History」カテゴリーアーカイブ

飯盛山と滝沢本陣の散策 − A Notable Heartbreaking Story on Iimori Hill.

我が人生初の「国民の祝日」10連休を利用した毎年恒例のGW城攻めの第一弾は、二泊三日の日程で福島県内の城攻めへ。また特に意識した訳ではないけど最終的には自身初として、福島県全域となる浜通りから中通り、そして会津まで横断することができた。

まずまずの天気であった初日は、浜通りはいわき市の城跡から中通りは三春町の城跡を攻め、郡山市の宿に一泊した。残念ながら二日目は一転して全国規模で雨または曇りと云った天気になってしまったので、悩んだ挙句に予定より遅めに会津若松入りし、動きの早い雨雲をかわす予定に切り替えた。その甲斐があってか会津若松駅を降りたら雨は降っていなかったのでレンタサイクルで知る人ぞ知る城跡や、四年前の城攻めでは時間が無くて見れなかった会津若松城の外郭に残る遺構を巡ってきた。途中、雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気で何度か雨宿りするはめになったが、これと云ってひどい目にあうことはなく、なんとか無事に平成最後の日を終えることができた。

そして城攻め第一弾の最終日であり、新しい「令和」の世の初日は帰京する前に、これもまた四年前に行けなかった観光地の飯盛山周辺を巡ってきた。


飯盛山と白虎隊霊場

朝、ホテルをチェックアウトしてから駅前へ移動。その際に見かけた白虎隊士の像:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-002.resized

「白虎隊士の像」

駅前のバスターミナルから市内観光まちなか周遊バスの「あかべぇ」に乗り込んで飯森山下で下車した[a]駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-003.resized

飯盛山

おみやげ屋が立ち並ぶ参道を進んで石段を登って行くことになるが有料(当時250円)のエスカレータ[b]正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。もあった。まぁ行列してまで乗る必要はなかった ;)

IMGP5882.resized

飯盛山の登山口

IMGP5885.resized

飯盛山動く坂道

石段を登った先に建っていた「飯盛山案内図」:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-001

「飯盛山案内図」(拡大版)

案内板の隣には白虎隊記念館なる史料館があった。白虎隊士をはじめとした會津・戊辰戦争に関係する史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵・展示しているのだとか。「記念館」と云う名前が気に入らなかったので立ち寄ることもしなかったけど :|

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-006.resized

史料館・白虎隊記念館

IMGP5886.resized

白虎隊士・酒井峰治の銅像

愛犬と一緒に銅像になっていた酒井峰治(さかい・みねじ)は白虎隊士中二番隊の所属で、會津戦争中の戸ノ口原からの退却の際に仲間とはぐれ、のちに農民らに助けられ帰還を果たし鶴ヶ城籠城戦に参加して、戦後も生き残った御仁なのだとか。

さらに石段を登った先が白虎隊霊場の参拝口:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-012.resized

白虎隊霊場の参拝口

ここ飯盛山[c]この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。は古墳の一つであり、神社仏閣の境内にあたる。そして自刃した白虎隊士の霊場でもある。

まずは白虎隊十九士の墓:

IMGP5916.resized

白虎隊十九士の墓

幕末の會津戦争で會津藩が組織した部隊の一つ[d]中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。に、16〜17歳の少年たちから成る白虎隊があったが、慶応4(1868)年8月23日(旧暦)にその士中二番隊が戸ノ口原の合戦場から退却し、滝沢峠の間道を抜け、戸ノ口堰(とのくちせき)の洞門をくぐって飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣が黒煙の中に見え隠れしていたことから城は陥落したと誤認し、主君のために殉じようと全員が自決した。唯一、飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)が命をとりとめ、のちに白虎隊の忠義と悲運の物語が広く知られることになったと云う。

墓所の脇には會津藩最後の藩主・松平容保公の弔歌の碑が建っていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-014.resized

松平容保公弔歌の碑


幾人の涙は石にそそぐとも  その名は世々に朽ちじとぞ思う

そして少年武士慰霊碑と吉田伊惣次(よしだ・いそじ)篤志の碑。自刃した白虎隊士の亡骸が戦後しばらく風雨にさらされていたため近くの村の吉田伊惣次と有志が密かに寺院に仮埋葬したが、それが新政府軍に見つかり獄舎に繋がれるも後日に解放された。その篤志を称えるための碑と云う:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-015.resized

少年武士慰霊碑

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-016.resized

吉田伊惣次篤志の碑

こちらは會津藩殉難烈婦碑。會津戦争で亡くなった會津藩の婦女子230余名の御霊を弔うために建立された:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-017.resized

会津藩殉難烈婦碑

珍しいところでローマ市民慰霊碑。れは戦前、白虎隊士の精神に感心したイタリアのファシスタ党首・ムッソリーニから贈られた古代ローマ時代の宮殿の柱であるが、戦後に進駐軍によって一度破壊された。その後に一部が復元され「ローマ市民からの寄贈」に改められた:

IMGP5909

ローマ市民慰霊碑

こちらは郡上藩・凌霜隊之碑。鶴ヶ城に籠城したのは會津藩だけではなく、美濃国・郡上藩の凌霜隊(りょうそうたい)も籠城して奮戦した。昭和の時代に事績を偲び石碑が建立された:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-020.resized

郡上藩・凌霜隊の碑

そして霊場の南側には白虎隊士が自刃した場所がある:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-021.resized

白虎隊士自刃の地

自刃するも一命を取り留めた唯一の隊士である飯沼貞吉の墓。一人苦しんだが、晩年には重い口を開いて白虎隊について語ったのだとか:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-022.resized

飯沼貞雄(貞吉)墓

白虎隊自刃の地に建つ碑:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-024.resized

白虎隊士自刃の地の碑

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-023.resized

白虎隊殉難士各霊塔

銅像の隊士が眺めている方角に鶴ヶ城の天守閣が見えるのだが、目視だと結構きびしいかも(ヒントは写真中央に建つポール):

IMGP5903.resized

自刃の地からの眺め

IMGP5905

ズームで眺めた鶴ヶ城(拡大版)

この後は霊場の下にあるさざえ堂へ向かった。こちらは、その途中に眺めた会津若松駅方面の眺望:

IMGP5926

飯盛山からの眺望(拡大版)

世界に唯ひとつの會津飯盛山・さざえ堂。江戸時代は寛政8(1796)年、飯盛山に建っていた正宗寺(しょうそうじ)の住職である僧郁堂(いくどう)和尚が考案・建立した六角三層の建築物である。現在は国指定重要文化財で、横から見ると栄螺(さざえ)のように螺旋状になっているのが分かる:

IMG_6946.resized

旧正宗寺・円通三匝堂(通称はさざえ堂)

正式名は旧正宗寺・円通三匝堂(えんつうさんそんどう)。一度通った通路を再び通ることなく外に出ることが可能な珍しい構造をしている。正面入口は唐破風の向拝を付していた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-034.resized

さざえ堂

入館料(大人400円/当時)を支払い、向かって正面にある唐破風の屋根を持つ入口へ:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-035.resized

さざえ堂の入口付近

IMGP5954.resized

さざえ堂の入口付近

この入口から延びる螺旋状のスローブを上って三層頂上にある太鼓橋へ向かう。ちなみに出口はこの背後にある:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-037.resized

正面入口

頂上にある太鼓橋を渡るまで上がりは右回りの螺旋状スローブになっていた:

IMGP5942.resized

上がりのスローブ

IMG_6948.resized

上がりのスローブ

ここが三層頂上にある太鼓橋とその天井:

IMG_6952.resized

頂上にある太鼓橋

IMG_6951.resized

天井の様子

太鼓橋を渡って向こう側へ渡ると、今度は左回りのスローブになる:

IMGP5948.resized

下りのスローブ

そして、こちらが入口とは反対側にある出口:

IMG_6957.resized

出口

ということで上がって下りてくるのは正味5分ほど。かつてはスロープに沿って西国三十三観音像が祀られ、一度上がり下りすると巡礼を終えたことになるのだと云う。

こちらはさざえ堂の目の前にあった宇賀神社:

IMGP5931.resized

宇賀神堂

この神社の背後にある「天空カフェ」こと飯盛山展望台からの眺めも素晴らしかったが、令和元年の初日と云うこともあって御朱印状を求める人たちが長い列を作っていたのには驚いた :O

このあとは宇賀神社脇の石段を降りて厳島宗像神社の境内へ。この神社は、天照大神の御子神である「宗像三女神」の一つにして古くから信仰が厚かった。主神は市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)さま:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-053.resized

鳥居

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-054.resized

社殿

社殿は、蘆名家七代目当主の直盛が會津の領主であった南北朝の時代[e]すなわち永禄年間(1381〜1383年)。に石塚、石部、堂家の三家によって建てられたと云う。

これが白虎隊士が潜ってきたと云う戸ノ口堰洞穴(とのぐち・せきどうけつ)と呼ばれる岩盤を掘って穴を開けた洞門:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-055.resized

戸ノ口堰洞穴

猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地へ水を引くための農業用水路で、全長は31㎞にも及ぶと云う:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-056

戸ノ口堰洞穴(拡大版)

IMGP5976.resized

洞穴

慶応4(1868)年の會津戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎隊士中二番隊20名が潜って飯盛山まで戻ってきた洞穴である:

IMG_6959-EFFECTS

戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰洞穴の脇に建つのが戸ノ口堰水神社:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-058.resized

戸ノ口堰水神社

最後は子育地蔵尊:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-059.resized

子育地蔵尊

この後は厳島神社の本参道を下って旧滝沢本陣へ。


會津藩・旧滝沢本陣

飯盛山を下りた麓に残る旧滝沢本陣は、現在は国指定史跡であり国指定重要文化財となっている。参観料は大人300円(当時):

IMGP6006.resized

史跡・旧滝沢本陣の碑と冠木門

文禄4(1596)年に建てられた茅葺書院造の建築物で、遠州流の庭園があり、藩主の参勤交代や領内巡視の際の休息所に使われた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-063.resized

旧會津藩・御本陣

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-062.resized

通称は滝沢本陣

慶応4(1868)年の會津戦争時には会津藩の本営となり、松平容保が白虎隊に戸ノ口原へ出陣を命じ、あるいは新撰組が駐屯していたと云う場所である。茅葺屋根に覆われた書院造りの建物には御入御門、御座の間、御次の間などが当時の姿のまま残されている:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-064

滝沢本陣・横山家住宅(拡大版)

別宅にある受付で参観料を支払って、この勝手口から中に入ると「にわ」と「おめえ」が設けられていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-067.resized

この中がにわ

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-070.resized

てまえ、なんど、ざしき

ざしきの奥が御次の間、そして御座の間:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-073.resized

奥が御座之間、手前が御次之間

ここには今も当時の銃弾や刀傷が十数ヶ所になまなましく残っていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-076.resized

戊辰戦争時の弾痕

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-077.resized

柱に残る弾痕跡

御座の間には会津藩の最後の藩主・松平容保公の肖像画が置かれていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-074.resized

松平容保公の肖像画

こちらは御座の間から望む遠州流庭園。敷石として石臼も使われていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-078

遠州流庭園

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-079.resized

敷石に石臼

柱に残る刀傷:

IMGP5997

戊辰戦争時の刀傷

本陣には御湯殿・御厠が設けられていた:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-081.resized

歴代藩主が使用した御湯殿と御厠

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-082.resized

御湯殿

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-083.resized

御厠

御座の間にすぐに取り付くことが可能な藩主用の御入御門:

20190501-飯盛山と白虎隊ゆかりの地巡り-066.resized

御入御門

以上で、「国民の祝日」10連休を利用したGW城攻め第一弾は終了。この日は午後一で郡山へ移動し、新幹線で帰京したのだけれど自由席はほぼ満席だった :$


ここからはオマケ。

まず会津若松駅の構内で見かけたいろいろな赤べこたち:

IMG_6908.resized

会津赤べーこ

IMG_6909.resized

赤べこ

IMG_6911.resized

赤べこ

会津若松の初日は雨が止んだ隙を、このレンタサイクル(1日1,500円/当時)で走り回ってきた:

IMG_6927.resized

駅レンタカー会津若松営業所のレンタサイクル

いろいろな所で見かけた「あいづっこ宣言」:

IMGP5892.resized

「ならぬことは ならぬものです」

高瀬の大木(ケヤキ)は現在は国指定文化財であるが、そのもとは慶長5(1600)年に関ヶ原の戦に先立って會津の上杉景勝が徳川家康との対決に備えて直江兼続に命じて築こうとした神指(こうざし)城の土塁に生えていたケヤキとされている:

IMGP5692

高瀬の大木(拡大版)

城が完成する前に家康が上杉追討令を出したため工事が中断となり、神指城は未完のまま、のちに廃城となった。このケヤキは築城前から既に大木として生えていたと云われ樹齢は約500年と云われている。

また會津戦争で斎藤一ら新撰組が本陣を置いた如来堂もまた神指城跡の土塁上に築かれたものである:

IMGP5776.resized

如来堂

こちらは高瀬観音堂:

IMG_6922.resized

会津三十三観音第15番札所

八角神社、そしてウグイス:

IMGP5867.resized

八角神社

IMGP5823.resized

桜とウグイス

会津若松城の二の丸跡にあるひょうたん濠:

IMG_6928

ひょうたん濠(拡大版)

鶴ヶ城こと會津若松城:

IMG_6930

鶴ヶ城(拡大版)

そして、こちらは令和元年の朝、会津若松駅近くの宿泊先からの眺め。遠くに雪が残る山が標高2,105mの飯豊山(いいでさん):

IMGP5876.resized

令和元年の朝の風景

IMGP5878

雪が残る飯豊山(拡大版)

対して、こちらは標高1,816mの磐梯山:

IMGP5880.resized

令和元年の朝の風景

IMGP5879

薄っすらと雪が残る磐梯山

最後はJR会津若松駅でのE721系と、JR郡山駅の新幹線ホームの乗車位置標識:

IMG_6960.resized

JR東日本のE721系の郡山行

IMG_6961.resized

郡山駅の新幹線ホーム

ということで平成と令和の世を股にかけた福島県の二泊三日の城攻め旅行は終了。途中、悪天候のため予定通り城攻めできなかったことと、会津若松市内は大勢の観光客でごったがえしていたこと、そして三年前に初めて来て、今回も楽しみにしていた居酒屋には満席で入れなかったことなど全体的に残念な結果だった:(

この街には休日に来ちゃダメだなということがよく分かった :/

この時のフォト集はこちら:

See Also神指城攻め (フォト集)
See Also會津若松城外郭攻め (フォト集)
See Also蒲生氏郷公墓所 (フォト集)
See Also會津蘆名家墓所とゆかりの地巡り (フォト集)
See Also飯盛山と滝沢本陣散策 (フォト集)

参照   [ + ]

a. 駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。
b. 正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。
c. この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。
d. 中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。
e. すなわち永禄年間(1381〜1383年)。

深大寺散策 − A Famouse Buddhist Temple in the Suburbs Tokyo.

一昨昨年(さおととし)は平成27(2015)年の暮れに自宅から車で行ける深大寺城跡を攻めてきた。お昼は人気のあるお店で深大寺そばを食べ、ついでに深大寺も散策してきた。正直なところ、そういう機会はもう無いかもしれないと思ったので :P

深大寺は歴史的にも一大参拝スポットなので、参道脇の観光案内所で「深大寺散策マップ[a]ウラ面に「深大寺の主な見所」やオススメの散策ルートなど記載されていた。なるものを配布していたので、それに従って境内を巡ることにした。

こちらは「深大寺境内絵図」[b]どこに立っていたか覚えていない…。

「深大寺境内絵図(拡大版)

まずは「天台宗・別格保山・浮岳山・深大寺」の石碑が建つ山門前からスタート:

20151220-深大寺散策-002.resized

深大寺の碑と山門

平成の世に調布市重宝に指定された山門は、320年以上前の元禄8(1695)年の普請で、この境内の中では最古の建築物であるらしい。正面には「浮岳山」の山号額が掲げられていた:

20151220-深大寺散策-004.resized

20151220-深大寺散策-006.resized

桁行3.55m,、梁間2.32.mの一間薬医門で、屋根は切妻造の茅葺きである。主柱・控柱ともに丸柱で、上下は粽(ちまき)付き、下に礎板を置いて薬医門特有の前寄り屋根を構成する:

20151220-深大寺散策-008.resized

山門の控柱

ここ深大寺は慶応元(1865)年にあった大火で堂宇の大半を焼失したが、この山門はその時の災禍を免れた建物の一つである。

これは山門をくぐって境内正面に建っていた常香楼(じょうころう)と本堂の眺め:

20151220-深大寺散策-009

常香楼と本堂(拡大版)

この鐘楼は慶応元(1865)年の大火で焼失し、明治3(1870)年に再建されたもので、山門をくぐった右手にある。梵鐘は平成13(2001)年に鋳造されたもので、柱間の木鼻として象・獅子が付いていた:

20151220-深大寺散策-010.resized

鐘楼

20151220-深大寺散策-011.resized

鐘楼の柱間の彫り物

深大寺境内に句碑や歌碑なんかも建っていた。こちらは小松北溟(こまつ・ほくめい)歌碑:

20151220-深大寺散策-012.resized

小松北溟歌碑

常香楼(じょうころう)は天保4(1833)年の建立。慶応の大火の際に山門と共に焼失から免れたが、北側には大火の跡を残している:

20151220-深大寺散策-013.resized

常香楼

そして本堂。慶応の大火で焼失したが、大正時代に再建されたもの。屋根が焼失前よりも若干大きくなっているのだとか:

20151220-深大寺散策-015

本堂(拡大版)

本尊は宝冠阿弥陀如来(ほうかん・あみだにょらい)像で、天台宗の常行三味堂の本尊であったという。
焼失前の本堂は寄棟造りの茅葺き屋根だったが、再建した本堂は入母屋造りの棧瓦葺きである。また向拝は焼失前は入母屋破風が付いていたが、再建後は唐破風になっている:

20151220-深大寺散策-018.resized

向拝は唐破風

20151220-深大寺散策-019.resized

本堂の唐破風

梁の木鼻には獅子・象の彫り物、正面の三段の虹梁の間には龍、破風板の下には鳳凰の彫り物があった。

こちらは本堂脇の五大尊池:

20151220-深大寺散策-021.resized

五大尊池

そして手水鉢。仏教では仏前などに供える水を閼伽(あか)と言い、閼伽水で手や口を濯ぎ身と心を浄めるのだとか:

20151220-深大寺散策-022.resized

手水鉢

本堂から少し西へ離れたところに建つ元三大師堂には慈恵大師(元三大師)像が安置されている。ここ深大寺における厄除け信仰の中心として、慶応の大火で焼失したが、翌々年の慶応3(1863)年にいち早く再建された。焼失前は本堂の西南にあった:

20151220-深大寺散策-024.resized

元三大師堂

このあとは高台の上にある開山堂へ:

20151220-深大寺散策-025.resized

開山堂参詣道

昭和58(1983)年に新築された奈良時代様式の堂宇で、本尊は薬師如来脇侍に弥勒菩薩千手観音を安置し、開基満功上人、天台宗一祖契惠亮和尚の尊像を祀っている:

20151220-深大寺散策-026.resized

奈良建築様式の開山堂

20151220-深大寺散策-027.resized

堂宇内に祀られた御本尊

この後は、一度境内を出て周辺を散策した。こちらは多聞院坂。この坂の上は調布市立深大寺小学校:

20151220-深大寺散策-028.resized

多聞院坂

そして不動の瀧。これは二箇所にあって連結していた:

20151220-深大寺散策-029.resized

不動の瀧(その1)

20151220-深大寺散策-031.resized

不動の瀧(その2)

こちらは開福不動明王:

20151220-深大寺散策-030.resized

開福不動明王

それから庫裡東門から再び境内へ:

20151220-深大寺散策-032.resized

庫裡東門

こちらは、いわゆる保存用倉庫に相当する本坊急庫裡。この庫裡の屋根を見上げると鷺がいた:

20151220-深大寺散策-033.resized

本坊急庫裡

IMGP7742

屋根の棟にいた鷺

再び境内を西へ移動して釈迦堂へ。白鳳仏を安置する堂宇として昭和51(1976)年に新築された。この中には国の重要文化財である釈迦如来倚象が展示されていた。この像は東日本随一の白鳳仏であり、七世紀頃に奈良で造られたもの:

20151220-深大寺散策-035.resized

釈迦堂

20151220-深大寺散策-036

釈迦如来倚像(拡大版)

再び境内を外れて深沙大王堂(じんじゃだいおうどう)へ。深大寺の秘仏[c]秘仏ということで、深大寺住職でも在任中に一度拝める程度であるらしい。・深沙大王を祀る。調布市内に現存する最古の貴重な建物:

20151220-深大寺散策-037.resized

深沙大王堂

延命観音。秋田県沖で引き上がった慈覚大師自刻の延命観音で、縁あって深大寺に奉安されたのだとか:

20151220-深大寺散策-039.resized

延命観音

こちらはお昼を頂いたあとに深大寺通り沿いで見かけた水車館。明治末期に地元の人びとが水車組合を作り、お金を出し合って水車小屋を建てたのが始まりだとか:

20151220-深大寺散策-040.resized

深大寺水車館

以上で散策は終了。このあとは車を停めた駐車場まで行く途中に植物公園なんかを観てきた。

こちらは参道脇の門前の風景。朝9時くらいはほどんと人はいなかったが、お昼を過ぎた時間には多くの参拝客がいた:

20151220-深大寺散策-041.resized

日曜日の朝9時頃

20151220-深大寺散策-043

日曜日のお昼すぎ(拡大版)

門前には蕎麦屋を含めて、多くのお店があった:

20151220-深大寺散策-042.resized

門前の蕎麦屋

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also深大寺散策 (フォト集)

深大寺
東京都調布市深大寺元町5-15-1

参照   [ + ]

a. ウラ面に「深大寺の主な見所」やオススメの散策ルートなど記載されていた。
b. どこに立っていたか覚えていない…。
c. 秘仏ということで、深大寺住職でも在任中に一度拝める程度であるらしい。

麺屋 工藤 − Another SANO Ramen.

新年が明けて平常な生活感が戻ってきた感じがする平成31(2019)年は1月中旬の晴れた週末に、栃木県佐野市にある信州・真田家ゆかりの地へ行ってきた。今回の目的地は、三年ほど前のNHK大河ドラマでもその場所に関連するエピソードが取り上げられたこともあって市内でも有名な観光場所となった新町薬師堂

JR佐野駅からだと徒歩30分程。この日は晴天で気温も低すぎず、ちょっとした散歩にはうってつけの日和だった。おまけに新町薬師堂がある例幣使街道(れいへいし・かいどう)[a]この街道は複数の県道がつながっていた。例えば県道R151、県道R141、県道R75など。沿いにはご当地物の佐野ラーメンのお店が何軒かあって、お昼前に着いた頃には既に駐車場は満車だったり、入口前に行列ができていたりしていた。

もちろん自分も今回の目的が完了したらお昼に佐野ラーメンを食べる予定にしていたのであるが、もしかしたら一番混みそうな時間帯と被ってしまいそうで、ラーメン屋の前を通る度にちょっと不安になってしまったが :(

で、「犬伏の別れ」の舞台となったとされる新町薬師堂を出たのが午後1時ちょっと前。このまま歩いてきた道を戻りながら適当に空いてそうなラーメン屋に入ろうかどうかと考えたが、これはこれであとで後悔しそうだったので、ちょうど薬師堂のすぐ近くにあった麺屋・工藤に入ることにした。来るときにちらっと店内を見たらカウンターが空いてそうに見えたので;)

IMGP3546.resized

麺屋・工藤

IMG_6709.resized

佐野ラーメンの麺屋・工藤

暖簾をくぐって店内に入ってみるとテーブル席とお座敷、そしてカウンターがあって、先客はテーブル席の四人だけだった。お昼時にしては運が良かったかも。
ということで自分はカウンターに座って「文字だけ」のメニューを眺める。佐野ラーメンは三年前に佐野厄除大師近くにあったお店以来。この日も歩きに歩いたのでチャーシュー麺(800円)と餃子3個(290円)を注文した。もう少し暖かかったらビールも注文していたかも。

まず最初に出てきたのが餃子。三個ながら思っていたより大きい:

IMG_6704.resized

餃子3個(290円)

餡が不明だったので、ここは醤油ベースのタレで頂いた。食べてみると餡はすごく柔らかくフワフワだった。これぐらいなら6個でもよかったかなぁ:

IMG_6705.resized

柔らかい餡の餃子

そしてチャーシュー麺の登場。最初、文字だけのメニューだと雰囲気がつかめなかったので、食べログか何かに掲載されていた写真を店員に見せて注文したのがこれ。でも玉子が入っていないではないか。写真には入っていたのに:$

IMG_6706.resized

チャーシュー麺(800円)

それはそうと、美味しそうなスープであるのが目で見てわかったので、すかさずレンゲでスープをすすったらヌルい〜」:O。いきなり冷たいチャーシューを何枚もぶち込んだからだろう。それでもチャーシューの下から麺をかき出しながら食べたら丁度よくなった。全体的にバランスのよいラーメンで、チャーシューもスープも美味しかった。もちろん佐野ラーメン独特のちぢれ麺もよかった。

ということでスープをしっかり飲み干して完食。身も心も暖かくなった。自分が食べ終わろうかとしていた頃、客もどんどん入ってきて座敷は満席、カウンターも数席のみ空いていたという感じ:

IMG_6707.resized

完食

ちなみに、このお店は今年の2019年6月頃には移転してしまうらしい。店内に地図が貼ってあったっけ。

麺屋・工藤
栃木県佐野市犬伏新町2079


ここからはオマケ。

まずは新町薬師堂まで歩いた時に目に入った例幣使街道沿いのラーメン屋たち:

IMGP3538.resized

手打中華・森田屋総本店

まずは手打麺で有名な森田屋総本店。土曜日の11時46分頃の状態。帰り(午後2時くらい)に店の前を通ったら午前の部が終了していた。

こちらはネギラーメンで有名なラーメン太七。予定としては、このお店に行こうかと思ったが、土曜日の11時49分でこんな具合。帰りに通った時はベンチに人が座っていたので、多分、この日見た店の中では一番混んでいたかも:

IMGP3539.resized

ラーメン太七

こちらは手打中華・生そばの鈴木食堂。土曜日の11時57分頃。ここは地元のナンバーの車が多かった:

IMGP3541.resized

鈴木食堂

そして、こちらのこの日の目的地である新町薬師堂。その背後にそびえているは米山古墳:

IMGP3581

新町薬師堂(拡大版)

慶長5(1600)年、天下分け目の関ヶ原の合戦を前に、真田父子三人(昌幸・信幸・信繁)が東軍と西軍に別れて戦うことを決断した密議の場所だったらしい:

IMG_6703.resized

新町薬師堂

なお、この密議の場所としては、このあと紹介する大庵寺だったという説もあり。

これは薬師堂内に展示されていた写真。大河ドラマとタイアップした番組でも紹介されていたようだ:

IMGP3565.resized

新町薬師堂に因む写真

IMGP3563

大河ドラマとタイアップした番組(拡大版)

こちらは浄土宗・天王山・昌綱院の大庵寺の入口。先に紹介した「犬伏の別れ」の舞台となったもう一つの密談場所。実際、真田軍はこのお寺に陣を置いていたから、ここである説が有力じゃないかと思うが:

IMGP3542.resized

大庵寺の入口

大庵寺の境内には「西遊記」で有名な玄奘三蔵法師(げんじょう・さんぞうほうし)の石版やお釈迦様の足跡などがあった。

こちらは善導大師。中国浄土教の大成者。日本の浄土宗の開祖・法然の教えは、善導の教えに基づいたものらしい:

IMGP3592.resized

善導大師の石版

次は玄奘三蔵法師。三蔵とは仏教の聖典(経蔵、律蔵、論蔵)に精通した優れた僧のことらしい:

IMGP3594.resized

玄奘三蔵法師の石版

最後は釈迦牟尼世尊、すなわちお釈迦様の石版と物足:

IMGP3596.resized

釈迦牟尼世尊の石版

IMGP3597.resized

お釈迦様の足跡

この仏足の上に自らの足を乗せると、インドの仏跡を巡拝したのと同じ功徳があるそうで、邪鬼が払われて幸せが訪れるのだとかで、実際に石版の上に乗ってみた:

IMG_6712.resized

釈迦如来様の佛足石

これは例幣使街道沿いを歩いている際に見かけてかなり気になった建物。1Fがカレー屋に見えるが、本当に営業中かどうかは未確認。かなり不気味だった:O

IMGP3586.resized

廃墟にカレー屋?

IMGP3585

実際に営業中かどうか不明(拡大版)

これも通りすがりに撮ったもので、FIAT 500L:

IMG_6713.resized

愛くるしいFIAT 500L

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also真田父子犬伏の別れの地と大庵寺 (フォト集)

参照   [ + ]

a. この街道は複数の県道がつながっていた。例えば県道R151、県道R141、県道R75など。

愛宕神社参拝 − Atago Shrine located at the top of Tokyo Natural Rises.

昨年は平成30(2018)年の暮れ近くに毎年恒例の人間ドックを受診してきたが、その帰り道に愛宕神社に参拝してきた。というのもTJKの西新橋保健センターを出て、最寄りの東京メトロ御成門駅へ向かおうかとした時に「愛宕神社」なる案内板が目に入ってきたからだけど。この時、当時週末に観ていた某大河ドラマ『せごどん』で紹介されていた「愛宕」って文字が頭に浮かんで、そのまま何も考えずに愛宕下通り(都道R301)に向かっていたような気がする。これは、もしかしたら何かのお告げだったのかもしれない =)

愛宕下通りを渡って参道へ。平日は月曜日の昼過ぎということもあり、それほど参拝者は多くなかったが、年末年始は大変な行列なんだろうなと勝手に想像してしまった:

20181112-愛宕神社参拝-002

愛宕神社の入口(拡大版)

この先には石段が左右二つあり。向かって左手の大鳥居をくぐった勾配の急な石段が、いわゆる「出世の石段」とも呼ばれている男坂で、大鳥居の右手にある緩やかな石段が女坂である:

20181112-愛宕神社参拝-003.resized

愛宕神社の参道は大鳥居から始まる

この石段からもわかるように愛宕神社の境内は高台にあり、その実は東京都内の自然地形としては最高峰となる標高26.5mの愛宕山山頂になるのだそうだ。まぁ高層ビルが乱立するここ港区界隈だと、それほど目立つ高台ではないが、男坂の急な角度の石段を一気に登っていくとそれなりの高低差を実感できる 8)

これは86段の「出世の石段」を見上げたところ:

20181112-愛宕神社参拝-004

「出世の石段」(男坂)

この名の由来は、今から380年以上前の寛永11(1634)年に三代将軍家光の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄(まがき・へいくろう・もりずみ)なる藩士が騎馬にて男坂を駆け上がり、お社に国家安寧の祈願をしてから境内に咲き誇る梅をを手折り、将軍に献上したことから、家光曰く「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、誠にあっぱれである」と讃えられ、日ノ本一の馬術の名人として全国にその名をしらしめることとなったことに因むのだとか。

奥行きの小さい石段を一段一段登りきった先には一の鳥居が建っていた:

20181112-愛宕神社参拝-006.resized

一の鳥居

ここが標高27mほどの愛宕山山頂になる。そして振り返って男坂を見下ろしたのがこちら:

20181112-愛宕神社参拝-007

一の鳥居から男坂を見下ろしたところ

社殿へ向かって進んで丹塗りの門をくぐる。毎年6月(水無月)に開かれる「ほうづき祭り」では茅の輪(ちのわ)が設置され、その状態で門をくぐると災いを避けることができると云う:

20181112-愛宕神社参拝-008.resized

丹塗りの門

丹塗りの門をくぐってすぐの左手には「招き石」が置かれていた。この石をなでると福が身につくと云う:

20181112-愛宕神社参拝-010.resized

招き石

このまま直進すると社殿である。主祭神は「火産霊命」(ほむすびのみこと)という火の神様:

20181112-愛宕神社参拝-011.resized

社殿

この愛宕神社は、征夷大将軍の徳川家康が慶長8(1603)年に江戸に幕府を開くにあたり防火・防災の守り神として創建された。そのご利益は:

火に関するもの、防火・防災
印刷・コンピュータ関係
商売繁昌
恋愛、結婚、縁結び

こちらは社殿内部と屋根の棟にあしらわれていた葵御紋:

20181112-愛宕神社参拝-015

社殿内部(拡大版)

20181112-愛宕神社参拝-016.resized

社殿の棟

社殿の脇には末社(まっしゃ)が建っていた。左から猿田彦神(天狗様)を祭神とする太郎坊社、宇迦御魂神を祭神とする福寿稲荷社、大國主命、事代主命を祭神とする恵比寿大黒天社:

20181112-愛宕神社参拝-017.resized

太郎坊社

20181112-愛宕神社参拝-018.resized

福寿稲荷社

20181112-愛宕神社参拝-019.resized

大黒天社

井伊直弼を桜田門外で暗殺した水戸・薩摩の脱藩浪士らは、ここ愛宕神社に集合し神前にて祈念を行い、ここから桜田門へ出向いて目的を決行したのだとかで石碑が建っていた:

20181112-愛宕神社参拝-020.resized

桜田烈士愛宕山遺蹟碑

20181112-愛宕神社参拝-021.resized

桜田烈士愛宕山遺蹟碑

さらに「出世の石段」で一躍有名になった曲垣平九郎が将軍家光に献上したとされる梅の木が残っていた:

20181112-愛宕神社参拝-022.resized

将軍梅

また、愛宕山は桜と見晴らしの良い名所として江戸の庶民にも愛され、多くの浮世絵にもその姿を残している他、明治元(1868)年には勝海舟が西郷隆盛を誘い、ここから江戸市中を見回しながら会談を行い、江戸城の無血開城へと導いた場所としても有名で、なんと二人の顔ハメも置かれていた[a]ちょうど某大河ドラマで西郷隆盛をとりあげていたこともあってタイムリーな感じ 😀 。

20181112-愛宕神社参拝-023.resized

西郷吉之助と勝安房守の顔ハメ

せっかくなんで社務所で御籤を引いたら大吉だった :)

IMG_6498.resized

愛宕神社の御神籤

愛宕神社
東京都港区愛宕一丁目五番三号


ここからはオマケ。

愛宕神社を参拝したあと、お隣のNHK放送博物館前を通って再び愛宕下通りに入り、御成門駅を目指したのだけれど、曇り空ながらそびえ立つ東京タワーが気になって、遠回りになってしまうけど上ってきた。自分の記憶としては幼稚園の時に一度だけ上がったきりだったので、年甲斐もなくちょっとワクワクしてしまった ;)

IMG_6525.resized

東京タワー

てっきり外国(大陸)からの観光客で一杯だと思ったら、日本人も多くいたのは意外だった。当時はメインデッキ[b]地上150mの展望台。が工事中だったので片方面しか展望できなかったっけ。

あと入場料金が想像していたより高かった。へぇ〜、最上階にあたるトップデッキ[c]地上150+250mの展望台。へは大人2,800円、メインデッキ止まりだと900円もするのね(当時)。これでエレベーター行列になっていたらメインデッキまで行ってみるかと思うのはキツイかな、正直なところ :O。この日は平日ともあって行列にはなっていなかったので、メインデッキまで上がって展望することにした:

IMG_6512.resized

Tokyo Tower

こちらは東京タワーの東側にある東京プリンスホテル方面を見下ろしたところ:

IMG_6514

東京ワタ−の真下(拡大版)

こちらは東京タワーから北方面の眺望。一際目立つ高層ビルは愛宕グリーンヒルズMORIタワーと、ここへ来るときに下から見上げたもの。霞んでいるものの東京スカイツリーがMORIタワーの右奥に見えた:

IMG_6513

靄の中にスカイツリーが(拡大版)

IMG_6526.resized

愛宕グリーンヒルズMORIタワー(42F)

こちらは先ほど参拝してきた愛宕神社方面。標高27mの愛宕山が高層ビルの中に埋もれていた :|

IMG_6515

愛宕神社方面(拡大版)

こちらは増上寺と汐留・東京湾方面。こちらも微かにベイブリッジが見えた:

IMG_6517

増上寺(拡大版)

IMG_6516

汐留・東京湾方面(拡大版)

最後は東京タワーとコラボしていた漫画ワンピースの置物[d]個人的に全く興味がない 😥  が、珍しかったので。

IMG_6523.resized

「東京ワンピースタワー」

IMG_6521.resized

これ何?

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also愛宕神社参拝 (フォト集)

参照   [ + ]

a. ちょうど某大河ドラマで西郷隆盛をとりあげていたこともあってタイムリーな感じ 😀 。
b. 地上150mの展望台。
c. 地上150+250mの展望台。
d. 個人的に全く興味がない 😥  が、珍しかったので。

ミライザカ − A “Glove” Fried Chicken with Bone by the One Person Flat Feel Free.

昨年は平成30(2018)年最後の城攻めとして年末近くの連休を利用して群馬県へ。この時点で、一応は目標としていた群馬県にある城跡は残り二箇所だったので、それらを攻めて「群馬県の城攻め」を完了させたかったので良い機会となった :)。今回訪問した群馬県は前回ボロクソに貶した前橋といった中途半端な街ではなく、自身初めての渋川市と、雪が心配だった吾妻郡高山郷。個人的に吾妻郡は群馬県というよりは「長野県」じゃないかといった感覚で、全くよい印象がない群馬県の街中とでは別格扱いである[a]実際、往時は堅牢な山城が多く築かれ、現在でも見応えのある城跡が多いという意味で。 :D

で初日は渋川市にある白井(しろい)城跡へ。早朝に自宅を出て大宮までは東海道を利用し、そこからJR上越新幹線で高崎まで移動。そして新前橋経由でJR上越線・水上行に乗って渋川に着いたのが朝10時。この日の群馬の天気予報は前日までコロコロと変わり、自宅を出る直前は晴のち曇りでということで全く心配していなかったのだが、いざ着いてみると完全な曇り空。というか今にも雨か雪が降ってきそうな空模様だった :/

事前に調べたところによれば、徒歩で駅から白井城跡へ向かうと40分近くかかるということだったので、駅構内にある観光案内所に立ち寄って情報を入手することに。すると城近くの「白井宿」(しろいしゅく)なるかっての宿場町近くを通るバス[b]正確には「渋川駅〜渋川医療センター線」という乗合バスで料金は一律100円。平日と土日祝の運行時刻表を観光案内所で入手できる。が運行しているとのことで、それを利用することにした。なんやかんや観光案内所の人と立話しているうちに危うくバスを一本逃すところであったが駅西口のバスターミナルから無事に乗車することができた。しかしバスに乗っていると雨がポツリポツリと降り出してきた :$

このバスに乗って鯉沢(こいざわ)バイパスこと国道R17を北上し、吾妻川に架かる吾妻新橋を渡った先の「白井」なるバス停まで10分ほど。そして、このバス停から白井城跡の登城口までは白井宿跡を経由して徒歩で15分という感じ。帰りは吾妻新橋から吾妻川ごしに白井城跡の遠景を眺めたかったので、バスは利用せず、その分たっぷり4時間近く城攻めしてきた。途中、雨の降りが強くなることはあったが、大木の下で昼飯と休憩がてら雨宿りすることで、それほど難儀することはなかった[c]どちらかと云うと気温が低くて、歩きまわっていても体が冷えてしまうことの方が難儀した。帰りにおしるこを食べてなんとか持ち直したが。

城攻めを終えて渋川から本日の宿がある高崎へ移動しチェックイン[d]実はこの日一番の難儀はチェックインだった。ホテルの会員カードを忘れた(あとで調べたら紛失していた 😥 )のでカウンター前で右往左往してしまったが電子会員で対応できるとのことで、携帯にアプリをインストールして何とか会員価格を適用することができた 😎 してから、ホテルから徒歩5分ほどの居酒屋ミライザカ・高崎西口駅前店で夕食を。クリスマスシーズンともあって、せっかくなら焼き鳥や唐揚げと云った鶏肉料理を食べたかったと云う次第:

旨唐揚げと居酒メシ・ミライザカ

旨唐揚げと居酒メシ・ミライザカ

開店してすぐに入ったようで人の入りはまばら。テーブル席に通してもらい、まず中生(323円)を注文してお通し(323円)をつまみながら、お店オススメの品を中心に選んでみることにした。

まずは「かんぱいのお供に」なるグループから選んだきゅうりの塩昆布ゆかり和え(431円)。これはさっぱりして美味しかった。もしかしたらこの日に食べた料理では店一番かも :X

塩昆布ゆかり和え(431円)

この店は野菜系があまり充実していなかった。トマト好きなので北海道チェリーモッツァレラのトマトカプレーゼ(431円)。「農園から採れたたての野菜」なるグループより。これは美味しくなかった;

IMG_6630.resized

量も味も不満だった北海道チェリーモッツァレラのトマトカプレーゼ(431円)

ここらで焼き鳥を。「ハートを串刺し! 定番やきとり」から盛り合わせ5本を塩味で(863円)。出てきたものは、どこの居酒屋チェインでも出してきそうな貧祖な鶏肉だった:

やきとり盛合せ 5本(863円)

ここいらでビールのおかわりを注文したついでに、お店一番のオススメである清流若どり[e]店のHPによると、産地・生産者・飼育法を明確にした若鶏とのことだが、店のどこにもそんな情報は開示されていなかったが。・骨付きモモ一本グローブ焼ガーリック味(1079円)。「でかうま!清流若鶏の唐揚げ」グループから:

IMG_6632.resized

清流若どり骨付モモ一本 グローブ焼きガーリック(1079円)

出てくると店員が大きなハサミであらかた切れ目を入れてくれる。あとは箸でむしりとって食べると言った感じ。これはビールにぴったりだった:

お店一番のオススメ

IMG_6633.resized

ガーリック味噌?的な味

う〜ん。期待するほど食べるところは多くなく、これで1,000円か!?って感じ :O

IMG_6635.resized

期待したほど食べるところはなかった

ちょっと口直しで「海山の新鮮お刺身」から北海道産ホタテ刺し(647円)。表面が乾いていて、これは明らかに新鮮ではなかった ;(

IMG_6636.resized

北海道産ホタテ刺し(647円)

ここらで明日の城攻めに配慮して梅酒ロックにスイッチ。一杯目は澄みわたる梅酒ロック(431円)を注文したがコップ一杯に入り水みたいで不味かったので、二杯目は山崎蒸留所貯蔵・焙煎樽仕込梅酒ロック(486円)を注文。やっとまともな梅酒ロックになった:

IMG_6637.resized

焙煎樽仕込梅酒ロック(486円)

この時についでに注文したのが「カンパイのお供に」グループより清流よだれ鶏(539円)。ラー油がかかっているがそれほど辛くもなく、なんとなく味気なかった:

IMG_6638.resized

清流よだれ鶏(539円)

IMG_6639.resized

まったく辛くなく味気ない

腹も膨らんできたので玄米茶(0円)を注文し、「〆は別腹!」グループから焼きおにぎりにしようかお茶漬けにしようか迷った挙句、かしわ飯茶漬け(539円)にした:

IMG_6641.resized

かしわ飯茶漬け(539円)

IMG_6642.resized

飯がべちゃべちゃで旨くない

元々のかしわ飯がベチャベチャだったので出汁にいれると一層フニャフニャになった。味付けも薄味。正直なところ美味しくない。

ということで「安くて一人でもふらっと立ち寄れる気軽さ」が売りの居酒屋とのことだったけど大したことは無かった。群馬県の都市部に来る度に思うのだけど首都圏レベルの価格でも内容が伴っていないそんな店が多いので、吉田類の酒場放浪記みたいにもっと地元の常連がつきそうな店に行ってみたい。値段は群馬レベルだと思うが。

ミライザカ・高崎西口駅前店
群馬県高崎市八島町110-6 TO-MOREビル1F


ここからはオマケ。

こちらはSL蒸気機関車でも有名な渋川駅ホーム:

IMG_6628.resized

渋川駅

渋川駅発の乗合バスで白井下宿(しろいげしゅく)という交差点手前[f]ダイナムというパチンコ屋の目の前だったと思う。にある白井バス停で下車し、小雨が降る中を国道R17沿いに北上して白井交差点までくると左手にコンビニが見えてくる。そこから西へ向かって歩いていくと白井宿なる宿場町跡が見えてくる:

IMGP3011

白井宿の南端にある灯籠(拡大版)

この白井宿の始まりは今から580年以上前の永享2(1430)年の白井城築城まで遡るのだそうで、吾妻川と利根川が合流する交通の要衝にあって城下町として栄えたあと、徳川家康が関東へ移封されてから江戸時代には白井藩が藩立し、幕府の直轄地(天領)になって市場町・宿場町として発展したと云う:

IMGP2793

白井宿跡の町並みと白井宿歴史資料館(拡大版)

IMGP2794.resized

上野国・白井宿の標柱

実際のところ白井宿は沼田往還(街道)の宿場町では無かったが、城下町として独自の文化圏の中心であったことから人や物が集約するところだった:

IMGP2795.resized

沼田街道西通りの白井宿

IMGP3007.resized

現代の建物(白井山車備品蔵)

明治の世に入ると現代の国道R17に相当する清水越往還が開通し商業は現在の渋川へ移り、通りから外れた白井は農業主体の集落に変容したのだとか。

幕末から明治にかけて三度の大火により古い家並みは焼失し、現在は広い通りとその真ん中を流れる白井堰(しろいせき)、生活に潤いを与えた8つの「つるべ井戸」、そして路傍の石造物などが点在、往時の佇まいを今に残している:

IMGP3005.resized

羅漢水の井戸(1795年)と白井堰

IMGP3009.resized

宮本町の井戸(1929年)と白井堰

そして、こちらは白井宿跡の西側に築かれていた白井城の本丸跡:

IMGP2815.resized

白井城本丸跡

IMGP2872

白井城本丸虎口跡(拡大版)

本丸虎口の石垣は名将・太田道灌が指導して築いたと云う伝承が残る:

IMGP2886.resized

本丸虎口の石垣

この城は、室町時代中頃に白井長尾家の長尾景仲(ながお・かげなか)なる武将が築いたもの。『関東不双の知恵者』と称された景仲は山内上杉家の家宰職(重臣)を務めた上野・武蔵国の守護代で、孫には長尾景春[g]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。や太田道灌がいる。

ちなみに戦国時代は甲斐武田家の真田幸綱信綱父子も白井城に攻め込んだという記録が残る。

現在の城跡も広大な敷地の大部分が民間に払い下げられて畑になっていたが、空堀や虎口・土橋といった遺構は大切に保存されているようで、素晴らしい状態で見ることができた 8)

IMGP2861

本丸と二の丸との間の堀切(拡大版)

城の西側には吾妻川が流れている:

IMGP2870.resized

本丸跡から見た吾妻川

IMGP2961

二の丸跡から眺めた吾妻川(拡大版)

白井城東側には帯郭と堀切が南側へ向かって伸びていた:

IMGP2908.resized

帯郭跡

IMGP2934

帯郭と本丸との間の深い堀切(拡大版)

城の西側は断崖と吾妻川、東側は帯郭によって優れた防御力を持っていた白井城がよく分かる保存状態で大満足な城攻めだった :)

帰りは吾妻川に架かる吾妻新橋を渡って駅へ向かった:

IMGP3013.resized

国道R17が走る吾妻新橋

IMGP3012.resized

吾妻新橋

渋川駅方面に向かって左手は利根川、右手は吾妻川:

IMGP3019

吾妻新橋ごしに眺めた先の利根川(拡大版)

IMGP3015.resized

吾妻川

吾妻新橋の上から白井城址(写真中央あたり)を眺めたところ:

IMGP3020

白井城跡遠景(拡大版)

最後は、小雨が降るなかを城攻めして冷えきった体を温めようと渋川駅の目の前にある和食レストラン・とんでんで食べた焼き餅と栗のぜんざい(454円)。栗は半分だし、餅は堅いし全く美味しくなかった[h]特に梅こぶ茶は飲めた物ではなかった 😐  :/

IMG_6627.resized

この価格でこの不味さは罪にあたるな

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also上州白井城攻め (フォト集)
See Also上州中山城攻め (フォト集)

参照   [ + ]

a. 実際、往時は堅牢な山城が多く築かれ、現在でも見応えのある城跡が多いという意味で。
b. 正確には「渋川駅〜渋川医療センター線」という乗合バスで料金は一律100円。平日と土日祝の運行時刻表を観光案内所で入手できる。
c. どちらかと云うと気温が低くて、歩きまわっていても体が冷えてしまうことの方が難儀した。帰りにおしるこを食べてなんとか持ち直したが。
d. 実はこの日一番の難儀はチェックインだった。ホテルの会員カードを忘れた(あとで調べたら紛失していた 😥 )のでカウンター前で右往左往してしまったが電子会員で対応できるとのことで、携帯にアプリをインストールして何とか会員価格を適用することができた 😎
e. 店のHPによると、産地・生産者・飼育法を明確にした若鶏とのことだが、店のどこにもそんな情報は開示されていなかったが。
f. ダイナムというパチンコ屋の目の前だったと思う。
g. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
h. 特に梅こぶ茶は飲めた物ではなかった 😐