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串のきっしゃん − Osaka Fried Skewers.

一昨年は平成27(2015)年の初めに仕事で大阪まで出張する機会があって、その週末には京都にある有名な大徳寺まで足を運んだが、残念ながらお目当てを含めて大部分の塔頭は特別公開日以外は拝観できなかったが、その中で常時公開されていた肥後細川家の菩提寺である高桐院や日本庭園のある龍源院を参拝し拝見してきた。日本庭園なんて自身初めて本物を見たのだが、今でもその優美な趣は脳裏に焼き付いているって感じがする:D。他にも織田信長ゆかりの名所を見て回ってきたが、半日程度では到底見て回りきれるものではなく、これからも何度か足を運ぶことになりそうな予感がする:)。この日は京都でおみやげを買って、宿泊先の新大阪まで戻り、そこで以前教えてもらった美味しい大阪名物を食べてきた。

ちょうど新大阪の西中島近くの宿泊先から徒歩5分程のところにある「串のきっしゃん」:

串かつ・おでん・もつ鍋 「串のきっしゃん」

串かつの他に、おでんやモツ鍋もやっているとのことで、店に入った時はまだ春が来ない寒い夜だからか、モツ鍋を食べて楽しく宴会していたサラリーマンらがいたが、自分はビールに串かつセットのみというオーダーにしてみた。

このお店は、実は今回が二度目であり、これより二年前くらいに初めて連れてきてもらった覚えがある。大阪へ来て串かつを食べないで帰るのはありえない:Dということで(!?)帰りの新幹線の最寄り駅に近いこの場所で飲んだ覚えがある。

ということで、今回は生ビールと串かつの「おまかせ梅セット」(1580円)を注文した。串かつ10本がおまかせで、あとは一品としてきゅうりのピリ辛漬けを選んだ[a]他にどて、枝豆、もやしがある。
まず串かつが揚がるまでキャベツにソースを付けて頂きながら、ビールを呑む:D

そして、やってきたのがハムカツ、ウィンナー、牛ヘレ、生姜:

串かつのおまかせ梅セット(1580円)

野菜ものもできた。こちらは玉ねぎと白ねぎ。個人的に野菜の中では玉ねぎが好物なので嬉しい。玉ねぎをソースで頂くのが素晴らしい:

串かつのおまかせ梅セット

玉ねぎの串かつ

途中、「串休め(?)」;)で、きゅうりのピリ辛漬でビールが更にススム。ごま風味で良かった。と言っても、右手にあるデフォルトの「キャベツ」でもビールがススんだけど:

一品として選択したきゅうりのピリ辛漬けと、デフォルトのキャベツ

意外な発見があったのが紅しょうが:

紅しょうがの串かつ

ここの串かつは油があっさりしていて臭みが無く、揚げたてのアツアツで美味しかった。具材には海鮮ものもある:

串かつのおまかせ梅セット

こちらはホタテ。と言っても小柱だったけど;)

ホタテの串かつ

「牛ヘレ」もジューシーで美味しかった:

牛へれの串かつ

ビールと串かつセットで十分にお腹が満足した。

串のきっしゃん
大阪府大阪市淀川区西中島3-14-20 新大阪ビジネスゾーン3番館


ここからはオマケ。

こちらは大徳寺の塔頭の一つ高桐院の茶室・松向軒からみた本堂の軒先。2月末で春が間近に迫った明るく落ち着きのある日差しだった:

大徳寺塔頭・高桐院の軒先

こちらは京都御所と烏丸通を挟んで西側にあった護王神社にあった日本一のさざれ石:

国歌「君が代」に詠まれる「さざれ石」

この神社は平安京の建都に貢献した和気清麻呂(わけのきよまろ)公を祀っている。そして「君が代」で詠まれているこの石の大きさは幅3m、高さ2mメートルでまさに大きな巌(いわお)である:

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

この歌こそは日本の国に精神であり、末永く平和で繁栄に向かうことが盛り込まれているのだとか。

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also織田信長公墓所と本能寺の変 (フォト集)
See Also大徳寺散策と細川家墓所 (フォト集)

参照

参照
a 他にどて、枝豆、もやしがある。

洋食屋キッチン・ゴン − Pine Rice Garlic Taste.

一昨年は平成27(2015)年の初めに仕事で大阪まで出張する機会[a]それも大坂城のすぐそば。この出張は大変有意義だった。があり、自身としては二度目[b]一度目は高校時代の修学旅行だった。となる京都で、今から400年以上も前に起こった「本䏻寺の変」にまつわる織田信長のゆかり地を巡ってきた。午前中は旧本能寺で亡くなったとされる織田信長公と主従らの墓所や公の菩提寺などを見て回ってきた。残念ながら大部分が拝観謝絶だったが:|、それでも他の戦国武将の菩提寺や自身としては人生初めてとなる「本物の」日本庭園を見ることができた。

午後は京都御所近くにある旧二条城跡や旧本能寺を見る予定だったので、地下鉄烏丸線で丸太町へ。お昼にはちょっと早かったが、今回の出張で大阪の人に勧められた京都御所近くにある洋食屋で「ピネライス」なるものを食べることにした。ピネライスは京都人で知らぬ人はいないB級グルメらしい。ということで丸太町駅から広大な敷地を持つ京都御所を横切って丸太町通りと河原町通りの交差点近くにある洋食屋キッチン・ゴン 御所東店へ。肉系の洋食屋ということでメニューを見るとステーキやハンバーグが主流。ピネライスの方はと云うと、なにやら味付けいろいろあるようで、午後もしたすら歩き回る予定だったので今回はノーマルなピネライスではなくガーリック味の「テキ」が上にのっているテキ・ピネライスを選択してみた:

ガーリック・テキ・ピネライス(1380円)

この「テキ」はステーキの略らしい。こちらは数量限定だった。一般的なピネライスは、カウンター席の両脇の人が食べていたのをみるとカツカレーのようだった。まぁこっちはこっちで、がっつりと肉と炭水化物でエネルギーを補給することができた。ちなみにご飯はチキンライスではなくチャーハン。不思議と福神漬けの相性が良かった:

ガーリック風味のステーキがのったピネライス(一日限定)

キッチン・ゴン 御所東店
京都府京都市上京区河原町通丸太町下るオーキッド山下1F


ここからはオマケ。

こちらは上京区上御霊前通り近くにある御霊神社(ごりょうじんじゃ)。信長公の墓所がある阿弥陀寺へ向かう途中にあった:

御霊神社

この神社は、応仁元(1467)年に畠山政長が御霊の森に陣をおき、畠山義就と戦いを交えたのが応仁の乱の発端となった場所らしい。大乱のわりには小さな碑だった:

「応仁の乱勃発地」の碑

こちらが応仁の乱勃発の地の由緒。この乱は室町時代は応仁元(1467)年に勃発し約10年間続いた上に、京の都が灰燼に帰す元凶となった守護大名同士の内乱。その後、応仁の乱は地方にも飛び火し、関東でも古河公方と関東管領上杉氏、太田道灌、長尾景春、伊勢新九郎(北条早雲)らを巻き込んだ騒乱に影響を与えた。そして日の本の国は下剋上による戦国時代に突入していった…:

この場所が応仁の乱の勃発にゆかりがあるのだとか

そして、こちらは信長公の菩提寺である大徳寺・総見院へ向かう途中、堀川通り沿いで偶然にみかけた紫式部の墓所:

紫式部の墓所入口

平安時代中期の学者で女性作家、歌人。源氏物語の作者と考えられている。本名は不詳で、「式部」は官位と云われている。また没年も不詳で、現在伝わるのは全て推定なのだとか:

紫式部の墓所

紫式部の墓所の隣には小野篁(おの・たかむら)と云う平安時代の公卿で文人の墓もあった:

小野篁の墓所

最後に京都御苑。と言ってもキッチン・ゴンへ行く際に横切っただけだけれど、砂利の道を歩いていると不逞浪士が居ないかついつい周囲を気にしてしまう[c]お前は壬生浪士か?:D

京都御所南側の大通りから眺めた建礼門

こちらが京都御所の南門にあたる建礼門。檜皮葺、切妻造の四脚門である:

もとは平安京内裏の外郭門の一つだった建礼門

建礼門

こちらは仙洞御所附近。江戸時代の始めに皇位を退かれた後水尾上皇の御所として建てられた。現在は庭園になっている:

仙洞御所附近で、この先は大宮御所

仙洞御所附近で、この先は寺町御門

全ての御門を見てきたわけではないけれど、旧二条城の敷地近くには、かの有名な蛤御門があった:

蛤御門

元治元(1864)年、この門の周辺で長州藩と御所の警護にあたっていた會津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われた(禁門の変)。名前の由来は、江戸時代の大火で、それまで固く閉じられていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」にたとえて蛤御門と呼ばれた:

蛤御門

門の梁には、禁門の変(蛤御門の変)当時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っている:

蛤御門の柱には弾跡らしきものが残っていた

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also織田信長公墓所と本能寺の変 (フォト集)
See Also大徳寺散策と細川家墓所 (フォト集)

参照

参照
a それも大坂城のすぐそば。この出張は大変有意義だった。
b 一度目は高校時代の修学旅行だった。
c お前は壬生浪士か?

船橋あんぱん − Sweet Azduki-Bean Roll of Funabashi Specialized.

昨年は平成27(2015)年の早春に千葉県佐倉市にある城攻めに行ってきた。自身初の千葉県の城攻めということで事前にいろいろと調べてみると意外にも城址が多いことにびっくりした。改めて、これを期に全然「近場」である千葉県の城をどんどん攻めていこうと思ったり:)

で、記念すべき一回目は贅沢にも砦レベルを含めて、臼井城址臼井田宿内砦謙信一夜城、そして佐倉城といった4つの城址を見て回ってきた。なにやら後で知ったのだけれど、佐倉市内にはこの当時で確認されているだけでも58ヶ所も城址が存在しており[a]平成27(2015)年現在。佐倉市役所発行の「お城のあるまち佐倉」のパンフレットより。、一つの駅でまとめて攻めることができるとても便利な環境だった:D

この日はJR船橋駅から連絡通路を通って京成船橋駅へ向かい、そこから京成津田沼駅を経由して京成本線の京成臼井駅と京成佐倉駅でそれぞれ城攻めしてきた。もちろん、帰りも京成船橋駅とJR船橋駅を利用したので、この二つの駅の間にある船橋FACEなるビルの中を行き来していて目に写ったのがHearthBrownというパン屋に張ってあった「船橋あんぱん[b]さらに一日限定300個というキャッチフレーズも。」の幟。いかにもB級グルメっぽいネーミングなので記念に1個(150円)購入してみた。

これが専用のケースに入れられた船橋あんぱん。上面に「船」の文字が焼き印されていた:

船橋あんぱん(150円)

これを縦に切ってみたのがこちら:

クリーム+餡=船橋あんぱん

味はというと、やっぱりクリームが勝ているというか、こし餡だったのであまり餡パンのインパクトは感じられなかった。ここは、やっぱり粒餡でしょ=)。パン生地も薄いのであまり食べごたえがなかったもの残念。

HearthBrown
千葉県船橋市本町1-3-1


ここからはオマケ。

佐倉市は江戸時代に栄えた城下町の一つであり、佐倉城址公園へ向かって街中を歩いているとこんな茅葺きの家を見ることができた:

佐倉城址公園近くで見たいい雰囲気の民家

ここ佐倉藩は江戸時代には老中や大老などの要職についた偉人を多く輩出している藩の一つであるが、明治の世になり帝国陸軍の佐倉連隊が駐屯するようになると、佐倉城内の建築物はもちろん、堀や土塁などが多く改変されてしまい往時の遺構はほとんど残っていないと云う悲しい歴史を持つ。一応、昭和の世になると発掘調査が行われ復元整備が進んだおかげて、なんとか「城址」というレベルを維持できてはいるが :X

ただ城マニアとしては残念なことに、この城址公園には佐倉連隊が駐屯していた頃の「無用な爪痕」がしっかりとのこっていることだった。

例えば衛兵所跡だとか:

ここに衛兵が立ち、連隊を出入りする者を監視した

高所から飛び降り訓練に使用したコンクリート製の階段だとか:

訓練用の12階段

はたまた兵営の便所跡とか…:

佐倉連隊の便所跡

…城址とは全く関係の無い遺構(?)がいろいろ残っているし、他にも県指定天然記念物でもある「佐倉城の夫婦モッコク」の幹に佐倉連隊の兵士が落書きしたとか弾薬庫の跡とか:

弾薬庫の跡

姥ヶ池西側坂道を登った奥の窪地にある

さらに何の建物かわからないものが残っていたり:

何の小屋か不明

また、先ほどの衛兵所跡には古園(ふるぞの)石仏大日如来像[c]実物は大分県臼杵市深田にあるのだとか。のレプリカなるものが置かれていたり…:

古園石仏大日如来像(レプリカ)

…と云った感じで、佐倉城はなんで百名城なのか不思議に思えてきた。

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also臼井城攻め (フォト集)
See Also臼井田宿内砦攻め (フォト集)
See Also謙信一夜城攻め (フォト集)
See Also佐倉城攻め (フォト集)

参照

参照
a 平成27(2015)年現在。佐倉市役所発行の「お城のあるまち佐倉」のパンフレットより。
b さらに一日限定300個というキャッチフレーズも。
c 実物は大分県臼杵市深田にあるのだとか。

旧東海道金谷坂石畳 − The Old Tōkaidō Highway on Stone Pavement at Kanaya.

昨年は平成27(2015)年の初春に静岡県島田市金谷に残る諏訪原城址を攻めてきたのだけれど、ここ金谷は、この甲州流築城術を駆使した壮大な山城がある町として有名な他に、旧東海道筋の宿場町として古(いにしえ)の街道の面影を残す町であった。ということで、城攻めのあとに、復元だけど由緒ある石畳の坂道を下りて駅に向かった。

まず諏訪原城址の周囲や城内の一部は茶畑、茶畑、茶畑だった。さすが静岡。御茶の国だ。そんな感じで周囲を見渡していたら、なにやら気になる風景が目に入ってきた:

城址の周囲は茶畑だった

そして、よ〜く見ると、なんと山裾に「茶」の文字が:O

ここまでくると芸術だ

以前は城の二の曲輪は茶畑だったとか。なんとも贅沢な。で、これは大量のカテキンを有する葉っぱ:

さすがはお茶の国、静岡

まだまだ寒い冬なのに青々と一面に茶畑が広がっていた:

見渡す限りの茶畑

これは1月下旬の静岡

こちらは城址で見つけた蜂の巣の「化石」:

城址の本丸に落ちていた蜂の巣の化石

それからJR金谷駅へ向かって旧東海道を歩いて行くと芭蕉句碑なる碑が建っていた:

【芭蕉句碑】金谷坂石畳峠


「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」(芭蕉)

そして、この碑の目の前には旧東海道金谷石畳(復元)があった:

復元された旧東海道金谷坂の石畳下り口

ちなみに旧東海道は、徳川家康が慶長6(1601)年に制定した東海道伝馬制度で整備された、いわゆる「高速道路」である。ここ金谷宿は江戸から51里(約204㎞)、品川宿から数えて24番目の宿場町として定められ天領(幕府の直轄地)であったと云う。

この金谷坂は、急坂な上に粘土質(いわゆる関東ローム層)であるため雨が降るたびに滑りやすく、大名行列や旅人らは大変難儀していたとか。このため文久2(1862)年あたりに石畳が敷設されたと推測されている。その後、近世に一度はコンクリート舗装されてしまったが、平成3(1991)年に金谷の「町おこし」の一環で71,000個の山石を用いて、430mの石畳が復元されたのだとか:

町おこしで復元された旧東海道金谷坂の石畳

それに加えて、この石畳、多くの人達が歩いてきたからだろうが、いざ歩いて見ると結構すべりやすい:/。下りだったので体重が乗っかると足の裏が痛くなってきた: 

江戸時代に整備された石畳を復元したもの

この石畳、復元ではあるが、よく出来ていた:

歩いていると足の裏が痛くなってきた

復元された金谷坂石畳

石畳の坂を下りていく途中にすべらず地蔵尊なる六角堂が建っていた:

すべらず地蔵尊

この先は国道R473

最後は国道R473から見下したJR東海道本線の金谷駅:

もちろん人生で初めて乗り降りした駅

冬晴れのちょっと肌寒い週末の静岡県だった。

旧東海道金谷坂石畳
静岡県島田市金谷坂町

 

Hiroshima business trip.

1ヶ月ほど。その前半は時季が時季だけにとにかく暑かった。で、後半は逆に台風の影響で大雨といった大雑把な天候。週末はできるだけ観光。ということで整理したものを My Gallerey にアップロードしておいた。

宮島/厳島神社/豊国神社
ちょうど水中花火大会があるとのことで、混雑を避けるために昼間に観に行ったものの酷暑にヘトヘトになり、参拝して直ぐに戻ってきた。ちなみに、秀吉と清正を祀っている豊国神社(とよくにじんじゃ)、別名「千畳閣」の年季の入った床模様を My iPhone の壁紙にしている:
宮島-24.jpg
See Also 宮島と厳島神社

錦帯橋/岩国城/錦川水神社
JR岩国駅前からバスで20分ほど。岩国城へはロープウェイと徒歩で。本丸天守閣は復元されたもの。山道コースだと昔ながらの石垣が見られる。iPhone のパノラマモードで撮った景色は格別。麓にある錦川水神社で引いたおみくじは大吉;)。しかしながらこの日も暑かった:
岩国城_錦帯橋-74.jpg
See Also 錦帯橋と岩国城

大和ミュージアム/鉄のくじら館
打って変わって、この日は大雨。レンガ通り近くの回転寿司で瀬戸内の魚を食していざ出陣。残念ながら、1/10スケールの大和の全景を一度も収めきることができなかった ;(。フルスケールでの零式艦上攻撃機も圧巻。ちなみに鉄のクジラ館の入場料は無料:
大和ミュージアム-03.jpg
See Also 呉市海事歴史館
See Also 海上自衛隊呉史料館

原爆ドーム/広島城
自分的には原爆ドームよりもその横を流れる元安川の方が何か引き寄せられるものがあったが…:|
あと、広島城って大雨の中を折りたたみ傘を持って歩いて行ったけど地下通路からも行けたんだなぁ :O:

原爆ドーム_平和記念公園-13.jpg
広島城-15.jpg

See Also 広島城本丸と二の丸
See Also 原爆ドームと平和記念公園付近と呉冷麺
最後に、この後半の大雨で帰りの新幹線が動かず。広島駅まで行って改札口が大騒ぎになっていた。結局は全額キャンセルして次の日の便で帰ってきたけど、本当は乗車時間すぎたらキャンセルできないんだねぇ。知らなかった。