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丸満餃子・本店 − This is just not a GYOZA Restaurant.

先週は令和元(2019)年の長月最後の週末、このところ休日ときたら天気が悪くて少し苛ついていたが、この時は一日だけ晴れ間が続くとの予報だったので、これまでに「お流れになったプラン」から茨城県古河市にあった城跡を攻めてきた。

江戸時代には古河藩の藩庁が置かれていた古河城は渡良瀬川(わたらせがわ)とそれを利用した水堀で囲まれた平山城で、天守に相当する御三階櫓が建っていた。幕府の将軍が日光社参する際に寄宿した城であり、城主は幕府の要職を務めるものが多く、同じ市内に菩提寺がある大老の土井大炊頭利勝(どい・おおいのかみ・としかつ)は有名である[a]他にも大老に堀田正俊、老中に永井尚政(ながい・なおまさ)、松平信之、本多忠良(ほんだ・ただなが)、土井利厚(どい・としあつ)、土井利位(どい・としつら)らが居る。。しかし、そんなにすごかった城は現在は跡形もない。戊辰戦争では戦火を避けることができたが、廃藩置県による廃城令で主な建造物は破却された上に、度重なる氾濫を引き起こした渡良瀬川の洪水対策として堀を含む城域の殆ど全てが埋め立てられて消滅し一部は宅地化されていた :O

そういうことで現在の城跡と云うと、破壊や宅地化を免れた一部の土塁の他、縄張を表す標柱などを見たり、古河にゆかりある御仁の菩提寺を参拝するだけではあるが、広範囲にわたって移動する必要があり徒歩では時間がかかって大変なのでレンタサイクルの「コガッツ」(無料)を活用してきた ;)

そんな古河市内巡りの合間、昼ごはんを食べてきたのが創業昭和39年の丸満餃子と云う老舗の「餃子」店だった:

丸満餃子・本店

昼時を外して行ったのだけど、流石の休日で店内は満員。名前を記載してしばし待つ。その間に店のメニューを見ていると餃子は焼き・蒸し・茹での三種類だけで、他にラーメン、ほんとん[b]このお店オリジナルのワンタンメンらしい。、もんじゃ焼き、鉄板焼き、お好み焼き、鍋料理など大部分が餃子以外の料理だった〜 :)。それから待つこと10分ほど相席御免の座敷のテーブルにとおされた。

まぁ自分は『20種類の具材の旨さが味わえる餃子』を食べにきたので、ここでは迷わず餃子定食(1,026円)を注文した:

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餃子定食(1,026円)

出てきたお膳にはオススメの焼き餃子が8個の他、ご飯と味噌汁、そして小鉢と香の物が載っていた。まるでパンのような形をしたこの餃子は、どこから食べても同じように皮と中身を味合うことができるのだそうだ。さらにテーブルの上にあった「食べ方」によると本来は料理が出て来る前にタレを作っておくものらしい:O。まったく気づかなかった。さらに料理が出てきたら一個目の餃子はタレをつけずにそのまま食べるのがオススメで、皮のカリカリ感やショリショリした食感を堪能できるらしい。

と云うことで一口ぱくっといってみたら、マジで火傷しそうな熱さのため味を堪能するどころではなかった :$

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一秒でも早く、まずは一口食べる

こんな猫舌の自分は数秒待ってから食べればよかったと後悔し、忘れていたタレを作ることにした。小皿が二枚あるので二種類のタレを作る。ひとつ目は「お酢+醤油+ラー油+ニンニク」と「マヨネーズにコチュジャンをアレンジした丸満特製餃子のタレ」:

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餃子のタレ二種(左が醤油ベース、右がマヨネーズベース)

意外とマヨネーズ味の特製タレは旨かった。ただ宣伝していたほど具材本来の旨みは感じられず、感覚的にも餃子ではなく何か別の包料理を食べているといったイメージが大きかった :|。あと、こんな餃子にはご飯よりもビールの方が合うな。

丸満餃子・本店
茨城県古河市本町1-2-39


ここからはオマケ。

まずはJR古河駅東口近くにある駅前子育てひろば わんぱくステーションで「コガッツ」なる古河市観光自転車を借りた。料金は無料で、住所と電話番号を伝え、身分証明書を提示する。返却は17:00まで:

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この日の相棒は「コガッツ」

まず、こちらは城跡とは関係ないが、江戸時代には日光街道沿いの城下町として栄えた古河にあって美味な「鮒の煮付け」といった川魚料理を提供するぬた屋[c]但し、甘露煮は砂糖や醤油が手軽に手に入った明治時代から。それでも160年の歴史を有する。。店の構えがいかにも城下町っぽい:

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鮒甘露煮のぬた屋

七福神の恵比寿様を祀る恵比寿神社と、蔵屋敷っぽいところに趣があるお休み処の坂長

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恵比寿神社

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古河のお休み処・坂長(さかちょう)

こちらは市立古河第一小学校の校門。一部のレンガが崩壊しているようで、現在は開門していないらしい:

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茨城県古河市立古河第一小学校の校門(拡大版)

かっての古河城・諏訪曲輪跡に建つ古河歴史博物館と通りを挟んで向かいにある鷹見泉石記念館は、古河藩士が住んでいた武家屋敷の一つで、もっぱら藩で蘭学に勤しんだ家老・鷹見泉石(たかみ・せんせき)が隠居後に住んでいた建物として保存されている[d]但し、敷地面積は往時の半分となっている。

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鷹見泉石記念館

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鷹見泉石記念館

一説に、この屋敷は寛永10(1633)年に当時の城主・土井利勝が御三階櫓を建てた際に残った廃材を利用して建てられたとも:

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玄関口

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玄関口

玄関口と行書字額(ぎょうじょじがく)「可琴軒」(かきんけん)。可琴軒は鷹見泉石の雅号(がごう)の一つ:

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玄関口(拡大版)

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行書字額の「可琴軒」

屋敷の軒先と座敷:

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屋敷の軒先

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座敷(拡大版)

この他に記念館の敷地には女流南画家(なんがか)・奥原晴湖(おくはら・せいこ)の画室が移築・復元されていた:

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奥原晴湖画室の玄関

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奥原晴湖画室

県道R9沿いの頼政神社の参道入口:

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頼政神社の参道入口

祭神は文字どおり源頼政公。平安時代末期に平氏に敗れた源頼政が平等院鳳凰堂で自刃した後に従者が首級を持ち帰った際、関東下総国古河の立先(龍崎)に塚を作って祀ったとされる。そして古河城となった後も祀られていたが廃城後の河川改修工事のため大正時代に現在地に移転された。

この場所は古河城跡の遺構の一つである観音寺曲輪の土塁の上である:

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頼政神社の境内(拡大版)

元禄9(1696)年当時の城主・松平信輝は城内に先祖の源頼政公の廟所があることを知り、社殿を修築しこれを祀ったと云う。その際に大灯籠や手水鉢などが寄進された。この狛犬もまた寄進された品で、江戸時代前期の作風を今に伝える石造遺品である:

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寄進者が不明の狛犬

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寄進者が不明の狛犬

こちらは古河藩初代藩主で幕府の老中・大老を務めた土井大炊頭利勝公の菩提寺である正定寺(しょうじょうじ):

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正定寺(拡大版)

渡良瀬川に架かる三国橋から河川敷を眺めたところ(パノラマ):

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渡良瀬川の河川敷(パノラマ)

渡良瀬川の水位確認尺:

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今尚、氾濫の恐れあり(拡大版)

かっては古河城であった渡良瀬川の土手。この土手上に本丸跡の石碑があった(パノラマ):

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古河城址本丸付近(パノラマ)

こちらは古河公方居館跡に建つ古河公方公園から御所沼を眺めたところ:

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古河公方公園(拡大版)

最後は、この日に出会った動物たち。土手上のサイクリングロードで出会ったバッタと、陸上自衛隊・古河駐屯地脇の小川にいた大量のカルガモたち:

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バッタ

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カルガモたち

この時のフォト集はこちら:

See Also古河城攻め (フォト集)
See Also古河公方居館攻め (フォト集)
See Also永井直勝公墓所・土井利勝公墓所・鮭延秀綱公墓所 (フォト集)

参照   [ + ]

a. 他にも大老に堀田正俊、老中に永井尚政(ながい・なおまさ)、松平信之、本多忠良(ほんだ・ただなが)、土井利厚(どい・としあつ)、土井利位(どい・としつら)らが居る。
b. このお店オリジナルのワンタンメンらしい。
c. 但し、甘露煮は砂糖や醤油が手軽に手に入った明治時代から。それでも160年の歴史を有する。
d. 但し、敷地面積は往時の半分となっている。

手打麺処・寿限無茶屋 − A Hand-Kneaded Noodle at the Traditional Architectures.

先週は、令和元(2019)年の暑いお盆休みは『桶狭間古戦場』を巡るため三泊四日の日程で愛知県へ。初日は炎天下[a]同じ時期に台風が日本列島を縦断する予報があったので、どうなるものかとハラハラしたが、旅行の大部分はフェーン現象の煽りを受けてとにかく大変な暑さだった 😥 。の中を主に織田勢の砦跡などを巡ってきたが、二日目はこちらも酷暑の中を今川勢に関係のある史蹟や城跡を巡ってきた。

この日の午前中は、宿泊先の三河安城(みかわあんじょう)を朝8時前に出て刈谷(かりや)と知立(ちりゅう)を経由し名鉄の中京競馬場前まで移動。この駅の近くにある桶狭間古戦場伝説地からスタートして、今川義元の本陣跡や桶狭間古戦場公園、信長による義元の首実検が行われた長福寺、信長が嵐の中を桶狭間山へ向かって駆け上ったとされる「信長坂」、そして今川勢の先陣が陣をおいたとされる高根山などを3時間近くかけて[b]涼を取るために無人のコインランドリーや巨大なホームセンターなどに立ち寄ったり、コンビニで水分補給するなどの時間を含む。ホント、外に立っているだけで暑さにヤラれる大変な天気だった。や徒歩で巡ってきた。

お昼は、有松の伝統的な町屋建築が残る旧東海道沿いにあった手打ちうどん屋で頂くことにした:

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手打麺処・寿限無茶屋

この味わいあるとおりには残念ながらお食事処が少なかったこともあって、昼時を外して行ったもののほぼ満席。オマケに店員が少なくて新規の注文や片付けができていない「てんやわんや」状態だった。自分も店に入ってから席が片付けられるまで10分ほど待つ羽目に :$

席についてもなかなか注文をとりにきてくれず、自分も午前中は予想外の暑さのため休憩を多くとったため、ちょっと予定より時間が押していたため諦めて店を出ようかと云う思いがよぎったが、ここで何か食べておかないと午後の城攻めに響くような気がしたので我慢して待つことにした。幸いにも向かいに座っていた年配の方(地元の人)が話し相手になってくれたので大分気を紛らわすことができたが :)

そして20分ぐらい待ったあとに、このお店のオススメ「梅おろし」(860円)が出てきた:

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この店オリジナルの梅おろし(860円)

なにやら三年間、自家製の完熟梅を蔵で熟成させたソースがかかった冷やしうどんだそうで。他に紫蘇、天カス、胡瓜がのっていた。午後も歩きづくめを考えたら丼物を考えたけど、ちょっと夏バテが入っていたので選択したのが、店オリジナルのひと品。

うどんはコシ強く、ちょっとキツ目の酸味の効いたタレが絶妙。胡瓜と梅の組み合わせにより午前中の暑さから解放され、午後の暑さにもバテること無く城攻めすることができた。大盛りにはしなかったけど腹持ちしたし、大変に素晴らしいうどん。これは予想外でちょっと感動した 8)

手打麺処・寿限無茶屋(じゅげむぢゃや)
愛知県名古屋市緑区有松2339


ここからはオマケ。

こちらは名鉄・中京競馬場前駅・南口のホーム脇に建っていた「よろいかけの松旧地」の碑。信長が桶狭間の戦いに勝利して凱旋途中、休憩のため鎧をかけたとされる松があったと云う。大正時代まで立っていたそうだが現在は石碑のみ:

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「よろいかけの松旧地」の碑

こちらは駅ちかくにある「桶狭間古戦場伝説地」に建つ石碑。ここには、この他にも義元の墓や七石表なる石碑群、さらに桶狭間の戦いに関する説明板があった:

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「桶狭間古戦場址」の碑

ここは愛知県豊明市が管理しているが、実はもう一つ同じ桶狭間古戦場として、あとで行くことになる名古屋市が管理する桶狭間古戦場公園が離れたところにある。

実際のところ、現存する古戦場跡はすべて「伝承地」であり、古文書に記載されている遺構が複数あるそうで、どれが本物であるかは確認できないとのこと。

そして伝説地と通りを挟んだところにある古刹・高徳院の境内には「今川義元公本陣跡」の碑が建っていた:

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「今川義元公本陣跡」の碑

この他、墓所脇には今川勢の先鋒・松井宗信の墓もあった。

高徳院を出て、炎天下を徒歩20分くらいかけて桶狭間古戦場公園へ向かった。途中、義元本陣跡に立ち寄ったが、この時点で体の沸点が限界に近づきつつあったので、公園近くの DCM Kahma 桶狭間店 なる巨大なホームセンターに立ち寄って、しばしの涼をとった :O。この後も、クーラーがかかったこのお店には何度か足を運ぶことになり大変ありがたかった。でも何度もぶらぶらしているのもなんなんで、最後は汗拭いにタオルを購入したっけ。

こちらは公園内に建っていた織田信長と今川義元の銅像:

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「織田信長公」像

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「今川義元公」像

義元公の墓碑:

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「今川義元の墓」碑

公園を出て南にある「大池」と云う貯水池前を通って長福寺[c]桶狭間の戦いの後、信長が境内で義元やその武将の首検証をしたとされる。にも足を運んだ:

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大池(拡大版)

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マガモたち

この後は、あまりの暑さで桶狭間神明社という神社に立ち寄るのをうっかり忘れてしまったが、さらに井伊直盛陣地跡、七ツ塚を経由して武路釜ケ谷・信長坂へ移動した。これがまた大学の敷地内にあったため、暑い中をぐるりと回り込んで大学の正門へ移動する羽目に。お盆休み中とあって構内はひっそりとしていたが、なんとか[d]結果的には無断で立ち入ることになったが、なぜ大学の敷地を通らないと史跡にいけないのだろうか。辿り着いた:

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豪雨の中を駆け上った信長坂(拡大版)

そして、お昼を摂った寿限無茶屋周辺は旧東海道にあたり、江戸時代には尾張藩の奨励で有松町屋が造られたとされる伝統的な場所。とういことで有形文化財に指定された豪壮な町屋の一部が残されていた:

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旧東海道有松の町屋街跡

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旧東海道有松の町屋街跡

服部良也邸土蔵(愛知県指定文化財・都市景観重要建築物指定)。この家は寛政2(1790)年創業の絞問屋(しぼりどんや)。有松・鳴海を中心として作られた手ぬぐいなどの絞り染めの名産地である:

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服部良也邸土蔵

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服部良也邸土蔵

同じく有松絞りの井桁屋(服部家住宅)。屋根瓦が豪壮な造りになっているが、これは火災に備えて漆喰による塗籠造で萱葺(わらぶ)き屋根を瓦葺きにしたもの:

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独特の瓦葺き

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服部邸の大屋敷

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井桁屋(都市景観重要建築物指定)

最後は山与遊歩道。名鉄・有松駅と旧東海道を結ぶ遊歩道。平成の時代につくられた。「山与」はここにあった絞問屋が由来だとか。右奥に見える建物が有松駅:

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山与遊歩道

この時のフォト集はこちら:

See Also桶狭間古戦場(今川勢他)巡り (フォト集)

参照   [ + ]

a. 同じ時期に台風が日本列島を縦断する予報があったので、どうなるものかとハラハラしたが、旅行の大部分はフェーン現象の煽りを受けてとにかく大変な暑さだった 😥 。
b. 涼を取るために無人のコインランドリーや巨大なホームセンターなどに立ち寄ったり、コンビニで水分補給するなどの時間を含む。ホント、外に立っているだけで暑さにヤラれる大変な天気だった。
c. 桶狭間の戦いの後、信長が境内で義元やその武将の首検証をしたとされる。
d. 結果的には無断で立ち入ることになったが、なぜ大学の敷地を通らないと史跡にいけないのだろうか。

飯盛山と滝沢本陣の散策 − A Notable Heartbreaking Story on Iimori Hill.

我が人生初の「国民の祝日」10連休を利用した毎年恒例のGW城攻めの第一弾は、二泊三日の日程で福島県内の城攻めへ。また特に意識した訳ではないけど最終的には自身初として、福島県全域となる浜通りから中通り、そして会津まで横断することができた。

まずまずの天気であった初日は、浜通りはいわき市の城跡から中通りは三春町の城跡を攻め、郡山市の宿に一泊した。残念ながら二日目は一転して全国規模で雨または曇りと云った天気になってしまったので、悩んだ挙句に予定より遅めに会津若松入りし、動きの早い雨雲をかわす予定に切り替えた。その甲斐があってか会津若松駅を降りたら雨は降っていなかったのでレンタサイクルで知る人ぞ知る城跡や、四年前の城攻めでは時間が無くて見れなかった会津若松城の外郭に残る遺構を巡ってきた。途中、雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気で何度か雨宿りするはめになったが、これと云ってひどい目にあうことはなく、なんとか無事に平成最後の日を終えることができた。

そして城攻め第一弾の最終日であり、新しい「令和」の世の初日は帰京する前に、これもまた四年前に行けなかった観光地の飯盛山周辺を巡ってきた。


飯盛山と白虎隊霊場

朝、ホテルをチェックアウトしてから駅前へ移動。その際に見かけた白虎隊士の像:

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「白虎隊士の像」

駅前のバスターミナルから市内観光まちなか周遊バスの「あかべぇ」に乗り込んで飯森山下で下車した[a]駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。

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飯盛山

おみやげ屋が立ち並ぶ参道を進んで石段を登って行くことになるが有料(当時250円)のエスカレータ[b]正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。もあった。まぁ行列してまで乗る必要はなかった ;)

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飯盛山の登山口

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飯盛山動く坂道

石段を登った先に建っていた「飯盛山案内図」:

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「飯盛山案内図」(拡大版)

案内板の隣には白虎隊記念館なる史料館があった。白虎隊士をはじめとした會津・戊辰戦争に関係する史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵・展示しているのだとか。「記念館」と云う名前が気に入らなかったので立ち寄ることもしなかったけど :|

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史料館・白虎隊記念館

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白虎隊士・酒井峰治の銅像

愛犬と一緒に銅像になっていた酒井峰治(さかい・みねじ)は白虎隊士中二番隊の所属で、會津戦争中の戸ノ口原からの退却の際に仲間とはぐれ、のちに農民らに助けられ帰還を果たし鶴ヶ城籠城戦に参加して、戦後も生き残った御仁なのだとか。

さらに石段を登った先が白虎隊霊場の参拝口:

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白虎隊霊場の参拝口

ここ飯盛山[c]この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。は古墳の一つであり、神社仏閣の境内にあたる。そして自刃した白虎隊士の霊場でもある。

まずは白虎隊十九士の墓:

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白虎隊十九士の墓

幕末の會津戦争で會津藩が組織した部隊の一つ[d]中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。に、16〜17歳の少年たちから成る白虎隊があったが、慶応4(1868)年8月23日(旧暦)にその士中二番隊が戸ノ口原の合戦場から退却し、滝沢峠の間道を抜け、戸ノ口堰(とのくちせき)の洞門をくぐって飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣が黒煙の中に見え隠れしていたことから城は陥落したと誤認し、主君のために殉じようと全員が自決した。唯一、飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)が命をとりとめ、のちに白虎隊の忠義と悲運の物語が広く知られることになったと云う。

墓所の脇には會津藩最後の藩主・松平容保公の弔歌の碑が建っていた:

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松平容保公弔歌の碑


幾人の涙は石にそそぐとも  その名は世々に朽ちじとぞ思う

そして少年武士慰霊碑と吉田伊惣次(よしだ・いそじ)篤志の碑。自刃した白虎隊士の亡骸が戦後しばらく風雨にさらされていたため近くの村の吉田伊惣次と有志が密かに寺院に仮埋葬したが、それが新政府軍に見つかり獄舎に繋がれるも後日に解放された。その篤志を称えるための碑と云う:

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少年武士慰霊碑

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吉田伊惣次篤志の碑

こちらは會津藩殉難烈婦碑。會津戦争で亡くなった會津藩の婦女子230余名の御霊を弔うために建立された:

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会津藩殉難烈婦碑

珍しいところでローマ市民慰霊碑。れは戦前、白虎隊士の精神に感心したイタリアのファシスタ党首・ムッソリーニから贈られた古代ローマ時代の宮殿の柱であるが、戦後に進駐軍によって一度破壊された。その後に一部が復元され「ローマ市民からの寄贈」に改められた:

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ローマ市民慰霊碑

こちらは郡上藩・凌霜隊之碑。鶴ヶ城に籠城したのは會津藩だけではなく、美濃国・郡上藩の凌霜隊(りょうそうたい)も籠城して奮戦した。昭和の時代に事績を偲び石碑が建立された:

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郡上藩・凌霜隊の碑

そして霊場の南側には白虎隊士が自刃した場所がある:

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白虎隊士自刃の地

自刃するも一命を取り留めた唯一の隊士である飯沼貞吉の墓。一人苦しんだが、晩年には重い口を開いて白虎隊について語ったのだとか:

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飯沼貞雄(貞吉)墓

白虎隊自刃の地に建つ碑:

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白虎隊士自刃の地の碑

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白虎隊殉難士各霊塔

銅像の隊士が眺めている方角に鶴ヶ城の天守閣が見えるのだが、目視だと結構きびしいかも(ヒントは写真中央に建つポール):

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自刃の地からの眺め

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ズームで眺めた鶴ヶ城(拡大版)

この後は霊場の下にあるさざえ堂へ向かった。こちらは、その途中に眺めた会津若松駅方面の眺望:

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飯盛山からの眺望(拡大版)

世界に唯ひとつの會津飯盛山・さざえ堂。江戸時代は寛政8(1796)年、飯盛山に建っていた正宗寺(しょうそうじ)の住職である僧郁堂(いくどう)和尚が考案・建立した六角三層の建築物である。現在は国指定重要文化財で、横から見ると栄螺(さざえ)のように螺旋状になっているのが分かる:

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旧正宗寺・円通三匝堂(通称はさざえ堂)

正式名は旧正宗寺・円通三匝堂(えんつうさんそんどう)。一度通った通路を再び通ることなく外に出ることが可能な珍しい構造をしている。正面入口は唐破風の向拝を付していた:

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さざえ堂

入館料(大人400円/当時)を支払い、向かって正面にある唐破風の屋根を持つ入口へ:

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さざえ堂の入口付近

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さざえ堂の入口付近

この入口から延びる螺旋状のスローブを上って三層頂上にある太鼓橋へ向かう。ちなみに出口はこの背後にある:

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正面入口

頂上にある太鼓橋を渡るまで上がりは右回りの螺旋状スローブになっていた:

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上がりのスローブ

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上がりのスローブ

ここが三層頂上にある太鼓橋とその天井:

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頂上にある太鼓橋

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天井の様子

太鼓橋を渡って向こう側へ渡ると、今度は左回りのスローブになる:

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下りのスローブ

そして、こちらが入口とは反対側にある出口:

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出口

ということで上がって下りてくるのは正味5分ほど。かつてはスロープに沿って西国三十三観音像が祀られ、一度上がり下りすると巡礼を終えたことになるのだと云う。

こちらはさざえ堂の目の前にあった宇賀神社:

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宇賀神堂

この神社の背後にある「天空カフェ」こと飯盛山展望台からの眺めも素晴らしかったが、令和元年の初日と云うこともあって御朱印状を求める人たちが長い列を作っていたのには驚いた :O

このあとは宇賀神社脇の石段を降りて厳島宗像神社の境内へ。この神社は、天照大神の御子神である「宗像三女神」の一つにして古くから信仰が厚かった。主神は市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)さま:

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鳥居

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社殿

社殿は、蘆名家七代目当主の直盛が會津の領主であった南北朝の時代[e]すなわち永禄年間(1381〜1383年)。に石塚、石部、堂家の三家によって建てられたと云う。

これが白虎隊士が潜ってきたと云う戸ノ口堰洞穴(とのぐち・せきどうけつ)と呼ばれる岩盤を掘って穴を開けた洞門:

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戸ノ口堰洞穴

猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地へ水を引くための農業用水路で、全長は31㎞にも及ぶと云う:

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戸ノ口堰洞穴(拡大版)

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洞穴

慶応4(1868)年の會津戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎隊士中二番隊20名が潜って飯盛山まで戻ってきた洞穴である:

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戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰洞穴の脇に建つのが戸ノ口堰水神社:

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戸ノ口堰水神社

最後は子育地蔵尊:

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子育地蔵尊

この後は厳島神社の本参道を下って旧滝沢本陣へ。


會津藩・旧滝沢本陣

飯盛山を下りた麓に残る旧滝沢本陣は、現在は国指定史跡であり国指定重要文化財となっている。参観料は大人300円(当時):

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史跡・旧滝沢本陣の碑と冠木門

文禄4(1596)年に建てられた茅葺書院造の建築物で、遠州流の庭園があり、藩主の参勤交代や領内巡視の際の休息所に使われた:

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旧會津藩・御本陣

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通称は滝沢本陣

慶応4(1868)年の會津戦争時には会津藩の本営となり、松平容保が白虎隊に戸ノ口原へ出陣を命じ、あるいは新撰組が駐屯していたと云う場所である。茅葺屋根に覆われた書院造りの建物には御入御門、御座の間、御次の間などが当時の姿のまま残されている:

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滝沢本陣・横山家住宅(拡大版)

別宅にある受付で参観料を支払って、この勝手口から中に入ると「にわ」と「おめえ」が設けられていた:

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この中がにわ

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てまえ、なんど、ざしき

ざしきの奥が御次の間、そして御座の間:

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奥が御座之間、手前が御次之間

ここには今も当時の銃弾や刀傷が十数ヶ所になまなましく残っていた:

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戊辰戦争時の弾痕

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柱に残る弾痕跡

御座の間には会津藩の最後の藩主・松平容保公の肖像画が置かれていた:

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松平容保公の肖像画

こちらは御座の間から望む遠州流庭園。敷石として石臼も使われていた:

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遠州流庭園

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敷石に石臼

柱に残る刀傷:

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戊辰戦争時の刀傷

本陣には御湯殿・御厠が設けられていた:

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歴代藩主が使用した御湯殿と御厠

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御湯殿

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御厠

御座の間にすぐに取り付くことが可能な藩主用の御入御門:

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御入御門

以上で、「国民の祝日」10連休を利用したGW城攻め第一弾は終了。この日は午後一で郡山へ移動し、新幹線で帰京したのだけれど自由席はほぼ満席だった :$


ここからはオマケ。

まず会津若松駅の構内で見かけたいろいろな赤べこたち:

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会津赤べーこ

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赤べこ

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赤べこ

会津若松の初日は雨が止んだ隙を、このレンタサイクル(1日1,500円/当時)で走り回ってきた:

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駅レンタカー会津若松営業所のレンタサイクル

いろいろな所で見かけた「あいづっこ宣言」:

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「ならぬことは ならぬものです」

高瀬の大木(ケヤキ)は現在は国指定文化財であるが、そのもとは慶長5(1600)年に関ヶ原の戦に先立って會津の上杉景勝が徳川家康との対決に備えて直江兼続に命じて築こうとした神指(こうざし)城の土塁に生えていたケヤキとされている:

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高瀬の大木(拡大版)

城が完成する前に家康が上杉追討令を出したため工事が中断となり、神指城は未完のまま、のちに廃城となった。このケヤキは築城前から既に大木として生えていたと云われ樹齢は約500年と云われている。

また會津戦争で斎藤一ら新撰組が本陣を置いた如来堂もまた神指城跡の土塁上に築かれたものである:

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如来堂

こちらは高瀬観音堂:

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会津三十三観音第15番札所

八角神社、そしてウグイス:

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八角神社

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桜とウグイス

会津若松城の二の丸跡にあるひょうたん濠:

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ひょうたん濠(拡大版)

鶴ヶ城こと會津若松城:

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鶴ヶ城(拡大版)

そして、こちらは令和元年の朝、会津若松駅近くの宿泊先からの眺め。遠くに雪が残る山が標高2,105mの飯豊山(いいでさん):

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令和元年の朝の風景

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雪が残る飯豊山(拡大版)

対して、こちらは標高1,816mの磐梯山:

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令和元年の朝の風景

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薄っすらと雪が残る磐梯山

最後はJR会津若松駅でのE721系と、JR郡山駅の新幹線ホームの乗車位置標識:

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JR東日本のE721系の郡山行

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郡山駅の新幹線ホーム

ということで平成と令和の世を股にかけた福島県の二泊三日の城攻め旅行は終了。途中、悪天候のため予定通り城攻めできなかったことと、会津若松市内は大勢の観光客でごったがえしていたこと、そして三年前に初めて来て、今回も楽しみにしていた居酒屋には満席で入れなかったことなど全体的に残念な結果だった:(

この街には休日に来ちゃダメだなということがよく分かった :/

この時のフォト集はこちら:

See Also神指城攻め (フォト集)
See Also會津若松城外郭攻め (フォト集)
See Also蒲生氏郷公墓所 (フォト集)
See Also會津蘆名家墓所とゆかりの地巡り (フォト集)
See Also飯盛山と滝沢本陣散策 (フォト集)

参照   [ + ]

a. 駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。
b. 正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。
c. この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。
d. 中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。
e. すなわち永禄年間(1381〜1383年)。

深大寺散策 − A Famouse Buddhist Temple in the Suburbs Tokyo.

一昨昨年(さおととし)は平成27(2015)年の暮れに自宅から車で行ける深大寺城跡を攻めてきた。お昼は人気のあるお店で深大寺そばを食べ、ついでに深大寺も散策してきた。正直なところ、そういう機会はもう無いかもしれないと思ったので :P

深大寺は歴史的にも一大参拝スポットなので、参道脇の観光案内所で「深大寺散策マップ[a]ウラ面に「深大寺の主な見所」やオススメの散策ルートなど記載されていた。なるものを配布していたので、それに従って境内を巡ることにした。

こちらは「深大寺境内絵図」[b]どこに立っていたか覚えていない…。

「深大寺境内絵図(拡大版)

まずは「天台宗・別格保山・浮岳山・深大寺」の石碑が建つ山門前からスタート:

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深大寺の碑と山門

平成の世に調布市重宝に指定された山門は、320年以上前の元禄8(1695)年の普請で、この境内の中では最古の建築物であるらしい。正面には「浮岳山」の山号額が掲げられていた:

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桁行3.55m,、梁間2.32.mの一間薬医門で、屋根は切妻造の茅葺きである。主柱・控柱ともに丸柱で、上下は粽(ちまき)付き、下に礎板を置いて薬医門特有の前寄り屋根を構成する:

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山門の控柱

ここ深大寺は慶応元(1865)年にあった大火で堂宇の大半を焼失したが、この山門はその時の災禍を免れた建物の一つである。

これは山門をくぐって境内正面に建っていた常香楼(じょうころう)と本堂の眺め:

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常香楼と本堂(拡大版)

この鐘楼は慶応元(1865)年の大火で焼失し、明治3(1870)年に再建されたもので、山門をくぐった右手にある。梵鐘は平成13(2001)年に鋳造されたもので、柱間の木鼻として象・獅子が付いていた:

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鐘楼

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鐘楼の柱間の彫り物

深大寺境内に句碑や歌碑なんかも建っていた。こちらは小松北溟(こまつ・ほくめい)歌碑:

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小松北溟歌碑

常香楼(じょうころう)は天保4(1833)年の建立。慶応の大火の際に山門と共に焼失から免れたが、北側には大火の跡を残している:

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常香楼

そして本堂。慶応の大火で焼失したが、大正時代に再建されたもの。屋根が焼失前よりも若干大きくなっているのだとか:

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本堂(拡大版)

本尊は宝冠阿弥陀如来(ほうかん・あみだにょらい)像で、天台宗の常行三味堂の本尊であったという。
焼失前の本堂は寄棟造りの茅葺き屋根だったが、再建した本堂は入母屋造りの棧瓦葺きである。また向拝は焼失前は入母屋破風が付いていたが、再建後は唐破風になっている:

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向拝は唐破風

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本堂の唐破風

梁の木鼻には獅子・象の彫り物、正面の三段の虹梁の間には龍、破風板の下には鳳凰の彫り物があった。

こちらは本堂脇の五大尊池:

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五大尊池

そして手水鉢。仏教では仏前などに供える水を閼伽(あか)と言い、閼伽水で手や口を濯ぎ身と心を浄めるのだとか:

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手水鉢

本堂から少し西へ離れたところに建つ元三大師堂には慈恵大師(元三大師)像が安置されている。ここ深大寺における厄除け信仰の中心として、慶応の大火で焼失したが、翌々年の慶応3(1863)年にいち早く再建された。焼失前は本堂の西南にあった:

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元三大師堂

このあとは高台の上にある開山堂へ:

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開山堂参詣道

昭和58(1983)年に新築された奈良時代様式の堂宇で、本尊は薬師如来脇侍に弥勒菩薩千手観音を安置し、開基満功上人、天台宗一祖契惠亮和尚の尊像を祀っている:

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奈良建築様式の開山堂

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堂宇内に祀られた御本尊

この後は、一度境内を出て周辺を散策した。こちらは多聞院坂。この坂の上は調布市立深大寺小学校:

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多聞院坂

そして不動の瀧。これは二箇所にあって連結していた:

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不動の瀧(その1)

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不動の瀧(その2)

こちらは開福不動明王:

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開福不動明王

それから庫裡東門から再び境内へ:

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庫裡東門

こちらは、いわゆる保存用倉庫に相当する本坊急庫裡。この庫裡の屋根を見上げると鷺がいた:

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本坊急庫裡

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屋根の棟にいた鷺

再び境内を西へ移動して釈迦堂へ。白鳳仏を安置する堂宇として昭和51(1976)年に新築された。この中には国の重要文化財である釈迦如来倚象が展示されていた。この像は東日本随一の白鳳仏であり、七世紀頃に奈良で造られたもの:

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釈迦堂

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釈迦如来倚像(拡大版)

再び境内を外れて深沙大王堂(じんじゃだいおうどう)へ。深大寺の秘仏[c]秘仏ということで、深大寺住職でも在任中に一度拝める程度であるらしい。・深沙大王を祀る。調布市内に現存する最古の貴重な建物:

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深沙大王堂

延命観音。秋田県沖で引き上がった慈覚大師自刻の延命観音で、縁あって深大寺に奉安されたのだとか:

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延命観音

こちらはお昼を頂いたあとに深大寺通り沿いで見かけた水車館。明治末期に地元の人びとが水車組合を作り、お金を出し合って水車小屋を建てたのが始まりだとか:

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深大寺水車館

以上で散策は終了。このあとは車を停めた駐車場まで行く途中に植物公園なんかを観てきた。

こちらは参道脇の門前の風景。朝9時くらいはほどんと人はいなかったが、お昼を過ぎた時間には多くの参拝客がいた:

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日曜日の朝9時頃

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日曜日のお昼すぎ(拡大版)

門前には蕎麦屋を含めて、多くのお店があった:

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門前の蕎麦屋

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also深大寺散策 (フォト集)

深大寺
東京都調布市深大寺元町5-15-1

参照   [ + ]

a. ウラ面に「深大寺の主な見所」やオススメの散策ルートなど記載されていた。
b. どこに立っていたか覚えていない…。
c. 秘仏ということで、深大寺住職でも在任中に一度拝める程度であるらしい。

麺屋 工藤 − Another SANO Ramen.

新年が明けて平常な生活感が戻ってきた感じがする平成31(2019)年は1月中旬の晴れた週末に、栃木県佐野市にある信州・真田家ゆかりの地へ行ってきた。今回の目的地は、三年ほど前のNHK大河ドラマでもその場所に関連するエピソードが取り上げられたこともあって市内でも有名な観光場所となった新町薬師堂

JR佐野駅からだと徒歩30分程。この日は晴天で気温も低すぎず、ちょっとした散歩にはうってつけの日和だった。おまけに新町薬師堂がある例幣使街道(れいへいし・かいどう)[a]この街道は複数の県道がつながっていた。例えば県道R151、県道R141、県道R75など。沿いにはご当地物の佐野ラーメンのお店が何軒かあって、お昼前に着いた頃には既に駐車場は満車だったり、入口前に行列ができていたりしていた。

もちろん自分も今回の目的が完了したらお昼に佐野ラーメンを食べる予定にしていたのであるが、もしかしたら一番混みそうな時間帯と被ってしまいそうで、ラーメン屋の前を通る度にちょっと不安になってしまったが :(

で、「犬伏の別れ」の舞台となったとされる新町薬師堂を出たのが午後1時ちょっと前。このまま歩いてきた道を戻りながら適当に空いてそうなラーメン屋に入ろうかどうかと考えたが、これはこれであとで後悔しそうだったので、ちょうど薬師堂のすぐ近くにあった麺屋・工藤に入ることにした。来るときにちらっと店内を見たらカウンターが空いてそうに見えたので;)

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麺屋・工藤

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佐野ラーメンの麺屋・工藤

暖簾をくぐって店内に入ってみるとテーブル席とお座敷、そしてカウンターがあって、先客はテーブル席の四人だけだった。お昼時にしては運が良かったかも。
ということで自分はカウンターに座って「文字だけ」のメニューを眺める。佐野ラーメンは三年前に佐野厄除大師近くにあったお店以来。この日も歩きに歩いたのでチャーシュー麺(800円)と餃子3個(290円)を注文した。もう少し暖かかったらビールも注文していたかも。

まず最初に出てきたのが餃子。三個ながら思っていたより大きい:

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餃子3個(290円)

餡が不明だったので、ここは醤油ベースのタレで頂いた。食べてみると餡はすごく柔らかくフワフワだった。これぐらいなら6個でもよかったかなぁ:

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柔らかい餡の餃子

そしてチャーシュー麺の登場。最初、文字だけのメニューだと雰囲気がつかめなかったので、食べログか何かに掲載されていた写真を店員に見せて注文したのがこれ。でも玉子が入っていないではないか。写真には入っていたのに:$

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チャーシュー麺(800円)

それはそうと、美味しそうなスープであるのが目で見てわかったので、すかさずレンゲでスープをすすったらヌルい〜」:O。いきなり冷たいチャーシューを何枚もぶち込んだからだろう。それでもチャーシューの下から麺をかき出しながら食べたら丁度よくなった。全体的にバランスのよいラーメンで、チャーシューもスープも美味しかった。もちろん佐野ラーメン独特のちぢれ麺もよかった。

ということでスープをしっかり飲み干して完食。身も心も暖かくなった。自分が食べ終わろうかとしていた頃、客もどんどん入ってきて座敷は満席、カウンターも数席のみ空いていたという感じ:

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完食

ちなみに、このお店は今年の2019年6月頃には移転してしまうらしい。店内に地図が貼ってあったっけ。

麺屋・工藤
栃木県佐野市犬伏新町2079


ここからはオマケ。

まずは新町薬師堂まで歩いた時に目に入った例幣使街道沿いのラーメン屋たち:

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手打中華・森田屋総本店

まずは手打麺で有名な森田屋総本店。土曜日の11時46分頃の状態。帰り(午後2時くらい)に店の前を通ったら午前の部が終了していた。

こちらはネギラーメンで有名なラーメン太七。予定としては、このお店に行こうかと思ったが、土曜日の11時49分でこんな具合。帰りに通った時はベンチに人が座っていたので、多分、この日見た店の中では一番混んでいたかも:

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ラーメン太七

こちらは手打中華・生そばの鈴木食堂。土曜日の11時57分頃。ここは地元のナンバーの車が多かった:

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鈴木食堂

そして、こちらのこの日の目的地である新町薬師堂。その背後にそびえているは米山古墳:

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新町薬師堂(拡大版)

慶長5(1600)年、天下分け目の関ヶ原の合戦を前に、真田父子三人(昌幸・信幸・信繁)が東軍と西軍に別れて戦うことを決断した密議の場所だったらしい:

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新町薬師堂

なお、この密議の場所としては、このあと紹介する大庵寺だったという説もあり。

これは薬師堂内に展示されていた写真。大河ドラマとタイアップした番組でも紹介されていたようだ:

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新町薬師堂に因む写真

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大河ドラマとタイアップした番組(拡大版)

こちらは浄土宗・天王山・昌綱院の大庵寺の入口。先に紹介した「犬伏の別れ」の舞台となったもう一つの密談場所。実際、真田軍はこのお寺に陣を置いていたから、ここである説が有力じゃないかと思うが:

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大庵寺の入口

大庵寺の境内には「西遊記」で有名な玄奘三蔵法師(げんじょう・さんぞうほうし)の石版やお釈迦様の足跡などがあった。

こちらは善導大師。中国浄土教の大成者。日本の浄土宗の開祖・法然の教えは、善導の教えに基づいたものらしい:

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善導大師の石版

次は玄奘三蔵法師。三蔵とは仏教の聖典(経蔵、律蔵、論蔵)に精通した優れた僧のことらしい:

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玄奘三蔵法師の石版

最後は釈迦牟尼世尊、すなわちお釈迦様の石版と物足:

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釈迦牟尼世尊の石版

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お釈迦様の足跡

この仏足の上に自らの足を乗せると、インドの仏跡を巡拝したのと同じ功徳があるそうで、邪鬼が払われて幸せが訪れるのだとかで、実際に石版の上に乗ってみた:

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釈迦如来様の佛足石

これは例幣使街道沿いを歩いている際に見かけてかなり気になった建物。1Fがカレー屋に見えるが、本当に営業中かどうかは未確認。かなり不気味だった:O

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廃墟にカレー屋?

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実際に営業中かどうか不明(拡大版)

これも通りすがりに撮ったもので、FIAT 500L:

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愛くるしいFIAT 500L

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also真田父子犬伏の別れの地と大庵寺 (フォト集)

参照   [ + ]

a. この街道は複数の県道がつながっていた。例えば県道R151、県道R141、県道R75など。