Castles in Japan」カテゴリーアーカイブ

小野路宿散策 − It was unexpectedly Historical Area.

昨日は令和4(2022)年の立春の候を過ぎた週末、この季節一番で極寒の予報ではあったが天気が良いようなので今年初の城攻めへ。

新しい年が明けてすぐに国内のいたるところで COVID-19::Omicron の感染が急拡大し、もしかしたら関東圏には今月にも緊急事態宣言が発令されるんじゃないかと云う不安が募ってきた中、何といってもずいぶんと山城攻めがご無沙汰だった[a]記憶では、昨年は令和3(2021)年10月末が最後だったと思う。こともあって山城を探すことに。

しかしながら遠出の準備をする暇も無く、もちろん感染拡大中での移動手段も気になったので、比較的近場である東京都町田市にあった平山城を攻めることに。一つは比高70mほど丘陵上に築かれていた小野路城跡と、その近くにあった砦規模の小野路関屋城跡へ。この周辺には多摩丘陵なんかがあるようで町田と云ってもてっきり田畑が多い田舎的なエリアと勝手に想像していた ;)

で今回、小野路城跡を攻めたあと次の小野路関屋城跡へ向かう際に、町田市HPの小野路宿里山交流館・周辺散策ガイドマップで公開されていた散策路を利用した訳なのだが、この辺りはどうも江戸時代の宿場町として賑わった小野路宿《オノジジュク》って意外と歴史的に知られたエリアだったようだ。どうりで小野路宿通り[b]都道R156(町田日野線)のこと。を歩いていたら風情ある建物が目についたっけ :)

と云うことで小野路城跡からほど近い町田市立野津田公園まで車で移動して駐車場[c]土日は有料。今回利用したのは西口第1駐車場。朝9時半からお昼1時半くらいまでで料金は350円(当時)。こんなご時世からか有料だからか朝9時でもガラガラだった。から出発。

駐車場を出るといきなり「小野路の一里塚」なる史跡があった:

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小野路の一里塚

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小野路の一里塚

この塚は、徳川家康が死去した翌年の元和3(1617)年に駿河国の久能山東照宮に埋葬されていた遺骨を日光東照宮へ移すための街道整備に伴って造られたと云う。この街道は、古来は「鎌倉みち」と呼ばれ、鎌倉から武蔵国の国府があった府中を抜けて上野国方面につながっていたらしい。

こちらは小野路城跡へ向かう途中で見かけた注意板。電柱の後ろに隠れているのは、いかにも昭和生まれの悪い奴って感じ:D

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真っ暗だと分かりづらくないか?

これは城の遺構ではないけど、なんとも特徴的な地形:

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さらに城跡へ向って歩いて行くと、気になる注意版があった:

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この辺りは「図師小野路歴史環境保全地域」(拡大版)

気になったのは「マムシ注意」の方ではなく「SNSに載せないで!」って云う注意書き :|

保全地域内の希少生物の写真や情報を SNS に掲載することにより、土地が荒らされたり盗掘などの危険にさらされる可能性がありますので、お控えください。

〜貴重な動植物への配慮をお願いします〜(東京都多摩環境事務所)

人の良心に訴える控えめな注意書きのようだが、これを尊守する(外国人を含む)人間がどれくらい居るだろうか。今のような時代、本当にこれを実現したいのであれば完全保護区みたいにしないとダメではないだろうか :|。正直 SNS が悪とするのは全く合理的な主張には聞こえないし、逆に地元の奴輩の強引で身勝手な主張と捉えられないだろうか。盗むや壊す行為自体は犯罪なので。

実は、今回攻めた小野路城跡も歴史環境保全地域である:

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小野路城址(拡大版)

本丸に相当する郭1跡には八雲《ヤクモ》神社が祀られていた:

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八雲神社

全国に多くあるスサノオを祭神とする八雲神社の分祀だろうか。詳細は不明。

そして郭1跡北側下には城内の井戸としても利用されたという(伝)小町井戸があった。今でも水が湧き出ていた;

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(伝)小町井戸

この名の由来は、平安朝のむかし、小野小町が病にかかったおり、この山に千日籠もり、この湧き水で目を洗ったところ全快したと云う伝説から。

こちらは城内にあった送電線用の鉄塔とその注意書き。でも、なぜ鷲? 鷲だと登っちゃわない?:

環境保全地域を横切る送電線

環境保全地域を横切る送電線

なぜ鷲?

なぜ鷲?

城の郭跡の一つが10番ホール(?)になっていた:D

ここはゴルフ場ではありません

ここはゴルフ場ではありません

小野路城を攻めたあと、ガイドマップにあった散策路を経由して次の小野路関屋城へ向かった。

こちらはコース No.6 と No.5 の標柱の間にあった田畑から眺めた風景(パノラマ):

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のどかな田畑風景(パノラマ)

さらに見晴らし広場なる展望エリアからの眺め。ランドマークタワーが見えるとマップに書いてあったが、まったく見えなかった :(

ランドマークタワーはどこ?(拡大版)

ランドマークタワーはどこ?(拡大版)

ここからさらに東を進んでいくと、(伝)戦車塹壕なる遺構があった[d]一応、Google Map に場所を申請しておいた。

戦車塹壕跡

戦車塹壕跡

戦車塹壕跡

戦車塹壕跡

先の大戦末期、本土決戦を想定して帝国陸軍は相模湾から上陸するであろう米軍を迎撃するために、ここ多摩丘陵周辺に最後の防衛ラインを築き、小野路をあたりには戦車壕が掘られたのだとか。かって町田市内と多摩丘陵上の尾根道は「戦車道路」とも呼ばれ、相模陸軍造兵廠《サガミ・リクグン・ゾウヘイショウ》による性能テストや訓練に使われた専用道路があったらしい。

小野路関屋城跡近くには、鎌倉みちと布田道が交差する箇所に関所が建っていて切通しになっていたらしい。現在は「関屋の切通し」と呼ばれている:

関屋の切通し(拡大版)

関屋の切通し(拡大版)

一部は崩落している箇所があるようだけど、注意板とか建てなくて大丈夫なのだろうか? :/

関屋の切通し

関屋の切通し

関屋の切通し

関屋の切通し

説明板によると、この布田道は、かの新撰組局長・近藤勇も通ったらしい:

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布田道

小野路関屋城跡の内部は大部分が竹林だった;

城内は竹林

城内は竹林

城内は竹林

城内は竹林

ちょっと奇妙な模様を持つ木。枯れ木?:

奇妙な模様が入った木

奇妙な模様が入った木

奇妙な模様

奇妙な模様

最後は、城攻めを終えて野津田公園へ戻る際に参拝しに立ち寄った小野神社:

尾野神社

尾野神社

梵鐘

梵鐘

小野路宿の入口に建つ小野神社は小野篁《オノ・タカムラ》なる国司の御霊を祀った神社。篁は平安時代前期の人で、和漢に優れた学者で、学問の神様であり、菅原道真の先輩にあたるのだとか。

戦国時代に入ると山内上杉の兵が小野神社の宮鐘を陣鐘として持ち去ったらしく、拝殿脇にある梵鐘は昭和の時代に復元寄進されたものらしい。

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also小野路城攻め (フォト集)
See Also小野路関屋城攻め (フォト集)

こちらが今回の散策ルート:

小野路宿散策ルート

小野路宿散策ルート

活動時間は 03:11、距離は 6.0km、消費カロリーは 1443Kcal。

参照

参照
a 記憶では、昨年は令和3(2021)年10月末が最後だったと思う。
b 都道R156(町田日野線)のこと。
c 土日は有料。今回利用したのは西口第1駐車場。朝9時半からお昼1時半くらいまでで料金は350円(当時)。こんなご時世からか有料だからか朝9時でもガラガラだった。
d 一応、Google Map に場所を申請しておいた。

中華料理 光屋 − Here is not a Chinese Restaurant.

先週は令和3(2021)年の大雪の候の週末に、埼玉県川越市の東武東上線沿線附近に埋もれてしまった古城跡をいくつか攻めてきた。

一つ目は柳瀬川駅から徒歩20分ほどのところにあった柏の城跡。宅地化の波に埋もれていたが、一応は説明板が建っていた。二つ目は新河岸《しんがし》駅から徒歩15分程の新河岸川沿いにあった武蔵寺尾城跡。今は日枝神社が建っている。

そして最後の城攻めへ向かう前にお昼を摂ることにした。COVID-19 がいっこうに落ち着かない、こんな時期ではあるが、久々に地元系[a]地元の人がお客の大部分を占める御食事屋。なので自分みたいなのは外国人かエイリアンと同じ扱い :-)の中華料理店をあらかじめて探しておいた:)

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中華料理・光屋《ひかりや》

外装では、間違いなく「中華料理」と云う文字が掲げられていたが、一歩中に入るとそこは昭和の香りが漂うノスタルジックな雰囲気を持つ店だった。中華料理屋と云うよりは御食事処の佇まいである。店の中央に置かれたテーブル席の他に、一人か二人ぐらいしか座れないカウンター席、そして座敷が2カ所にあったと思う。

時間的には少し早めだったようで、自分がこの日初めてのお客だった。店に入るやテレビを見ていたおばあさんと目があって「いらっしゃい」の声をかけられた時に営業中であると認識できた:D

店の選択と注文する料理を予め決めておいたので、かなりスムーズにことが進むかと思ったが、どうやらおばあさんが料理するのではなく、おじいさんと息子さんが担当らしい。残念ながら、彼等はまだ厨房には居なかった。従って正確にはまだ営業中ではなかったことになる。まぁ、これが埼玉にある地元系の特徴の一つだ。俺とは異なる時間軸が存在している、ブラックホールのような店でもあるのだ :D

店に入って30分くらい経ち、未だお天道様が高いのに飲んだくれみたいな客が入ってくる時間になっても、一向に注文した料理が出てこない。オマケに、この店には「禁煙」と云う単語が存在しておらず、飲んだくれで大声出す客が吐く危険きわまりない煙にむせそうになりながら、感染防止でマスクしていて助かったと思ったものだ :D

そろそろ煙と大声に飽き飽きしそうになってきた頃に、おばあさんが「ごめんなさいね。遅くなって。」と一言添えて出してきたのが、そう自分が35分前に注文したラーメン餃子セット(850円)だ:

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ラーメン餃子セット(850円)

この店のメニューには「当店のおすすめ特製餃子、是非一度お試しを・・・!!」って書かれていたっけ。試すにしては多少、勇気が必要だったが :D

しかし、そんな心配は無用だった。しっかりと餡が詰まっていて肉汁も申し分なく美味かった:

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特製餃子

さらに支那蕎麦のようなラーメンも美味しかった。鶏ガラのスープをしっかりと飲み干して体が温まった:

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スープを飲み干したあとの丼

注文してから出てくるまでの間、何度か注文をキャンセルして店を出ようか悩んだが待っていて良かった。そんな感想がでるラーメン餃子セットだった。しかし、後ろで煙草の煙を吐きながら大声で話している酔っぱらいは叩き出してやりたかったが :X、こちらも我慢して良かった[b]駅のホームで見たポスターの藤岡弘、に怒られそうなので。

中華料理 光屋《ひかりや》
埼玉県川越市砂977-3


ここからはオマケ。

こちらは柏の城跡西の曲輪跡で見た長勝院旗桜《ちょうしょういん・はたざくら》。県内でも有数の巨木の桜で、推定樹齢は400年以上とされ、柏の城の歴史を語る生き証人として大切に保護・保存されているとのこと:

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長勝院旗桜

そして色鮮やかな銀杏がある武蔵寺尾城跡の日枝神社境内の風景。正面のお堂は天台宗・新河岸観音堂:

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日枝神社境内(拡大版)

こちらが日枝神社と新河岸・愛宕神社、そして新河岸・厳島神社:

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新河岸・日枝神社

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新河岸・愛宕神社

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新河岸・厳島神社

新河岸駅へ向かう途中で見かけたピラカンサ[c]バラ科でトゲを持つので防犯上、玄関に植える家が多いらしい。

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ピラカンサ

光屋で昼食を摂ったあとは新河岸駅から霞ヶ関駅(埼玉県)へ向かい、国指定史跡に指定されている河越館跡(史跡公園)へ。

これは関東管領・山内上杉氏の時代に館の周囲に巡らされた土塁らしい:

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史跡公園の西側に

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残る中世時代の土塁

こちらは史跡公園近くにある常楽寺と、山門前にある六地蔵様:

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本堂

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山門前の六地蔵様

ここ常楽寺は河越館の主である河越重頼《かわごえ・しげより》の開基であり、征夷大将軍・源頼朝の命令で、彼の弟である義経に娘を嫁がせた。しかし、それにより兄弟の対立に巻き込まれ、逆に謀殺された御家人。

こちらは平成の時代に建てられた重頼公供養塔と、彼の娘で京姫こと郷御前《さとごぜん》と夫である源義経公の供養塔:

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河越重頼公・京姫・源義経公供養塔

他に、関白秀吉による小田原仕置後に戦争責任を問われ切腹となった河越城主/松井田城主・大道寺政繁公の供養塔がある[d]一説に御腹を召した所がここ河越館だったらしい。

最後は河越館跡の脇を流れる荒川水系一級河川の入間川[e]往時、入間川沿いにはたくさんの城や砦があった上に、江戸時代は重要な交通網を担った。

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入間川

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江戸時代は水上交通の要だった

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also柏の城攻め (フォト集)
See Also武蔵寺尾城攻め (フォト集)
See Also河越館攻め (フォト集)
See Also常楽寺と大道寺政繁公墓所 (フォト集)

参照

参照
a 地元の人がお客の大部分を占める御食事屋。なので自分みたいなのは外国人かエイリアンと同じ扱い :-)
b 駅のホームで見たポスターの藤岡弘、に怒られそうなので。
c バラ科でトゲを持つので防犯上、玄関に植える家が多いらしい。
d 一説に御腹を召した所がここ河越館だったらしい。
e 往時、入間川沿いにはたくさんの城や砦があった上に、江戸時代は重要な交通網を担った。

小田原散策 2021 − Went for the Last Walk of This Year in ODAWARA.

今月は令和3(2021)年の大雪の候少し前の週末に、今年4回目にして最後の小田原市内の散策へ。こうも何度も小田原まで足を運んだ目的は、今から431年前の天正18(1590)年に関白秀吉が西国の大名ら率いて小田原北條氏が籠もる小田原城惣構《おだわらじょう・そうがまえ》を包囲した時の、秀吉方の諸将らの陣場跡を見て回ってくることであった。まぁ、さすがに相模湾封鎖時の諸軍勢[a]脇坂安治、九鬼嘉隆、菅達長、小浜隆景、間宮高則、長曾我部元親、そして加藤嘉明らの船団。の陣場を見てくることはできないので陸の上の軍勢だけ :)。ただし遺構なんてものは期待するほど無かったけど。

ということで2021年、小田原最後の散策は惣構の北西あたりに布陣したとされる宇喜多秀家や羽柴秀次ら[b]他には一柳直盛、山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、織田信包《おだ・のぶかね》、そして細川忠興。の陣場跡を見て回ってきた[c]と云っても、ほとんどが立ち入り出来ない場所だったので遠くから眺めるって感じだけど。

この日のスタートは小田原市荻窪[d]往時の小田原城惣構の荻窪口近く。にある辻村植物公園前。朝9時半くらいに小田和駅西口から伊豆箱根バス・いこいの森行きに乗って辻村植物公園前で下車すると、停留所の前が植物公園:

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辻村植物公園

さすがに早いのか誰も公園内を散策している人は居なかったが :D[e]後で分かったのだけど、実はそうではなく公園の周辺には多くの人が居たのでした。、この公園は梅林が有名らしい。ちょっと時期外れだったけど:

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梅林

こちらは公園の駐車場。左手にみえる丘陵(尾根筋)上が羽柴秀次の本陣跡:

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辻村植物公園の駐車場

この尾根筋を分断して架けられた鉄橋「こもれびの橋」と、別の意味にとってしまいそうな注意書き:

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こもれびの橋

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「夜間のご利用をお控え下さい」

この橋と反対側へ歩いていくと太陽の丘と云う広場がある:

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大小さまざまな石が林立する広場

ちょっと不思議な広場:

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太陽の丘(拡大版)

ユーカリノキやホソイトスギに囲まれた広場:

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これらの石は何を意味するのか?

そして石で出来た巨大な椅子?みたいなオブジェがあったり:

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このオブジェ何を意味するのか?

案内図や説明板が無く、これらをどう受け止めればよいのか少し混乱したので正直なところ落ち着くどころではなかった :D

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新手のUFO交信所?

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青い空が清々しい

ちなみに橋の向こう側は小田原こどもの森公園・わんぱくらんどなる広大な公園があり、こちらの駐車場は早くも満車だった:

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小田原こどもの森・わんぱくらんど

次は宇喜多秀家の本陣跡を目指して、辻村植物公園の南側へ向かったが、その途中、Forest Bike と云う森の中に MTB 向けのコースがあるエリアがあった。こちらは多くの人がライディングしていた:

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Forest Bike

都市ではなく自然の中で楽しむスポーツらしい:

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レンタルも可能

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森の中で MTB を楽しむ

よく見ると初心者用から中上級社向けの本格的なコースがいくつかあった:

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本格的なコース

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初心者コース

こんな感じで楽しめるエリア:

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そばにインストラクターも居た

さらに進むとトレッキングコースに分岐する。ただ、ここも Forest Bike のコースがあるんだけど特に案内板には記載されていないので注意する必要あり:

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案内板

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この先は人は立ち入り禁止

こんな感じの坂を上る。周囲は Forest Bike のコースの他に辻村植物公園の一部で梅林があった。ここは MTB コースではないけど面白い形をしていた:

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ここは私道?

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なんとなく土橋っぽい

まだまだ紅葉が綺麗な季節だった(この辺りが宇喜多秀家本陣跡):

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右手下はダートコースだった(拡大版)

さらに急坂を登った先には広大な斜面に太陽光パネルが設置されていた(立入禁止):

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右手上に太陽光パネルがある

そこから先は行き止まりだったので来た途を戻ろうとするとけたたましい音が聞こえたので上空を見上げてみると CH-53系の輸送ヘリコプターが飛んでいた:

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CH-53系ヘリコプターは何処へ?

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米海兵隊のCH-53E?

再び辻村植物公園前まで戻り、今度は荻窪集落あたりをぐるりと周って戻ってくるコースを散策。こちら側には山内一豊や堀尾吉晴らの本陣跡がある。
しかしながら、公園から少ししか離れていないのに道路脇の森林はゴミの不法投棄が多く、全く酷いものだった :(

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両側の森林はゴミだらけ

ちなみに、このコースの先にある分岐点は、先日これまた陣場跡巡りしてきた羽柴秀勝や黒田官兵衛らの本陣跡へ向かう道に合流する。

山内一豊の本陣跡あたりは眺望が開けており、小田原城本丸周辺を眺めることができる場所だった(この下が堀尾吉晴の本陣跡):

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小田原城本丸方面の眺め(拡大版)

Amazon.JP の小田原FCも見えた[f]特に意味はないけど目に入ってきたので 😐 。

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Amazon JP 小田原FC

さきほど立ち寄った太陽の丘の脇を通って再び辻村植物公園へ戻ってきたら、今度はバスで来た時とは逆に山を下り、毘沙門橋を渡って水之尾集落方面へ:

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毘沙門橋

このあたりもトレッキングコースの一部らしいが、すれ違った人は居なかった:O

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案内板

ここからは国道 R271(小田原厚木道路)へ向ってひたすら下るだけだけど、その途中からの眺望は抜群に良かった。例えば、こちらは小田原城三の丸外郭新堀土塁附近の眺め。この土塁の左手奥が本丸跡(現在の小田原高校):

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小田原城方面の眺望(拡大版)

一方、こちらは先日行って来た箱根・箱根湯本方面の眺め:

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箱根方面の眺望(拡大版)

徒歩だと、国道 R271 の小田原西 IC を迂回する必要があるのでちょっと遠回りになるけど国道 R1 に入ったら、あとはみちなりに歩いて箱根登山鉄道の箱根板橋駅を目指す。

その途中、小田原行きの小田急1000形(赤)を目撃したり:

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赤い小田急1000形

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小田原行き

さらに途中、富士山陣城跡にも立ち寄ってきて意外と体力を消耗したが、なんとか無事に箱根板橋駅へ到着:

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箱根板橋駅

ざっと3時間程、9.3kmほど歩いてきた 8)

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also小田原城攻め / 小田原城包囲戦 / 豊臣勢陣地跡(4) (フォト集)

参照

参照
a 脇坂安治、九鬼嘉隆、菅達長、小浜隆景、間宮高則、長曾我部元親、そして加藤嘉明らの船団。
b 他には一柳直盛、山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、織田信包《おだ・のぶかね》、そして細川忠興。
c と云っても、ほとんどが立ち入り出来ない場所だったので遠くから眺めるって感じだけど。
d 往時の小田原城惣構の荻窪口近く。
e 後で分かったのだけど、実はそうではなく公園の周辺には多くの人が居たのでした。
f 特に意味はないけど目に入ってきたので 😐 。

館山なぎさ食堂 − A Terrible Seafood-don I’ve ever had.

先月末は令和3(2021)年の小雪《しょうせつ》の候のとある週末に、三年前に計画したものの当時は関東を横断した二つの台風[a]2019年の台風15号と台風19号。の深い爪痕に加え、その後の COVID-19 蔓延と緊急事態宣言なんかが重なって延期にしていた千葉県館山市の城攻めへ。

この日は東京駅八重洲口からJRバスで移動して館山駅東口に到着したのは10時半くらい[b]東京湾アクアラインの木更津金田あたりから上りの渋滞が半端ないことと、館山でレンタサイクルを利用したかったので。しかしながら下りなのに到着が遅くなったのは首都高の渋滞。。それから駅前の館山市観光協会でレンタサイクルを借りようとしたら、貸出場所はこことは反対側の西口にあるらしい :O。ただ隣にあるJRバスでも同じ料金で借し出しているとの情報をもらい :)、再びバス乗り場へ向かうと既に先客二人が説明を受けていた。おおっと、もう借りられないかも?と不安がよぎったが、奥に最後の一台があったので安心した 8)

まずは館山城を遠望するため、みなとオアシス “渚の駅” たてやまへ向かった。JR内房線を越えて鏡ヶ浦《かがみがうら》(館山湾)へ出て南下していくと館山港があって、その脇に渚の駅があった。二階建の建屋の一部は展望デッキになっていて、皆が鏡ヶ浦や浦賀水道、そしてその先で聳える富士山を眺めていた中、自分だけ山側の館山城を眺めていたっけ :D。それから館山港周辺をブラブラして、レンタサイクルで館山城跡の城山公園へ向かった。

この日は晴天で、関東の南にある館山の昼間の気温はそこそこ高かったが、やはり午後は寒くなるだろうと思って手袋を持参してきた訳だが、公園に到着した時にその手袋が無いことに気づいた・・・ :O。渚の駅の展望台で手袋を外したことは覚えているが[c]正確にはカメラ操作用の手袋にはき替えたというもの。なので公園まではき替えた手袋のままで、脱いだ手袋の存在を忘れていた。、ここまで来るまで手袋はてっきりカゴの中にあるものだと勘違いしていたようだ。とりあえず手袋が落ちていないか確認しながら来た道を素直に戻り、とうとう渚の駅まで来てしまった。半ば諦めながら手袋を外した記憶がある展望デッキへ上がってみると、なんと端っこの柵上に俺の手袋がかかっていた〜 0:) 。ありがとう、気づいて拾ってくれた方

予定では、このあとの公園近くでお昼を摂る予定だったけど、こんな感じで渚の駅と城山公園を行き来し気持ちも落ちついたら急激にお腹が空いたので、せっかくだから渚の駅にある食堂で食べることにした。少し早めの方が客が少ないと思って[d]11時半くらいでほぼ満席だったけど 😐 。

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渚の駅(商業施設棟)

ということで鏡ヶ浦を眺めながら新鮮な海産物・農産物を味わえると評判らしいお店へ。感染対策してテーブル席についたあとメニューを眺め、値段にビックリしつつ期待をこめて海鮮丼(2,480円)をオーダーした。

そして出てきた海鮮丼がこちら:

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海鮮丼(2,480円)

出てきた海鮮丼にびっくりした。御飯が酢飯ではなく、なにやら酢ゼリーなるものが小皿上にある。店員の日本語が聞き取れなかったので、このゼリーの存在がよくわからなかったが、どうやらお好みでこのゼリーを御飯の上におけば酢飯風の味付けになるらしい :|

おいおい。海鮮ネタが載っている御飯の上にどうやってゼリーを載せるのだろう。オマケに醤油も少なく卓上にも醤油がないため、せっかくの大量の海鮮ネタを満足に頂くことができなかった :$。正直ネタも大したことは無い。

ここまでくると残念とか云う俺の感想ではなく、これを造った奴は海鮮丼を食べたことが無いんだな、港街なのにと思ったよ。今まで食べた海鮮丼の中で一番酷かった :(。と同時に、さらに1,000円くらい高い特選海鮮丼なんて注文しなくて良かったと思った。

館山なぎさ食堂
千葉県館山市1564-1


ここからはオマケ。

ここがJR館山駅東口。正面の1階が観光協会:

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JR館山駅東口

こちらが今回の城攻めで活躍してくれた電動レンタサイクル。料金は1日(5時間以上)で1,500円(当時):

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Rent-a-cycle くらりん(YAMAHA製)

この建物は渚の駅にある渚の博物館。なんと、さかなクンが名誉会長でプロデュースした展示物があるらしい。当時は時間も興味も無いのでパスしたけど :X

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館山港・渚の博物館

この建物の周囲にあったもの:

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焼玉エンジン(サンマ船などで使われた)

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捕鯨砲

そして展望デッキからの眺め。まずは山側にある館山城跡。このあと手袋を気付かずに放置していたと思う:

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城山公園

もちろん海側もしっかり眺めてきた:

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鏡ヶ浦

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館山夕日桟橋

これは海中観光船だと思う:

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海中観光船「たてやま号」

館山は晴天だったけど山梨方面はそうでもなかったか:

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浦賀水道ごしに眺めた富士山

こちらが館山夕日桟橋。海釣りのスポットらしいが、そこまでが遠い :P

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館山夕日桟橋

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館山夕日桟橋

一応は腹がふくれたので再び同じルートで城山公園へ。大勢の観光客が登っていった。館山城は里見家の居城だった:

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これは大手道ではないと思う

山頂にある三層四階天守型の建物は、実は麓にある館山市立博物館の分館で、別名が八犬伝博物館。現在のところ館山城に天守の存在は確認されていない:

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天守閣風の博物館

戦国時代には、あたまに「房総の覇者」がつく里見家であったが、その後は秀吉からも家康からも嫌われて取り潰しになるなど不遇であったものの、江戸時代おそくに『南総里見八犬伝』を著した滝沢馬琴に救われたと云ったところだろうか。それが真実なのか、この博物館では南総里見八犬伝についていろいろ貴重な史料が展示され、大々的に宣伝していた(入館は有料)。

この模擬天守は戦国時代の典型的な天守の姿を模し二重櫓に入母屋造の大屋根をかけ、その上に小望楼を乗せた構造で、最上階の望楼がホンモノの展望台(入館は有料):

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「関東の富士見100景」でもある展望台

こちらは天守の展望台から眺めた海上自衛隊館山航空基地とか富士山とか:

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館山航空基地と富士山

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館山航空基地とマルエーフェリー「琉球エキスプレス」

標高65mほどの山頂が本丸跡であるが、大戦中に大砲などが置かれたためだいぶ改変されているものの、現在はその一部を利用して展望エリアがあり、そこからの眺望も抜群だった:

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館山市街地の眺め(拡大版)

こちらは公園内にある日本庭園でみかけた水仙:

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水仙

城山公園を出たあともレンタサイクルで散策し、館山城を築城した里見義康公が眠る慈恩院《じおんいん》も参詣してきた。公の墓前にたつ銀杏の木は市指定天然記念物で「ラッパイチョウ」と呼ばれているらしい:

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説明板

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里見義康公墓所脇にたつオハツキラッパイチョウ

実際にそんな銀杏があるのか探しみると本当に落ちていた:

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ラッパイチョウ

最後は館山城の出城といわれている御霊山で見かけた滑り台:

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危険な滑り台

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also館山城攻め (フォト集)
See Also館山城下巡り (フォト集)

参照

参照
a 2019年の台風15号と台風19号。
b 東京湾アクアラインの木更津金田あたりから上りの渋滞が半端ないことと、館山でレンタサイクルを利用したかったので。しかしながら下りなのに到着が遅くなったのは首都高の渋滞。
c 正確にはカメラ操作用の手袋にはき替えたというもの。なので公園まではき替えた手袋のままで、脱いだ手袋の存在を忘れていた。
d 11時半くらいでほぼ満席だったけど 😐 。

手打ちそば処 田毎 – Handmade SOBA of TAGOTO(TAKE3).

先月は令和3(2021)年の小雪《しょうせつ》の候近くの週末に、またまた小田原へ。この日も(前週に続いて)関白秀吉による小田原城包囲戦で豊臣方の諸将が布陣したとされる陣場跡を中心に歩いてきた。

午前中は、七年前に攻めた石垣山城の麓あたりで秀吉本陣の前衛として布陣していた諸将らの陣場跡を巡ってきた。そのあとは早川を渡って小田原北條氏が築いた惣構の遺構へ立ち寄ってから徳川時代の小田原藩主・大久保家の菩提寺を参拝して箱根口跡あたりまでぐるっと散策してきた。

午後も小田原から足柄まで移動して豊臣勢の陣場跡を巡ってくる予定だったので、お昼を早々に摂ろうと、この間に続いて再び手打ち蕎麦屋;)。こうも頻繁に同じ街へくると、なんだか悩みながら店を選ぶのが億劫になってきたことは否めない :D

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手打そば処・ 田毎

で、この日は初心にかえって(?)ミニ天丼と盛りそばのセットメニュー(1,270円)を選択:

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ミニ天丼+もり(1,270円)

ミニ天丼には中サイズの車海老、カボチャ、ピーマン、イカの温かい天ぷらが載っており、何度も同じ店で感想を出すのもなんなんだけれど、安心して食べれる上に普通に美味しい。これが一番かもしれない :D

手打そば処 田毎
神奈川県小田原市本町1-6-20


ここからはオマケ。

まずはJR早川駅から一夜城城通りにそって海蔵寺へ:

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一夜城下通り

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史跡巡りコース

海蔵寺は、秀吉本陣の前衛を任された一人で小田原城包囲中に陣没した堀久太郎秀政公の供養塔[a]この本堂とは道路を挟んで向かい側の高台に供養塔がある。がある:

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海蔵寺本堂

石垣山一夜城歴史公園へ向かう坂道は太閤秀吉にあやかってか「出世道」なんて名前がついているらしい:

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「出世道」

しかし小田原市は、小田原北條氏からみれば敵《かたき》にあたる関白秀吉をいやに持ち上げている感がするな :|

出世道沿いには小田原城包囲戦に関する説明板が立っていた[b]しかし、この手のものに興味がない人にとっては全く無用の説明板だが。

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「宇喜多秀家」の説明板

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「伊達政宗」の説明板

この説明板、よく見ると「石垣山に参陣した」って書いてあるけど秀家の本陣は石垣山ではないし、政宗の軍勢は包囲軍には参加していないけど・・・ :|

こちらは細川幽斎とその息子の忠興が北條勢を蹴散らして陣を置いたとされる富士山陣城《ふじやま・じんじろ》跡[c]遺構は残っているらしいが、現在は私有地で立入禁止だった。先日行って来たと、その麓を走る小田急の箱根登山線:

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富士山陣城跡

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小田急1000形

このあたりは猿が出没するらしい:

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「猿に餌をやらないでください」

こちらは小田原城本丸方面の眺め;

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小田原城の遠望(拡大版)

位置的に、北條氏政が篭っていた本丸が正面あたり(現在の小田原高等学校附近)、右手に見える現代の天守閣が建っている場所は北條氏直が篭っていた御殿跡だったとされている。

ともあれ、石垣山に布陣していた豊臣勢から小田原城は「丸見え」だったと云える。

もう少しズームさせて、近世城郭の小田原城本丸・二の丸・三の丸あたりの遠望がこちら:

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左手に天守閣が建っている(拡大版)

こちらは里見義康や小早川隆景らの陣場跡がある方面:

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里見・小早川・吉川らが布陣した丘陵

のちに豊臣政権で五大老の一人となる小早川隆景が本陣をおいたあたりから小田原城を見下ろしたところ:

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難攻不落?の小田原城を一望できる(拡大版)

こちらは小田原城惣構の早川口遺構の一部:

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早川口遺構

最後は、小田原藩主だった大久保家の菩提寺・大久寺境内に咲いていた御会式桜《おえしきざくら》:

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御会式桜

ということで、この時のフォト集はこちら:

See Also堀秀政公供養塔 / 堀秀政公墓所(2) (フォト集)
See Also小田原城攻め / 小田原城包囲戦 / 豊臣勢陣地跡(2) (フォト集)
See Also小田原城攻め / 小田原城包囲戦 / 豊臣勢陣地跡(3) (フォト集)
See Also小田原城攻め / 小田原北條氏の時代 / 早川口遺構 (フォト集)
See Also小田原城攻め / 小田原北條氏の時代 / 箱根口遺構 (フォト集)
See Also大久保家菩提寺の大久寺 (フォト集)

参照

参照
a この本堂とは道路を挟んで向かい側の高台に供養塔がある。
b しかし、この手のものに興味がない人にとっては全く無用の説明板だが。
c 遺構は残っているらしいが、現在は私有地で立入禁止だった。先日行って来た