先々週末は令和6(2024)年の大暑の候を過ぎた週末[a]【今日は何の日?】菜っ葉の日(語呂合わせ)。江戸川乱歩が没した日。オーストリアがセルビアに宣戦布告してWW1が開戦した日。に、今年二度目の東京国立博物館へ:
今年の関東は梅雨明けするやいなや、日中の気温は「ウナギのぼり」の日が続き、この日も例外ではなく、外に居ても家に居ても暑いので、それならばと冷房が効いた中でお目当ての美術品でも鑑賞しようと思ったのは良かったのだが、皆考えることは同じで、折しも夏休みシーズンに加え、海外からのツアー客が押しかけていて炎天下[b]この日の東京の最高気温は 36.8℃ 😣️。に入場券を購入する長い行列に並ぶ羽目に 。しっかし自動券売機の処理の遅さはなんとかならないのだろうか・・・ 。人間も鳩も水分補給は必須だ:
と云う感じで、のっけからキツイ思いをしておそらくは記憶に残る来館になるのかもしれないが、実は三年かけて「トーハク通い」してきた目的を、今回ついに達成することができたと云う意味でもまた記憶に残る鑑賞になった[c]ホント週一で展示作品をチェックしておいて良かった〜 😉️。 。
今回、鑑賞した総合文化展[d]料金は大人1,000円。何度も鑑賞することが分かっていたら年間パスポートを買っておけばよかった 😞️。は:
- #7658:本館2階5室・6室の「武士の装い」:2024年7月17日(水)〜 2024年10月6日(日)
- #7796:本館2階3室の「仏教の美術」:2024年7月2日(火)〜2024年8月18日(日)
- #7633:本館2階1室の「日本美術のあけぼの」:2024年7月2日(火)〜2024年12月22日(日)
- #7668:本館2階1室の「仏教の興隆」:2024年7月17日(水)〜2024年10月6日(日)
- #7672:本館1階11室の「彫刻」:2024年7月9日(火)〜2024年9月29日(日)
- #7675:本館1階13室の「刀剣」:2024年5月28日(火)~ 2024年8月25日(日)
- #2658:本館1階14室の「人間国宝・平田郷陽の人形」:2024年7月17日(火)~ 2024年9月1日(日)
- #7641:本館1階16室の「アイヌと琉球」:2024年7月9日(火)~ 2024年9月23日(月)
毎度おなじみの展示の他にいろいろ巡ってきたが、その大体が人混みを避けて歩き回った結果ではある 。「武士の装い」では念願の「角栄螺《ツノサザエ》」をついに観ることできた 。この兜を存在を知って、いろいろ調べていると、ここトーハクが所蔵しているとのことで、何時か鑑賞できるだろうと通いつめること三年目の大収穫。ただ毎回ぼやいているのだが、ホント照明の映り込みはなんとかならないのだろうかと云う点が残念でならない 。
まずは、その「武士の装い」から「豊臣秀吉朱印状」。安土桃山時代(16世紀):
織田信長によって衰退に追い込まれていた本願寺(顕如)は、信長亡きあとに秀吉に接近することで復興への道を探っていた。これは、無類の能好きとして知られた秀吉に顕如から能道具が贈られたことへの秀吉直筆の礼状とされている。
これは「毛利元就像(模本)」。原本は安土桃山時代(16世紀)で、模本は昭和時代(20世紀):
一代で中国地方を制覇した戦国大名で、長州藩の藩祖でもある毛利元就の肖像画の写し。原本は、元就が中国の覇権をかけて激戦を繰り広げた尼子氏を滅ぼしたのち、永禄9(1566)年に描かせたものと伝わる。
そして「肩脱二枚胴具足《カタヌギ・ニマイドウグソク》」。安土桃山〜江戸時代(16〜17世紀):
まるで片肌を脱いだ肉体をリアルに打ち出した鉄板で表現すると云う面白い意匠の当世具足。獣毛で毛髪を表した変わり兜と併せると、裸一貫で戦う荒武者を彷彿させる。その一方で、甲冑部は金箔押の切付札《キッツケザネ》を紫・紅・萌黄・紺・白の組紐からなる色々糸威になっている。
こちらは順に、重要文化財の紅糸威星兜《ベニイトオドシ・ホシカブト》・南北朝時代(14世紀)、色々糸威雑賀鉢兜《イロイロオドシ・サイカバチノカブト》・江戸時代(17世紀)、紺糸威烏帽子形兜《コンイトオドシ・トリエボシナリカブト》・江戸時代(17世紀):
紅糸威星兜は鉢の前後左右に渡金の地板を伏せたいわゆる五十二間四方白の星兜で、前立は鍬形に利剣を加えた三鍬形、その台に魚子地枝菊紋が薄肉彫りされている。大塔宮・護良親王《オオトウミヤ・モリヨシシンノウ》[e]父は後醍醐天皇。建武の時代の皇族であり天台宗座主であり征夷大将軍である。の兜との伝承あり。
色々糸威雑賀鉢兜に代表される雑賀鉢は雑賀荘の甲冑師による独特な造形を持つ兜。表面を錆地にした鉄板を矧ぎ合わせて縄覆輪を掛け、上部に菊型の鉄板を重ね、装飾を兼ねた菊座鋲で留めている。
紺糸威烏帽子形兜は、烏帽子の中で最も格式の高い立烏帽子《タテエボシ》を模した変わり兜。鉄製の鉢に革で作った立烏帽子を被せ、表面に粗い麻布を貼って漆で固め、金箔押で飾っている。錣や面具にも金箔押を施し、紺色の毛引威として全体的に華麗で高貴な仕立てとなっている。
こちらは紺糸肩裾取威腹巻《コンイト・カタスソドリオドシノハラマキ》。室町時代(15世紀):
本来の腹巻きは歩兵用として軽量で動きやすく作られた甲冑であったが、戦国時代初めには重武装化された騎馬武者も着用するようになった。草摺は七間五段下り、威は紺糸を中心にして上下に紅糸を配した肩裾取威としている。
そして栄螺形兜と併せられた胴具足の二領。「栄螺」は丈夫な殻は守りが堅いに通じることから特に戦国武将に好まれた意匠であった。今回のお目当ては手前の紅糸威二枚胴具足に併せた角栄螺形兜 :
まずは白糸威二枚胴具足《シロイトオドシ・ニマイドウグソク》。江戸時代(17世紀):
兜は鉄板を打ち出して栄螺を表した変わり兜。胴は西洋の甲冑を模した和製の南蛮胴で正面に鎬《シノギ》を立てている。草摺は黒毛植で裾板のみ白毛植。要所に丸に梶葉《カジノハ》紋[f]信濃国諏訪神社の神紋。の赤銅《シャクドウ》製金物を飾る:
そして紅糸威二枚胴具足《ベニイトオドシ・ニマイドウグソク》。具足は江戸時代(17世紀)、兜は安土桃山時代(16世紀):
別名は金魚鱗小札二枚胴具足。胴は二枚胴で、胴正面を西欧の甲冑を模した和製の南蛮胴。袖と佩楯《ハイダテ》は龍(魚)の鱗を思わせる意匠が施されている:
こちらも南蛮胴なので正面に鎬を立ててある。草摺は七間五段下りの紅糸威。全体的に金・白・紅といった華やかな色彩を持つ:
自分が三年待って注目していたのは、この金箔押な栄螺形《サザゼ・ナリ》のいわゆる突盔形兜[g]読みは《トッパイ・ナリ・カブト》。頭盔とも。鉢の頂部が尖った兜。の変わり兜で、通称は「角栄螺」。ただし、この通名はあくまでも伝承であり、史料として正式な記録はないようだ:
他に立波の飾り板を添えた画もあるらしいが、今回は付いていなかった:
下げには本多家の「丸に立葵」紋があしらわれ、胴背面には「本多内匠 ほん多たくみの助」の金泥字が残る:
この本多家は江戸時代中期に信濃国飯山藩[h]現代の長野県飯山市にかって藩庁があった。の大名で、三河岡崎藩の本多忠利の系統にあたる。最後は飯山藩本多家が所持していた、この「角栄螺」は一説に、織田信長の召領であったが、蒲生氏郷に婿引出として譲り、氏郷はこの兜を被り、岳父・信長に従って各地で奮戦し大いに名を挙げたと云う。
この兜は、のちに氏郷の家臣の一人で、持ち前の勇猛さと頭の回転の良さで晩年には1万石を食んだ岡越後守こと岡左内の手に渡った。氏郷亡き後は上杉景勝の直臣となり、関ヶ原の戦い前の奥州で伊達政宗率いる軍勢と福嶋城周辺で激戦を繰り広げた勇士の一人であった。この時、左内は角栄螺の兜と南蛮の鳩胸鴟口《ハトムネトブクチ》の具足を身に付け、氏郷の形見分けで拝領した猩々皮《ショウジョウヒ》の陣羽織[i]南蛮舶来の赤みの強い赤紫色の生地で織った陣羽織。たとえば小早川秀秋所用の陣羽織。を羽織り、愛刀の貞宗二尺八寸で政宗と一騎打ちしたと伝わる。そののち徳川氏天下の時代になると左内は氏郷の愛児・秀行に仕えて會津で没したと云う。その後、彼の兜は人手を転々とし最後に本多家に渡ったらしい。
ついでながら左内の愛刀・貞宗と同じ刀工の刀も鑑賞することができた 。こちらは國寳「刀・相州貞宗《ソウシュウ・サダムネ》」。名物・亀甲貞宗とも。鎌倉〜南北朝時代(14世紀):
相模国鎌倉の刀工であった貞宗は正宗の実子(または養子)と云われ、師風を継承しつつ穏やかで整った作風を特徴としている。この亀甲貞宗は太刀を磨上げ《スリアゲ》て刀にしたもので、指裏の茎尻に亀甲花菱紋の彫物があることが号の由来とされる。徳川将軍家がまとめた刀剣書『享保名物帳』に所載された名物刀剣の一振。
トーハク通い三年目で、氏郷一の家臣である岡左内に由来すると伝わる品々を鑑賞することができて良かった 。
次は陣羽織。戦国時代は実用性の高かった陣羽織は、江戸時代になるとほとんど無くなり、逆に凝った意匠を施したものが作られたと云う。これは白文紗地富士に龍模様 五三桐紋付。江戸時代(18世紀):
こちらは黄羅紗地陣羽織 丸四ツ目結文・五七桐紋付。江戸時代(18世紀)。この陣羽織は表と裏で家紋とその替紋が入ったリバーシブル型:
「刀剣」の展示では、先に挙げた國寳・相州貞宗の他にいくつか。まず短刀・青江次直《アオエツグナオ》。南北朝時代(14世紀)。重要文化財:
小板目の冴えた地鉄に華やかな逆丁子の刃文を焼き入れた作品。寛永7(1630)年に二代将軍・秀忠から伊達光宗[j]二代藩主・忠宗の次男。母が秀忠の養女(実父は池田輝政、実母は家康の次女の徳姫)。が拝領した。
こちらは太刀・古備前友成。平安時代(11〜12世紀):
備前国の刀工・友成の作で、刀身は長大で腰元で強く反った力強い太刀姿を示し、板目の地鉄に小沸づいた小乱れの刃文を低く焼き入れている。姫路藩主・酒井家から明治天皇に献上された太刀。
太刀・手掻包永。鎌倉時代(13世紀)。重要文化財:
大和国・手掻派の名工である包永の作。反りが浅く、がっしりとした刀身に、小沸づいて冴えた細直刃の刃文を焼き入れ、鋒には二重刃が見られる。茎は大きく磨上げられ、茎尻に「包永」の銘が彫られている。
こちらは刀・主水正正清《モンドノショウ・マサキヨ》。江戸時代(17世紀):
薩摩国の刀工・正清は徳川八代将軍・吉宗の命により、江戸の浜御殿[k]現在の浜離宮恩賜庭園。で鍛刀し、その技量が認められて、茎に一葉葵紋を切ることを許された。精美な板目の地鉄、荒く沸づいた互の目乱れの刃文は、まさに正清の入念作。
そして國寳の短刀・相州行光。鎌倉時代(14世紀):
行光は、相州鍛冶の祖と呼ばれた新藤五國光《シントウゴ・クニミツ》の実子(または弟子)で、相州伝を大成した正宗の実父(または養父)と云われている。肌立った板目の地鉄に小沸づいて冴えた直刃を焼き入れている。加賀藩主・前田家伝来品。
今回もたくさんの仏像彫刻を鑑賞してきた。撮影可能な像の中から、まずは慶算作の毘沙門天立像。鎌倉時代(14世紀):
仏法を守護する四天王のうち多聞天の異名である毘沙門天は単独でも信仰を集めた。引き締まった体、左脇を締め右肘を張るという容姿は鎌倉時代の仏師・運慶以来の正当なスタイル。
こちらは大威徳明王騎牛像《ダイイトクミョウオウ・キギュウゾウ》。鎌倉時代(13世紀):
五大明王の一尊である大威徳明王も単独でも信仰を集めた。脚が六本ある明王が水牛にまたがっている珍しい容姿。
不動明王立像。平安時代(11世紀)。重要文化財:
巻き髪で左肩に結わえた髪を垂らし、左目をすがめ、唇の上下に牙を出す姿は流りのスタイル。顔づくりが中央にまとまり、表情もおとなしいところに洗練した趣をもつ。左手には物事を正しい方向へ導くための羂索《ケンジャク》と云う縄を持つ。
こちらは薬師如来坐像。平安時代(11世紀):
人々の病気を治し、災厄を取り除く仏さま。厚い瞼やふくよかな頬、奥行きの薄い体つき、柔らかみのあるなだらかな衣文線など、総じて穏やかな作風は平安時代後期に流行したスタイル。
大日如来坐像。平安時代(11〜12世紀)。重要文化財:
密教における大日如来は森羅万象の根源であり、あらゆる仏はその化身とされる。仏の王であるとして、珍しく王族の姿で表現されている。
「アイヌと琉球」文化展からドゥスディー(小袖)とウフスディー(大袖) 。色合いや文様がいかにも琉球ぽい:
最後は現代美術で、人間國寳・平田郷陽《ヒラタ・ゴウヨウ》の創作人形。伝統的な日本人形の技術やスタイルを用いて、「生人形《イキ・ニンギョウ》」が持つ写実性から人々の生活感や心情を情緒豊かに表現をしているとのことで、意外と見入ってしまう作品を幾つか。
こちらは女性の頭部と、足利時代の将士体立姿。ともに昭和時代。写実的な表現にこだわった作品:
二つに割れた桃と、そこから見栄を切って現れた桃太郎の木彫り。柔らかく肉付きのよい子供の体形は生人形の技術が生かされている。大正時代:
宴の花。平田郷陽の遺作。昭和時代。若い女性の凛とした表情を木彫彩色で表現したもの:
今年も残り半分。ますます時間を作って観覧しに行こうと思う 。
と云うことで、この時のフォト集はこちら:
2024年7月 東京国立博物館 (フォト集)
参照
↑a | 【今日は何の日?】菜っ葉の日(語呂合わせ)。江戸川乱歩が没した日。オーストリアがセルビアに宣戦布告してWW1が開戦した日。 |
---|---|
↑b | この日の東京の最高気温は 36.8℃ 😣️。 |
↑c | ホント週一で展示作品をチェックしておいて良かった〜 😉️。 |
↑d | 料金は大人1,000円。何度も鑑賞することが分かっていたら年間パスポートを買っておけばよかった 😞️。 |
↑e | 父は後醍醐天皇。建武の時代の皇族であり天台宗座主であり征夷大将軍である。 |
↑f | 信濃国諏訪神社の神紋。 |
↑g | 読みは《トッパイ・ナリ・カブト》。頭盔とも。鉢の頂部が尖った兜。 |
↑h | 現代の長野県飯山市にかって藩庁があった。 |
↑i | 南蛮舶来の赤みの強い赤紫色の生地で織った陣羽織。たとえば小早川秀秋所用の陣羽織。 |
↑j | 二代藩主・忠宗の次男。母が秀忠の養女(実父は池田輝政、実母は家康の次女の徳姫)。 |
↑k | 現在の浜離宮恩賜庭園。 |