一昨年は平成27(2015)年の初めに仕事で大阪まで出張する機会[a]それも大坂城のすぐそば。この出張は大変有意義だった。があり、自身としては二度目[b]一度目は高校時代の修学旅行だった。となる京都で、今から400年以上も前に起こった「本䏻寺の変」にまつわる織田信長のゆかり地を巡ってきた。午前中は旧本能寺で亡くなったとされる織田信長公と主従らの墓所や公の菩提寺などを見て回ってきた。残念ながら大部分が拝観謝絶だったが、それでも他の戦国武将の菩提寺や自身としては人生初めてとなる「本物の」日本庭園を見ることができた。
午後は京都御所近くにある旧二条城跡や旧本能寺を見る予定だったので、地下鉄烏丸線で丸太町へ。お昼にはちょっと早かったが、今回の出張で大阪の人に勧められた京都御所近くにある洋食屋で「ピネライス」なるものを食べることにした。ピネライスは京都人で知らぬ人はいないB級グルメらしい。ということで丸太町駅から広大な敷地を持つ京都御所を横切って丸太町通りと河原町通りの交差点近くにある洋食屋キッチン・ゴン 御所東店へ。肉系の洋食屋ということでメニューを見るとステーキやハンバーグが主流。ピネライスの方はと云うと、なにやら味付けいろいろあるようで、午後もしたすら歩き回る予定だったので今回はノーマルなピネライスではなくガーリック味の「テキ」が上にのっているテキ・ピネライスを選択してみた:
この「テキ」はステーキの略らしい。こちらは数量限定だった。一般的なピネライスは、カウンター席の両脇の人が食べていたのをみるとカツカレーのようだった。まぁこっちはこっちで、がっつりと肉と炭水化物でエネルギーを補給することができた。ちなみにご飯はチキンライスではなくチャーハン。不思議と福神漬けの相性が良かった:
キッチン・ゴン 御所東店
京都府京都市上京区河原町通丸太町下るオーキッド山下1F
ここからはオマケ。
こちらは上京区上御霊前通り近くにある御霊神社(ごりょうじんじゃ)。信長公の墓所がある阿弥陀寺へ向かう途中にあった:
この神社は、応仁元(1467)年に畠山政長が御霊の森に陣をおき、畠山義就と戦いを交えたのが応仁の乱の発端となった場所らしい。大乱のわりには小さな碑だった:
こちらが応仁の乱勃発の地の由緒。この乱は室町時代は応仁元(1467)年に勃発し約10年間続いた上に、京の都が灰燼に帰す元凶となった守護大名同士の内乱。その後、応仁の乱は地方にも飛び火し、関東でも古河公方と関東管領上杉氏、太田道灌、長尾景春、伊勢新九郎(北条早雲)らを巻き込んだ騒乱に影響を与えた。そして日の本の国は下剋上による戦国時代に突入していった…:
そして、こちらは信長公の菩提寺である大徳寺・総見院へ向かう途中、堀川通り沿いで偶然にみかけた紫式部の墓所:
平安時代中期の学者で女性作家、歌人。源氏物語の作者と考えられている。本名は不詳で、「式部」は官位と云われている。また没年も不詳で、現在伝わるのは全て推定なのだとか:
紫式部の墓所の隣には小野篁(おの・たかむら)と云う平安時代の公卿で文人の墓もあった:
最後に京都御苑。と言ってもキッチン・ゴンへ行く際に横切っただけだけれど、砂利の道を歩いていると不逞浪士が居ないかついつい周囲を気にしてしまう[c]お前は壬生浪士か?:
こちらが京都御所の南門にあたる建礼門。檜皮葺、切妻造の四脚門である:
こちらは仙洞御所附近。江戸時代の始めに皇位を退かれた後水尾上皇の御所として建てられた。現在は庭園になっている:
全ての御門を見てきたわけではないけれど、旧二条城の敷地近くには、かの有名な蛤御門があった:
元治元(1864)年、この門の周辺で長州藩と御所の警護にあたっていた會津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われた(禁門の変)。名前の由来は、江戸時代の大火で、それまで固く閉じられていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」にたとえて蛤御門と呼ばれた:
門の梁には、禁門の変(蛤御門の変)当時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っている:
ということで、この時のフォト集はこちら:
織田信長公墓所と本能寺の変 (フォト集)
大徳寺散策と細川家墓所 (フォト集)