一昨々年(さきおととし)は平成27(2015)年の暮れ前の連休を利用して、念願の長篠城と設楽原古戦場を巡ってきた。趣味として、城巡りを始めてかれこれ一年半。昔読んだ漫画『信長』(工藤かずや作・池上遼一画)で描かれていた長篠の合戦の古戦場跡を、いつかは巡ることになるだろうなぁと、心のどこかで期待が膨らんでいたと思う。それが実現できたのは良かったが、それにしても良く二日間で見て回ってこれたものだと半分は感心した
。あとで調べたら二日間の歩数は6万歩、歩いた距離は45キロメートルにも及んでいた。とにかく見どころが多いののは当然としても、それらを時間内で見て回る必要があること、公共機関が期待できないのと、柔軟に対応してスケジュールを組み直す必要があったことなどから、公共機関(電車)は宿泊先の豊橋との間でJR飯田線しか使っていない
[a]というか、利用したくても利用することが出来なかったと云う次第。。本当はもっと新城(しんしろ)市のサービスを調べれば良かったかも知れないが。おまけに、見どころが色々な場所に散在していたことも影響していたと思う。今回は豊橋市内に宿を借りたので初日は設楽原古戦場、二日目の最終日は長篠城跡他を巡るようなスケジュールにした。おかげでJR飯田線を二往復する必要はあったけど
。
初日の古戦場巡りを終えて、JR飯田線・三河東郷駅から宿がある豊橋駅までの一時間ほどの電車旅は眠っていてよく覚えていない。なにせ、この日は朝4時起きで6時半の新幹線で8時前には愛知県豊橋に着いていたくらいだから。
自身初の豊橋は暗くてよく分からなかった[b]実は、この時から三年後の平成30(2018)年夏には昼間の豊橋市内を歩きまわることができたが、この当時は勿論あずかり知らす。が、駅前は年末のイルミネーションで賑わっていたっけ。で、宿に荷物を置いて温かいものをガッツリ食べようと、予め決めておいたうどん屋へ。やっぱりご当地グルメの豊橋カレーうどんは外せないでしょ。自分はあまりカレーを好んで食べない方だけど [c]食べれない訳ではなく、辛いのが苦手という意味で。。
こちらが玉川うどん本店:
夕食時ともあって店内はテーブルも座敷も一杯だったけど、一人だったのすぐにカウンター席へ通してもらえた。カウンターからは親爺さんと話をすることも出来たし、隣にいたアジア系外国人のカップルといろいろ話もできたのも良かった。
まずは生ビール中(580円)を注文し、喉の渇きを癒しつつメニューをつらつら眺め、ノーマルタイプの豊橋カレーうどんにかつ丼(ミニ丼)の合わせに決めた。そして料理がでてくるまで目の前にあった「豊橋カレーうどんの食べ方」なる説明書をじっくりと読んでおく:
ここ豊橋はうどんの歴史だけでも100年以上あるらしく、8年前(当時)から町おこしのご当地グルメとしてカレーうどんが誕生したらしい。ただし普通のカレーうどんではなく、なんと「カレーうどん」+「カレーライス」の二層構造で、これだけでも二度美味しいのだそうだ。(かつ丼を合わせたのは失敗か!?)おもしろいのは、丼底にある御飯がとろろで保護されているため、それより上にあるうどんを食べるまで、しっかり「眠った状態」になっていること 。うどんを食べてから御飯を食べると云う方法が正しい食べ方なのだそうだ。
ということで、出てきた「豊橋カレーうどん(ノーマルタイプ)+かつ丼(ミニ)」がこちら(1,680円):
カレーうどんの方には野菜の素揚げ(ナスとかぼちゃ)とチキンカツ、さらにうずらの卵がトッピングされていた。そして、カレーライスとして頂く時のための福神漬。フルーツものっていた。
まずはうどん。カレーのとろみは程よい固さ、辛味はさほど無く、旨味をしっかり楽しめた。うどんも美味しかった:
うどんを食べ終わったら、福神漬を落として、とろろに包まれた御飯を頂く:
ということで、合わせのカツ丼はそっちのけでカレーうどんを堪能した :
この日はホントたくさん歩いたので疲労が溜まっていたが、カツ丼を食べて明日へのエネルギーを補給できた。
めん・お食事処・玉川・豊橋広小路本店
愛知県豊橋市広小路1丁目13
ここからはオマケ。
まずは豊橋駅東口(駅前大通側)は季節柄か、イルミネーションが点灯して賑やかな雰囲気だった。これらは「とよはしキラキラ☆イルミネーション」として毎年開催されているものらしい:
豊川駅はJR線の在来線・新幹線の他に名鉄線も乗り入れしていた。あと「豊鉄」こと路面電車も:
こちらはJR飯田線の213系。これに乗って最寄りの茶臼山駅へ移動したが、二両編成であったので激混みだった:
そしてJR飯田線の茶臼山駅(無人駅)。ここで下車して設楽原合戦跡を巡ってきた:
次の二つの山は、それぞれ織田信長と徳川家康が設楽原決戦で本陣を置いた山:
信長が本陣を置いた茶臼山は、現在は茶臼山公園になっており、当時は本陣跡として整備されている真っ最中で、そこから茶臼山北にある、こちらも工事中だった新東名の長篠設楽原PAを見下ろしたところ:
家康の本陣があった弾正山の麓には、現在は新城市立東郷中学校が建っていたが、目の前を通る道路に沿って「平成の馬防柵」なるものが展示されていた[d]この学校の生徒や教師が作ったのだろうか?:
そして、家康の本陣跡から見渡した設楽原決戦場跡。左から右へ連吾川(れんごがわ)が流れ、往時はその川を境に織田・徳川連合軍と武田軍が対峙した:
現在は田んぼになっている設楽原決戦場跡には馬防柵が復元・展示されていたが、その脇には両軍の戦死者を弔っているかのような地蔵様が置かれていた:
この設楽原決戦場近くにある新城市設楽原歴史資料館には貴重な史料の他に、鉄砲や甲冑のレプリカなども展示されていた:
資料館の裏に建っていた閻魔堂(石造りの閻魔大王像):
二日目の最終日も歩きに歩いたが、迂回しないと行けない長篠城跡へ向かうために川とJR飯田線を2回横断するはめになった。
これは県道R439上のJR飯田線。この先が長篠城跡であるが、手前に豊川が流れている:
そして豊川:
そして、今度は県道R69側から横断したJR飯田線。この先が長篠城跡で、上のJR飯田線を横断した場所に至る:
長篠城跡に建っている長篠城址史跡保存館にも貴重な史料が数多く展示されていたが、やはり有名人は鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)だろう:
ということで、この時のフォト集はこちら:
設楽原古戦場 (フォト集)
長篠・設楽原戦没者碑めぐり (フォト集)
長篠城攻め (フォト集)