今年は平成29(2017)年の春近い週末に神奈川と静岡の県境に残る足柄城址を攻めてきた。この城は、その名の通り足柄峠に造られ戦国時代まで存在していた城で、他には奈良時代から古東海道として利用された足柄道が通っていた場所でもある。鎌倉時代には今東海道(いま・とうかいどう)の本路になる箱根路の隆盛により廃れたが、別名を矢倉沢往還と云って一時は関所が設けられる程であったという。
今回の城攻めに際しては公共機関のバスで足柄峠を登る予定であったが、現地に着いて途中からバスが運行していないことが判明し、残りの道程は徒歩で登ることになってしまった。まぁ、そのおかげで足柄古道の存在を知り実際に歩くことができたのだけれども。
で、今回利用した古道は地蔵堂から足柄城跡があるところまで:
足柄古道案内図(拡大版)
地蔵堂から城址までの上りは、途中まで古道の存在を知らなかったため、こんなアスファルト舗装の足柄街道(R78)をひたすら登っていった。40分ほど登って「見晴台」というバス停前にあった四阿(あずまや)で一休みした際に、上の案内図を見つけて足柄古道の存在を知り、無事に短時間で城攻めすることができた:
足柄街道(県道R78)
上りは城攻めの予定時間のことを気して黙々と登り続けたが、下りは帰りのバス時間まで余裕があったので、ゆっくりと風景を眺めたり、寄り道したりして地蔵堂まで戻ってきた。ちなみに時間でいうと上りは45分程、下りは60分ほど。ということで、ここで紹介するのは足柄峠から地蔵堂までの下りの道程。
まずは足柄峠から。足柄峠に関する古文書の記録は古く、例えば景行43(113)年に倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東征の帰路、相模湾を渡った際に亡くした妻を嘆いてここ足柄峠で「吾妻はや」(あゝわが妻よ)と詠んだとか、天慶2(939)年には平将門が乱を起こし、足柄と碓氷の関を支配下に置いたとか、寛治元(1087)年には新羅三郎義光が後三年の役に際し、ここ足柄峠で露営し、兄義家のもとに向かっただとか、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原仕置では徳川家康が足柄峠を越えて小田原城の寄せ手に加わるだとかあるらしい。
そして、これはその昔、足柄峠にあったという「足柄の関」跡。平安時代の昌泰2(899)年、足柄坂に出没していた野盗らを取り締まるために設けられた関らしく、ここを通過するには相模国の国司が発行する通行手形が必要で、鎌倉時代に箱根道が開通するまでここ足柄峠は東海道最大の難所であったと云う:
古代の「足柄の関」跡
この効果は抜群だったらしく、この関跡の脇には取り締まった野盗や悪党らの首塚があるほどだったらしい。、それから一年後に関は撤廃されたらしいが、鎌倉時代の「源平盛衰記」によれば、源平の動乱の時期には臨時の関が設けられていたそうだ。
これは関所跡の側にあった「おじぎ石」。関所を通過する通行人が、この石に手をついてお辞儀をし、手形を差し出したと云う:
おじぎ石
関跡と足柄街道を挟んで向かいには足柄山聖天堂(あしがら・しょうてんどう)がある。弘法大師の開基と伝承され、現在は曹洞宗の寺院で、御本尊は「大聖歓喜双身天」。浅草聖天、生駒聖天と合わせて日本三体聖天尊として数えられており、商売繁昌、縁結び、厄除け、開運を示し表すと云う:
足柄山聖天堂
こちらは聖天堂前にあった御神木と、足柄山の金太郎の像:
聖天堂前にある御神木
足柄山の金太郎
そして関跡から現在の街道沿いに東へ少し行った所に足柄道に入る口があった:
足柄古道
この足柄道(矢倉沢往還)は、今から約1200年前の奈良・平安時代にあった官道で、西の都から遠江(現在の静岡)へ、さらに御殿場からここ足柄峠を越えて坂本(現在の関本)を通り、小総(現在の国府津)から箕輪(現在の伊勢原)、そして武蔵(現在の神奈川県と東京都)へ続いていた。延暦19(802)年に富士山が噴火して足柄道が埋まってしまった時は、御殿場から箱根へ出て碓氷峠から明神を越えて関本に下る碓氷道が利用されたが、古代の官道の殆どは足柄道であった。その後、鎌倉時代以降は今の東海道が主流となり、足柄道の往来も少なくなってしまったとか。とはいえ、南足柄地方は京から関東に入る玄関口でもあったので、中央の文化がもっとも早く伝わる場所でもあった。
この入口から下りていくとすぐに足柄明神社との分岐点があった。この足柄明神社が建つ場所は足柄城の明神郭(みょうじんくるわ)跡であり、1500年以上も前からここ足柄の開拓者が足柄明神を産土神(うぶすながみ)として祀ってきた元宮の地である:
足柄明神の入口
こちらが、明治6(1873)年に建てられた足柄明神の祠。「古事記」によれば足柄明神は、東国平定の帰りに立ち寄った倭建命(ヤマトタケルノミコト)を白い鹿となって襲ったが逆に討たれた坂の神で、坂東人の誇りを守った古代の英雄であった:
足柄明神の祠と足柄明神の白鹿立像
足柄明神の鳥居
足柄明神は天慶3(940)年に創建されたとされ、のちに矢倉岳に遷座して矢倉明神と改名した。その後、苅野に移転し、足柄上郡十八ヶ村の鎮守となり、昭和14(1939)年に足柄神社となった。祠の奥に見えるのは、この明神が変化した白鹿の立像で、近くの高校生が作ったものらしい。また、鳥居には「茅(ち)の輪くぐり」と云う無病息災を願うくぐり方があった。
さらに、この社の前からは南足柄市を望むことができた。左手に見えるのは矢倉岳(標高870m):
明神社前から南足柄市の眺望
案内板には「横浜のランドマークタワーから房総・三浦半島、江ノ島・酒匂川(さかわがわ)、大涌谷(おおわくだに)・金時山までの旧五ヶ国を展望できる景勝地である」とあったが、本当だろうか:
南足柄市の眺望(拡大版)
明神社を後にして足柄古道へ戻り峠下りを再開した。時々巨岩がむき出しになっているところがあったが、流石に元は街道ともあって、特に想像していたほど急坂はなく安心して下りることができた:
巨石が横たわる足柄古道
ゆるやかな坂道の足柄古道
ゆるやかな坂道の足柄古道
しばらく下りていくと、なにやら案内板が建つ場所にたどり着く。ここには「源頼光の腰掛け石」や「金太郎の金ぶた石」を見ることができた:
足柄街道
ただ残念なことに案内板の文字は消えて全く読めなかったけど。
この「源頼光の腰掛け石」は、平安時代中期の武将である源頼光(みなもとのよりみつ)が総州太守の任期を終えて都への帰途に、ここ足柄峠を越えて休息した場所らしい。頼光は清和源氏三代目で、御伽草子(おとぎぞうし)などの物語では、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)と共に酒呑童子退治や土蜘蛛退治などの伝説が残っているらしい:
「源頼光の腰掛け石」
「源頼光の腰掛け石」
これは「金太郎の金ぶた石」なるものらしい。説明がなかったので、どれが石なのか全くわからなかった:
「金太郎の金ぶた石」
「金太郎の金ぶた石」
たまに岩がごろっと横たわっていたりする:
足柄古道
と思ったら石畳があったりする:
足柄古道
そして、ここが「見晴台」停留場で現代の足柄街道。当時は、季節運行のためバスは走っていなかった。四阿(あずまや)の他に古道の説明板があった:
見晴台停留場
奈良時代に官道として東西を結ぶ重要な道路であった足柄古道は、のちに足柄道(路)と呼ばれていた。九世紀初めに起きた富士山の延暦噴火で、足柄古道は一時通行が途絶え、箱根声の路が利用されたが、噴火が止んだ一年後には復旧したという。徳川家康が幕府を開くと箱根声の路が東海道となったが、この古道はその脇往還である矢倉沢往還となり、物資の輸送や富士講の人々で引き続き賑わったと云う。
ここからは少し足柄街道を下って行き、再び古道に入った。以後は、こんな感じで足柄街道と付きつ離れつつして下りていくことになる:
足柄古道
尾根に沿ってできた古道を下りていく:
足柄街道(拡大版)
ちょっと大きめの旧坂がある:
足柄古道
それでもゆっくりと景色を眺めて下りてきた:
足柄古道
現代の足柄街道はくねくねした車道のため、それをショートカットするように古道が延びているので、注意しながら街道を横切った:
足柄古道
たまに下り道を見上げると、こんな急坂だったりする:
足柄古道
街道を横切った向こう側に新しめの案内板もあった:
足柄古道
古道とは言えよくよく整備されていたのでトレッキング気分で歩くことができる:
足柄古道
こちら、下り最後の古道の入口と思ったら行き止まりだった。なので、しばらく足柄街道である車道脇を歩くことになった:
足柄古道と足柄街道
晩春に近づいていた時期ではあったが、ここ足柄峠はまだまだ肌寒い空模様だった:
足柄峠から眺めた空
しばらく歩くと矢倉沢郷が見えてきた。この辺りまで下りて来ると、地蔵堂まであともう少しである:
矢倉沢郷
矢倉沢郷
地蔵堂まで最後の足柄古道。足柄街道とほぼ平行に歩くことになった:
足柄古道
この辺りからは矢倉岳も綺麗に見えた:
矢倉岳
舗装された古道を地蔵堂へ向かて歩く:
足柄古道
神奈川県の矢倉沢郷ではお茶も作っていた:
矢倉沢郷の茶畑
そして終点の地蔵堂へ到着した。この後は万葉うどんを食べて冷たくなった体を暖めた:
地蔵堂
登山道といった程ではないけれど整備された古道は歩きやすく、車が無くても問題なく峠を登ることができた。ということでバスが無くて最初はどうしようかと思ったけど、結果的にバスに乗れなかったことが良い機会となった。
足柄古道散策 (フォト集)