History」カテゴリーアーカイブ

道灌うどん − “The Udon” shop in the country.

今週は令和3(2021)年のGWも終りの頃[a]東京都で三度目の緊急事態宣言が発令中だった。自分の居住地区はまん延防止等充填措置中。N501Yの蔓延が危惧される中を十分な感染対策を意識したが、天気が良かったので帰りの電車はけっこう混雑していた :-(、晴天の日を選んでいて先のばししていた埼玉県入間郡にあった城攻めへ。

ただ城は砦規模で小一時間ほどで攻略できそうだったので、その前に名将・太田道灌公の墓所がある菩提寺の龍穏寺《りゅうおんじ》に足を運んできた。天気が良かったので最寄りのバス停から歩くことに[b]川越観光自動車の黒山線で上大満《かみだいま》というバス停で下車し、そこから片道30分ほど。。こんな時期にあって多くの人は車で来ていたようだけど、サイクリングやツーリングでやって来る人達がも多かった。

菩提寺から越生《おごせ》駅へ戻ったら、次は駅の東口(山吹口[c]ちなみに西口は道灌口。)から歩いて越辺川《おっぺがわ》を渡った先にある太田道灌ゆかりの地として伝わる山吹の里歴史公園へ。やまぶきの花は既に終わっていたが高台へ登ると越生町を眺めることができた。

公園を出たら、お昼をどこかで適当に摂って越生神社の裏にある城跡を攻めようと思い、再び越生駅へ戻ろうとしたら「うどん屋」の看板が目に入った:

IMG_7962.resized

「ザうどん・道灌うどん」

この街が押している太田道灌の名前を冠したお店と云うことで、せっかくなので駅へ向かう前にこの店で腹ごなしすることにした ;)

IMG_7963.resized

道灌うどん(以前は中華料理屋)

長机と椅子を並べただけの、いたってシンプルな店内には既に六組ほどのお客がいた。手を消毒して入るとすぐ券売機があったので肉汁うどん(600円)の食券を購入:

IMG_7964.resized

基本的に麺がなくなり次第閉店らしい

券売機の奥が厨房になっていて、中では店主の男性とアルバイトらしき女性が大忙しに調理していた。店頭にあったとおり「セルフオーダー」のようで食券を持って立っていたが、なかなか注文をとりにきてくれないくらい忙しそうだった :O。やっと来てくれたと思ったら「順番に出すのでちょっと待ってくれ」と云われ、仕方がないので先に席を確保し、こちらもセルフの水を取りに行ってから再び厨房前へ行くと女性がフォローしてくれた。

それから20分ほど待って、「肉汁うどんの方」って呼ばれた[d]順番を管理している暇も無いようで、他のお客とかぶるケースがあったので少し困惑した。ので厨房前の受け取り口へ行き、うどんと受け取ってきた:

IMG_7965.resized

肉汁うどん(600円)

温かいつけ汁にはネギと鶏肉が薬味として入っていた。うどんの方は手打ちらしい太さがバラバラの麺。つけ汁につけて食べると、適度な縮れもあって、のど越しも良かった。大盛り(50円)でもよかったかなぁと少し後悔したが、自分のあとの二組目くらいで麺が無くなったようで、あらたに入って来たお客は残念そうに出ていったっけ。

割引券をもらったので、また来てみよう :)

道灌うどん
埼玉県入間郡越生町如意435-23


ここからはオマケ。

越辺川に架かる山吹橋。正面に見える杜が山吹の里歴史公園。この橋を渡って右手すぐに道灌うどんがある:

IMG_7961.resized

山吹橋

太田道真・道灌父子の菩提寺である龍穏寺へ向かう道は舗装されており、さらに周囲は「マイナスイオンの宝庫」。天気がよく気持ちのよいハイキングになった上に、いろいろな「もの」に遭遇したっけ。

こちらは龍穏寺の山門。大正時代の初めに火災で多くの堂宇を焼失したが、それを免れた歴史的建築物の一つ。天保13(1842)年の再建:

IMGP4194.resized

龍穏寺の山門

一階には仏法を守護する四天王(毘沙門天、持国天、増長天、広目天)が祀られ、二階には観音菩薩、八大神将《はちだいしんしょう》と十六羅漢《じゅうろくらかん》[e]御釈迦様の弟子のうち特に優れた代表的な16名の弟子。が祀られている。

境内には太田道真・道灌公の墓所の他に銅像もあった:

IMGP4208.resized

龍穏寺(埼玉県入間郡)の道灌公像

その昔、神奈川県伊勢原市で公の墓所を巡ってきたが、その際も公の銅像についてまとめていたので、ここで再びまとめてみた:

伊勢原市役所前の道灌公像

芳林寺(埼玉県さいたま市)の道灌公像

川越市役所(埼玉県川越市)の道灌公像

JR日暮里駅前の道灌公像

20180520-江戸城外郭巡り-025.resized

東京国際フォーラム(東京都千代田区)の道灌公像

これ以外にも静岡県東伊豆町や長野県佐久市にも公の銅像があるらしい。機会があれば是非、写真に納めたい。

こちらは龍穏寺へ行くまでに目にした風景:

IMGP4181

杜(拡大版)

こちらは越辺川の支流:

IMGP4175.resized

越辺川の支流

草花たち:

IMGP4178.resized

菖蒲

IMGP4283.resized

藤の花

清流渓谷[f]地形《じぎょう》の衝上断層のこと。の案内板からの眺め:

IMGP4269.resized

巨石

IMGP4270.resized

清流

人間が近くにいることも気づかずに、ひたすら餌をさがしていた子イノシシ。このあとカメラを向けていた自分に気づいて一目散に走って消えた:

IMGP4275.resized

餌探しに夢中のイノシシ

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also太田道灌公墓所巡り (2) (フォト集)
See Also太田道灌ゆかりの地巡り (フォト集)
See Also武州高取山城攻め (フォト集)

参照

参照
a 東京都で三度目の緊急事態宣言が発令中だった。自分の居住地区はまん延防止等充填措置中。N501Yの蔓延が危惧される中を十分な感染対策を意識したが、天気が良かったので帰りの電車はけっこう混雑していた :-(
b 川越観光自動車の黒山線で上大満《かみだいま》というバス停で下車し、そこから片道30分ほど。
c ちなみに西口は道灌口。
d 順番を管理している暇も無いようで、他のお客とかぶるケースがあったので少し困惑した。
e 御釈迦様の弟子のうち特に優れた代表的な16名の弟子。
f 地形《じぎょう》の衝上断層のこと。

弁天洞穴 − Ajiro Benten-yama Cave.

今年は令和3(2021)年の雨水《うすい》の候。それまで厳しい寒さが続いていたのに気温が17℃近くまで上がった週末、COVID-19 感染者が高止まりの気配をみせていた中を東京のあきる野市[a]平成7(1995)年に秋川市と五日市町内が合併してできた東京都多摩地域西部にある市。にある山城(リンクはPDF)を攻めてきた。

こんな時期でもあるし、天気がよく暖かい週末だったのでハイカーらと遭遇する可能性が高そうだったが[b]実際、多くのハイカーや家族連れに遭遇した。、感染対策をして本年最初の城攻めを楽しんできた。ただ緊急事態宣言下での日頃の生活のせいでだいぶ体が鈍っていたのか、城攻め翌日には足がつるなど筋肉痛に見舞われてしまったが :$

まぁ逆に云えば、それだけ山を登り降りしてきたと云うことになるのだけど、城跡の規模が小さかったので確認できそうな遺構をできるだけ見てこようと思った歩き回ったからか :D

で、この日はJR青梅線の武蔵増戸駅からスタート。途中、コンビニでお昼を調達し網代山・弁天山を目指した。当初は、あきる野のホームページにあった『春の弁天山〜小峰公園を満喫』(リンクはPDF)なる記事の中で紹介されていた網代橋を渡って行くコースを利用しようと思っていたのだが、前日に見ていた某登山者向けSNSで、現在この橋は通行不可であることを知った。自治体のホームページには何も書いていなかったが。ホント、自治体のホームページって「情報発信と共有」って基本ができてないよなぁ:|[c]以前も茨城県のとある城跡を攻めた時、現地へ行って初めて立入禁止って知ったケースがあった。台風による倒木が多数あったらしい。どこにもそんな情報は発信されていなかった 👿 。なんのためのホームページなんだろう。さらにホームページ以外で得られた他の情報によると、網代橋は平成31(2019)年の台風19号で被害を受けたらしい。

幸か不幸か事前に情報を入手することができのだが、結局はこの橋を渡れないため、かなりの距離を遠回りする羽目になった :(
こちらが現地へ行って知った迂回路の説明板[d]帰りに、これと同じものが武蔵増戸駅出入り口付近に貼ってあったのを見かけた。行きは全く気づかなかった…。

IMGP3415.resized

現地へ行かないとわからんとは!

秋川を渡るのに使ったのは網代橋ではなく山田大橋:

IMGP3400.resized

山田大橋

でも悪いことばかりではなかった :)。橋の上から秋川を含む周辺の景色の眺望が良かった:

IMGP3410

西多摩の大岳山と御嶽山(拡大版)

秋川の水面を泳いでいた鴨たち:

IMGP3407.resized

秋川と鴨

そして、本日の目的地である網代城山(写真中央あたり)と弁天山(その左横あたり):

IMGP3405

秋川と網代弁天山(拡大版)

山田大橋を挟んで反対側には東京サマーランドのゴンドラが見えた:

IMGP3457

東京サマーランドの裏も城跡(拡大版)

迂回ルートで見かけた五日市トンネル。このトンネルの上が城跡:

IMGP3419.resized

五日市トンネルと都道R61

こちらも迂回ルートで見つけたのだけど、超巨大な堀切と土橋に見えた :O

IMGP3420.resized

急カーブ

IMGP3422.resized

のつづき

IMGP3423.resized

がここまで

これなんかは、もう「現代の土橋」にしか見えない :D

IMGP3421.resized

両脇は谷

弁天山の登山口を示す標柱:

IMGP3424.resized

「網代弁天山」方面へ

こちらが登山口(弁天山東側)。赤い鳥居は貴志嶋神社《きしじま・じんじゃ》のもの:

IMGP3427.resized

網代弁天山登山口+貴志嶋神社の鳥居

ちなみに、この脇にあるのは東京でも珍しい棚田:

IMGP3429.resized

棚田

神社の参道でもある登山道は整備されていたし、急斜面ではないので特に苦労はない。鳥居をくぐって登山道を進んで行くと、貴志嶋神社の社殿(と弁天洞穴)へ向かう道と弁天山・網代城山へ向かう道の分岐点に至る:

IMGP3438

左奥が貴志嶋神社の社殿、正面上が弁天山・網代城山方面(拡大版)

そして、この辺りはその昔は昭和の時代に「網代弁天山公園[e]執筆現在、あきる野市のホームページには「網代弁天山公園」なる情報は無かった。おそらく過去の遺物となったのであろう。」として近くの網代温泉と共に賑わった観光地だったらしく、弁天山リフトなる乗り物が造られていたらしい。現在でもこの辺りに残る遺構から、その面影を見ることが出来た:

IMGP3437.resized

尾根側

IMGP3439.resized

敷設跡

このあと、一通り城攻めを終えて下山する際に弁天山へ立ち寄った。城攻めする前に登山したんだけど、かなり狭いエリアに大勢のハイカーが休んでいたので後回しにしていた。ついでに「弁天洞穴」なるパワースポットにも立ち寄ってきた:

20210214-網代城攻め-002.resized

下山は弁天山から南回りで

この狭いところが弁天山の山頂。標高は292m:

20210214-網代城攻め-078.resized

弁天山山頂

山頂からの眺望。ちょうど福生・拝島方面にあたり横田基地や、さらに西武ドーム(メットライフドーム)が見えた:

IMGP3543

山頂から南回りで下りるコースは意外と難所だった:

IMGP3544.resized

ここから下りる

北回りの平凡な尾根道と違い、こちらは急斜面の上に巨石がゴロゴロしていた:

IMGP3545.resized

IMGP3546.resized

弁天山山頂の南側に生えていた巨木[f]これが遠くからの目印になる。

IMGP3547.resized

弁天山の目印

急斜面を下りていくと「洞窟」なる案内板が見えてきた:

IMGP3551.resized

弁天洞穴

ここは貴志嶋神社の奥の院にあたり、実際に洞窟の中に入ることができるらしいが、自分は入らなかった[g]というか、入って良いものか分からなかった。バチでも当たると嫌だったし。。大黒天像や毘沙門天像が置かれているらしい:

IMGP3555.resized

奥の院

IMGP3554.resized

これが入口らしい

他にも幾つか洞穴があったので一つづつ参拝しながら進んでいくと貴志嶋神社の社殿と神楽殿が見えてきた:

IMGP3557.resized

神楽殿と社殿

貴志嶋神社の総本社は広島県にある厳島神社と福岡県の宗像大社。御祭神は弁財天とも云われる市杵嶋姫命《いちきしまひめのみこと》。水・芸能の神様であり、学問の神様。御利益は美容健康・水難守護・航海安全・商売繁盛・技能向上。

二拝二拍一拝で参拝する際の「となえことば」。先に三回唱えてから参拝するものらしい:

IMGP3561.resized

「となえことば」

山頂とは異なり、空気が冷たくシーンと静まり返っていた厳粛な雰囲気の境内と山林を切り開いて作ったような参道:

IMGP3562.resized

こちらが本来の参道

IMGP3560.resized

こちらは鳥居からの参道

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also網代城攻め (フォト集)

参照

参照
a 平成7(1995)年に秋川市と五日市町内が合併してできた東京都多摩地域西部にある市。
b 実際、多くのハイカーや家族連れに遭遇した。
c 以前も茨城県のとある城跡を攻めた時、現地へ行って初めて立入禁止って知ったケースがあった。台風による倒木が多数あったらしい。どこにもそんな情報は発信されていなかった 👿
d 帰りに、これと同じものが武蔵増戸駅出入り口付近に貼ってあったのを見かけた。行きは全く気づかなかった…。
e 執筆現在、あきる野市のホームページには「網代弁天山公園」なる情報は無かった。おそらく過去の遺物となったのであろう。
f これが遠くからの目印になる。
g というか、入って良いものか分からなかった。バチでも当たると嫌だったし。

丸満餃子・本店 − This is just not a GYOZA Restaurant.

先週は令和元(2019)年の長月最後の週末、このところ休日ときたら天気が悪くて少し苛ついていたが、この時は一日だけ晴れ間が続くとの予報だったので、これまでに「お流れになったプラン」から茨城県古河市にあった城跡を攻めてきた。

江戸時代には古河藩の藩庁が置かれていた古河城は渡良瀬川(わたらせがわ)とそれを利用した水堀で囲まれた平山城で、天守に相当する御三階櫓が建っていた。幕府の将軍が日光社参する際に寄宿した城であり、城主は幕府の要職を務めるものが多く、同じ市内に菩提寺がある大老の土井大炊頭利勝(どい・おおいのかみ・としかつ)は有名である[a]他にも大老に堀田正俊、老中に永井尚政(ながい・なおまさ)、松平信之、本多忠良(ほんだ・ただなが)、土井利厚(どい・としあつ)、土井利位(どい・としつら)らが居る。。しかし、そんなにすごかった城は現在は跡形もない。戊辰戦争では戦火を避けることができたが、廃藩置県による廃城令で主な建造物は破却された上に、度重なる氾濫を引き起こした渡良瀬川の洪水対策として堀を含む城域の殆ど全てが埋め立てられて消滅し一部は宅地化されていた :O

そういうことで現在の城跡と云うと、破壊や宅地化を免れた一部の土塁の他、縄張を表す標柱などを見たり、古河にゆかりある御仁の菩提寺を参拝するだけではあるが、広範囲にわたって移動する必要があり徒歩では時間がかかって大変なのでレンタサイクルの「コガッツ」(無料)を活用してきた ;)

そんな古河市内巡りの合間、昼ごはんを食べてきたのが創業昭和39年の丸満餃子と云う老舗の「餃子」店だった:

丸満餃子・本店

昼時を外して行ったのだけど、流石の休日で店内は満員。名前を記載してしばし待つ。その間に店のメニューを見ていると餃子は焼き・蒸し・茹での三種類だけで、他にラーメン、ほんとん[b]このお店オリジナルのワンタンメンらしい。、もんじゃ焼き、鉄板焼き、お好み焼き、鍋料理など大部分が餃子以外の料理だった〜 :)。それから待つこと10分ほど相席御免の座敷のテーブルにとおされた。

まぁ自分は『20種類の具材の旨さが味わえる餃子』を食べにきたので、ここでは迷わず餃子定食(1,026円)を注文した:

IMG_7320.resized

餃子定食(1,026円)

出てきたお膳にはオススメの焼き餃子が8個の他、ご飯と味噌汁、そして小鉢と香の物が載っていた。まるでパンのような形をしたこの餃子は、どこから食べても同じように皮と中身を味合うことができるのだそうだ。さらにテーブルの上にあった「食べ方」によると本来は料理が出て来る前にタレを作っておくものらしい:O。まったく気づかなかった。さらに料理が出てきたら一個目の餃子はタレをつけずにそのまま食べるのがオススメで、皮のカリカリ感やショリショリした食感を堪能できるらしい。

と云うことで一口ぱくっといってみたら、マジで火傷しそうな熱さのため味を堪能するどころではなかった :$

IMG_7322.resized

一秒でも早く、まずは一口食べる

こんな猫舌の自分は数秒待ってから食べればよかったと後悔し、忘れていたタレを作ることにした。小皿が二枚あるので二種類のタレを作る。ひとつ目は「お酢+醤油+ラー油+ニンニク」と「マヨネーズにコチュジャンをアレンジした丸満特製餃子のタレ」:

IMG_7323.resized

餃子のタレ二種(左が醤油ベース、右がマヨネーズベース)

意外とマヨネーズ味の特製タレは旨かった。ただ宣伝していたほど具材本来の旨みは感じられず、感覚的にも餃子ではなく何か別の包料理を食べているといったイメージが大きかった :|。あと、こんな餃子にはご飯よりもビールの方が合うな。

丸満餃子・本店
茨城県古河市本町1-2-39


ここからはオマケ。

まずはJR古河駅東口近くにある駅前子育てひろば わんぱくステーションで「コガッツ」なる古河市観光自転車を借りた。料金は無料で、住所と電話番号を伝え、身分証明書を提示する。返却は17:00まで:

IMGP8305.resized

この日の相棒は「コガッツ」

まず、こちらは城跡とは関係ないが、江戸時代には日光街道沿いの城下町として栄えた古河にあって美味な「鮒の煮付け」といった川魚料理を提供するぬた屋[c]但し、甘露煮は砂糖や醤油が手軽に手に入った明治時代から。それでも160年の歴史を有する。。店の構えがいかにも城下町っぽい:

IMGP8092.resized

鮒甘露煮のぬた屋

七福神の恵比寿様を祀る恵比寿神社と、蔵屋敷っぽいところに趣があるお休み処の坂長

IMGP8104.resized

恵比寿神社

IMGP8105.resized

古河のお休み処・坂長(さかちょう)

こちらは市立古河第一小学校の校門。一部のレンガが崩壊しているようで、現在は開門していないらしい:

IMGP8107

茨城県古河市立古河第一小学校の校門(拡大版)

かっての古河城・諏訪曲輪跡に建つ古河歴史博物館と通りを挟んで向かいにある鷹見泉石記念館は、古河藩士が住んでいた武家屋敷の一つで、もっぱら藩で蘭学に勤しんだ家老・鷹見泉石(たかみ・せんせき)が隠居後に住んでいた建物として保存されている[d]但し、敷地面積は往時の半分となっている。

IMGP8138.resized

鷹見泉石記念館

IMGP8140.resized

鷹見泉石記念館

一説に、この屋敷は寛永10(1633)年に当時の城主・土井利勝が御三階櫓を建てた際に残った廃材を利用して建てられたとも:

IMGP8141.resized

玄関口

IMGP8163.resized

玄関口

玄関口と行書字額(ぎょうじょじがく)「可琴軒」(かきんけん)。可琴軒は鷹見泉石の雅号(がごう)の一つ:

IMGP8143

玄関口(拡大版)

IMGP8145.resized

行書字額の「可琴軒」

屋敷の軒先と座敷:

IMGP8154.resized

屋敷の軒先

IMGP8149

座敷(拡大版)

この他に記念館の敷地には女流南画家(なんがか)・奥原晴湖(おくはら・せいこ)の画室が移築・復元されていた:

IMGP8165.resized

奥原晴湖画室の玄関

IMGP8167.resized

奥原晴湖画室

県道R9沿いの頼政神社の参道入口:

IMGP8208.resized

頼政神社の参道入口

祭神は文字どおり源頼政公。平安時代末期に平氏に敗れた源頼政が平等院鳳凰堂で自刃した後に従者が首級を持ち帰った際、関東下総国古河の立先(龍崎)に塚を作って祀ったとされる。そして古河城となった後も祀られていたが廃城後の河川改修工事のため大正時代に現在地に移転された。

この場所は古河城跡の遺構の一つである観音寺曲輪の土塁の上である:

IMGP8218

頼政神社の境内(拡大版)

元禄9(1696)年当時の城主・松平信輝は城内に先祖の源頼政公の廟所があることを知り、社殿を修築しこれを祀ったと云う。その際に大灯籠や手水鉢などが寄進された。この狛犬もまた寄進された品で、江戸時代前期の作風を今に伝える石造遺品である:

IMGP8223.resized

寄進者が不明の狛犬

IMGP8224.resized

寄進者が不明の狛犬

こちらは古河藩初代藩主で幕府の老中・大老を務めた土井大炊頭利勝公の菩提寺である正定寺(しょうじょうじ):

IMGP8231

正定寺(拡大版)

渡良瀬川に架かる三国橋から河川敷を眺めたところ(パノラマ):

IMG_7325-PANO

渡良瀬川の河川敷(パノラマ)

渡良瀬川の水位確認尺:

IMGP8286

今尚、氾濫の恐れあり(拡大版)

かっては古河城であった渡良瀬川の土手。この土手上に本丸跡の石碑があった(パノラマ):

IMGP8280-PANO

古河城址本丸付近(パノラマ)

こちらは古河公方居館跡に建つ古河公方公園から御所沼を眺めたところ:

IMGP8319

古河公方公園(拡大版)

最後は、この日に出会った動物たち。土手上のサイクリングロードで出会ったバッタと、陸上自衛隊・古河駐屯地脇の小川にいた大量のカルガモたち:

IMGP8314.resized

バッタ

IMG_7329.resized

カルガモたち

この時のフォト集はこちら:

See Also古河城攻め (フォト集)
See Also古河公方居館攻め (フォト集)
See Also永井直勝公墓所・土井利勝公墓所・鮭延秀綱公墓所 (フォト集)

参照

参照
a 他にも大老に堀田正俊、老中に永井尚政(ながい・なおまさ)、松平信之、本多忠良(ほんだ・ただなが)、土井利厚(どい・としあつ)、土井利位(どい・としつら)らが居る。
b このお店オリジナルのワンタンメンらしい。
c 但し、甘露煮は砂糖や醤油が手軽に手に入った明治時代から。それでも160年の歴史を有する。
d 但し、敷地面積は往時の半分となっている。

手打麺処・寿限無茶屋 − A Hand-Kneaded Noodle at the Traditional Architectures.

先週は、令和元(2019)年の暑いお盆休みは『桶狭間古戦場』を巡るため三泊四日の日程で愛知県へ。初日は炎天下[a]同じ時期に台風が日本列島を縦断する予報があったので、どうなるものかとハラハラしたが、旅行の大部分はフェーン現象の煽りを受けてとにかく大変な暑さだった 😥 。の中を主に織田勢の砦跡などを巡ってきたが、二日目はこちらも酷暑の中を今川勢に関係のある史蹟や城跡を巡ってきた。

この日の午前中は、宿泊先の三河安城(みかわあんじょう)を朝8時前に出て刈谷(かりや)と知立(ちりゅう)を経由し名鉄の中京競馬場前まで移動。この駅の近くにある桶狭間古戦場伝説地からスタートして、今川義元の本陣跡や桶狭間古戦場公園、信長による義元の首実検が行われた長福寺、信長が嵐の中を桶狭間山へ向かって駆け上ったとされる「信長坂」、そして今川勢の先陣が陣をおいたとされる高根山などを3時間近くかけて[b]涼を取るために無人のコインランドリーや巨大なホームセンターなどに立ち寄ったり、コンビニで水分補給するなどの時間を含む。ホント、外に立っているだけで暑さにヤラれる大変な天気だった。や徒歩で巡ってきた。

お昼は、有松の伝統的な町屋建築が残る旧東海道沿いにあった手打ちうどん屋で頂くことにした:

IMG_7162.resized

手打麺処・寿限無茶屋

この味わいあるとおりには残念ながらお食事処が少なかったこともあって、昼時を外して行ったもののほぼ満席。オマケに店員が少なくて新規の注文や片付けができていない「てんやわんや」状態だった。自分も店に入ってから席が片付けられるまで10分ほど待つ羽目に :$

席についてもなかなか注文をとりにきてくれず、自分も午前中は予想外の暑さのため休憩を多くとったため、ちょっと予定より時間が押していたため諦めて店を出ようかと云う思いがよぎったが、ここで何か食べておかないと午後の城攻めに響くような気がしたので我慢して待つことにした。幸いにも向かいに座っていた年配の方(地元の人)が話し相手になってくれたので大分気を紛らわすことができたが :)

そして20分ぐらい待ったあとに、このお店のオススメ「梅おろし」(860円)が出てきた:

IMG_7161.resized

この店オリジナルの梅おろし(860円)

なにやら三年間、自家製の完熟梅を蔵で熟成させたソースがかかった冷やしうどんだそうで。他に紫蘇、天カス、胡瓜がのっていた。午後も歩きづくめを考えたら丼物を考えたけど、ちょっと夏バテが入っていたので選択したのが、店オリジナルのひと品。

うどんはコシ強く、ちょっとキツ目の酸味の効いたタレが絶妙。胡瓜と梅の組み合わせにより午前中の暑さから解放され、午後の暑さにもバテること無く城攻めすることができた。大盛りにはしなかったけど腹持ちしたし、大変に素晴らしいうどん。これは予想外でちょっと感動した 8)

手打麺処・寿限無茶屋(じゅげむぢゃや)
愛知県名古屋市緑区有松2339


ここからはオマケ。

こちらは名鉄・中京競馬場前駅・南口のホーム脇に建っていた「よろいかけの松旧地」の碑。信長が桶狭間の戦いに勝利して凱旋途中、休憩のため鎧をかけたとされる松があったと云う。大正時代まで立っていたそうだが現在は石碑のみ:

IMGP7406.resized

「よろいかけの松旧地」の碑

こちらは駅ちかくにある「桶狭間古戦場伝説地」に建つ石碑。ここには、この他にも義元の墓や七石表なる石碑群、さらに桶狭間の戦いに関する説明板があった:

IMGP7391.resized

「桶狭間古戦場址」の碑

ここは愛知県豊明市が管理しているが、実はもう一つ同じ桶狭間古戦場として、あとで行くことになる名古屋市が管理する桶狭間古戦場公園が離れたところにある。

実際のところ、現存する古戦場跡はすべて「伝承地」であり、古文書に記載されている遺構が複数あるそうで、どれが本物であるかは確認できないとのこと。

そして伝説地と通りを挟んだところにある古刹・高徳院の境内には「今川義元公本陣跡」の碑が建っていた:

IMGP7412.resized

「今川義元公本陣跡」の碑

この他、墓所脇には今川勢の先鋒・松井宗信の墓もあった。

高徳院を出て、炎天下を徒歩20分くらいかけて桶狭間古戦場公園へ向かった。途中、義元本陣跡に立ち寄ったが、この時点で体の沸点が限界に近づきつつあったので、公園近くの DCM Kahma 桶狭間店 なる巨大なホームセンターに立ち寄って、しばしの涼をとった :O。この後も、クーラーがかかったこのお店には何度か足を運ぶことになり大変ありがたかった。でも何度もぶらぶらしているのもなんなんで、最後は汗拭いにタオルを購入したっけ。

こちらは公園内に建っていた織田信長と今川義元の銅像:

IMGP7437.resized

「織田信長公」像

IMGP7440.resized

「今川義元公」像

義元公の墓碑:

IMGP7434.resized

「今川義元の墓」碑

公園を出て南にある「大池」と云う貯水池前を通って長福寺[c]桶狭間の戦いの後、信長が境内で義元やその武将の首検証をしたとされる。にも足を運んだ:

IMGP7467

大池(拡大版)

IMGP7453.resized

マガモたち

この後は、あまりの暑さで桶狭間神明社という神社に立ち寄るのをうっかり忘れてしまったが、さらに井伊直盛陣地跡、七ツ塚を経由して武路釜ケ谷・信長坂へ移動した。これがまた大学の敷地内にあったため、暑い中をぐるりと回り込んで大学の正門へ移動する羽目に。お盆休み中とあって構内はひっそりとしていたが、なんとか[d]結果的には無断で立ち入ることになったが、なぜ大学の敷地を通らないと史跡にいけないのだろうか。辿り着いた:

IMGP7481

豪雨の中を駆け上った信長坂(拡大版)

そして、お昼を摂った寿限無茶屋周辺は旧東海道にあたり、江戸時代には尾張藩の奨励で有松町屋が造られたとされる伝統的な場所。とういことで有形文化財に指定された豪壮な町屋の一部が残されていた:

IMGP7509.resized

旧東海道有松の町屋街跡

IMGP7510.resized

旧東海道有松の町屋街跡

服部良也邸土蔵(愛知県指定文化財・都市景観重要建築物指定)。この家は寛政2(1790)年創業の絞問屋(しぼりどんや)。有松・鳴海を中心として作られた手ぬぐいなどの絞り染めの名産地である:

IMG_7163.resized

服部良也邸土蔵

IMG_7164.resized

服部良也邸土蔵

同じく有松絞りの井桁屋(服部家住宅)。屋根瓦が豪壮な造りになっているが、これは火災に備えて漆喰による塗籠造で萱葺(わらぶ)き屋根を瓦葺きにしたもの:

IMG_7167.resized

独特の瓦葺き

IMG_7166.resized

服部邸の大屋敷

IMG_7168.resized

井桁屋(都市景観重要建築物指定)

最後は山与遊歩道。名鉄・有松駅と旧東海道を結ぶ遊歩道。平成の時代につくられた。「山与」はここにあった絞問屋が由来だとか。右奥に見える建物が有松駅:

IMG_7170.resized

山与遊歩道

この時のフォト集はこちら:

See Also桶狭間古戦場(今川勢他)巡り (フォト集)

参照

参照
a 同じ時期に台風が日本列島を縦断する予報があったので、どうなるものかとハラハラしたが、旅行の大部分はフェーン現象の煽りを受けてとにかく大変な暑さだった 😥 。
b 涼を取るために無人のコインランドリーや巨大なホームセンターなどに立ち寄ったり、コンビニで水分補給するなどの時間を含む。ホント、外に立っているだけで暑さにヤラれる大変な天気だった。
c 桶狭間の戦いの後、信長が境内で義元やその武将の首検証をしたとされる。
d 結果的には無断で立ち入ることになったが、なぜ大学の敷地を通らないと史跡にいけないのだろうか。

飯盛山と滝沢本陣の散策 − A Notable Heartbreaking Story on Iimori Hill.

我が人生初の「国民の祝日」10連休を利用した毎年恒例のGW城攻めの第一弾は、二泊三日の日程で福島県内の城攻めへ。また特に意識した訳ではないけど最終的には自身初として、福島県全域となる浜通りから中通り、そして会津まで横断することができた。

まずまずの天気であった初日は、浜通りはいわき市の城跡から中通りは三春町の城跡を攻め、郡山市の宿に一泊した。残念ながら二日目は一転して全国規模で雨または曇りと云った天気になってしまったので、悩んだ挙句に予定より遅めに会津若松入りし、動きの早い雨雲をかわす予定に切り替えた。その甲斐があってか会津若松駅を降りたら雨は降っていなかったのでレンタサイクルで知る人ぞ知る城跡や、四年前の城攻めでは時間が無くて見れなかった会津若松城の外郭に残る遺構を巡ってきた。途中、雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気で何度か雨宿りするはめになったが、これと云ってひどい目にあうことはなく、なんとか無事に平成最後の日を終えることができた。

そして城攻め第一弾の最終日であり、新しい「令和」の世の初日は帰京する前に、これもまた四年前に行けなかった観光地の飯盛山周辺を巡ってきた。


飯盛山と白虎隊霊場

朝、ホテルをチェックアウトしてから駅前へ移動。その際に見かけた白虎隊士の像:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-002.resized

「白虎隊士の像」

駅前のバスターミナルから市内観光まちなか周遊バスの「あかべぇ」に乗り込んで飯森山下で下車した[a]駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-003.resized

飯盛山

おみやげ屋が立ち並ぶ参道を進んで石段を登って行くことになるが有料(当時250円)のエスカレータ[b]正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。もあった。まぁ行列してまで乗る必要はなかった ;)

IMGP5882.resized

飯盛山の登山口

IMGP5885.resized

飯盛山動く坂道

石段を登った先に建っていた「飯盛山案内図」:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-001

「飯盛山案内図」(拡大版)

案内板の隣には白虎隊記念館なる史料館があった。白虎隊士をはじめとした會津・戊辰戦争に関係する史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵・展示しているのだとか。「記念館」と云う名前が気に入らなかったので立ち寄ることもしなかったけど :|

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-006.resized

史料館・白虎隊記念館

IMGP5886.resized

白虎隊士・酒井峰治の銅像

愛犬と一緒に銅像になっていた酒井峰治(さかい・みねじ)は白虎隊士中二番隊の所属で、會津戦争中の戸ノ口原からの退却の際に仲間とはぐれ、のちに農民らに助けられ帰還を果たし鶴ヶ城籠城戦に参加して、戦後も生き残った御仁なのだとか。

さらに石段を登った先が白虎隊霊場の参拝口:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-012.resized

白虎隊霊場の参拝口

ここ飯盛山[c]この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。は古墳の一つであり、神社仏閣の境内にあたる。そして自刃した白虎隊士の霊場でもある。

まずは白虎隊十九士の墓:

IMGP5916.resized

白虎隊十九士の墓

幕末の會津戦争で會津藩が組織した部隊の一つ[d]中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。に、16〜17歳の少年たちから成る白虎隊があったが、慶応4(1868)年8月23日(旧暦)にその士中二番隊が戸ノ口原の合戦場から退却し、滝沢峠の間道を抜け、戸ノ口堰(とのくちせき)の洞門をくぐって飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣が黒煙の中に見え隠れしていたことから城は陥落したと誤認し、主君のために殉じようと全員が自決した。唯一、飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)が命をとりとめ、のちに白虎隊の忠義と悲運の物語が広く知られることになったと云う。

墓所の脇には會津藩最後の藩主・松平容保公の弔歌の碑が建っていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-014.resized

松平容保公弔歌の碑


幾人の涙は石にそそぐとも  その名は世々に朽ちじとぞ思う

そして少年武士慰霊碑と吉田伊惣次(よしだ・いそじ)篤志の碑。自刃した白虎隊士の亡骸が戦後しばらく風雨にさらされていたため近くの村の吉田伊惣次と有志が密かに寺院に仮埋葬したが、それが新政府軍に見つかり獄舎に繋がれるも後日に解放された。その篤志を称えるための碑と云う:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-015.resized

少年武士慰霊碑

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-016.resized

吉田伊惣次篤志の碑

こちらは會津藩殉難烈婦碑。會津戦争で亡くなった會津藩の婦女子230余名の御霊を弔うために建立された:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-017.resized

会津藩殉難烈婦碑

珍しいところでローマ市民慰霊碑。これは戦前、白虎隊士の精神に感心したイタリアのファシスタ党首・ムッソリーニから贈られた古代ローマ時代の宮殿の柱であるが、戦後に進駐軍によって一度破壊された。その後に一部が復元され「ローマ市民からの寄贈」に改められた:

IMGP5909

ローマ市民慰霊碑

こちらは郡上藩・凌霜隊之碑。鶴ヶ城に籠城したのは會津藩だけではなく、美濃国・郡上藩の凌霜隊(りょうそうたい)も籠城して奮戦した。昭和の時代に事績を偲び石碑が建立された:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-020.resized

郡上藩・凌霜隊の碑

そして霊場の南側には白虎隊士が自刃した場所がある:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-021.resized

白虎隊士自刃の地

自刃するも一命を取り留めた唯一の隊士である飯沼貞吉の墓。一人苦しんだが、晩年には重い口を開いて白虎隊について語ったのだとか:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-022.resized

飯沼貞雄(貞吉)墓

白虎隊自刃の地に建つ碑:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-024.resized

白虎隊士自刃の地の碑

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-023.resized

白虎隊殉難士各霊塔

銅像の隊士が眺めている方角に鶴ヶ城の天守閣が見えるのだが、目視だと結構きびしいかも(ヒントは写真中央に建つポール):

IMGP5903.resized

自刃の地からの眺め

IMGP5905

ズームで眺めた鶴ヶ城(拡大版)

この後は霊場の下にあるさざえ堂へ向かった。こちらは、その途中に眺めた会津若松駅方面の眺望:

IMGP5926

飯盛山からの眺望(拡大版)

世界に唯ひとつの會津飯盛山・さざえ堂。江戸時代は寛政8(1796)年、飯盛山に建っていた正宗寺(しょうそうじ)の住職である僧郁堂(いくどう)和尚が考案・建立した六角三層の建築物である。現在は国指定重要文化財で、横から見ると栄螺(さざえ)のように螺旋状になっているのが分かる:

IMG_6946.resized

旧正宗寺・円通三匝堂(通称はさざえ堂)

正式名は旧正宗寺・円通三匝堂(えんつうさんそんどう)。一度通った通路を再び通ることなく外に出ることが可能な珍しい構造をしている。正面入口は唐破風の向拝を付していた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-034.resized

さざえ堂

入館料(大人400円/当時)を支払い、向かって正面にある唐破風の屋根を持つ入口へ:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-035.resized

さざえ堂の入口付近

IMGP5954.resized

さざえ堂の入口付近

この入口から延びる螺旋状のスローブを上って三層頂上にある太鼓橋へ向かう。ちなみに出口はこの背後にある:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-037.resized

正面入口

頂上にある太鼓橋を渡るまで上がりは右回りの螺旋状スローブになっていた:

IMGP5942.resized

上がりのスローブ

IMG_6948.resized

上がりのスローブ

ここが三層頂上にある太鼓橋とその天井:

IMG_6952.resized

頂上にある太鼓橋

IMG_6951.resized

天井の様子

太鼓橋を渡って向こう側へ渡ると、今度は左回りのスローブになる:

IMGP5948.resized

下りのスローブ

そして、こちらが入口とは反対側にある出口:

IMG_6957.resized

出口

ということで上がって下りてくるのは正味5分ほど。かつてはスロープに沿って西国三十三観音像が祀られ、一度上がり下りすると巡礼を終えたことになるのだと云う。

こちらはさざえ堂の目の前にあった宇賀神社:

IMGP5931.resized

宇賀神堂

この神社の背後にある「天空カフェ」こと飯盛山展望台からの眺めも素晴らしかったが、令和元年の初日と云うこともあって御朱印状を求める人たちが長い列を作っていたのには驚いた :O

このあとは宇賀神社脇の石段を降りて厳島宗像神社の境内へ。この神社は、天照大神の御子神である「宗像三女神」の一つにして古くから信仰が厚かった。主神は市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)さま:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-053.resized

鳥居

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-054.resized

社殿

社殿は、蘆名家七代目当主の直盛が會津の領主であった南北朝の時代[e]すなわち永禄年間(1381〜1383年)。に石塚、石部、堂家の三家によって建てられたと云う。

これが白虎隊士が潜ってきたと云う戸ノ口堰洞穴(とのぐち・せきどうけつ)と呼ばれる岩盤を掘って穴を開けた洞門:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-055.resized

戸ノ口堰洞穴

猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地へ水を引くための農業用水路で、全長は31㎞にも及ぶと云う:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-056

戸ノ口堰洞穴(拡大版)

IMGP5976.resized

洞穴

慶応4(1868)年の會津戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎隊士中二番隊20名が潜って飯盛山まで戻ってきた洞穴である:

IMG_6959-EFFECTS

戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰洞穴の脇に建つのが戸ノ口堰水神社:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-058.resized

戸ノ口堰水神社

最後は子育地蔵尊:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-059.resized

子育地蔵尊

この後は厳島神社の本参道を下って旧滝沢本陣へ。


會津藩・旧滝沢本陣

飯盛山を下りた麓に残る旧滝沢本陣は、現在は国指定史跡であり国指定重要文化財となっている。参観料は大人300円(当時):

IMGP6006.resized

史跡・旧滝沢本陣の碑と冠木門

文禄4(1596)年に建てられた茅葺書院造の建築物で、遠州流の庭園があり、藩主の参勤交代や領内巡視の際の休息所に使われた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-063.resized

旧會津藩・御本陣

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-062.resized

通称は滝沢本陣

慶応4(1868)年の會津戦争時には会津藩の本営となり、松平容保が白虎隊に戸ノ口原へ出陣を命じ、あるいは新撰組が駐屯していたと云う場所である。茅葺屋根に覆われた書院造りの建物には御入御門、御座の間、御次の間などが当時の姿のまま残されている:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-064

滝沢本陣・横山家住宅(拡大版)

別宅にある受付で参観料を支払って、この勝手口から中に入ると「にわ」と「おめえ」が設けられていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-067.resized

この中がにわ

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-070.resized

てまえ、なんど、ざしき

ざしきの奥が御次の間、そして御座の間:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-073.resized

奥が御座之間、手前が御次之間

ここには今も当時の銃弾や刀傷が十数ヶ所になまなましく残っていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-076.resized

戊辰戦争時の弾痕

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-077.resized

柱に残る弾痕跡

御座の間には会津藩の最後の藩主・松平容保公の肖像画が置かれていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-074.resized

松平容保公の肖像画

こちらは御座の間から望む遠州流庭園。敷石として石臼も使われていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-078

遠州流庭園

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-079.resized

敷石に石臼

柱に残る刀傷:

IMGP5997

戊辰戦争時の刀傷

本陣には御湯殿・御厠が設けられていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-081.resized

歴代藩主が使用した御湯殿と御厠

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-082.resized

御湯殿

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-083.resized

御厠

御座の間にすぐに取り付くことが可能な藩主用の御入御門:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-066.resized

御入御門

以上で、「国民の祝日」10連休を利用したGW城攻め第一弾は終了。この日は午後一で郡山へ移動し、新幹線で帰京したのだけれど自由席はほぼ満席だった :$


ここからはオマケ。

まず会津若松駅の構内で見かけたいろいろな赤べこたち:

IMG_6908.resized

会津赤べーこ

IMG_6909.resized

赤べこ

IMG_6911.resized

赤べこ

会津若松の初日は雨が止んだ隙を、このレンタサイクル(1日1,500円/当時)で走り回ってきた:

IMG_6927.resized

駅レンタカー会津若松営業所のレンタサイクル

いろいろな所で見かけた「あいづっこ宣言」:

IMGP5892.resized

「ならぬことは ならぬものです」

高瀬の大木(ケヤキ)は現在は国指定文化財であるが、そのもとは慶長5(1600)年に関ヶ原の戦に先立って會津の上杉景勝が徳川家康との対決に備えて直江兼続に命じて築こうとした神指(こうざし)城の土塁に生えていたケヤキとされている:

IMGP5692

高瀬の大木(拡大版)

城が完成する前に家康が上杉追討令を出したため工事が中断となり、神指城は未完のまま、のちに廃城となった。このケヤキは築城前から既に大木として生えていたと云われ樹齢は約500年と云われている。

また會津戦争で斎藤一ら新撰組が本陣を置いた如来堂もまた神指城跡の土塁上に築かれたものである:

IMGP5776.resized

如来堂

こちらは高瀬観音堂:

IMG_6922.resized

会津三十三観音第15番札所

八角神社、そしてウグイス:

IMGP5867.resized

八角神社

IMGP5823.resized

桜とウグイス

会津若松城の二の丸跡にあるひょうたん濠:

IMG_6928

ひょうたん濠(拡大版)

鶴ヶ城こと會津若松城:

IMG_6930

鶴ヶ城(拡大版)

そして、こちらは令和元年の朝、会津若松駅近くの宿泊先からの眺め。遠くに雪が残る山が標高2,105mの飯豊山(いいでさん):

IMGP5876.resized

令和元年の朝の風景

IMGP5878

雪が残る飯豊山(拡大版)

対して、こちらは標高1,816mの磐梯山:

IMGP5880.resized

令和元年の朝の風景

IMGP5879

薄っすらと雪が残る磐梯山

最後はJR会津若松駅でのE721系と、JR郡山駅の新幹線ホームの乗車位置標識:

IMG_6960.resized

JR東日本のE721系の郡山行

IMG_6961.resized

郡山駅の新幹線ホーム

ということで平成と令和の世を股にかけた福島県の二泊三日の城攻め旅行は終了。途中、悪天候のため予定通り城攻めできなかったことと、会津若松市内は大勢の観光客でごったがえしていたこと、そして三年前に初めて来て、今回も楽しみにしていた居酒屋には満席で入れなかったことなど全体的に残念な結果だった:(

この街には休日に来ちゃダメだなということがよく分かった :/

この時のフォト集はこちら:

See Also神指城攻め (フォト集)
See Also會津若松城外郭攻め (フォト集)
See Also蒲生氏郷公墓所 (フォト集)
See Also會津蘆名家墓所とゆかりの地巡り (フォト集)
See Also飯盛山と滝沢本陣散策 (フォト集)

参照

参照
a 駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。
b 正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。
c この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。
d 中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。
e すなわち永禄年間(1381〜1383年)。