月別アーカイブ: 2017年5月

そば工房蕎花 川越札の辻店 − Grinded Homemade Buckwheat Noodle.

一昨年は平成27(2015)年の春、城攻めしに自身初めての埼玉県川越市へ行ってきた。その前日までは一ヶ月ほど広島出張があって、あちらは未だ春が訪れたばかりだったけど、こちらはとポカポカの陽気で、桜が見頃の季節に突入していた :)川越市は城下町の名残を残す「小江戸」のイメージしかなかったんだけど、実際に云ってみると天海僧正が住職を務めた由緒ある喜多院という大師もあったので、東武東上線の川越駅から城跡へ向かう途中に立ち寄ってみると、もう「花見」真っ盛りで大変な賑だった。ホント、江戸っ子はお花見が大好きだなぁ :D

近世城郭はすっかり宅地化されていて、本丸御殿(それも一部だけ)くらいしか見所がなかったので、早々に城攻めを終えて小江戸街を散策し、ちょっとランチタイムを外した時間にそば工房蕎花と云うお蕎麦屋さんで遅めのお昼を摂ることにした。

小江戸の蔵町・菓子屋横丁の近くにある小さな石臼自家製粉の手打蕎麦屋さんで野菜天丼がついた「どんぶりセット」を注文した:

どんぶりセット(880円)

この日は川越駅から川越城まで往復した上に、晴天だったので冷たいお蕎麦にして正解だった 8)。蕎麦はのど越しよく、美味しく頂けた。

そば工房蕎花 川越札の辻店
埼玉県川越市元町1-14-2


ここからはおまけ。

こちらが城攻めする前に立ち寄った喜多院:

星野山・喜多院

山門:

山門

どろぼうばし。その昔、喜多院と東照宮の境内は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、藩の町奉行の力が及ばない場所であったことを知った盗人が、当時は丸木橋だったこの橋を渡って境内に逃げ込んだ。しかし盗人は寺男らに捕らえられ、寺僧に諭されて改心した。厄除元三大師(やくよけ・がんさいだいし)に心から罪を許してもらえるように祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺は幕府に事の次第を報告して無罪放免の許しを得た。その後、元盗人は全く悪事を働くことなく真面目に一生を過ごしたと云う:

どろぼうばし

喜多院の境内:

桜が見頃だった

多宝堂と桜吹雪:

多宝堂

多宝堂と桜吹雪

慈恵堂:

慈恵堂

東照宮随身門。この門を潜った先は仙波東照宮:

東照宮随身門

まさに「The お花見」:

桜が似合う多宝堂

山門前に建っていた天海大僧正(てんかい・だいそうじょう)の像。喜多院第27世住職であり、会津高田(現在の福島県會津美里町)出身、江戸時代初期に喜多院を復興した。家康の信頼あつく、宗教政策の顧問としえ助言を行い、家康もまた度々、川越城と喜多院を訪れているのだとか。108歳で遷化(他界)した後、朝廷より慈眼大師の称号を賜った人物:

天海大僧正の像

川越のマンホール蓋は小江戸っぽく粋な纏(まとい)と川越の文字が描かれていた:

粋な纏(まとい)がデザインされていた

ということで、この時のフォト集はこちら:
See Also河越城攻め (フォト集)
See Also河越夜戦跡 (フォト集)

 

つたふじ 本店 − Onomichi Ramen, Tsutafuji.

一昨年は平成27(2015)年の春に広島出張があって、その最後の週末に三原市にある古高山城を攻めてきた。ここは、かの『筑前宰相』小早川隆景公ゆかりの城の一つであるが、自分にとっても想い出深い城の一つであった。と云うのも、これに先立った日、当初の予定では半日あれば攻略できると思っていたのだけれど、実は全国でも五指に入る程の広い規模を持つ山城だったようで、それを知らずに攻めたら途中で道に迷ってタイムアップとなり、仕方なく諦めてしまったと云う経緯があった :$。で最終週に、このまま出張を終えて帰えることはできないと思い再チャレンジしてきたと云う次第。流石に同じ轍は踏めないので、事前に情報収集して[a]インターネットでは、意外と自分と同じように道に迷ったと云う人が多かった。城攻めルートを確認し、時間を多めに見積もって攻めてきた:)

そして無事に城攻めを終えたら安心したのかお腹がすいてラーメンが無性に食べたくなったので、近場のご当地ラーメンを食べに尾道まで足を延ばしてきた。尾道もラーメンのメッカであるが、初めての尾道ラーメンは出張先の仕事仲間に教えてもらったのがつたふじというお店。時間帯問わずに行列必至のお店らしい :O。ちなみに、このお店、豚一家も完食していた、50年以上の歴史があるらしい:

これを拝むのにすごく時間ががかかった、「中華そば つたふじ本店」の暖簾

ということで城攻めを終えて最寄り駅の本郷駅から糸崎行きのJR山陽本線に乗り、人生初の尾道駅で下車。流石に観光の名所で週末の晴天ともあって沢山の人達がいた。このまま尾道水道沿いの風景を楽しみつつ20分ほど歩いて店の前に来てみると、やっぱりというか残念というか大変な行列だった:

オレンジ色の屋根が「つたふじ」

確か2:00pmを少しまわっていた頃だと思うけど、40人位並んでいた :$。この日は晴天で春先ながら暖かく、ここから一時間行列してなんとかお店に入ることができた。店に入る前に目に入った貼り紙:

諦めずに並んでおいて良かったと思った瞬間

店内は厨房を囲むような形のカウンターのみ。7人位しか座れなかったように記憶している。

席について、速攻で中華そば(大)+生卵を注文した(700円)。先ほどの貼り紙にあったけど、厨房に居た親父さん、腰が悪そうで結構キツそうだった ;(。ここはさっさと食べて出て行こうと思った。

そして中華そば(大)が登場した。肉に下に生卵が隠れている:

中華そば大+卵付き(700円)

麺はやわらかめでストレート。それほど多くはない背脂入りの熱々のスープ。早いとこ食べないと伸びちゃいそうってくらい熱かった。晴天の下で行列したので一気にスープを飲み干して完食してしまった:

ささっと完食!!

「ごちそうさま」とお代を渡して席を立つと、他の人達はまだ「ハフハフ」と食べていた。おいおい、親父さんも辛いんだし、これぐらいの熱さの中華そばをささっと食べないでどうすんのよ!? :D と内心思いつつ店を後にした。

そしてドアを開けて外に出てみると、まだまだ行列だった :O

巷のラーメンDBase のエントリはこちら

つたふじ本店
広島県尾道市土堂2-10-17


ここからはおまけ。

まずはJR山陽本線の尾道駅:

尾道駅

駅前の交差点で目撃した「おのみちバス」のレトロバス:

レトロバス(好きっぷライン用)

駅の目の前は尾道水道。水道の先は向島としまなみ海道:

しまなみ海道と尾道水道

尾道水道

尾道水道と造船所

つい先日観たブラタモリで知ったのだけれど、現在の尾道の市内のほとんどは埋め立てであり、その昔(と云っても江戸時代とか)は三つの山しかない坂だけの商人街だったとか。そのため海岸沿いの尾根筋が主要な道路だったようで、それが今の「尾道」の名前の由来なのだとか 8)

その急な坂のある山側を見ると、観光用に造られた通称「尾道城」が見えた:

千光寺公園に建つ天守閣風の建築物

これ以外にも山側にはいろいろ歴史的にも文化的にも貴重な建造物があったらしいが、この時は尾道ラーメン食べることしか頭になかったため完全に無視していた :P:

いつかは、ゆっくり登ってみたい

尾道駅近くの尾道商店街は西国街道の一部だったらしい(というのもブラタモリで知った):

西国街道の上に建つ商店街

こちらは尾道ではなく、広島市西区のとある住宅街で見かけた「焼あご入り出汁」の自動販売機。隣に置かれた飲料水の自販機に負けじと置かれていたが、それなりに需要があってのことなんだろうなぁ :D

ペットボトルに入った出汁の自動販売機

ということで、この時のフォト集はこちら:
See Also古高山城攻め(1) (フォト集)
See Also古高山城攻め(2) (フォト集)
See Also新高山攻め (フォト集)

参照

参照
a インターネットでは、意外と自分と同じように道に迷ったと云う人が多かった。

栃尾雁木の町並みと謙信公ゆかりの史跡 − Nagaoka Tochio Traditional Townscape.

今年は平成29(2017)年のGWに新潟県長岡市栃尾にある山城跡を攻めてきたが、ここ栃尾は「軍神」長尾景虎(後の上杉謙信)が幼少期と青年期を過ごしたゆかりの深い場所でもある。

かって平成18(2006)年までは新潟県「栃尾市」であったそうで、その後は長岡市に編入されて「新潟県長岡市栃尾町」となったらしい。この町はJR長岡駅東口からバスで凡そ50分ほどの場所にあり、「上杉謙信旗揚げの地」として観光ページも公開されていた。

晴天の中を標高227mほどの鶴城山(かくじょうざん)の山頂にある城址を堪能し、城攻めを終えて下山した後は帰りのバスの時刻までこの町をいろいろと巡ってきた。さすがにGWともあって、有名な常安寺や秋葉公園では栃尾てまりまつりを観にくる人や地元のイベントを楽しむ家族連れが多かった :)

こちらは昭和初期の頃の栃尾町だとか:

1/3000 栃尾町全図(拡大版)

図中、下の緑色の部分が秋葉公園で、その上にある大きな卍が常安寺である。ちなみに左下にある小さな櫓マークが栃尾城址である。

そして西谷川越しに見た栃尾城址。謙信がまだ長尾景虎と呼ばれていた頃、この城を取り囲んだ数倍もの兵力を持つ地侍連中を見事に撃退し、彼らを斬り従えたと云う:

栃尾城址

これが本丸にあたる実城から栃尾の町と、はるか彼方の粟ヶ岳(標高1292m)方面の眺め:

実城からの眺望(パノラマ)

雪国でもある栃尾の町は雁木(がんぎ)と呼ばれる一種の「生活道路」が有名らしい。長い冬の中で降り積もる雪や屋根から降ろされた雪が「生命線」である道路を埋め尽くされないように工夫したもので、現在でも目抜き通りの両側には雁木が続いていた:

大町の雁木通り

通りを挟んで両脇に雁木を建て、隣家と共同で生活道路を雪から守ると云う先人の知恵の凄さを改めて認識できた 8)

雁木

雁木通りの始まりは、今から300年ほど前だとかで、栃尾の大町付近の役所街にあった十数軒の並びだった。それから150年ほどで役所街全体が雁木通りとなり、谷内の商店街でも雁木が採用された。そうして総延長4㎞におよぶ雁木通りができたのは、谷内通りを中心に500軒以上の商店が軒を連ねていた明治の頃だと云われている:

表町の雁木通り

こちらは表町雁木通り沿いにある栃尾城址の岩神口にあたる出入口:

城山登り口

表町雁木通り

大町の雁木通り、諏訪神社横にあった蔵元の越銘醸(こしめいじょう)。日本酒は飲めないけど、ここは大吟醸・越の鶴が一番の銘柄だとか:

越銘醸(酒蔵)

西谷川を渡って先の谷内地区の丘陵にあるのが秋葉神社と秋葉公園:

秋葉公園

秋葉公園内にたたずむ秋葉神社は、天文20(1551)年に常安寺の守護神として上杉謙信公が楡原の蔵王堂より遷したと伝えられており、火伏の神として名高く「火坊日本総本廟・秋葉三尺坊大権現」として多くの崇敬を集めているのだとか。園内には石川雲蝶の社殿彫刻の他に、上杉謙信公の坐像もあった:

上杉謙信公の坐像

この台座にある「謙信公」の文字は故・田中角栄氏のものらしい。

園内をぶらぶら歩いていると「よしみや食堂」と云う売店があったので思わず玉こんにゃく(100円)をつまんでしまった:

玉こんにゃく(100円)

そして秋葉神社の参道から127段の石段をを下った所には常安寺があった。天文16(1547)年に長尾景虎(のちの上杉謙信公)によって創建され、瑞麟寺5世・門察和尚が開基で、後奈良天皇より勅額を賜った名刹でもある:

常安寺の山門

常安寺の社殿

常安寺から谷内の雁木通りへ向かう途中に、地元の人達主催の屋台なんかがあったので、ついつい生ビール(400円)と栃尾町のゆるキャラである「あぶらげんしん」の形をしたクリームオヤキ(120円)を購入して一休みした:

「あぶらげんしん」のクリームおやき

そんな場所に本物の「あぶらげんしん」が登場してきた。その姿は栃尾名物「あぶらげ」(油揚げ)&栃尾ゆかりの武将「上杉謙信」が融合した人気者だった:

あぶらげんしん=「あぶらげ」+「上杉謙信」

それから谷内雁木通りの商店街にあった「あぶらげ」の老舗・桝忠油揚店で油揚げ(巨大な油揚げ10枚入り1800円)のお土産を購入した:

桝忠油揚店

常安寺で入手した観光ガイドには米沢から位牌を分霊した謙信廟なるものが栃尾美術館の敷地にあるとかで、再び127段の石段を登って秋葉公園の先にある美術館へ向かった。美術館も坂の上にあるので、結構キツかったが0:)

そして美術館の敷地に入るとまず謙信公の騎乗像が建っていた:

上杉謙信公の騎乗像

こちらの台座に刻まれた「上杉謙信公」の文字は、某大河ドラマ「天と地と」で謙信を演じた石坂浩二氏のものらしい。

そして、こちらが謙信廟。そして、その脇にあるのが門察和尚のお墓:

謙信廟と門察和尚のお墓

常安寺を開山した門察和尚は謙信公の幼少時代・虎千代の時の学問の師で、当時は比類なき学識を謳われた御仁であったとか。

ということで、この時のフォト集はこちら:
See Also謙信公ゆかりの史跡 (フォト集)

レストラン ナカタ − Western Style ‘Katsu-Don’ as a Nagaoka Soul Food.

今年は平成29(2017)年のGWは「越後攻め」で、四日目は「越後の虎」こと上杉謙信の幼少期と青年期にゆかり深い長岡市栃尾にある栃尾城跡を攻めてきた。

この栃尾は、後に「聖将」として知られることになる謙信公が林泉寺の修業とはおよそ180度異なった弱肉強食の戦国乱世で、胸せまる葛藤から「義」の精神を大悟し、整斉(せいせい)たる戦法を駆使して、軍神たる風貌と絶対的なカリスマ性によって国内を統一する足がかりとなった土地である。

この日は前日同様に、早朝7:00amに新潟から信越本線を1時間半近くかけて長岡駅まで移動し、東口のりばから越後バス快速(新榎経由)の栃尾線に乗り、中央公園前と云う停留所で下車した(当時560円)。そこから登城口まで移動し、標高227mの鶴城山(かくじょうざん)に造られていた栃尾城址をたっぷり時間をかけて攻めてきた。途中「本丸」にあたる実城跡にはたくさんのミツバチが飛来していてかなり驚いたが、特に攻撃されることは無かった :)。それから下山して「雁木の町」や謙信公ゆかりの場所などを巡り、ビールを飲んだり、お土産に栃尾の「あぶらげ」(油揚げ)を買ったりして、バスの時間まで楽しい一時を過ごすことができた

そして4:00pm位のバスで長岡駅まで戻ってきた。そこから宿のある新潟まで戻る前に、ここ長岡で、その昔に豚一家が完食していた洋食屋で食べて行くことにした。

こちらがレストラン・ナカタの入口で、店自体は2Fにある。若干わかりづらい場所だったので道に迷ってしまったが無事に到着した:

レストラン ナカタ

2Fへあがったところの店構えは、こんな感じ:

レストラン ナカタ (2F)

店内は、ホント洋食屋と言った感じで落ち着いた雰囲気だった。洋食屋なので肉メインでいろいろなメニューがあったが、ここは豚一家が食べていた「長岡ご当地B級グルメ」の洋風カツ丼コース(デミグラスソース)にした:

洋風カツ丼のデミグラスソースのコース(1370円)

味付けがデミグラスの他にケチャップベースもあって、あとで知ったのだが豚一家はケチャップベースの方を完食していたようだ。二つのソースを一度に楽しめるハーフ&ハーフもあったのでかなり迷ったが、帰りの高速バスの時間が迫っていたので、急ぎ注文して食べてきた。

もう少しライスが多めであればよかったが、普通に美味しかった。デミグラスソース?はちょっとよく分からなかった。もうちょっと濃ければよかったかなぁ :O。そしてコースの最後にデザートを頂いた:

この日のデザートはプリン

これは素朴に美味しかった ;)。最後に諄いけど、やっぱりケチャップベースにしておけば良かったかなぁと悔やんだが足早に店を出て長岡駅大手口へ向かい、6:00pm発の高速バスに乗り込んで1時間半かけて宿泊地の新潟駅まで移動した(当時片道980円)。前日はJRで戻ったが、この日は栃尾城攻めの最中に山菜採りに来ていた地元のおばちゃんが教えてくれた高速バスにした。こちらの方が160円ほど安かった。時間はかかるけど。

レストラン ナカタ
新潟県長岡市坂之上町2-3-6


ここからはおまけ。

こちらが越後バスで下車した栃尾の中央公園前付近。正面に見える丘陵が栃尾城跡:

越後バスの中央公園前停留場

右手が公園で、ありがたいことにトイレがあった。この日も城攻めする前にしっかりと用を済ませておいた :D

こちらは長岡駅西側の山本五十六記念公園なる場所に建っていた山本元帥の胸像。ここは山本元帥の生家(高野家)が復元されていた場所で、レストラン ナカタを探しているときに道に迷って偶然見つけた:

山本五十六元帥の胸像

元帥は旧長岡藩家老である山本家の名跡を継いだ人物(旧姓は高野)だったということを初めて知った。

ということで、この時のフォト集はこちら:
See Also栃尾城攻め (フォト集)
See Also山本五十六元帥の生誕地 (フォト集)

越後長岡小嶋屋 本店 − A Niigata Local Dish Hegi soba.

今年は平成29(2017)年のGWは「越後攻め」で、三日目は某大河ドラマの主人公としても知られる直江山城守兼続公の居城であった与板城と、その近くで直江一族の居城でもあった本与板城などを攻めてきた。本当は前日に攻める予定だったのだけど天候が思わしくなかったので予定を変更した。やっぱり山城は晴れの日に攻めないと :)。そして、この日から三日連続で新潟県長岡市を中継して、長尾景虎こと上杉謙信公にゆかりある山城を攻める予定で、まずはその初日と云うことで。

この日は早朝7:00amに新潟から信越本線を1時間半近くかけて長岡駅まで移動した。この駅の西口にあたる大手口[a]JR長岡駅は長岡城址でもある。へ移動して、12番のりばから与板方面へ向かう越後バスに乗り上与板と云う停留所で下車した(当時450円)。そこから「城山(じょうやま)」と呼ばれている与板城址へ向かった。その途中、天地人通りと呼ばれる遊歩道[b]これも某大河ドラマの副産物らしい。前にトイレ付きの立派な道の駅があったので、しっかりと用をすまして万全な体制で城攻めしてきた。

その与板城址では集団でトレッキングしていた地元の中学生らと遭遇し挨拶合戦で応酬した。結局彼らとは今日一日、街のアチラコチラで挨拶の応酬をすることになった;)。そして与板城跡を攻略した後、お昼を摂ろうと予め見つけておいたお店へ行って見ると定休日で閉まっていた:O。「えっ!?」ちゃんと確認したんだけどなぁと訝しく思ったが、それは「昨日」のことであり、自分が予定を変更したことが仇になってしまったようだ;(。とはいえ今日からGWが始まると云う日なのに定休かよぉ!と思ってしまったが[c]いや自分のせいであることは十分に分かっているのだが・・・。。周囲を見ても御食事処が見つからなかったので、仕方なくお昼を摂るのを諦めることにした。と云っておきながら、実はこの店に来る前に同じ商店街にある「大判屋」という店の前を通り過ぎた時に、焼きたての良い匂いに負けてクリーム入りのオヤキ(120円)をついつい頬張ってしまっていたのだが :D。そういうことで、この後は与板陣屋跡と本与板城址と歩きまわって攻略してきた。それから帰りのバスが来るまで兼続お船ミュージアムこと与板歴史民俗資料館で時間をつぶすことにした。

帰りは与板仲町と云うバス停から越後バスで長岡駅へ。駅に着いたのが5:30pm過ぎで、流石にお腹が空いていたので、駅近くの越後長岡小嶋屋なるお蕎麦屋さんで越後名物の「へぎそば」と「タレかつ丼」の「合わせ」を頂くことにした:

皇室献上・越後長岡 小嶋屋 殿町本店

席にとおしてもらって落ち着いちゃうと、やっぱり今日一日の疲れを癒やすために生ビール(584円)が欲しくなった。さらに今日の一品なる献立から、(明日攻める予定の)栃尾町の名産である厚揚げ(ハーフ、432円)も併せて注文してしまった :D

栃尾油揚げハーフ(432円)

これはビールにも合うし、素晴らしく美味しい食べ物だった。その巨大でぶ厚い油揚げは、中央にねぎ味噌や梅肉が挟んであった:

栃尾油揚げ(梅肉)

栃尾油揚げ(ねぎ味噌)

主食が来る前に既に満足した感が強いが、頃合いを見て、へぎそばとミニ・タレかつ丼のセット(1586円)が登場:

へぎそばセット(1586円)

へぎそばは越後魚沼地方の名品の一つで、つなぎに布海苔(ふのり)という海藻を使った蕎麦を、ヘギという独特の器に盛ったものらしい。この蕎麦は喉ごしが素晴らしかった。

そして既にこのGW越後攻めの初日に食べているが、温かいタレかつ丼(ミニ)もまた美味しかった:

へぎそばセット(1586円)のタレかつ丼

越後長岡小嶋屋 本店
新潟県長岡市殿町2-2-9


ここからはおまけ。

これが与板町の「与板・天地人マップ」。兼続公と公の妻であるお船ゆかりの町である:

長岡駅大手口の12番のりば前にあった案内板(拡大版)

こちらは与板城を攻める前に用を済ませた「天地人通り」のトイレ:

天地人通りにあったトイレ

この通りには、他に観光案内所なんかの他、兼続公とお船さんゆかりの門が建っていた:

天地人通りの北端にあるお船門

本与板城跡へ向かう途中に見かけた三国街道(みくにかいどう)。ここには江戸時代の与板宿があった。中山道の高崎から北陸街道の寺泊へ至る街道で、その昔は上杉謙信が関東遠征の際に利用したんだと云う:

三国街道

三国街道と県道R274の合流点

こちらは与板陣屋跡にある長岡市与板支所の前に建っていたゆるキャラのよいたん:

与板のよさと愛を届ける男の子「よいたん」

こちらが城攻めで助かった大判屋のクリーム入り大判焼き。焼きたてのホヤホヤでクリームが一杯だった:

大判屋の大判焼き(120円)

与板は国産麦酒(ビール)の醸造に携わった中川清兵衛の生まれ故郷だった。彼がサッポロビールの生みの親である:

日本ビールの生みの親・中川清兵衛生誕地の碑

こちらは旧黒川と与板河川緑地たちばな公園:

旧黒川と与板河川緑地

ということで、この時のフォト集はこちら:
See Also与板城攻め (フォト集)
See Also与板陣屋・與板城攻め (フォト集)
See Also本与板城攻め (フォト集)

参照

参照
a JR長岡駅は長岡城址でもある。
b これも某大河ドラマの副産物らしい。
c いや自分のせいであることは十分に分かっているのだが・・・。