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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

タグ: 真田信繁

別名は真田幸村、安土桃山時代から江戸初期にかけての義将の一人で、後世に真田日本一の兵と語り継がれた戦上手の勇将

武蔵松山城 − Musashi Matsuyama Castle

比企丘陵の先端に築かれた松山城は市野川の急流で削り取られた急峻な崖地を利用した平山城である

今から620年以上前の応永年間初期に扇ヶ谷上杉氏家臣の上田友直が、それまでの砦から本格的な城に仕上げたのが始まり[a]この城の築城に関しては鎌倉時代の新田義貞陣営説や、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説など数多くの伝説が残されている。とされる埼玉県比企郡吉見町にある武州松山城は、市野川が形成した広大な湿地帯に突き出す比企丘陵東端に築かれていた連郭式平山城である。15世紀後半に京都で起こった応仁の乱が全国に飛び火し、ここ関東でも長年の間、関東管領と古河公方、そして地侍らを巻き込んだ戦乱期が続いていたが、室町時代後期に相模国から伊勢新九郎率いる新興勢力(のちの小田原北条氏)の台頭が著しくなると、旧体勢力側に「回されてしまった」扇ヶ谷と山内両上杉氏、そして古河公方らは「敵の敵は味方」の理のごとく合力して対抗するようになった。それまで武蔵国中原の要衝として幾多の争奪戦が展開されたここ武州松山城もまた伊勢氏に抗する拠点となった。天文6(1537)年に扇ヶ谷上杉家当主の朝興(ともおき)が河越城で病死すると、関東制覇を強力に推し進める伊勢氏綱・氏康親子は河越城を奪取、総崩れとなった上杉勢は武州松山城に退却した。氏綱は手綱を緩めることなく追撃するが、城代・難波田憲重(なんばだ・のりしげ)らの奮戦で撃退[b]この籠城戦の際に、憲重と氏綱の家臣である山中主膳との間で和歌問答が行われたとされ、のちに「松山城風流合戦」として語り継がれることになった。されると、武州松山城は扇ヶ谷上杉氏の居城となった。

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a. この城の築城に関しては鎌倉時代の新田義貞陣営説や、応永23(1416)年ごろの上田上野介築城説など数多くの伝説が残されている。
b. この籠城戦の際に、憲重と氏綱の家臣である山中主膳との間で和歌問答が行われたとされ、のちに「松山城風流合戦」として語り継がれることになった。

岩櫃城 − Iwabitsu Castle

左手に見える岩櫃城は、右手は岩櫃山の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城である

群馬県西部は吾妻(あがつま)郡東吾妻町原町平沢郷にある標高802mの岩櫃山中腹東面に築かれた岩櫃城は、山頂から200mほど下ったところ(標高593m)に本丸・二の丸・中城を連ねた典型的な中世の山城である。岩櫃山の麓にあるすり鉢状の高原盆地に広がった平沢集落からの比高は100m程、岩櫃城の東を走る吾妻街道からは200m程の高地にある。この城は年代は定かではないが、言い伝えによれば南北朝の頃に藤原鎌足の子孫である吾妻太郎助亮(あがつま・たろう・すけふさ)が築いたとされ、のちに松井田城主斎藤氏の家系が代わって戦国時代まで吾妻を支配していた。永禄6(1563)年に甲斐の武田信玄が上州攻略のため真田幸綱(幸隆)に岩櫃城攻略を命じ、城方の六代目吾妻太郎斎藤越前守憲広は堅城を利して奮戦したがついに落城した。以後、信玄より吾妻郡守護代を命じられた幸綱とその一族が、元和2(1616)年の一国一城令により廃城になるまで支配した。幸綱の三男昌幸は、天正10(1582)年3月に織田・徳川の連合軍に追われ新府城を放棄した武田四郎勝頼と当主・信勝を迎えて再挙を図るために、ここ岩櫃山南面に御殿(現在の潜龍院跡)を三日間の突貫工事で造ったものの、ついに勝頼ら一行が吾妻の地を踏むことはなかった。

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鉢形城 − Hachigata Castle

荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘の上にある鉢形城の本曲輪

埼玉県大里郡寄居町にある鉢形城は荒川と深沢川によって挟まれた河岸段丘の上に築かれた連郭式平山城で、川に面している南北はそれぞれ断崖絶壁で天然の要害になっている。この地は北関東の交通の要衝(ようしょう)にあたり、上州や信州方面を同時に望むことが可能な拠点であった。築城は、文明8(1476)年に関東管領だった山内上杉氏の家臣長尾景春[a]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。と伝えられている。のちに、山内上杉氏の家老で、寄居町花園城周辺の藤田郷を中心とする地域を支配した在地領主・武蔵七党と総称される猪俣党の藤田氏が治め、その十五代当主康邦に入婿した小田原の北条氏康が四男・氏邦が整備拡充し、現在に遺る規模になった。氏邦は鉢形城を上野を含む北関東支配の拠点としたが、そのため甲斐武田や越後上杉の攻撃を度々受けることとなった。天正18(1590)年には豊臣秀吉による小田原仕置がおこり、ここ鉢形城は重要な支城の一つであったが、氏邦は本城防衛のため不在で、城代黒澤上野介ら3千が籠城するも、豊臣方の北国口勢3万5千[b]加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。に包囲され、徳川軍の本多平八郎忠勝らが城の目の前にある車山から大砲を撃ちこんで被害を甚大にさせると、およそ一ヶ月後に降伏・開城した。現在は国の史跡に認定され、鉢形城公園として整備されている他、外曲輪には鉢形歴史館が設置されている。

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a. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
b. 加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money

駅前に真田幸村公騎馬像がある上田市の至るところで六連銭を見ることができる

「六連銭(むつれんせん)」は清和天皇の子孫を称する信州の名族・滋野(しげの)一族の海野氏と、その嫡流である真田氏が使用していた家紋であり、三途の川の渡し賃として納棺の際に六銭入れる地蔵信仰(六道銭[a]「六道」とは仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、六道銭には死後にこれらの道に入って迷わないようにという念が込められている。)の影響を受け継いだものである。また、それが転じて「戦場で死ぬ覚悟ができている」という心構えを表すこともある。本来、この家紋は戦時に使用する旗紋として使われていたが、江戸時代に出版された講談などで真田の名前と共に知られるようになった。ちなみに、真田家はこの他に「結び雁金(むすびかりがね)」という羽を結んで円を描く結びにして横向きの雁(がん・かり)の顔を載せた紋と、「州浜(すはま)」という三角州などの水辺にできる入り組んだ浜辺の渚を表す紋を使用していた。六連銭が主流になると、後者の二つの家紋は替紋として使用されるようになったと云う。その信州真田家の中興の祖と云われる真田幸綱[b]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。は、軍神・上杉謙信から「智謀は七日の後れあり」と云わしめた[c]自分(謙信)は智謀の面では幸綱に後れを取っていると認めたという意味。人物であり、その三男・昌幸(武藤喜兵衛)は武田信玄から軍略用法の妙を学び「我が両眼の如し」と云わしめ、武田家中からは「小信玄」とも云われた。さらに、幸綱の孫にあたる真田信繁もまた、大坂の陣にて関東勢を相手に父・昌幸譲りの鬼謀を存分に発揮して散っていった。

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a. 「六道」とは仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、六道銭には死後にこれらの道に入って迷わないようにという念が込められている。
b. 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
c. 自分(謙信)は智謀の面では幸綱に後れを取っていると認めたという意味。

上田城 − Ueda Castle

信州真田氏の居城として有名な上田城の現在の遺構は仙石氏の時代のもの

上田城は、天正11(1583)年に真田昌幸によって上田盆地の千曲川近くにあった天然の要害「尼ヶ淵(あまがふち)」と河岸段丘を利用して築かれた平城である。北信濃の一国衆であった真田の名を一躍全国レベルに知らしめた二度に渡る上田合戦の舞台でもある。天正10(1582)年4月に武田家が滅亡した後、真田家は関東管領となった滝川一益の麾下に入り、沼田城岩櫃城が接収されていたが、同年6月の本䏻寺の変で一益が厩橋(まやばし)城を退去すると、信濃国を巡って勃発した越後上杉、小田原北条、三河徳川らによる争奪戦(天正壬午の乱)の「どさくさ」を利用して築城した。しかしながら、真田と徳川の間でくすぶりつづけていた沼田の譲渡問題が表面化すると、昌幸は「父祖伝来の土地であり徳川にとやかく言われる所存ではない」と頑として跳ねつけたことが遠因で上田合戦が始まる。第一次上田合戦時は次男・信繁を上杉家に人質として出すことで援軍を求めることができ、持っていた智謀と天然の要害を利用して、詰城である砥石城の信幸を囮にし城下町でゲリラ戦を行って徳川軍を敗走させた。そして第二次上田合戦時は、関ヶ原戦の緒戦で秀忠ら徳川本軍をきりきり舞いにし、天下分け目の大一番に遅参させることに成功した。こういうことで徳川軍を二度も蹴散らした堅城であったため、昌幸らが九度山に配流された後は、「恨み辛みをこの上田城にぶつけて」 徹底的に破却されてしまった。そのため、現存している西櫓も関ヶ原の後の上田藩仙石氏によるもの。この堅城、現在は長野県上田市で上田城跡公園として市民に開放され、花見の季節には大賑わいをみせている。

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砥石城 − Toishi Castle

信州真田の郷を一望できる砥石城は、枡形城と本城と米山城からなる山城である

長野県上田市にある砥石城[a]戸石城と書く他に、別名は伊勢山城とも。は、東太郎山の一支脈が神川(かんがわ)に沿って南方に突出している高い尾根の上に築かれ、本城を中心に北に枡形城、南に砥石城、西南に米山(こめやま)城を配す堅固な連郭式山城で、「砥石城」はこれらの城の総称となっている。この城の築城時期や築城主は定かではないが、天文年間(1532〜1555年)には信州葛尾城を居城としていた村上氏の属城であったと云う。時の村上家当主・義清は甲斐の武田信虎[b]甲斐守護職で、甲斐源氏宗家の第十八代当主。武田晴信こと武田信玄の実父である。と諏訪の諏訪頼重と共に、小県(ちいさがた)の海野平(うんのたいら)に侵攻し、海野棟綱ら滋野一族、そして真田幸綱(幸隆)とその弟の矢沢頼綱らを上州へ追い出して、信州小県郡を支配下に置いた。その後、武田晴信が父・信虎を駿河に追放し、信州佐久郡へ侵攻して村上義清の属将が守る志賀城を陥落させると、村上義清との対立が鮮明となる。天文17(1548)年2月に武田軍と村上軍が上田原で激突し、勝敗は付かなかったものの、武田方は宿老の板垣信方と甘利虎泰が討死するという事実上の大敗を喫した。これにより、一時期は甲斐武田家の信濃経営に陰りが出たが、のちに信濃守護職の小笠原長時を破って挽回し、晴信は上田原の雪辱を果たそうと、村上義清の属城・砥石城攻略に着手した。

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a. 戸石城と書く他に、別名は伊勢山城とも。
b. 甲斐守護職で、甲斐源氏宗家の第十八代当主。武田晴信こと武田信玄の実父である。

石田堤 − Earthworks Surrounded Oshi Castle

石田治部の本陣があった丸墓山古墳を中心に石田堤が築かれた

天正17(1589)年に、北条方の上野沼田城将・猪股邦憲が真田方の名胡桃城を奪取したことに端を発する豊臣秀吉の小田原仕置は、その翌年の天正18(1890)年正月に三河の徳川家康が先鋒となって東海道を押し進み、それから間もなく加賀の前田利家、越後の上杉景勝ら北国口勢が上野へ侵攻することで始まった。秀吉は自ら3万2千の大軍を率いて、同年3月に京都を発って小田原へ向かった。これに対して小田原の北条方は総構を備えた小田原城に氏政・氏直父子の他、氏照、太田氏房、佐野氏忠、成田氏長、上田憲定、松田憲秀をはじめとする領国内の主だった者たちが籠城し、さらに領国内の要所にある支城には彼らの一族や重臣らが籠城し、豊臣軍の進撃に備えていた。秀吉が小田原に向った3月頃には上杉・前田ら北国口勢が上野の松井田城を攻撃し、その翌月の4月には真田昌幸・信繁父子と佐竹義宣らの軍勢も合流した。そして松井田城主・大道寺政繁を降伏・開城させた後は、箕輪城・厩橋城・佐野城などの支城が次々と開城していった。同年6月には忍城攻めを仰せつかった石田治部・大谷刑部・長束大蔵らが、現在の「さきたま古墳公園」にある丸墓山古墳に本陣を構え、城を押し包むも攻めあぐね、ついには備中高松城攻めに倣って水攻めを決断した。

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真田幸村と大坂の陣 − Yukimura Sanada is Number One Warrior in Japan

あたかも真田丸から采配を振るっているかのような真田幸村の銅像

天下分け目の関ヶ原から十四年後の慶長19(1614)年、方広寺鐘銘事件で江戸に幕府を開いた徳川家との緊張が頂点に達していた豊臣家。内府こと徳川家康は淀君人質や大坂の国替えなど無理難渋を豊臣家に突きつけ、ついには東西手切れに傾き、その年の12月に大坂冬の陣が始まった。徳川側の兵力約20万人に対し、豊臣側はその半分の10万人程。緒戦の豊臣軍は城外に出て木津川口や鴻野・今福と言ったいくつかの砦で激戦を繰り広げたが、結局は大坂城へ撤退する。この時齢49歳の真田幸村こと真田左衛佐(さえもんのすけ)信繁は、配流先の九度山を息子の大助(幸昌)や旧臣らと共に脱出し、大坂城に入城していた。当初、幸村は進撃してくる徳川軍を近江の瀬田川辺りで迎撃し、冬の川を渡る敵軍に銃撃を浴びせ、足止めする間に寝返る大名らが出てくるだろうと主張したのに対し、淀の御方の「鶴の一声」によって難攻不落と謳われた大坂城での籠城策に決した。そこで幸村は大坂城で唯一の弱点とされていた城の南東にある玉造口(たまづくりぐち)の外に大きな出丸(真田丸)を築く。この真田丸は、まさに甲州流軍学の流れをくむ三日月形の堀と柵を備えた巨大な馬出であった。徳川側も大坂城の弱点となる、この地には前田利常、井伊直孝、松平忠直といった多くの大名を配置し、その後方には徳川家康・秀忠らの本陣を置いた。幸村は5千の兵でこれら2万の兵と対峙することになる。一方の家康は、関ヶ原の戦などで幸村の父・昌幸に散々に蹴散らされた苦い経験があることから、諸将には無闇な攻撃を自重してプレッシャーをかけてほころびが出るのを待つ戦略を言い含めていたが、真田丸と向かい合っていた前田利常ら加賀勢が真田丸からの執拗な挑発に苛立ち、ついに策略に釣られて真田丸へ押し出してきた。そして、赤備えで軍装を統一し士気を高めていた幸村ら真田丸からの一斉射撃で、大坂城攻防戦の幕が切って落とされた。

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