今となっては、一昨々年は平成27(2015)年の初秋に自身初の「奥州攻め」として、シルバーウィークを三日間の日程で福島県内に残る城跡を巡ってきた。
その二日目は自身初の訪問地である会津若松市の會津若松城跡の他に、その城下町やかっての會津藩に関わりの深い松平家や新選組にゆかりある寺院を巡ってきた。城跡だけでも十分に見所が多い上に、市内各所には名所・名跡が沢山あるので、当然ながら散見できる箇所は限られてくるが、少しでも多く巡れるように今回はレンタサイクルを活用した。これが結果的には大当たりで、飯盛山や会津さざえ堂には行けなかったけど個人的には満足している
。二、三日、会津若松に宿泊できるのであれば十分に機会はあるだろうが、実際のところ宿泊先はどこも一杯で、この時期にしては近場の郡山になんとか確保できただけ良かった方だ
。
ということで、限られた時間内に見て回って来たのは鶴ヶ城公園と蒲生氏の菩提寺の他に、会津藩ゆかりの名跡や新選組ゆかりの寺院、そして会津藩主松平家墓所と云ったところ:

会津若松市街図(Google Earthより)

会津若松市街図(コメント付き)
- 本光寺(ほんこうじ)には蒲生忠郷公の五輪塔がある。忠郷公は蒲生氏郷の嫡男・秀行の長男で、陸奥会津藩2代藩主。
- レオ氏郷南蛮館には再現された天主の間や呂宋茶壷(るそん・ちゃつぼ)などが展示されているらしい。
- 阿弥陀寺(あみだじ)には、會津若松城の本丸にあった御三階(現存)が移築されている他、新選組三番組組長・斎藤一(藤田五郎)の墓所がある。
- 興徳寺(こうとくじ)には蒲生氏郷公の五輪塔や、公の有名な辞世の句の碑がある。
- 直江山城守屋敷跡は、「日本の道徳教育の生みの親」とも云われた山鹿素行(やまが・そこう)誕生の地でもある。
- 日新館(にっしんかん)天文台跡は會津藩の藩校である日新館の天文台。校舎が戊辰戦争で焼失しているので、唯一の藩校の遺構である。
- 會津若松城(鶴ヶ城公園)と甲賀町口郭門跡については、こちらで詳しく紹介している。連休の秋晴れともあって、ホントに沢山の人達が訪れていた。
- 西郷頼母(さいごう・たのも)屋敷跡は幕末の會津藩家老の屋敷。頼母は會津戦争後、函館戦争にも参加した。
- 天寧寺(てんねいじ)は曹洞宗の寺院で、會津蘆名家の菩提寺であり、刑死した新選組局長・近藤勇の墓所がある。
- 會津藩主松平家墓所には会津藩2代藩主・保科正経(まさつね)公から9代藩主・松平容保(かたもり)公までが眠る御廟である。ちなみに初代藩主・保科正之公は猪苗代の土津(はにつ)神社に眠っている。
- 八角(やすみ)神社は會津若松城の前身にあたる鶴ヶ城の起源にあたり、會津蘆名氏の館があった。
- 飯盛山は云わずと知れた悲劇の場所である。滝山本陣跡やさざえ堂が近くにある
- 向羽黒山(むかいはぐろやま)城は會津蘆名氏を戦国大名にした中興の祖・蘆名盛氏の隠居城で、會津若松城の支城だった。こちらは、この翌年に会津若松市に宿を取って攻めてきた。
- 会津若松駅はJR磐越西線と只見線が乗り入れしている。今回の城攻めのスタート地点。
ここでは太字の名所・名跡について紹介する。
まずは会津若松駅。乗り入れはJR磐越西線とJR只見線、そして会津鉄道会津線。駅舎を正面からみると會津若松城の天守にある切妻造(きりつまづくり)の出窓みたいだった
:

会津若松駅
この当時は郡山から磐越西線を使ってきたが、今となっては只見線+会津鉄道会津線も乗車済み。実は、この翌年は平成28(2016)年の夏に向羽黒山城跡を攻めた際に、ここ会津若松駅から利用した。
こちらは駅前ロータリーに置かれていたオブジェで、白虎隊士の像と赤べこ:

白虎隊士の像

赤べこ
この時は駅舎の外にあるコインロッカーに荷物を預け、用を足してからそのまま北端にある駅レンタカー屋でママチャリをレンタルした(1日1,500円/当時)。
これは、駅前から国道R118へ向かう途中に目撃した地下道の出入り口は櫓風だった。石灯籠風の街灯もまた「城下町」って雰囲気があった:

櫓風の地下道の出入り口
この後は国道R118(神明通り)を南下して本光寺に立ち寄り、会津若松郵便局から国道R252に折れて七日町駅方面へ。で、これがレオ氏郷南蛮館:

レオ氏郷南蛮館
ここに到着したのが09:00ちょっと前だったが営業中ではなかった。なんと11:00にならないと開かないらしい
。ここには氏郷公が建てた會津若松城の七層七階の天守閣にあった天守の間が再現されていたり、戦国時代に流行した呂宋茶壺(るそん・ちゃつぼ)が展示されているらしいが、さすがに二時間も待つわけには行かないので訪問は次回にスキップすることにした。
で、このまま国道R252(七日町通り)を七日町駅へ向かって行くと會津戦争の戦死者が祀られている阿弥陀寺にたどり着く:

阿弥陀寺
この日は秋の彼岸であり「会津まつり」ともあって殉難者秋季祭典とか斎藤一忌記念講演会なんかが開催されていた。
こちらは本堂で、その左手前に新選組・斎藤一の墓所、その奥には會津若松城の本丸にあった御三階(おさんがい)が移築されている:

本堂
阿弥陀寺は慶長8(1603)年に蒲生氏郷公の嫡男・秀行の時代に、下野国(しもつけのくに)からきた良然(りょうねん)和尚が開山したと云う。
會津戦争の犠牲者が眠る、いわゆる東軍墓地。会津藩戦死者が埋葬できたのは阿弥陀寺と長命寺(ちょうめいじ)だけで、ここ阿弥陀寺には1300余の亡骸が埋葬されているのだとか:

會津東軍墓地
こちらが新選組隊士・斎藤一(藤田五郎)の墓所:

新選組隊士・斎藤一の墓所(拡大版)
斎藤一は壬生浪士組の時代から参加し、のちの新選組では副長助勤、三番隊組長として活躍、隊内では沖田総司、永倉新八、吉村貫一郎と並ぶ剣客で撃剣師範も務めた。鳥羽・伏見の戦いで負傷して會津若松城に入城した副長の土方歳三にかわって隊を指揮する。新政府軍が迫る中、會津中将・松平容保のため會津に残り土方と別れる。戊辰戦争後も生き残り、藤田五郎と名前を変えて大正時代まで生きた。後半生を會津人として生きた本人の希望により、ここ阿弥陀寺に眠っている。現在、彼の剣術の流派は無外流(むがいりゅう)とされている。享年72。
さらに、本堂裏には會津藩最強の武芸者の呼び名が高い黒河内伝五郎(くろこうち・でんごろう)と息子たちの墓(右手)もあった:

黒河内伝五郎の墓(右手)
伝五郎こと黒河内兼規(くろこうち・かねのり)は神夢想一刀流居合術の他に宝蔵院流槍術、柔術、手裏剣術、薙刀術、吹き針など武芸百般を極め、藩校日新館で武芸指南役を務めた。晩年は失明したが、「座頭市」を彷彿させるように武芸の技が衰えることはなかったと云う。會津戦争では長男は戦死、次男は負傷し、會津城下に新政府軍が攻めいった慶応4(1868)年に次男を介錯した後、自刃した。その際、頸を井戸に投げ込んで敵には渡すなと言い残したと云う。享年65。
右手の墓碑には伝五郎と二人の息子の法名が彫られ、左手の墓碑は母または夫人のものと思われる。
そして會津若松城の遺構(現存)として唯一残る現存櫓の御三階(おさんがい):

御三階(拡大版)
外観は三階建だが、内部は四階になっており、二階と三階の間に天井の低い部屋があるらしい。三階に上がる梯子は上から引き上げる仕組みになっており、当時は密議所に使用されていたとも。會津戦争の戦火で阿弥陀寺が焼失したために移築されて、長い間、本堂として使用されてきたらしく、正面の唐破風は本丸御殿の玄関の一部だったとか。
しかしながら、背面は傷みがかなり目立っていたが:

玄関の唐破風と葵御紋

背面
この後は再び国道R118へ戻り、蒲生氏郷公の墓所がある興徳寺へ。ここには松平容保が蒲生氏郷公「若松開市300年祭」で贈った歌碑が建っていた。公は二千首以上の和歌を残しているのだとか:

興徳寺に建っていた松平容保公の歌碑
”百年(ももとせ)を三たび重ねし若松乃 さとはいくちよ 栄え行らん”
興徳寺から鶴ヶ城公園へ向かってさらに南下していくと愛の文字が透かされた「直江兼続屋敷跡」なる案内板を見つけた:

直江兼続屋敷跡
ここは、往時は城下町の主要な道路である「本一之丁」と「大町通り」が交差する場所にあたるそうで、蒲生氏郷公が町割りして以来、重臣らの屋敷が置かれていたとか。慶長13(1598)年に越後から會津120万石で入封してきた上杉景勝は、筆頭家老の直江山城守の屋敷をここに与えたと云う。
が、この敷地内に入った先の石碑には「山鹿素行先生誕生地」と彫られていた
(分かるように、敢えて大きな写真にしてみた):

「山鹿素行先生誕生地」の碑(拡大版)
おそらく2つとも間違いではないであろう。初めは直江山城守の屋敷が建っていたが、関ヶ原の戦後に米沢に転封となって、それから20数年後の元和8(1622)年、山鹿町と呼ばれたここで山鹿素行が誕生した。彼の偉大な功績は思想家(儒学者・古学派)として「日本道徳教育の生みの親」としての働きであるそうだ。彼の教えは、のちに武士道精神につながる。この碑は、大正時代の東郷平八郎の書によるものらしい。
山鹿素行はのちに赤穂藩に仕え、忠臣蔵で大石蔵之助が鳴らす太鼓は、山鹿流陣太鼓と呼ばれた。
それから、更に国道R118を南下し、會津若松城の西出丸跡と水濠が見えてきたありに、もしかしたら通りすぎてしまいそうな石碑が建っていた。
ここが会津藩校・日新館跡:

会津藩校・日新館跡
会津藩の最高学府である日新館に、藩士の子弟は10歳で入学し学問や武道に励み、心身の鍛錬に努めたと云う。往時は、約8千坪の敷地に武道場や天文台、日本最古の「プール」と云われる水練水馬池があったと云う。現在、ここからかなり離れたところに忠実に再現された藩校があるらしい。
この場所の裏手(西側)には會津戦争で焼失を免れた藩校の施設・日新館天文台(会津若松市指定文化財)があった:

史跡・天文台跡(拡大版)
ここは、藩校・日新館の天文方の天文観測の場として設けられたもので、主として星の観測に使われたが、その他に冬至の日には学校奉行・天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を偏したところだったという。往時の規模は、この二倍はあったのだとか:

日新館天文台跡

日新館天文台跡
この後は、この日の目玉である會津若松城攻めへ:

日新館跡から眺めた天守(拡大版)
こちらはお昼を食べに「輪箱飯」の田季野へ向かう途中に見かけた會津藩家老・西郷頼母(さいごう・たのも)邸跡:

西郷頼母邸跡
新政府軍が會津若松城下に侵攻してくると、ここ西郷邸では頼母の留守を預かる妻やその一族の中で足手まといとなり恥辱を受ければ家名の恥になるとして、頼母の母をはじめ娘ら二十数名が自刃したと云う。これもまた會津戦争の悲劇の一つである。
遅いお昼を摂ったあとは、鶴ヶ城公園から東へ向かい県道R325(東山街道)に合流して、少し登った先にある萬松山天寧寺(てんねいじ)へ:

天寧寺の本堂
ちょっと長い階段を上がった先が本堂脇で、その前には境内案内図が建ち、ちょうど本堂裏の墓所入口があった。その入口前には、大きく「近藤勇之墓」という説明板が建っていた:

萬松山天寧寺・境内案内図(拡大版)
ここ天寧寺は會津蘆名家の11代当主・盛信の建立で、代々蘆名氏の菩提寺とされたが、のちに伊達政宗に攻められた際に焼失し、その面影は本堂の礎石に僅かに残るだけである。
境内には新選組局長の近藤勇(大久保大和)の墓所がある。近藤は戊辰戦争中に下総国(千葉県)流山で薩長に捕縛され斬首となった。享年35。亡骸は江戸の龍源寺に埋葬され、首級は京都の三条大橋下流に晒された。しかし、何者かが持ち去って、この會津の地に埋めたという伝説が残る。実際、土方歳三ら新選組の残党が會津で戦闘に参戦した際に、ここにある墓所を参詣したと云う。
また他に會津藩城代家老で、松平容保を命がけでかばい、会津戦争の全責任を負って切腹した萱野権兵衛長修(かやの・ごんのひょうえ・ながはる)と、彼の次男で郡長正(こおり・ながまさ)の墓所、そして田中家之の墓所があるそうだが、今回は時間が無くて参詣できなかった。
こちらが近藤勇の墓所(左手)。土方歳三が持参した彼の遺髪が眠っている。その右は土方歳三の慰霊碑。毎春4月25日の命日には墓前祭が執り行われているのだとか:

近藤勇の墓所と土方歳三の慰霊碑(拡大版)
そして脇には辞世の句が彫られた句碑が建っていた:

漢詩で作られた辞世の句(拡大版)
孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺劔 只將一死報君恩
天寧寺をあとにして再び県道R325に向かい、さらに会津武家屋敷の前を通って、さらに南下した:

會津武家屋敷
すると「国指定史跡・会津藩主松平家墓所」の案内板が見えてくるので、ここを左折して御廟へ向かうと「松平家塋域入口」(まつだいらけ・えいいき・いりぐち)の石碑があった:

松平家塋域入口

国道R325沿いにある
こちらは入口に建っていた案内板:

「国史跡・会津藩主松平家墓所」の案内図(拡大版)
「会津藩主松平家墓所」は会津若松市にある院内山(いんないやま)と、猪苗代町にある見禰山(みねやま)の二つの総称であり、後者は會津藩初代藩主である保科正之が眠っており、二代藩主・正経から松平姓に復名した三代・正容(まさかた)、そして九代・容保までが眠る、ここ院内山の墓所を「院内御廟」(いんない・ごびょう)と呼んでいる。院内御廟は約15ヘクタールの広さがあり、けっこう長い石段を上って行く。
院内御廟の入口には冠木門が建っていた:

院内御廟の入り口
この入口から頂部にあたる入之峰墓所(三代藩主から九代藩主が眠る墓所)までは石段となっていて、登りは20分くらいかかった:

入峰墓所へ向かう石段
こちらは藩主の墓所に向かって、それぞれ立ち並んでいた亀趺坐(きふぎ)。亀の形をした亀趺の上に乗る碑石には藩主の業績、表石には官職名と氏名、鎮石には霊神号(れいしんごう)が刻まれている:

亀趺坐(きふぎ)

亀趺坐(きふぎ)
こちら入之峰には東から三代・五代・六代・七代・九代藩主の墓所が横一列に並んでおり、それに合わせて亀趺坐も同じように並んでいた。ちなみに四代と八代の墓所は、この下の中丸山という段にある:

入之峰墓所
こちらが会津松平家の最後の当主・松平容保の墓所:

正三位・松平容保之墓(拡大版)
九代藩主で京都守護職・會津中将であった松平容保は会津戦争末期に滝沢本陣に進軍、そこで白虎隊を戦線に投入するも敗戦し若松城に撤退、籠城戦ののち、慶応4(1868)年9月に開城・降伏した。厳しい戦後処理のち明治26(1893)年に東京小石川の自邸にて死去。享年59。本来ならば、すぐにでも院内御廟に祀られるが、朝敵であったことで大正6(1917)年に、やっと他の藩主と同様の墓所が建てられた:

真新しい亀趺坐

九代藩主・松平容保
と云った感じで足早に回ってきたが、今回は残念ながら巡ることができなかった名跡が沢山あった。是非、また機会を作って訪れたい。
ということで、この時のフォト集はこちら:
會津若松の城下町 (フォト集)
會津にて新撰組ゆかりの地巡り (フォト集)