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郡上八幡の城下町散策 − Waterways, Gujō Odori and Old townspace.

今年は令和5(2023)年のGW城攻めツアー2023は三泊四日で岐阜県を中心にいくつかの城攻めと古戦場跡巡りしてきた。

その三日目は、長良川と吉田川を天然の外堀とした郡上八幡城、城下町を流れる用水路、そして郡上おどりでも有名な郡上市八幡町へ。かって奥美濃の小京都とも呼ばれたこの古い町並みは、一部が国の重要伝統的建築物群保存地区にも指定されている。

午前中に城攻めを終えて、老舗の鰻屋でお昼を摂ったあと、城下町を散策してきた。

こちらは大手門跡あたりから見上げた城山(郡上八幡城)方面。城下町と云うことで直線のラインが多い。さらに、ここは大手道だったので幅も広い:

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郡上八幡城下町プラザの横あたり

左上には、つい三日前にリニューアルオープンした模擬天守が見える。町のどこからでも城のシンボルが見えるのは、さすが城下町。

こちらは郡上八幡博物館。「郡上おどり実演中」の幟があったが、夏になると一日中踊り明かすことで有名な郡上おどり。ユネスコの無形文化遺産に指定されているのだとか:

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郡上八幡博覧館

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流響の里にて

毎年8月13日から16日の4日間、徹夜で踊り明かす郡上おどりは「徹夜おどり」とも:

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郡上おどりの像

この銅像が建つ八幡町職人町通りの古い町並み。建ち並ぶ家の前には用水路がある。流れている水も清らかであるが、これは二度の大きな火事による教訓でもあるらしい:

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八幡町職人町本町通り

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用水路

細い脇路地にも用水路があり、町中には宗祇水《ソウギスイ》と呼ばれる湧水がある:

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脇路地の用水路

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この先に宗祇水がある

郡上市のマンホール蓋。清流を泳ぐアマゴ(川魚)を描いたデザイン:

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清流を泳ぐアマゴ

城下町からはどこからでも天守を眺めることができる:

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城下町と城山

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城山に建つ天守

小駄良川《コダラガワ》は吉田川の支流で一級河川。城下町の風景に溶け込む清流である:

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小駄良川

この川沿いにある大乗寺《ダイジョウジ》の山門は江戸時代後期の享和3(1803)年の建立で市指定重要文化財。門の上が鐘楼になっている鐘楼門型式。藤の花も見頃だった:

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大乗寺の山門

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藤の花も見頃

このあとは吉田川方面へ。城跡南側の崖沿いにはいくつかのオブジェがあった。

商売繁盛の神様を祀る神農薬師さま、そして学者・歌人と知られる折口信夫《オリグチ・シノブ》の歌碑。氏が郡上へ来遊した大正8(1919)年には大火に遭遇し、焼け跡の情景を歌に詠んだもの:

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神農薬師さま

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焼け原の 町のもなかを行く水の せせらぎ澄みて秋近つけり” (冒頭の一首)

郡上はこれまでに二度の大火に遭遇し、そのたびに水路を増やしたり整備が行われて、現在見るような用水路網ができあがったらしい。

こちらは吉田川にかかる新橋。この橋の欄干から12mほど下の吉田川に飛び込む人もいるようで、「不慣れな人」向けに警告が出ていた[a]実際、死亡事故が発生しているのだそうだが 😞️。

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吉田川に架かる新橋

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不慣れな人は駄目

この先は高山・下呂方面。ここから渓谷の間を流れる吉田川の眺めがすこぶるいい。右上は稚児山(標高817m)真ん中奥は京塚山(862m):

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吉田川と稚児山(拡大版)

こんな色の川なら飛び込んでみたくなる気持ちもわからなくもない:X。春先は観光客を迎えるために町内あげて川や用水路の清掃を行っているらしい:

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吉田川の水の色

もちろん川と渓谷の絵もいいが、こんな風景もなかなか:

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断崖上にへばりつく建物

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吉田川が運ぶ大量の水

橋を渡った先に建っていた郡上八幡旧庁舎記念館。その昔、この中にある食堂で豚一家がカレーを食べたらしい[b]中で観たメニューには、そんなカレーは無かったけど😞️。

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郡上八幡旧庁舎記念館

吉田川対岸から振り返って観たところ。この崖面上が城山こと郡上八幡城跡:

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吉田川に架かる新橋

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新橋と城山南の崖面

旧庁舎記念館脇の側道に置かれた椅子に座りながら、この渓流と周囲の景観を眺めてゆったりできるようになっていた :)

 

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吉田川に架かる新橋

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意外と巨岩が多い

旧庁舎記念館の駐車場脇には「いがわ小径」と云う用水路を利用した生活用道路への降り口がある:

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いがわ小径(降り口)

民家の用水路沿いに、幅1mほどの生活用道路が120mほど続く:

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いがわ小径

この町では古くから、生活に利用する小さい川や用水路などを総称して「いがわ」と呼んでいたらしい。生活用の水路とはいえ、きれいな水なので大きな鯉がたくさんいた:

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周囲は民家

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大きな鯉

小径の終点近くから吉田川の河原へ降りることができた:

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吉田川

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意外と巨岩が多い

河川敷を上がり、また城下町へ戻る:

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路地裏

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八幡町あたり

こちらは吉田川に注ぐ支流の一つである乙姫川(名広川):

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乙姫川

この川周辺は個性的で、どことなく懐かしさのあるお店が多かった :)

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靴・履物屋の「わだてつ」

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帽子屋の「宮田」

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魚屋の「ひらくす」

こちらは願蓮寺の山門。その昔、城主からの援軍要請で、この寺の住職らも僧兵として参陣し討ち死した記録が残るのだとか:

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願蓮寺の山門

このあたりから再び吉田川方面へ向ったが、そのとき笛(ホイッスル)の音が聞こえたので、振り返ってみると小学生が集団で下校する風景だった 8)。こんなのどかな風景を観て、ああ今日が平日だったことを思い出した ;)[c]ここで小学生らから挨拶の連続攻撃を受けることになる 😁️。もちんろん挨拶で迎え撃ったが 😆️。

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なんか懐かしい集団下校の風景😊️

吉田川に架かる宮ケ瀬橋からの眺めもよかった。吉田川がこの先で小駄良川と合流、さらにその奥で長良側へ合流するところの眺め:

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吉田川と小駄良川の合流点(拡大版)

さらに振り返って、先程の新橋方面の眺め。ここからも城のシンボルが見えた:

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宮ケ瀬橋上から新橋方面の眺め(拡大版)

橋を渡った先が八幡本町で、そのままバス乗り場がある城下町プラザへ戻った。

こちらは、その途中、酒屋の店先で目に入った「ゴジラフライ」なる食品サンプル:

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ゴジラの他にモスラも😄️

近くにあった貼り紙によると、この食品サンプルが作られたのは約35年前。この作者さんをず〜っと探しているようだが、まだ見つかっていない模様。

こちらは城下町プラザの眼の前にあった創作カフェで買った「新食感・冷やしわらび串(250円0」の黒蜜きなこ味。少し溶けてから食べるように云われたが、そんな暇無かったのでそのまま食べたら、新食感もなにも普通のアイスの食感だった :P

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小物屋を兼ねたカフェ・花籠

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冷やしわらび串

以上で城攻めと城下町散策を終え、人生初の郡上八幡をあとにした 0:)

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岐阜バス往復乗車券

と云うことで、この時のフォト集はこちら:
See Also2023年5月 郡上八幡城下町 (フォト集)


ここからはオマケ。

この日は宿泊先最寄りの名鉄新羽島駅からスタート。この名鉄6800系に乗車して笠松経由で名鉄岐阜へ:

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新羽島から笠松経由で岐阜へ

そして、この日の帰りは大失敗した 。名鉄岐阜から笠松経由で宿泊先へ向かったのだが、笠松で下車せずにうっかりと乗り過ごしてしまった。なので、次の駅で下車し「連絡通路」を使って反対方面のホームから乗り換えようと思ったのだが、その「連絡通路」がどこにもない :0 。仕方なく一度改札を出て、線路を渡った先にあるもう一つの改札口から改めにて乗車するハメに :(:(:(

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絶対に忘れない駅名

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もう絶対に降りない駅

関東人的には「連絡通路」があって無料で乗り換えできると期待するのが普通なのだが、中京地区ではそれは普通ではないようだ :X

参照

参照
a 実際、死亡事故が発生しているのだそうだが 😞️。
b 中で観たメニューには、そんなカレーは無かったけど😞️。
c ここで小学生らから挨拶の連続攻撃を受けることになる 😁️。もちんろん挨拶で迎え撃ったが 😆️。

魚しげ − An Eel Restaurant on the site of the SEKIGAHARA Battlefield.

今年は令和5(2023)年のGW城攻めツアー2023は三泊四日で岐阜県を中心にいくつかの城攻めと古戦場跡巡りしてきた。

二日目は不破郡関ヶ原町古戦場巡り。この日の関ヶ原町は、計画を立てた一週間前の予報どおりの晴天。むしろハズレだったのは気温の方で、さすがに天下分け目の戦いがあった関ヶ原盆地は暑かった〜 :$。真夏でなかったことと、移動をレンタサイクルにしたのが救いか[a]走っていると風が心地よい。それでも水分補給・塩分補給は必須だった 😆️。

このときは駅前にある関ケ原駅前観光交流館で、事前に予約しておいた電動アシスト付き自転車を1日レンタル[b]レンタル時間は朝9時〜夕方4時半くらい。夕方5時には交流館が閉店する。して、観光協会推奨のモデルコース「関ケ原合戦・行軍コース」に、さらに陣所跡や史蹟などをいくつか追加してみたのだが、これが良くなかった。

当然ながら、そんなに楽なコースではなくなり時間も足りなくなってしまった。特に終盤の松尾山城跡・小早川秀秋陣跡は、散々走り回って疲れた体で片道50分近くの登山があり[c]特に登り下りで膝にきた感じ 😞️。、ひいひい云って登った先にある松尾山城跡に感動して、ついつい時間を忘れて巡ってしまったこともあって予定時間をだいぶズレ込んでしまった :0。おかげで昼飯を食べている時間さえなく体力的にもキツイ状態でなんとか気力だけで巡りきったって感じ :| [d]次はゆっくりと松尾山城や玉城跡を攻めたいし、島津豊久墓碑や奥平貞治の墓なんかも巡りたい。また来年に再訪か?😅️

そう云うことでレンタサイクルを返却したあとの体力は empty でカラータイマーが点滅中だったので、あらかじめ調べておいた近くの老舗うなぎ屋へ直行:

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国道R21(中山道)沿いにある魚しげ

近かったのは体力的に助かったが、まだ開店前だったので店前にあったベンチに座って待つことにしたら、女将さんが気にかけてくれて開店前だけど店に入れてもらえた。感謝 :)

店の一階に焼き場があるので、店内はうなぎのタレの匂いが漂っていた。その一階は大小のテーブル席が複数あり、その中で二人用のテーブル席に案内された。注文するものは「うな重」で決めておいたが、残念ながら肝焼きは既に予約分で売り切れとのことだったので「うざく」に変更し、さらにビール大瓶(715円)も注文した。こちらのお店は注文してから焼きに入るそうなので、ビールを飲みながらこの日の「復習」をしながら待つことにした :D

待つこと30分近く、出てきたのはなんとも神々しい重箱に入ったうな重・松(4,070円):

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うな重+肝吸い+小鉢+珍味+香の物(4,070円)

重箱の蓋をあけたものが、こちら:

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うな重・松セット

小鉢には金毘羅ごぼう、珍味は海藻とイカの酢の和え物、香の物は奈良漬だった。

肝心のうな重は、もう匂いだけで一杯頂いた感じ:Dなのだが、関東みたいに事前に蒸さずに、備長炭の直火で香ばしく焼き上げ、秘伝のタレにつけては焼くを繰り返しているようで、外はパリパリ、中はふっくら。久しぶりに脂がのった鰻を堪能した:

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御飯の中にも鰻がまぶされていた

さらに御飯の中にもぶつ切りした鰻がまぶされていて、とても食べごたえがあった。ホント、食べ終わったら店に入る前の自分とは違う感じでエネルギーが満タンとなり、気力もアップしてきた[e]だからと云って、もう一回同じ古戦場巡りができるか?と云うと、若干は疑問だが 😊️。

この肝吸い、関東風とは異なり、肝は焼きではなく茹でてある感じで、食感もプリッとしていた:

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肝吸い

そして「うざく」を頂く:

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うざく(1,045円)

酢きゅうりと、こちらもパリッと焼かれた短冊型の鰻の組み合わせは、重厚なうな重を食べて甘ったるくなった口の中のお口直しって感じ。さっぱりと、それでいて程よく脂がのった鰻は、それだけで十分な鰻料理だった。

こちらは2Fにあったトイレへ行く途中に見かけた手作り甲冑。店の中も戦場だった :D

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お店の二階で見かけた手作り甲冑

これで体力は復旧し、疲れた脳もリフレッシュできて満足した。そして足取りも軽やかに関ヶ原駅へ向かって宿泊先へ移動した[f]電車の時間が近づいていたので走る必要があったが、おかげで苦もなかった 😄️。

魚しげ
岐阜県不破郡関ヶ原町大字関ヶ原3206-2

 

ここからはオマケ。
 
こちらがJR東海道本線・関ヶ原駅。ちょうど古戦場を横断するように東海道本線が通っている:
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関ヶ原駅

駅前の観光交流館で見かけたイルミネーション(?):

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葵紋

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大一大万大吉紋

徳川家康が最初に陣を置いた桃配山《モモクバリヤマ》:

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桃配山・徳川家康最初陣跡

ここから関ヶ原宿がある旧中山道を西へ移動する:

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関ヶ原宿跡

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ここは旧中山道(垂井宿・関ヶ原宿・今須宿)

徳川家康最後陣跡。家康はここで首実検したらしい:

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徳川家康最後陣跡

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徳川家康最後陣跡+床几場

こちらは、この近くにある関ヶ原古戦場記念館。今回はまだ開館していなかった[g]立ち寄っている時間的余裕もなかったが 😑️

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関ケ原古戦場記念館

この建物は他の陣所跡からも眺めることができるくらい目立っていたので、家康の陣所の位置を確認する際の目印にした。

細川忠興の陣所跡黒田長政・竹中重門らの陣所跡

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細川忠興陣所跡の碑

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黒田長政・竹中重門陣所跡

黒田・竹中両氏の陣所からの眺めは良かった:

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黒田・竹中両氏の陣所跡からの眺望(パノラマ)

笹尾山麓に島左近陣所跡と竹矢来:

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島左近陣所跡

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復原された竹矢来

左近の陣所の上が石田三成の陣所跡
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石田三成陣所跡

三成の陣所からも眺めは良かった:
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三成の陣所跡からの眺望(パノラマ)

島津義弘陣所跡に建つ幟:

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島津義弘陣所跡あたり

こちらは小西行長陣所跡あたりから各地の眺め:

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石田三成陣所跡の遠望

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毛利勢が陣を置いた南宮山

 旧中山道側の若宮八幡神社境内から大谷吉継陣所跡墓所、そして眺望地へ向かった:

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若宮八幡神社の参道

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参道を横切るのは東海道本線

陣所跡近くにある眺望地では顔ハメに姿を変えた吉継が、小早川秀秋が布陣した松尾山を睨めつけるように建っていた:

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今でも警戒していた吉継

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黄色の幟が小早川秀秋の陣所跡(拡大版)

このあと推奨コースをそれて旧中山道を西へ向かい:

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旧中山道の高札場

常盤御前の墓所」へ。常磐は牛若丸こと源義経の実母。常磐の墓と伝わるものは全国に多数ある。墓所の背後に建つのは松尾芭蕉の句碑:

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伝・常盤御前の墓所

あと同じくコースをそれて見てきた不破の関土塁跡(北限と南限):

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不破関北限土塁跡

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不破関南限土塁跡

こちらは宿泊地へ戻る際に乗車したJR東海の313系とその車窓から眺めた伊吹山

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JR東海の313系

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車窓から伊吹山

最後は宿泊地の最寄駅構内で見かけた焼き芋の自販機:

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焼き芋の自販機

と云うことで、この時のフォト集はこちら:
See Also関ヶ原古戦場巡り (フォト集)

参照

参照
a 走っていると風が心地よい。それでも水分補給・塩分補給は必須だった 😆️。
b レンタル時間は朝9時〜夕方4時半くらい。夕方5時には交流館が閉店する。
c 特に登り下りで膝にきた感じ 😞️。
d 次はゆっくりと松尾山城や玉城跡を攻めたいし、島津豊久墓碑や奥平貞治の墓なんかも巡りたい。また来年に再訪か?😅️
e だからと云って、もう一回同じ古戦場巡りができるか?と云うと、若干は疑問だが 😊️。
f 電車の時間が近づいていたので走る必要があったが、おかげで苦もなかった 😄️。
g 立ち寄っている時間的余裕もなかったが 😑️

黒豚とんかつ合掌 − The Tonkatsu Restaurant where has the Otemon Gate.

中世(室町・戦国時代)から近世(幕末)まであった城で、関東にあっては地理的にも政治的にも要の城と云われ、戦国大名として関東に勢力を広げた「相模の獅子」こと北條氏康曰く「この城を手に入れることは一国を手に入れるに等しい」とも云わしめた大手門が移築されているとのことで、令和5(2023)年の陽春の候で桜が満開だった先週末に、ただその門を観るだけのために早起きして栃木県下野市まで行って来た :)

この門は、幕末の戊辰戦争で資金調達のために近くの村に売り払われたものらしい[a]この藩は江戸城が近かかったので、自分たちの城を犠牲にしてまで江戸城を守れと命令されていたらしい 😑️。。それが巡り巡って、現在はとんかつ屋の敷地に再建されている 8)

ということで意外と良好な状態の大手門を堪能したあとは、とんかつの方もしっかりと堪能してきた :D

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国道R4(日光街道)沿いにある

店の建物ものそれなりに歴史を感じるもの。店内に入ればそれがわかる :D

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予想以外に大きなお店だった

開店まもない時間で既に数組の先客が居たが、一階だけでもテーブル数は多めだったので行列も待ちも無し[b]現在は一階しか使っていなかったようだが 😥️。

一応は事前に調べて注文するものは決めていたが、メニューを眺めて、この店押しの黒豚とんかつ膳(200g)(2,190円)に変更した[c]と云うか、決めていた品(和豚もちぶたトンテキ)は平日ランチメニューでしかないものだった 😉️。さらに、この日は駅から30分ほど歩いてきたので、喉を潤し直すためにグラスビール(420円)も注文した。

ビールをクゥっと飲み終えたら、席を立ってクラッシックな雰囲気の店内を眺めるためにウロウロしたり:

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ステーキ屋にありそうなシャンデリア

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なぜ杵と臼?

そうこうしていると御膳が出てきた:

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黒豚とんかつ膳(200g)(2,190円)

御飯と豚汁はおかわり自由 8)。箸休めの冷奴の他に、熱々の茶碗蒸しがついていた。

独特の脂身を岩塩をつけて頂いた方が旨かった。口の中で解けて、嫌味のない脂ぽさが口いっぱいに広がるので。肉の方はゴマ入りの特製ソースで頂く。これで御飯をパクパクいけた 8)。さすがにカロリーが気になって、後半は豚汁と一緒に頂いたが。この豚汁がまたまた美味い:

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特製ソースも良いが、黒豚は塩がオススメ

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熱々でおかわりOKな豚汁

なんだか最後は、大手門よりもトンカツの方が堪能した感が大きかった :D

黒豚とんかつ合掌
栃木県下野市下石橋134-1


ここからはオマケ。

こちらが、満開の桜越しに眺めた大手門。その奥にあるのがトンカツ屋。右手奥はとんかつ屋のだだっ広い駐車場:

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関宿城の大手門(移築)

大手門の梁に残っていた破壊済みのスズメ蜂の巣:

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スズメバチの巣

駐車場脇には桜が満開だった:

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国道R4沿いにある

来るときは宇都宮線の石橋駅から歩いてきたが、その時に見かけた模型屋の建物:

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有名な模型屋らしい

帰りは同じく宇都宮線の自治医大駅まで歩いたが、とんかつ屋と国道を挟んで向かいには丸大食品の工場があり、その入場門の前にそびえていたのがこの慈母観音像:

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巨大な慈母観音

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慈母観音

国道R4を自治医大駅方面へ南下して行くとアカマツと桜がたつ松原があった:

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国道R4沿いの松原

アカマツの松原:

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国道R4沿いの松原

と云うことで、この時のフォト集はこちら:

See Also関宿城攻め / 伝・大手門と薬医門 (フォト集)

参照

参照
a この藩は江戸城が近かかったので、自分たちの城を犠牲にしてまで江戸城を守れと命令されていたらしい 😑️。
b 現在は一階しか使っていなかったようだが 😥️。
c と云うか、決めていた品(和豚もちぶたトンテキ)は平日ランチメニューでしかないものだった 😉️

生そば 柳屋 − A trivial set of SOBA and box lunch with Tempura.

先々週は、令和5(2023)年の建国記念の日[a]日本の初代天皇である神武天皇の即位日で、旧暦だと紀元前660年1月1日。に六年前に攻めた城跡を再び巡ってきた。六年前は事情 :(があって[b]詳細は、城攻め訪問記を参照のこと 😥️きちんと攻めきれていなかったのと、関係の深い城跡が隣駅にあることを知ったので再訪した次第。

しかしながら再訪した前日の関東地方は大雪で大荒れの天候で、城攻め当日は雪が残っていた公園を歩き回る羽目に :|。ただ当日は打って変わって快晴となった上に、午後から暖かくなってくれたのが救いだった :)

昼過ぎに城攻めを終えたので、何か食べてから帰ろうと思ったのだけれど、最寄り駅に適当な店がなかったので、帰路の途中でもあり御食事処の選択肢が多い久喜駅へ移動。昼どきと云うことで、事前にいくつか決めておいた店へ順に行ってみることした。まずは駅西口にある蕎麦屋へ。暖簾越しに覗いてみると空いていたので、そのまま店内へ:

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柳屋・生そば

一応、注文するものも決めておいたのだが、テーブル上のメニューを眺めて変更。少々グレードをあげて天重のセットメニューにした:

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天重セットもりそば(1,300円)

ザルの上にのっていない蕎麦そのものは普通。その分、みずみずしかったが、あまり香りがしなかった。久しぶりの天重だけど、これまた普通。いかの天ぷらは硬かった。来る前に決めておいた「いか天丼」のセットしなくて良かったなぁと。みそ汁はあってもなくても同じ。味が薄かった〜。
ふm,至ってどこにでもある「町」蕎麦屋の天重セットだった :|。でも店員さんのサービスは Good!;)。お茶や蕎麦湯を出すタイミングはバッチリだった。

生そば・柳屋
埼玉県久喜市久喜中央1丁目1-1


ここからはオマケ。

この日の午前中に攻めた花崎城跡。現在は花崎城址公園。前日に降った大雪が気になったが、実際には心配するほどではなかった:

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花崎城址公園

城址公園ともあって、遊具なんかがある児童公園よりかなり広い。こんな感じで城跡ぽい土塁や堀が復元されているし:

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堀跡

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土塁跡

ここは東武伊勢崎線が横断する城跡。もちろん線路内には立ち入ることは不可;

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特急りょうもう

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特急りょうもう

でもなぜか公園が別々になっていた。こちらは線路の北側にある花崎城跡公園:

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花崎城跡公園

この城跡の最寄り駅である花崎駅からお隣の鷲宮駅へ移動。駅北口から鷲宮神社へ向かった:

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宮前橋

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武蔵國・鷲宮神社

境内の奥にある拝殿。今年、銅板屋根葺き替えが行われるらしい:

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拝殿

境内には鳥小屋もあって、ちゃんと鶏が居た:

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午前中の花崎城の本城にあたる粟原城(鷲宮城)跡へ向かう前に、宮前にあった茶屋で一服した:

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大酉茶屋 田々

甘酒好きなので、その幟を見て入ることにした:D。思ったほど混んでいなかったし。

こちらが甘酒セット(税込み410円)。芋ようかんかどら焼きを選択できる:

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甘酒セット(410円)

暖かい甘酒は、麹の味が前面にでて、やや酸っぱ味があった。ついでに、どら焼きも暖かくして欲しかったが、この地方ではそんな習慣はないようだ :/

このあと鷲宮神社と青毛堀川と東武伊勢崎線を挟んで西側にある粟原城跡を攻めてきた。こちらは東武伊勢崎線。この先は花崎駅:

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東武伊勢崎線

青毛堀川と東武伊勢崎線:

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桜並木と東武伊勢崎線

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青毛堀川と踏切

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also花崎城攻め (2) (フォト集)
See Also鷲宮神社と粟原城攻め (フォト集)

参照

参照
a 日本の初代天皇である神武天皇の即位日で、旧暦だと紀元前660年1月1日。
b 詳細は、城攻め訪問記を参照のこと 😥️

鎌倉散策 − The 13 Remains for the SHOGUN.

先々週は令和4(2022)年の立冬を過ぎたよく晴れた週末[a]洋服記念日。平成30(2018)年には大谷翔平がアメリカンリーグ最優秀新人選手賞に選出された日。ジョン万次郎が亡くなった日。、横浜への用事の前に鎌倉まで足をのばして散策してきた。鎌倉へは太田道灌公の墓所を巡って以来七年ぶり。その時は鎌倉駅西口から源氏山公園あたりを目指していたが、今回は自身初の鶴岡八幡宮界隈へ。と云っても単に(時間つぶしで)大河ドラマ館へ行きたかっただけなのだけど :D:

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鶴岡八幡宮

大河ドラマ館は八幡宮境内にあるようなので、今回は駅東口へ。時刻は午前10時半近くで、既に有名な小町通りは大勢の観光客で混雑していた。そして若宮大路《ワカミヤオオジ》(県道R21)の二の鳥居から参道へ:

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二の鳥居

参道を歩いて八幡宮前から境内へ向かう。行き交う外国人観光客が多いこと多いこと:

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若宮大路沿いの参道

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八幡宮前の三の鳥居

八幡宮前すぐの太鼓橋から眺めた本宮(上宮):

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太鼓橋ごしに

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眺めた

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本宮

左右にある橋を渡って境内へ入るが、往時は中央にある太鼓橋だけで、八百数十年前の太鼓橋は朱塗りの木造橋だったらしい。現在は昭和の時代に架け直されたものだが通行不可。代わりに、その左右にある橋を使う。そして、その周囲の松の木も見事だった:

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太鼓橋

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見事な松

太鼓橋を渡ると源氏池と平家池(源平池)がある。夏は蓮で水面《ミナモ》が覆われるらしい:

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平家池

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源氏池

源氏池に浮かぶ旗上弁財天《ハタアゲ・ベンザイテン》脇にある政子石と呼ばれる陰陽石《オンミョウイシ》:

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政子石

目的地のドラマ館は源平池の先に建つ鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム:

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「鎌倉殿の13人・大河ドラマ館」

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鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム

実際にミュージアム前まで行ってみると、これまたすごい行列 :O。ドラマの人気ぶりがよく分かるが、建物に入るだけでも時間がかかりそうだったので、今回はいさぎよく諦めた[b]さらに順番待ちのキツキツな観覧になりそうだったし、単に時間つぶしのつもりで来たので諦めも早い 😉️。。代わりに 、ここ八幡宮界隈を散策することにした。

参道へ戻って本宮を目指して北上すると出現するのが舞殿(下拝殿):

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舞殿

ここは源義経の妾・静御前が舞った若宮廻廊跡らしい。このあたりは七五三の家族連れで多い賑わいだった。

石段を上がった上に建つ楼門が重要文化財の本宮(上宮):

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本宮(上宮)

治承4(1180)年に源頼朝が、源氏の氏神・八幡神[c]平安時代の河内源氏二代目の棟梁・源頼義が京の石清水八幡宮を勧請したもの。頼義の嫡男が八幡太郎義家、次男が賀茂次郎義綱、三男が新羅三郎義光。を由比ヶ浜《ユイガハマ》から遷座して建てたのが①鶴岡八幡宮。戦国時代は天文9(1540)年に大永の乱で焼失した社殿を北條氏綱が再建、江戸時代は文政11(1828)年に十一代将軍・家斉《イエナリ》が本殿を造営、大正12(1923)年の関東大震災で多くの建造物が倒壊したが、昭和の時代初めに復興された。境内は国指定史跡。

 本宮前の石段から若宮大路方面の眺め:

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本宮から若宮大路方面の眺め(拡大版)

境内をいろいろ散策したあとは人気ドラマ[d]自分は途中から見始めたくち。ドラマの序章はよく知らない🤐️。にあやかり、ここ鶴岡八幡宮を含む鎌倉殿に関係する13ヶ所の遺構や名跡を巡ってきた。

こちらが散策中に入手した『ヨリトモくんと巡ろう!鎌倉大蔵散歩地図』(大蔵頼朝商店会[e]「現在地」が示す桜道沿いにあった案内板。脇にある箱からも色刷りの地図を入手できた。

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この地図を片手に巡ってきた(拡大版)

まずは八幡宮近くある宝戒寺《ホウカイジ》へ。境内参観は有料で大人300円(当時)

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金龍山 釈満院 円頓宝戒寺

境内は当時「小町邸」と呼ばれていた北條執権邸跡らしい:

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「北條執権邸舊蹟」の碑

石畳の門前を進んで境内へ。正面にある本堂(堂内は撮影不可)。本堂屋根の棟には北條家の三つ鱗紋が掲げられていた:

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本堂

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三つ鱗紋

その昔、執権の北條時政が江の島弁財天を参詣した時、二十丈もある大蛇からお告げを受け、大蛇が海中に姿を消した後に残っていた三枚の鱗を手に入れたが、それを竜の鱗として北條家の家紋にしたと伝わる。

本堂脇にある德崇大権現堂《トクソウ・ダイゴンゲン・ドウ》。鎌倉幕府第十四代執権・北條高時を祀る:

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德崇大権現堂

鐘楼と三つ鱗紋が刻まれた梵鐘:

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鐘楼

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梵鐘

このあとは宝戒寺を出て県道R204(金沢街道)を歩いて鎌倉宮を目指すことに。

こちら清泉《セイセン》小学校近くにあった③大蔵幕府舊跡の碑

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「大蔵幕府舊跡」の碑

鎌倉入りした頼朝は大蔵の地に御所を構え、頼朝・頼家・実朝の三代46年間、ここで政治を行い、まさに鎌倉幕府の中心であったと云う。政所跡に小学校が建っているが、学校の塀には小学校史跡委員会自作の説明板がたくさん貼られていて、読んでいて勉強になった 8)

さらに進むと荏柄天神社《エガラ・テンジンシャ》がある[f]向こう側に長い階段が見えたのと時間の都合で境内は行かず 🤐️。

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荏柄天神社

鎌倉幕府鬼門の守護する社で、谷を挟んで西側の丘陵に法華堂跡がある。また、現在は菅原道真公が御祭神となっており、京都の「北野天満宮」と福岡の「太宰府天満宮」とともに日本三大天神の一つに数えられている。

そして住宅街の中を歩いた先にあるのが鎌倉宮。後醍醐天皇の皇子・護良親王《モリナガ・シンノウ》が御祭神:

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鎌倉宮

親王は後醍醐天皇の鎌倉倒幕に呼応して幕府軍と戦い、幕府滅亡後は天皇親政を復活させた「建武の新政」を成し遂げ、征夷大将軍に任じられた。しかし足利尊氏と対立し、ここ鎌倉宮社殿裏が親王最後の地と伝えられる。

明治天皇が護良親王を祀るために建立したので、社殿の鬼瓦には皇室の象徴である菊花紋《キクカモン》が掲げられていた:

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菊花紋

このあとは八幡宮方面へ戻って法華堂跡を目指した。

こちらは⑥東御門《ヒガシミカド》跡の碑。大蔵御所の東門にあたる:

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「東御門」の碑

そして⑦法華堂跡の碑

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「法華堂跡」の碑

大蔵御所の北隅にあり、頼朝の持仏を祀っていた御堂で、頼朝死後はその廟所となる。しかし宝治元(1247)年の宝治の乱で三浦泰村[g]三浦義村の次男。が立て篭もり、一族郎党が自刃した場所。明治時代に白旗神社と改められた。

こちらが現在の⑧白旗神社。御祭神は源頼朝公:

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白旗神社

もともとは、源頼朝が石橋山の合戦にあたって髪の中に納めて戦に挑んだと云う小さな観音像が安置されていた持仏堂[h]「持仏」とは守り本尊として、常に身近において侵攻する仏像のこと。だった。正治元(1199)年に頼朝が亡くなったあとは、ここに葬り法華堂と呼ばれ、命日には歴代将軍や御家人らが参詣した。現在の社殿は昭和の時代に再建されたもの。

そして、頼朝の享年と同じ53段の石段を登って江戸時代に建立された源頼朝の供養塔へ:

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白旗神社奥の丘陵上へ

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源頼朝の家紋「笹竜胆」

こちらが石段を上がった先にある⑨源頼朝の供養塔

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源頼朝公の供養塔

この供養塔が建つ平場は頼朝公の法華堂(墳墓堂)跡で、幕府滅亡後も御堂は存在していたが、のちに廃絶して堂舎が無くなった。そして江戸時代に源氏の子孫を自称する薩摩藩八代藩主で蘭学者でもある島津重豪《シマヅ・シゲヒデ》が高さ186cmの五層の石塔を再建したと云う。

源頼朝は、治承4(1180)年に平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2(1185)年に平家を滅ぼし、鎌倉幕府を大蔵の地に開いた。建久3(1192)年に朝廷から征夷大将軍に任じられ、約680年続く武家政権を興した。正治元(1199)年に死去。享年53。

このあとは石段を下りて、この丘陵の東側にあるもう一つの墓域へ向かう:

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この上に北條義時公・大江広元公らの墓所がある

この石段の上には鎌倉幕府執権・北條義時公の墓所の他、大江広元公らの墓所がある。

こちらが⑩伝・北條義時の墓所の標柱

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「史跡・法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓」の碑

ここが北條義時の法華堂(墳墓堂)跡らしい。あくまでも鎌倉幕府の公式文書とされる『吾妻鏡《アヅマカガミ》』の「頼朝の法華堂の東の山の上を墳墓の地となす」との記述に従ったもので、墓石も供養塔も無い。

鎌倉幕府の二代執権で、得宗家二代当主である北條義時は源頼朝ら三代将軍に仕え、承久の乱では後鳥羽上皇ら朝廷側の倒幕戦に勝利する。元仁元(1224)年に急死。享年62。令和4(2022)年の大河ドラマの主人公。

ここから少し先には三浦一族のやぐら(横穴式供養塔)がある:

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三浦氏が供養されているやぐら

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三浦泰時ら一族が眠る墓所

宝治元(1247)年の宝治の乱で、五代執権・北條時頼に敗れ自刃した三浦泰村の一族郎党が眠っているとされる。

そして奥にある左手の石段を登って大江広元公らの墓所へ。ちなみに右手の石段は島津忠久公の墓所:

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大江広元らの墓所へ続く石段

こちらが⑪大江広元のやぐら(墓所)

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大江広元公のやぐら

鎌倉幕府の懐刀《フトコロガタナ》とも云われ、幕府政所初代別当を務めた大江広元は、執権の北條義時を上回る官位を得ており、名目的には将軍に次ぐナンバー2の存在として遇されていた。嘉禄元(1225)年に死去。享年78。

公の墓所の隣には毛利(大江)季光《モウリ・スエミツ》の墓所がある

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毛利季光公のやぐら

毛利季光は広元の四男で、相模国毛利荘[i]現在の神奈川県厚木市。を領し毛利を名乗っていた。その子孫が恩賞として与えらた安芸国吉田荘[j]現在の広島県安芸高田市。を相続して戦国大名の毛利氏へ継承されることから、季光は毛利家の祖と云われる。彼の妻は、三浦泰村の妹であり、宝治元(1247)年の宝治の乱では義兄を見捨てることを良しとせず、共に幕府軍と戦い、最後は法華堂で自刃した。享年46。このとき多くの郎党もあとを追ったが、唯一残った四男・経光《ツネミツ》の子孫が毛利元就である。

二人の墓所は、江戸時代に長州藩の毛利氏が祖先を顕彰するために整備したものと云われており、墓所入口にある燈籠には毛利家の一文字三星紋があしらわれていた:

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大江広元は安芸毛利家の祖

さらに隣の石段上には薩摩島津氏の祖とされる幕府御家人の島津忠久《シマヅ・タダヒサ》の墓所がある:

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島津忠久公のやぐら(墓所)

忠久は、縁者である比企能員《ヒキ・ヨシカズ》の変に連座していた疑いから本領の大隅国・薩摩国・日向国の守護職を没収されたが、のちに御家人として復帰し、和田義盛の乱では幕府側について功をあげた。嘉禄3(1227)年に病死。享年49。公の墓所も島津重豪により江戸時代に建立されたもの。

このあとは再び八幡宮方面へ移動。これは、その途中に建っていた⑫西御門《ニシミカド》跡の碑。大蔵御所の西門にあたる:

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「西御門」の碑

そして最後の遺構は、八幡宮東門近くにある⑬畠山重忠邸址の碑

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「畠山重忠邸趾」の碑

重忠は初めは平氏の郎党であったが、のちに源頼朝に帰伏した。そして鎌倉入り、富士川の戦いでは先陣を務め、宇治川や一ノ谷合戦、あるいは奥州藤原氏討伐などで抜群の手柄をたてた。その後も頼朝の信頼厚く、坂東武者の中心的人物として、そして鎌倉幕府創業の功臣として重きをなした御仁。大蔵御所近くに屋敷を与えられたのも納得である。

こんな感じで、やや強引に大河ドラマのタイトルを文字って鎌倉殿に関係する13ヶ所の遺構と、八幡宮境内をぶらぶらしてきたが、あとで調べてみると他にもいろいろ史跡があるようだし大河ドラマ館にも行ってみたいので、機会あれば再訪したい。

と云うことで、この時のフォト集はこちら:

See Also2022年11月 鎌倉散策 (フォト集)

【参考情報】

参照

参照
a 洋服記念日。平成30(2018)年には大谷翔平がアメリカンリーグ最優秀新人選手賞に選出された日。ジョン万次郎が亡くなった日。
b さらに順番待ちのキツキツな観覧になりそうだったし、単に時間つぶしのつもりで来たので諦めも早い 😉️。
c 平安時代の河内源氏二代目の棟梁・源頼義が京の石清水八幡宮を勧請したもの。頼義の嫡男が八幡太郎義家、次男が賀茂次郎義綱、三男が新羅三郎義光。
d 自分は途中から見始めたくち。ドラマの序章はよく知らない🤐️。
e 「現在地」が示す桜道沿いにあった案内板。脇にある箱からも色刷りの地図を入手できた。
f 向こう側に長い階段が見えたのと時間の都合で境内は行かず 🤐️。
g 三浦義村の次男。
h 「持仏」とは守り本尊として、常に身近において侵攻する仏像のこと。
i 現在の神奈川県厚木市。
j 現在の広島県安芸高田市。