オープンソース

謹賀新年 by Inkscape.

Inkscape-0.40 で SVG レンダリングしたけど、結局 PNG へエキスポートした。全く意味がない :0:
A_Happy_New_Year_2005.png
行書体の日本語フォントで縦書き、特に難しい操作ではない。でも、なんかもっと絵 figure らしいものをレンダリングしてみたいけど、結構テクニックが必要ぽいなぁ。どこかチュートリアルなんかないものか。
GIMP よりもシンプルに作画できるので、来年あたりはこれで年賀状でも書いてみようか。

BLK_DEV_UB and usb-storage on linux-2.6.9.

Kernel をアップグレードした際に、CONFIG_BLK_DEV_UB をモジュール化していた。そのため、USB ストレージ系のメディアを plugin すると、次のようなログが延々と吐き出されていることに気づいた:

uba: tag orig 0x5 reply 0x4
uba: made changed
uba: tag orig 0x6 reply 0x5
uba: device 2 capacity nsec 50 bsize 512
uba: tag orig 0x7 reply 0x6
device 2 capacity nsec 50 bsize 512
uba:end_request: I/O error, dev uba, sector 4
Buffer I/O error on device uba, logical block 2
end_request: I/O error, dev uba, sector 6
Buffer I/O error on device uba, logical block 3
end_request: I/O error, dev uba, sector 0
...

もちろん、USB ストレージとしてマウントすることもできないし、あげくには oops を吐いてクラッシュした。いろいろ google で調べてみたら、このモジュールが usb-storage.ko に代わってデバイスを低レベルでトレースしているらしい。ふm。普通の distributions では、この設定を無効にしているのか。
参考 URL: /dev/uba errors

JGUG 活動とこれから (その3).

日本語メッセージ翻訳という作業をとおして、得られたこと、そして考えさせられたことは大きいものがある。
英語の学習はもちろんだけど、一番大きなものは技術的な要素とそれに対するグローバル見方 (世界観) だろうと思う。
日本語のメッセージを新規に翻訳したり更新する前に、そのパッケージをビルド・インストールする。コンパイル・エラーや別のパッケージとの依存性の問題に遭遇することが多々ある。これを解決しないと翻訳作業に移れないので、パッケージをとりまく技術的なこと、たとえばツールチェイン (gcc とか glibc とか) や Kernel (デバイスとか)、他のライブラリやツール、バインディングに必要な他のプログラミング言語、そして自分が利用するシステムの構築に関わること全て (バージョン管理とか、必要性の有無とか) に触れる機会が多い。単にアプリケーションのメッセージを翻訳するという作業に、それに付随する専門技術 (ネットワークとか画像処理とか)、それも Kernel-land から User-land までという広範囲も渡る技術知識が要求されるわけだ。また、多くの翻訳メッセージはユーザインタフェースに関連することなので、インタフェースの善し悪しを決める日本語そのもの (用語、用法、表現方法) についても考慮しなければならない。こうなると、単なる英語から日本語への変換作業ではない訳だ。
特にリファレンスマニュアルなどを翻訳していると、翻訳ではなく勉強や調査に近いものがある。
2003年以降、日本語メッセージ翻訳作業をとおして、こういう知識を習得するうちに、翻訳作業ではなく技術の詳細に感心が移ってきた。対して、メッセージの日本語翻訳に対する思い入れはだんだんと薄れていく。それでもなお、日本語翻訳作業を続けてきた理由、たとえ一人で作業を背負うことになってもやり抜いてこられた理由は、一体何だったんだろう?と考える。前述の作業や学習を、それこそ完璧にこなす必要があったのだろうかと。
従来どおり日本語化を促進し、品質向上を計りたかったからか?、JGUG の幹事として活動を公開したかったからか?、日本語コーディネータとしての責務からか?
それとも、単なる自己満足からなのか?
おそらく全てが正解だったように思う。一つのモチベーションが尽きたら、別のモチベーションで上げていくしか無いからだ。そいういう意味で言えば、JGUG というコミュニティは、自分にとって一つのモチベーションの要でもあった。
似たような悩みやベクトルを持ち、いろいろ議論したり、具体的にアクションを起こしたりするのがコミュニティではないのかと言われそうだけども。しかし悲しいかな、JGUG の会員らでそういう話をする場もなく、幹事らで集まってコミュニケーションを行うこともなくなった。
JGUG は非営利団体であり、サーバの運営費とか作業を個人が負担して行っているわけで、その他にも仕事とか生活とかあり、そういうことを前提に全てスムーズに会を運営していくのは難しいものと理解はしている。
しかし、誰も大ぴらに叫ぶことなく、また自分から提言することもできただろうに、それを行うことも無かった。
とはいえ、会話は必要だったと思う。

JGUG 活動とこれから (その2).

JGUG のメンバと実際にお会いしたのは、日本Linux協会11月セミナー 〜GNOME関連情報〜 の場だったと思う。この前の月に開催された JGUG発足1周年記念 の宴会の場には、都合で参加できなかったので、実際にコンタクトし話をしたのはこれが初めてだった。
それをきっかけに、年末の JGUG忘年会 には参加し、メール等ではお目にかかれなかった多くのメンバにお会いできたこともあり、JGUG 活動がいっそう身近に感じられた。GNOME の日本語にまつわる問題や課題について知る機会もあり、意見交換もできて楽しかった。
そういう意味で、企業の distributor の一人として、もっとコミュニティをバックアップしたいという念も大きくなり、会社のメンバも誘ってリファレンスマニュアルの翻訳作業を始めたのも、この頃だ。
翌年の二月には JGUG も オープンソースまつり 2001 in 秋葉原 に参加することになり、自分が幹事となって、デモや BOF などの準備、機材の調達/搬送などを行った。昨年の忘年会で知り合ったメンバの協力もあり、デモ展示は盛況だった。BOF の一般参加は少なかったが、初めての経験でもあるので新鮮だった。このイベントでは、会社から多くの面で協力を取り付けてもらった点でも、企業とコミュニティとの連携の一面をかいま見ることができた。
しかし、これが国内 distributor の、まさに頂点の時期だ。これ以降、distributor の栄輝に影を落とす時期が訪れる。
GNOME プロダクト自身もバージョン 1.4 から、Nautilus の採用とか TrueType フォントでアンチエリアス表示とか、今までに増してビジュアルな面白さが加わり、一つの転換期を迎える。JGUG の活動も翻訳作業の他に、一般ユーザからの質問や情報交換のメールが行き交っていた。このビジュアルな面は、マスメディアにとっても、従来の日本語化の度合いに代わりユーザを引きつける格好の題材となった。
しかしながら、国内 distributor の不景気や方針の転換などを背景に、2001年後半から 2002年にかけて JGUG 活動に停滞気味が漂いはじめる。メールを主体として活動を公開していたものの、SPAM メールの横行によりユーザ離れが多くなったのかもしれない。それでも後半は GNOME2 がリリースされ、i18n/l10n に対しても大きな転換期になった。その反面、従来のマシン・スペックでは十分に機能できず、GNOME は遅い、重い、使いづらい 的イメージも一緒に背負うことになる。
そんな中、JGUG 活動の主体であった日本語メッセージ翻訳作業に関しては、モジュール分割に伴って、その作業量は大幅に増加する。また別の面で、日本語入力そのものに対する問題点も浮上してくる。2002年後半以降、翻訳作業に従事/協力する一般メンバも少なくなり、ほとんど JGUG 幹事のメンバだけでやらざるを得ない状況になってくる。
そんな中、自分は GNOME Translation Project の日本語コーディネータを引き受けることになったこともあり、その責務もあったのか、GNOME はもちろん、それ以外の関連プロジェクトの翻訳にも手を広げ、日本語化作業を推し進めていった。
それとは裏腹に、日本語で表示される嬉しさ、楽しさといった JGUG 活動参加当初のモチベーションが、自分の中でも徐々に薄らいでいく…、そんな長く暗いトンネルを歩くような気持ちが出てきたのも、この時期だ。

JGUG 活動とこれから (その1).

自分は日本GNOMEユーザー会 (JGUG) の会員であり、会を運営する幹事の一人でもあり、GNOME Translation Project の1コーディネータでもある。履歴書とかにもちゃんと明記している。
Linux を始めてから GNOME と出会ったのが、たしか 1998年だ。そして翌年末には国内でユーザー会が活動していることを知り、メールを購読し始めた。メールはもちろん、ウェブ・サイトも用意されており、いろいろな情報が紹介されていた。入会当初、メールの内容は CVS やら HEAD やら正直言ってよく分からなかった。学生ぽい人達が何か活動している感じだった。
その当時、とある Linux distributor で仕事しており、会社の方針で国内でも人気を上げてきた GNOME のパッケージ化とその日本語化を行っていた。でも、せっかくユーザ会の会員なのだから、会社で作業した成果をコミュニティへ還元できないものか考え始めた。つまり、自社製品が日本語化されていても、オリジナル、すなわちオープンソース自身には反映されない矛盾、ほそぼそではあるが、何か一つの目的に向かって活動していたメンバを見ながら、いろいろ考えた。
その会社の体質 (今も変わってないが) から、あまり外部のコミュニティとコンタクトを持つメンバが居なかったこともあり、悩んだあげく、当時のユーザー会メンバらにコンタクトしたのは、会員になってから半年くらい後だったと思う。
その頃にはユーザ会のメインの活動が日本語メッセージの翻訳作業であることも理解し、作業の流れも一連のメールのやりとりではっきりとしていた。ユーザー会のウェブ・サイトの情報や実際の ja.po ファイル、インターネット上の情報から見よう見まねで gtranslator の日本語メッセージを、ユーザー会のメーリングリストへ投稿した。いくつか gettext の文法エラーがあったようで、とあるメンバが修正して本家へコミットして下さった。
何とも言えない達成感と、何か役に立てた満足感があったと記憶している。
それからは、会社や自宅で作業した成果をユーザー会を通してコミットして貰った。初めて Linux を使っていた頃の英語環境から、がらりと変わって日本語が表示される喜びも拍車をかけたのか、もうそれこそ片っ端から翻訳していたような気がする。寝る間を惜しんで作業した結果が、会社の製品にも反映されるし本家にも反映されるからだったかもしれない。
それから一年くらいの間に、国内の distributor 事情もがらりと変わり、こっちの製品が日本語化されている、やれこっちは英語のままだとか、GNOME をとりまく問題点も日本語化の度合いを競い合っていた。当時のマスメディアも、そういう話題に飛びつき拍車をかけていたと思う。日本語化されている度合いが、distributor の善し悪し、しいては GNOME そのものの善し悪しを決める判断材料に、ユーザの目も移っていった。
そういう背景もあり、ユーザ会のメンバとして、可能な限り本家にフィードバックしようと、自宅に帰ってから寝るまでビルド・インストール・翻訳・パッチ当てなど、いろいろ作業していたように記憶する。今、現在も変わっていない生活スタイルが確立したのはこの頃か。