飯盛山と滝沢本陣の散策 − A Notable Heartbreaking Story on Iimori Hill.

我が人生初の「国民の祝日」10連休を利用した毎年恒例のGW城攻めの第一弾は、二泊三日の日程で福島県内の城攻めへ。また特に意識した訳ではないけど最終的には自身初として、福島県全域となる浜通りから中通り、そして会津まで横断することができた。

まずまずの天気であった初日は、浜通りはいわき市の城跡から中通りは三春町の城跡を攻め、郡山市の宿に一泊した。残念ながら二日目は一転して全国規模で雨または曇りと云った天気になってしまったので、悩んだ挙句に予定より遅めに会津若松入りし、動きの早い雨雲をかわす予定に切り替えた。その甲斐があってか会津若松駅を降りたら雨は降っていなかったのでレンタサイクルで知る人ぞ知る城跡や、四年前の城攻めでは時間が無くて見れなかった会津若松城の外郭に残る遺構を巡ってきた。途中、雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気で何度か雨宿りするはめになったが、これと云ってひどい目にあうことはなく、なんとか無事に平成最後の日を終えることができた。

そして城攻め第一弾の最終日であり、新しい「令和」の世の初日は帰京する前に、これもまた四年前に行けなかった観光地の飯盛山周辺を巡ってきた。


飯盛山と白虎隊霊場

朝、ホテルをチェックアウトしてから駅前へ移動。その際に見かけた白虎隊士の像:

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「白虎隊士の像」

駅前のバスターミナルから市内観光まちなか周遊バスの「あかべぇ」に乗り込んで飯森山下で下車した[a]駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。

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飯盛山

おみやげ屋が立ち並ぶ参道を進んで石段を登って行くことになるが有料(当時250円)のエスカレータ[b]正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。もあった。まぁ行列してまで乗る必要はなかった ;)

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飯盛山の登山口

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飯盛山動く坂道

石段を登った先に建っていた「飯盛山案内図」:

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「飯盛山案内図」(拡大版)

案内板の隣には白虎隊記念館なる史料館があった。白虎隊士をはじめとした會津・戊辰戦争に関係する史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵・展示しているのだとか。「記念館」と云う名前が気に入らなかったので立ち寄ることもしなかったけど :|

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史料館・白虎隊記念館

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白虎隊士・酒井峰治の銅像

愛犬と一緒に銅像になっていた酒井峰治(さかい・みねじ)は白虎隊士中二番隊の所属で、會津戦争中の戸ノ口原からの退却の際に仲間とはぐれ、のちに農民らに助けられ帰還を果たし鶴ヶ城籠城戦に参加して、戦後も生き残った御仁なのだとか。

さらに石段を登った先が白虎隊霊場の参拝口:

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白虎隊霊場の参拝口

ここ飯盛山[c]この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。は古墳の一つであり、神社仏閣の境内にあたる。そして自刃した白虎隊士の霊場でもある。

まずは白虎隊十九士の墓:

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白虎隊十九士の墓

幕末の會津戦争で會津藩が組織した部隊の一つ[d]中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。に、16〜17歳の少年たちから成る白虎隊があったが、慶応4(1868)年8月23日(旧暦)にその士中二番隊が戸ノ口原の合戦場から退却し、滝沢峠の間道を抜け、戸ノ口堰(とのくちせき)の洞門をくぐって飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣が黒煙の中に見え隠れしていたことから城は陥落したと誤認し、主君のために殉じようと全員が自決した。唯一、飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)が命をとりとめ、のちに白虎隊の忠義と悲運の物語が広く知られることになったと云う。

墓所の脇には會津藩最後の藩主・松平容保公の弔歌の碑が建っていた:

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松平容保公弔歌の碑


幾人の涙は石にそそぐとも  その名は世々に朽ちじとぞ思う

そして少年武士慰霊碑と吉田伊惣次(よしだ・いそじ)篤志の碑。自刃した白虎隊士の亡骸が戦後しばらく風雨にさらされていたため近くの村の吉田伊惣次と有志が密かに寺院に仮埋葬したが、それが新政府軍に見つかり獄舎に繋がれるも後日に解放された。その篤志を称えるための碑と云う:

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少年武士慰霊碑

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吉田伊惣次篤志の碑

こちらは會津藩殉難烈婦碑。會津戦争で亡くなった會津藩の婦女子230余名の御霊を弔うために建立された:

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会津藩殉難烈婦碑

珍しいところでローマ市民慰霊碑。これは戦前、白虎隊士の精神に感心したイタリアのファシスタ党首・ムッソリーニから贈られた古代ローマ時代の宮殿の柱であるが、戦後に進駐軍によって一度破壊された。その後に一部が復元され「ローマ市民からの寄贈」に改められた:

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ローマ市民慰霊碑

こちらは郡上藩・凌霜隊之碑。鶴ヶ城に籠城したのは會津藩だけではなく、美濃国・郡上藩の凌霜隊(りょうそうたい)も籠城して奮戦した。昭和の時代に事績を偲び石碑が建立された:

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郡上藩・凌霜隊の碑

そして霊場の南側には白虎隊士が自刃した場所がある:

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白虎隊士自刃の地

自刃するも一命を取り留めた唯一の隊士である飯沼貞吉の墓。一人苦しんだが、晩年には重い口を開いて白虎隊について語ったのだとか:

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飯沼貞雄(貞吉)墓

白虎隊自刃の地に建つ碑:

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白虎隊士自刃の地の碑

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白虎隊殉難士各霊塔

銅像の隊士が眺めている方角に鶴ヶ城の天守閣が見えるのだが、目視だと結構きびしいかも(ヒントは写真中央に建つポール):

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自刃の地からの眺め

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ズームで眺めた鶴ヶ城(拡大版)

この後は霊場の下にあるさざえ堂へ向かった。こちらは、その途中に眺めた会津若松駅方面の眺望:

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飯盛山からの眺望(拡大版)

世界に唯ひとつの會津飯盛山・さざえ堂。江戸時代は寛政8(1796)年、飯盛山に建っていた正宗寺(しょうそうじ)の住職である僧郁堂(いくどう)和尚が考案・建立した六角三層の建築物である。現在は国指定重要文化財で、横から見ると栄螺(さざえ)のように螺旋状になっているのが分かる:

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旧正宗寺・円通三匝堂(通称はさざえ堂)

正式名は旧正宗寺・円通三匝堂(えんつうさんそんどう)。一度通った通路を再び通ることなく外に出ることが可能な珍しい構造をしている。正面入口は唐破風の向拝を付していた:

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さざえ堂

入館料(大人400円/当時)を支払い、向かって正面にある唐破風の屋根を持つ入口へ:

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さざえ堂の入口付近

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さざえ堂の入口付近

この入口から延びる螺旋状のスローブを上って三層頂上にある太鼓橋へ向かう。ちなみに出口はこの背後にある:

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正面入口

頂上にある太鼓橋を渡るまで上がりは右回りの螺旋状スローブになっていた:

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上がりのスローブ

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上がりのスローブ

ここが三層頂上にある太鼓橋とその天井:

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頂上にある太鼓橋

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天井の様子

太鼓橋を渡って向こう側へ渡ると、今度は左回りのスローブになる:

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下りのスローブ

そして、こちらが入口とは反対側にある出口:

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出口

ということで上がって下りてくるのは正味5分ほど。かつてはスロープに沿って西国三十三観音像が祀られ、一度上がり下りすると巡礼を終えたことになるのだと云う。

こちらはさざえ堂の目の前にあった宇賀神社:

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宇賀神堂

この神社の背後にある「天空カフェ」こと飯盛山展望台からの眺めも素晴らしかったが、令和元年の初日と云うこともあって御朱印状を求める人たちが長い列を作っていたのには驚いた :O

このあとは宇賀神社脇の石段を降りて厳島宗像神社の境内へ。この神社は、天照大神の御子神である「宗像三女神」の一つにして古くから信仰が厚かった。主神は市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)さま:

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鳥居

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社殿

社殿は、蘆名家七代目当主の直盛が會津の領主であった南北朝の時代[e]すなわち永禄年間(1381〜1383年)。に石塚、石部、堂家の三家によって建てられたと云う。

これが白虎隊士が潜ってきたと云う戸ノ口堰洞穴(とのぐち・せきどうけつ)と呼ばれる岩盤を掘って穴を開けた洞門:

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戸ノ口堰洞穴

猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地へ水を引くための農業用水路で、全長は31㎞にも及ぶと云う:

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戸ノ口堰洞穴(拡大版)

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洞穴

慶応4(1868)年の會津戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎隊士中二番隊20名が潜って飯盛山まで戻ってきた洞穴である:

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戸ノ口堰洞穴

戸ノ口堰洞穴の脇に建つのが戸ノ口堰水神社:

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戸ノ口堰水神社

最後は子育地蔵尊:

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子育地蔵尊

この後は厳島神社の本参道を下って旧滝沢本陣へ。


會津藩・旧滝沢本陣

飯盛山を下りた麓に残る旧滝沢本陣は、現在は国指定史跡であり国指定重要文化財となっている。参観料は大人300円(当時):

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史跡・旧滝沢本陣の碑と冠木門

文禄4(1596)年に建てられた茅葺書院造の建築物で、遠州流の庭園があり、藩主の参勤交代や領内巡視の際の休息所に使われた:

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旧會津藩・御本陣

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通称は滝沢本陣

慶応4(1868)年の會津戦争時には会津藩の本営となり、松平容保が白虎隊に戸ノ口原へ出陣を命じ、あるいは新撰組が駐屯していたと云う場所である。茅葺屋根に覆われた書院造りの建物には御入御門、御座の間、御次の間などが当時の姿のまま残されている:

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滝沢本陣・横山家住宅(拡大版)

別宅にある受付で参観料を支払って、この勝手口から中に入ると「にわ」と「おめえ」が設けられていた:

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この中がにわ

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てまえ、なんど、ざしき

ざしきの奥が御次の間、そして御座の間:

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奥が御座之間、手前が御次之間

ここには今も当時の銃弾や刀傷が十数ヶ所になまなましく残っていた:

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戊辰戦争時の弾痕

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柱に残る弾痕跡

御座の間には会津藩の最後の藩主・松平容保公の肖像画が置かれていた:

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松平容保公の肖像画

こちらは御座の間から望む遠州流庭園。敷石として石臼も使われていた:

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遠州流庭園

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敷石に石臼

柱に残る刀傷:

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戊辰戦争時の刀傷

本陣には御湯殿・御厠が設けられていた:

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歴代藩主が使用した御湯殿と御厠

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御湯殿

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御厠

御座の間にすぐに取り付くことが可能な藩主用の御入御門:

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御入御門

以上で、「国民の祝日」10連休を利用したGW城攻め第一弾は終了。この日は午後一で郡山へ移動し、新幹線で帰京したのだけれど自由席はほぼ満席だった :$


ここからはオマケ。

まず会津若松駅の構内で見かけたいろいろな赤べこたち:

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会津赤べーこ

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赤べこ

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赤べこ

会津若松の初日は雨が止んだ隙を、このレンタサイクル(1日1,500円/当時)で走り回ってきた:

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駅レンタカー会津若松営業所のレンタサイクル

いろいろな所で見かけた「あいづっこ宣言」:

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「ならぬことは ならぬものです」

高瀬の大木(ケヤキ)は現在は国指定文化財であるが、そのもとは慶長5(1600)年に関ヶ原の戦に先立って會津の上杉景勝が徳川家康との対決に備えて直江兼続に命じて築こうとした神指(こうざし)城の土塁に生えていたケヤキとされている:

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高瀬の大木(拡大版)

城が完成する前に家康が上杉追討令を出したため工事が中断となり、神指城は未完のまま、のちに廃城となった。このケヤキは築城前から既に大木として生えていたと云われ樹齢は約500年と云われている。

また會津戦争で斎藤一ら新撰組が本陣を置いた如来堂もまた神指城跡の土塁上に築かれたものである:

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如来堂

こちらは高瀬観音堂:

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会津三十三観音第15番札所

八角神社、そしてウグイス:

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八角神社

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桜とウグイス

会津若松城の二の丸跡にあるひょうたん濠:

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ひょうたん濠(拡大版)

鶴ヶ城こと會津若松城:

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鶴ヶ城(拡大版)

そして、こちらは令和元年の朝、会津若松駅近くの宿泊先からの眺め。遠くに雪が残る山が標高2,105mの飯豊山(いいでさん):

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令和元年の朝の風景

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雪が残る飯豊山(拡大版)

対して、こちらは標高1,816mの磐梯山:

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令和元年の朝の風景

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薄っすらと雪が残る磐梯山

最後はJR会津若松駅でのE721系と、JR郡山駅の新幹線ホームの乗車位置標識:

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JR東日本のE721系の郡山行

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郡山駅の新幹線ホーム

ということで平成と令和の世を股にかけた福島県の二泊三日の城攻め旅行は終了。途中、悪天候のため予定通り城攻めできなかったことと、会津若松市内は大勢の観光客でごったがえしていたこと、そして三年前に初めて来て、今回も楽しみにしていた居酒屋には満席で入れなかったことなど全体的に残念な結果だった:(

この街には休日に来ちゃダメだなということがよく分かった :/

この時のフォト集はこちら:

See Also神指城攻め (フォト集)
See Also會津若松城外郭攻め (フォト集)
See Also蒲生氏郷公墓所 (フォト集)
See Also會津蘆名家墓所とゆかりの地巡り (フォト集)
See Also飯盛山と滝沢本陣散策 (フォト集)

参照

参照
a 駅から約5分。運賃はどこで降りても片道210円(当時)だった。
b 正式名は「スローブコンベア」と云うらしい。
c この山が飯を持ったような形をしていたことが名前の由来なのだとか。
d 中国の神話に登場する天上界の四隅を司る霊獣にちなみ、白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊が組織された。
e すなわち永禄年間(1381〜1383年)。

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  1. ピンバック: うどん・そば処 勢川本店 − Another TOYOHASHI Local Curry-Udon. | Mikeforce::Today

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