。オーストリアがセルビアに宣戦布告してWW1が開戦した日。に、今年二度目の東京国立博物館へ:

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大混雑だった本館

今年の関東は梅雨明けするやいなや、日中の気温は「ウナギのぼり」の日が続き、この日も例外ではなく、外に居ても家に居ても暑いので、それならばと冷房が効いた中でお目当ての美術品でも鑑賞しようと思ったのは良かったのだが、皆考えることは同じで、折しも夏休みシーズンに加え、海外からのツアー客が押しかけていて炎天下[b]この日の東京の最高気温は 36.8℃ 😣️。に入場券を購入する長い行列に並ぶ羽目に :$。しっかし自動券売機の処理の遅さはなんとかならないのだろうか・・・ :|。人間も鳩も水分補給は必須だ:

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本館脇の池では

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鳩が、しっかりと水分を

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補給していた🙂️

と云う感じで、のっけからキツイ思いをしておそらくは記憶に残る来館になるのかもしれないが、実は三年かけて「トーハク通い」してきた目的を、今回ついに達成することができたと云う意味でもまた記憶に残る鑑賞になった[c]ホント週一で展示作品をチェックしておいて良かった〜 😉️。 8)

今回、鑑賞した総合文化展[d]料金は大人1,000円。何度も鑑賞することが分かっていたら年間パスポートを買っておけばよかった 😞️。は:

  • #7658:本館2階5室・6室の「武士の装い」:2024年7月17日(水)〜 2024年10月6日(日)
  • #7796:本館2階3室の「仏教の美術」:2024年7月2日(火)〜2024年8月18日(日)
  • #7633:本館2階1室の「日本美術のあけぼの」:2024年7月2日(火)〜2024年12月22日(日)
  • #7668:本館2階1室の「仏教の興隆」:2024年7月17日(水)〜2024年10月6日(日)
  • #7672:本館1階11室の「彫刻」:2024年7月9日(火)〜2024年9月29日(日)
  • #7675:本館1階13室の「刀剣」:2024年5月28日(火)~ 2024年8月25日(日)
  • #2658:本館1階14室の「人間国宝・平田郷陽の人形」:2024年7月17日(火)~ 2024年9月1日(日)
  • #7641:本館1階16室の「アイヌと琉球」:2024年7月9日(火)~ 2024年9月23日(月)

毎度おなじみの展示の他にいろいろ巡ってきたが、その大体が人混みを避けて歩き回った結果ではある :D。「武士の装い」では念願の「角栄螺《ツノサザエ》」をついに観ることできた ;)。この兜を存在を知って、いろいろ調べていると、ここトーハクが所蔵しているとのことで、何時か鑑賞できるだろうと通いつめること三年目の大収穫。ただ毎回ぼやいているのだが、ホント照明の映り込みはなんとかならないのだろうかと云う点が残念でならない ;(

まずは、その「武士の装い」から「豊臣秀吉朱印状」。安土桃山時代(16世紀):

豊臣秀吉朱印状

織田信長によって衰退に追い込まれていた本願寺(顕如)は、信長亡きあとに秀吉に接近することで復興への道を探っていた。これは、無類の能好きとして知られた秀吉に顕如から能道具が贈られたことへの秀吉直筆の礼状とされている。

これは「毛利元就像(模本)」。原本は安土桃山時代(16世紀)で、模本は昭和時代(20世紀):

毛利元就像(模本)

一代で中国地方を制覇した戦国大名で、長州藩の藩祖でもある毛利元就の肖像画の写し。原本は、元就が中国の覇権をかけて激戦を繰り広げた尼子氏を滅ぼしたのち、永禄9(1566)年に描かせたものと伝わる。

そして「肩脱二枚胴具足《カタヌギ・ニマイドウグソク》」。安土桃山〜江戸時代(16〜17世紀):

肩脱二枚胴具足(表)

肩脱二枚胴具足(裏)

まるで片肌を脱いだ肉体をリアルに打ち出した鉄板で表現すると云う面白い意匠の当世具足。獣毛で毛髪を表した変わり兜と併せると、裸一貫で戦う荒武者を彷彿させる。その一方で、甲冑部は金箔押の切付札《キッツケザネ》を紫・紅・萌黄・紺・白の組紐からなる色々糸威になっている。

こちらは順に、重要文化財の紅糸威星兜《ベニイトオドシ・ホシカブト》・南北朝時代(14世紀)、色々糸威雑賀鉢兜《イロイロオドシ・サイカバチノカブト》・江戸時代(17世紀)、紺糸威烏帽子形兜《コンイトオドシ・トリエボシナリカブト》・江戸時代(17世紀):

紅糸威星兜

色々糸威雑賀鉢兜

紺糸威烏帽子形兜

紅糸威星兜は鉢の前後左右に渡金の地板を伏せたいわゆる五十二間四方白の星兜で、前立は鍬形に利剣を加えた三鍬形、その台に魚子地枝菊紋が薄肉彫りされている。大塔宮・護良親王《オオトウミヤ・モリヨシシンノウ》[e]父は後醍醐天皇。建武の時代の皇族であり天台宗座主であり征夷大将軍である。の兜との伝承あり。

色々糸威雑賀鉢兜に代表される雑賀鉢は雑賀荘の甲冑師による独特な造形を持つ兜。表面を錆地にした鉄板を矧ぎ合わせて縄覆輪を掛け、上部に菊型の鉄板を重ね、装飾を兼ねた菊座鋲で留めている。

紺糸威烏帽子形兜は、烏帽子の中で最も格式の高い立烏帽子《タテエボシ》を模した変わり兜。鉄製の鉢に革で作った立烏帽子を被せ、表面に粗い麻布を貼って漆で固め、金箔押で飾っている。錣や面具にも金箔押を施し、紺色の毛引威として全体的に華麗で高貴な仕立てとなっている。

こちらは紺糸肩裾取威腹巻《コンイト・カタスソドリオドシノハラマキ》。室町時代(15世紀):

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紺糸肩裾取威腹巻

本来の腹巻きは歩兵用として軽量で動きやすく作られた甲冑であったが、戦国時代初めには重武装化された騎馬武者も着用するようになった。草摺は七間五段下り、威は紺糸を中心にして上下に紅糸を配した肩裾取威としている。

そして栄螺形兜と併せられた胴具足の二領。「栄螺」は丈夫な殻は守りが堅いに通じることから特に戦国武将に好まれた意匠であった。今回のお目当ては手前の紅糸威二枚胴具足に併せた角栄螺形兜 8)

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紅糸威二枚胴具足と白糸威二枚胴具足

まずは白糸威二枚胴具足《シロイトオドシ・ニマイドウグソク》。江戸時代(17世紀):

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白糸威二枚胴具足と栄螺形兜

兜は鉄板を打ち出して栄螺を表した変わり兜。胴は西洋の甲冑を模した和製の南蛮胴で正面に鎬《シノギ》を立てている。草摺は黒毛植で裾板のみ白毛植。要所に丸に梶葉《カジノハ》紋[f]信濃国諏訪神社の神紋。の赤銅《シャクドウ》製金物を飾る:

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白糸威二枚胴具足と栄螺形兜

そして紅糸威二枚胴具足《ベニイトオドシ・ニマイドウグソク》。具足は江戸時代(17世紀)、兜は安土桃山時代(16世紀):

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紅糸威二枚胴具足と「伝・角栄螺」

別名は金魚鱗小札二枚胴具足。胴は二枚胴で、胴正面を西欧の甲冑を模した和製の南蛮胴。袖と佩楯《ハイダテ》は龍(魚)の鱗を思わせる意匠が施されている:

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袖と佩楯には鱗の意匠

こちらも南蛮胴なので正面に鎬を立ててある。草摺は七間五段下りの紅糸威。全体的に金・白・紅といった華やかな色彩を持つ:

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紅糸威二枚胴具足の胴

自分が三年待って注目していたのは、この金箔押な栄螺形《サザゼ・ナリ》のいわゆる突盔形兜[g]読みは《トッパイ・ナリ・カブト》。頭盔とも。鉢の頂部が尖った兜。の変わり兜で、通称は「角栄螺」。ただし、この通名はあくまでも伝承であり、史料として正式な記録はないようだ:

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伝・角栄螺

他に立波の飾り板を添えた画もあるらしいが、今回は付いていなかった:

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伝・角栄螺

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伝・角栄螺

下げには本多家の「丸に立葵」紋があしらわれ、胴背面には「本多内匠 ほん多たくみの助」の金泥字が残る:

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丸に立葵は信濃飯田藩本多家の家紋

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「本多内匠 ほんたたくみの助」

この本多家は江戸時代中期に信濃国飯山藩[h]現代の長野県飯山市にかって藩庁があった。の大名で、三河岡崎藩の本多忠利の系統にあたる。最後は飯山藩本多家が所持していた、この「角栄螺」は一説に、織田信長の召領であったが、蒲生氏郷に婿引出として譲り、氏郷はこの兜を被り、岳父・信長に従って各地で奮戦し大いに名を挙げたと云う。

この兜は、のちに氏郷の家臣の一人で、持ち前の勇猛さと頭の回転の良さで晩年には1万石を食んだ岡越後守こと岡左内の手に渡った。氏郷亡き後は上杉景勝の直臣となり、関ヶ原の戦い前の奥州で伊達政宗率いる軍勢と福嶋城周辺で激戦を繰り広げた勇士の一人であった。この時、左内は角栄螺の兜と南蛮の鳩胸鴟口《ハトムネトブクチ》の具足を身に付け、氏郷の形見分けで拝領した猩々皮《ショウジョウヒ》の陣羽織[i]南蛮舶来の赤みの強い赤紫色の生地で織った陣羽織。たとえば小早川秀秋所用の陣羽織を羽織り、愛刀の貞宗二尺八寸で政宗と一騎打ちしたと伝わる。そののち徳川氏天下の時代になると左内は氏郷の愛児・秀行に仕えて會津で没したと云う。その後、彼の兜は人手を転々とし最後に本多家に渡ったらしい。

ついでながら左内の愛刀・貞宗と同じ刀工の刀も鑑賞することができた 8)。こちらは國寳「刀・相州貞宗《ソウシュウ・サダムネ》」。名物・亀甲貞宗とも。鎌倉〜南北朝時代(14世紀):

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刀・相州貞宗(名物・亀甲貞宗)

相模国鎌倉の刀工であった貞宗は正宗の実子(または養子)と云われ、師風を継承しつつ穏やかで整った作風を特徴としている。この亀甲貞宗は太刀を磨上げ《スリアゲ》て刀にしたもので、指裏の茎尻に亀甲花菱紋の彫物があることが号の由来とされる。徳川将軍家がまとめた刀剣書『享保名物帳』に所載された名物刀剣の一振。

トーハク通い三年目で、氏郷一の家臣である岡左内に由来すると伝わる品々を鑑賞することができて良かった :)

次は陣羽織。戦国時代は実用性の高かった陣羽織は、江戸時代になるとほとんど無くなり、逆に凝った意匠を施したものが作られたと云う。これは白文紗地富士に龍模様 五三桐紋付。江戸時代(18世紀):

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白文紗地富士に龍模様・五三桐紋付

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正面

こちらは黄羅紗地陣羽織 丸四ツ目結文・五七桐紋付。江戸時代(18世紀)。この陣羽織は表と裏で家紋とその替紋が入ったリバーシブル型:

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黄羅紗地陣羽織 丸四ツ目結文・五七桐紋付

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正面

「刀剣」の展示では、先に挙げた國寳・相州貞宗の他にいくつか。まず短刀・青江次直《アオエツグナオ》。南北朝時代(14世紀)。重要文化財:

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短刀・青江次直

小板目の冴えた地鉄に華やかな逆丁子の刃文を焼き入れた作品。寛永7(1630)年に二代将軍・秀忠から伊達光宗[j]二代藩主・忠宗の次男。母が秀忠の養女(実父は池田輝政、実母は家康の次女の徳姫)。が拝領した。

こちらは太刀・古備前友成。平安時代(11〜12世紀):

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太刀・古備前友成

備前国の刀工・友成の作で、刀身は長大で腰元で強く反った力強い太刀姿を示し、板目の地鉄に小沸づいた小乱れの刃文を低く焼き入れている。姫路藩主・酒井家から明治天皇に献上された太刀。

太刀・手掻包永。鎌倉時代(13世紀)。重要文化財:

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太刀・手掻包永

大和国・手掻派の名工である包永の作。反りが浅く、がっしりとした刀身に、小沸づいて冴えた細直刃の刃文を焼き入れ、鋒には二重刃が見られる。茎は大きく磨上げられ、茎尻に「包永」の銘が彫られている。

こちらは刀・主水正正清《モンドノショウ・マサキヨ》。江戸時代(17世紀):

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刀・主水正正清

薩摩国の刀工・正清は徳川八代将軍・吉宗の命により、江戸の浜御殿[k]現在の浜離宮恩賜庭園で鍛刀し、その技量が認められて、茎に一葉葵紋を切ることを許された。精美な板目の地鉄、荒く沸づいた互の目乱れの刃文は、まさに正清の入念作。

そして國寳の短刀・相州行光。鎌倉時代(14世紀):

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短刀・相州行光

行光は、相州鍛冶の祖と呼ばれた新藤五國光《シントウゴ・クニミツ》の実子(または弟子)で、相州伝を大成した正宗の実父(または養父)と云われている。肌立った板目の地鉄に小沸づいて冴えた直刃を焼き入れている。加賀藩主・前田家伝来品。

今回もたくさんの仏像彫刻を鑑賞してきた。撮影可能な像の中から、まずは慶算作の毘沙門天立像。鎌倉時代(14世紀):

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毘沙門天立像

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背面

仏法を守護する四天王のうち多聞天の異名である毘沙門天は単独でも信仰を集めた。引き締まった体、左脇を締め右肘を張るという容姿は鎌倉時代の仏師・運慶以来の正当なスタイル。

こちらは大威徳明王騎牛像《ダイイトクミョウオウ・キギュウゾウ》。鎌倉時代(13世紀):

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大威徳明王騎牛像

五大明王の一尊である大威徳明王も単独でも信仰を集めた。脚が六本ある明王が水牛にまたがっている珍しい容姿。

不動明王立像。平安時代(11世紀)。重要文化財:

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不動明王立像

巻き髪で左肩に結わえた髪を垂らし、左目をすがめ、唇の上下に牙を出す姿は流りのスタイル。顔づくりが中央にまとまり、表情もおとなしいところに洗練した趣をもつ。左手には物事を正しい方向へ導くための羂索《ケンジャク》と云う縄を持つ。

こちらは薬師如来坐像。平安時代(11世紀):

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薬師如来坐像

人々の病気を治し、災厄を取り除く仏さま。厚い瞼やふくよかな頬、奥行きの薄い体つき、柔らかみのあるなだらかな衣文線など、総じて穏やかな作風は平安時代後期に流行したスタイル。

大日如来坐像。平安時代(11〜12世紀)。重要文化財:

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大日如来坐像

密教における大日如来は森羅万象の根源であり、あらゆる仏はその化身とされる。仏の王であるとして、珍しく王族の姿で表現されている。

「アイヌと琉球」文化展からドゥスディー(小袖)とウフスディー(大袖) 。色合いや文様がいかにも琉球ぽい:

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薄藍色麻地水菊芦雁模様

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黄紬地井桁崩模様

最後は現代美術で、人間國寳・平田郷陽《ヒラタ・ゴウヨウ》の創作人形。伝統的な日本人形の技術やスタイルを用いて、「生人形《イキ・ニンギョウ》」が持つ写実性から人々の生活感や心情を情緒豊かに表現をしているとのことで、意外と見入ってしまう作品を幾つか。

こちらは女性の頭部と、足利時代の将士体立姿。ともに昭和時代。写実的な表現にこだわった作品:

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女性頭部と 足利時代将士体立姿

二つに割れた桃と、そこから見栄を切って現れた桃太郎の木彫り。柔らかく肉付きのよい子供の体形は生人形の技術が生かされている。大正時代:

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桃太郎

宴の花。平田郷陽の遺作。昭和時代。若い女性の凛とした表情を木彫彩色で表現したもの:

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宴の花

今年も残り半分。ますます時間を作って観覧しに行こうと思う =)

と云うことで、この時のフォト集はこちら:

See Also2024年7月 東京国立博物館 (フォト集)

参照

参照
a 【今日は何の日?】菜っ葉の日(語呂合わせ)。江戸川乱歩が没した日。オーストリアがセルビアに宣戦布告してWW1が開戦した日。
b この日の東京の最高気温は 36.8℃ 😣️。
c ホント週一で展示作品をチェックしておいて良かった〜 😉️。
d 料金は大人1,000円。何度も鑑賞することが分かっていたら年間パスポートを買っておけばよかった 😞️。
e 父は後醍醐天皇。建武の時代の皇族であり天台宗座主であり征夷大将軍である。
f 信濃国諏訪神社の神紋。
g 読みは《トッパイ・ナリ・カブト》。頭盔とも。鉢の頂部が尖った兜。
h 現代の長野県飯山市にかって藩庁があった。
i 南蛮舶来の赤みの強い赤紫色の生地で織った陣羽織。たとえば小早川秀秋所用の陣羽織
j 二代藩主・忠宗の次男。母が秀忠の養女(実父は池田輝政、実母は家康の次女の徳姫)。
k 現在の浜離宮恩賜庭園

甲府市武田氏館跡歴史館 企画展 武田二十四将図展 − SHINGEN Museum.

先月は令和6(2024)年の小満の候のとある週末[a]【今日は何の日?】今月の風呂の日。桂小五郎(木戸孝允)が西南戦争中に病死した日。に山梨県甲府市にある信玄ミュージアムこと甲府市武田氏館跡歴史館で開催されていた企画展の「武田二十四将図展 〜 その成立と展開を考える 〜」を鑑賞してきた[b]たまたま見かけた時は、この企画展が月末迄とのことだったが、現地の案内板には翌月初めまで延長になっていた 😮️。。十年前の平成26(2014)年に城攻めした時は発掘調査中だった跡地に建てられた、この歴史館は平成31(2019)年に開館したとのこと:

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平成26(2014)年11月当時

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令和6(2024)年5月当時

また、せっかくなので、この展示にちなんで「甲府市指定」武田二十四将の屋敷跡を巡ってきた他、同じく十年前は発掘調査中であったが、のちに整備された躑躅ヶ崎館の梅翁曲輪《バイオウ・クルワ》跡と、こちらも参詣できなかった武田信虎公の菩提寺である大泉寺にも足を伸ばしてきた :)

この日はJR立川駅で特急スーパーあずさ(E353系[c]平成30(2018)年からそれまでのE257系から置き換えられた。)5号に乗り換えて甲府で下車。駅北口にあるホテルでレンタサイクルを借りて信玄ミュージアムへ:

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甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)

このミュージアムには無料の常設展示室と有料[d]JAF会員だと団体料金で、一般大人料金から60円引きの240円 🤩️。の特別展示室があり、今回の企画展は後者の展示室の一角で催され、絵図三種と甲陽軍鑑(写し)が展示されていた。しかし全て撮影禁止だった :(

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企画展・武田二十四将図展(拡大版)

ちなみに特別展示室には、発掘調査での出土品(土器など)や騎馬隊が騎乗していた馬の骨格標本(原寸大)の他、躑躅ヶ崎館について紹介するビデオ上映があった。

そのあとは常設展示室を鑑賞。ここには戦国時代の甲斐武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)や城下町「甲府」について説明したパネルが置かれていた。

さらに同じ敷地には、昭和初めの時代に建てられた料亭旅館(木造建築物)[e]令和3(2021)年に国の有形文化財(建築物)に指定された。と庭園が「旧堀田古城園」と云う名前で移設復元されていた:

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旧堀田古城園の主屋

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旧堀田古城園の庭園

庭園を囲むように茶室[f]建物を上空から見ると武田にちなんで菱形になっている。や長屋などの建築物があり、主屋の内観も復元されていた:

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旧堀田古城園の主屋

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主屋の内観

主屋の近くの離れには中庭が再現され、その隣には合戦陣屋をイメージしたフォトブースがあり、武田菱や風林火山の幟や甲冑が置かれていた:

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フォトブースの陣屋

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陣屋と離れの間にある中庭

主屋から少し離れたところに建っている長屋は「由布姫」と云う軽食を提供するカフェになっていた:

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蕎麦・カフェ由布姫

今回の企画展を鑑賞すると、このカフェで使える「桔梗信玄ソフト+または生ビールの割引券」が付いていたので、早速利用した:

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桔梗信玄ソフト+(540円 → 440円)

桔梗信玄餅と桔梗信玄棒が添えられたソフトクリーム。なかなか食べごたえあり、このあとの武田二十四将屋敷跡巡りをこれで乗り切ることができた[g]これはウソ 🤐️。しっかり走り回ったので途中でホットドッグ2コで体力を補充した 😁️。 :D

このあとは、まず躑躅ヶ崎館と梅翁曲輪跡を攻めてきた:

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武田神社

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西曲輪南虎口跡

梅翁曲輪南側の土塁と濠、そして土塁上から躑躅ヶ崎館・西曲輪跡の眺め。その先に聳える積翠寺山を望む:

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梅翁曲輪南側の土塁・濠

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梅翁曲輪南側の土塁上

今回は甲府市のサイトを参考に甲府市指定の「武田二十四将屋敷跡」巡りをしてきた。跡地と云っても特に遺構は無いが甲府市が設置した案内看板が目印になった。

なお「武田二十四将図」と云う呼称は甲斐武田家滅亡後、江戸時代の絵師が軍記物から「勝手に」付けたものであり、信玄公存命中の時代のものではない。さらに絵図によって信玄公を含めて二十四名だったりそうでなかったり、あるいは特定の武将が含まれていたり居なかったりといった具合で、特に二十四人が皆同じ顔ぶれと云ったことでは無いようだ。

さらに徒歩で屋敷跡を巡るには坂があったり、同じ道を行き来しするなどして意外とキツイし時間もかかるので甲府市が運営しているレンタサイクルを利用した。今回はJR甲府駅北口から徒歩3分のところにあるホテルニューステーションで借りた[h]料金は 1,000円(当時)。貸出時間は9:00am 〜 18:00pm まで。法規内であればホテルの組合が加盟している損害保険が適用できる場合あり。

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レンタサイクル甲府8号車 @ホテルニューステーション

と云うことで今回巡ってきた武田家中の屋敷跡のうち案内看板があった二十三将と石碑があった武将がこちら[i]ちなみに十年前に巡ったのは八将だった 😮️。

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内藤修理亮昌豊屋敷跡

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板垣駿河守信方屋敷跡

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穴山玄蕃頭信君屋敷跡

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高坂弾正昌信屋敷跡

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真田弾正忠幸隆屋敷跡

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横田備中守高松屋敷跡

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武田刑部少輔信廉屋敷跡

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小山田左兵衛尉信茂屋敷跡

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土屋右衛門尉昌続屋敷跡

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山本勘介晴幸屋敷跡

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真田源太左衛門尉信綱屋敷跡

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原隼人佑昌胤屋敷跡

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三枝勘解由左衛門尉守友屋敷跡

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多田淡路守満頼屋敷跡

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馬場美濃守信春屋敷跡

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甘利備前守虎泰屋敷跡

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山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡

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小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡

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武田典厩信繁屋敷跡

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一条右衛門太夫信竜屋敷跡

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秋山伯耆守信友屋敷跡

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飯富兵部少輔虎昌屋敷跡

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長坂左衛門尉釣閑斎邸跡

なお甲府市のサイトにあるとおり原美濃守虎胤屋敷跡は見つからず[j]案内看板はどこにあるのだろう? 🤔️。あと「武田二十四将」に該当しないため案内看板は無かったが、同サイトにあった「古府之図」から推測する屋敷跡として曾根下野守昌世や小山田備中守虎満、諸角豊後守虎光、そして相木市兵衛昌朝らの屋敷跡も巡ってきた :)

屋敷跡を巡っていく途中、十年ぶりに機山公の墓所や河尻塚にも参詣してきた:

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法性院大僧正機山信玄之墓

こちらは信虎公の菩提寺である曹洞宗・萬年山・大泉寺の総門。板塀とつながっているのが旧・番屋(右手):

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曹洞宗・萬年山・大泉寺の総門と番屋

本堂脇には公の450回忌の節目に建立された坐像があった:

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武田信虎公像

こちらが御霊殿:

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武田信虎公之墓

御堂の裏に甲斐武田氏三代の五輪塔が置かれていた他、何故か曽我兄弟の供養塔もあった:

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勝頼公、信虎公、信玄公の五輪塔

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曽我兄弟供養塔

最後は帰路で乗車した特急あずさ(E257系)74号。さすがに往路で乗車したスーパーあずさ(E354系)よりグレードが低いのは否めない :X

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特急あずさ(E257系)74号

と云うことで、この時のフォト集はこちら:
See Also2024年5月 武田氏館跡歴史館 (フォト集)
See Also躑躅ヶ崎館攻め(2) (フォト集)
See Also武田家将士屋敷跡巡り (フォト集)
See Also武田信虎・信玄・勝頼公三代の墓所 (フォト集)
See Also伝・河尻秀隆公墓所(2) (フォト集)

参照

参照
a 【今日は何の日?】今月の風呂の日。桂小五郎(木戸孝允)が西南戦争中に病死した日。
b たまたま見かけた時は、この企画展が月末迄とのことだったが、現地の案内板には翌月初めまで延長になっていた 😮️。
c 平成30(2018)年からそれまでのE257系から置き換えられた。
d JAF会員だと団体料金で、一般大人料金から60円引きの240円 🤩️。
e 令和3(2021)年に国の有形文化財(建築物)に指定された。
f 建物を上空から見ると武田にちなんで菱形になっている。
g これはウソ 🤐️。しっかり走り回ったので途中でホットドッグ2コで体力を補充した 😁️。
h 料金は 1,000円(当時)。貸出時間は9:00am 〜 18:00pm まで。法規内であればホテルの組合が加盟している損害保険が適用できる場合あり。
i ちなみに十年前に巡ったのは八将だった 😮️。
j 案内看板はどこにあるのだろう? 🤔️