城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

タグ: 日本の武将・勇将 (1 / 9 ページ)

主に歴史書や小説・文学書などで語り継がれ、日本人として誇ることができる武士(もののふ)たち

小牧山城 − Komakiyama Castle

小牧山城の大手道は戦国時代は屈曲していたが江戸時代に直線になった

愛知県小牧市堀の内1丁目1番地にある小牧山城跡は、戦国時代の永禄6(1563)年に尾張国をほぼ統一した織田信長が隣国の美濃攻略のために築いた城で、標高85mほどの独立丘陵に位置し、山頂部の主郭は巨石で囲われていたと云う。信長は清州城から居城を移し、城の南西麓に東西約1km四方に及ぶ城下町を整備、併せて重臣らの屋敷を城下に配した。四年後に美濃・斎藤龍興を攻略したあと居城を稲葉山城に移し、城下町を整備した上で岐阜城に改め、ここ小牧山城は廃城とした。それから十七年後の天正12(1584)年、信長亡きあとの織田家と関係が悪化した羽柴秀吉は織田信雄と対立、その信雄と同盟を結んだ三河国の徳川家康を相手に尾張で対峙した。この小牧の戦い[a]現代では「小牧・長久手の戦い」とまとめて表記されることが多いが、それぞれ別の場所での戦いなので区別して表記すべき(「小牧長久手」なんて表記は歴史について何も分かっていない 😞️。)。小牧の戦いは羽柴勢と徳川・織田勢が緒戦から対峙した戦い。犬山城から楽田城へ本陣を移した秀吉に対し、家康は廃城となっていた小牧山城跡を修築して本陣とした[b]城としては廃城のまま。ただの山(小牧山)を陣地として利用しただけ。。この時、家康は土塁を高め、堀を深くするなどの防御工事をわずか五日間で完成させたとされ、現在はこの時代の姿が小牧山史跡公園として残っている。

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a 現代では「小牧・長久手の戦い」とまとめて表記されることが多いが、それぞれ別の場所での戦いなので区別して表記すべき(「小牧長久手」なんて表記は歴史について何も分かっていない 😞️。)。小牧の戦いは羽柴勢と徳川・織田勢が緒戦から対峙した戦い。
b 城としては廃城のまま。ただの山(小牧山)を陣地として利用しただけ。

菩提山城 − Bodaisan Castle

標高402mの菩提山城の本曲輪跡下には急峻な切岸が残る(おしろんだい)

西美濃[a]現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称を中心にそびえる伊吹山系東端に位置する標高402mの菩提山[b]この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。にあって南北約350m、東西150mの規模を有していた菩提山城は、天文13(1544)年に美濃国守護職・土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》が、美濃国不破郡岩手郷[c]現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。を治めていた美濃岩手氏[d]岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。に宛てた書状に初めて登場し、西美濃が接する近江国の浅井《アザイ》氏と六角氏の動静を監視する目的として築かれた山城であった。美濃岩手氏三代当主・元重の子に重道がおり、これが竹中氏の祖にあたり、美濃国を統治した斎藤山城守道三亡き永禄元(1558)年には重道の子・重元《シゲモト》が本家にあたる岩手信冬を攻めて追放し、この城を手に入れたと云う[e]これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。。岩手一帯6千貫を治める領主となった重元が隠居して、家督を継いだ半兵衛重治は斎藤龍興に仕えて稲葉山城下に居館を置く一方、ここ菩提山城は竹中氏の本城とした。山頂の主郭部を中心に大規模な堀切や複数の虎口で守られた西美濃最大級の山城は、重治の子・重門が城の機能を竹中氏陣屋に移した後に廃城となった。

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a 現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称
b この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。
c 現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。
d 岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。
e これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。

美濃垂井城 − Tarui Castle

垂井城跡と推定される専精寺境内には城址の碑が建つのみ

鎌倉幕府初期の御家人の一人であった長江義景《ナガエ・ヨシカゲ》[a]正妻は相模国三浦郡の豪族で衣笠城主であった三浦明明《ミウラ・ヨシアキ》の娘、側室は幕府で「十三人の合議制」に加わった八田知家《ハッタ・トモイエ》の娘。の次男・明義の孫にあたる行景《ユキカゲ》が承久の乱の恩賞地であった美濃国不破郡垂井《ミノノクニ・フワグン・タルイ》に移り住んで長屋《ナガヤ》氏の祖となる。長屋氏は垂井の地に居館(長屋氏屋敷)を建てたが、南北朝時代[b]鎌倉時代と室町時代の間、もしくは室町時代初期。には南朝方の攻撃を受けて足利義詮《アシカガ・ヨシアキラ》[c]室町幕府二代将軍。初代将軍・足利尊氏の三男。と共に、美濃国の守護・土岐氏をたよって京を脱出した北朝の後光厳天皇《ゴコウゴン・テンノウ》の仮御所として使われた[d]さらに、南朝討伐のため上洛途中の足利尊氏もまたこの居館に宿泊したと云う。。戦国時代にこの屋敷を含む高台が城塞化されて垂井城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「美濃」を冠したが、文中では「垂井城」と綴ることにする。になったと云う説があるが、築城年・築城者ともに不明である。慶長5(1600)年、この城に1万2千石で平塚因幡守為広《ヒラツカ・イナバノカミ・タメヒロ》が入城した[f]この直後に大戦があったことを鑑みると、この仕置には多分に石田治部や大谷刑部の意向が優先された感がある。。為広は長江氏と同じ三浦氏の流れを持ち、かって羽柴秀吉の馬廻りとして仕え、幾多の合戦で武功をあげた勇将である。この直後の関ヶ原の合戦では西軍に属して討死した。その後、垂井城も廃城となったと云う。

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a 正妻は相模国三浦郡の豪族で衣笠城主であった三浦明明《ミウラ・ヨシアキ》の娘、側室は幕府で「十三人の合議制」に加わった八田知家《ハッタ・トモイエ》の娘。
b 鎌倉時代と室町時代の間、もしくは室町時代初期。
c 室町幕府二代将軍。初代将軍・足利尊氏の三男。
d さらに、南朝討伐のため上洛途中の足利尊氏もまたこの居館に宿泊したと云う。
e 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「美濃」を冠したが、文中では「垂井城」と綴ることにする。
f この直後に大戦があったことを鑑みると、この仕置には多分に石田治部や大谷刑部の意向が優先された感がある。

鷺山城 − Sagiyama Castle

標高68mほどの鷺山を含む鷺山公園は斎藤道三の最後の居城だった

岐阜県岐阜市鷺山150にあった鷺山城は標高68mほどの小さい丘ではあるが、平地にそびえて展望が良く、北に東山道が横切り、南に長良川が控え、古来から要の地として使われた。鎌倉時代に常陸国の佐竹秀義《サタケ・ヒデヨシ》[a]清和源氏義光(新羅三郎義光)流・常陸佐竹氏四代当主。兄が源頼朝と上総広常に討たれて降伏、のちに御家人の一人になった。戦国時代に「坂東太郎」の異名を持つ佐竹義重《サタケ・ヨシシゲ》は直系の子孫の一人。が築城したと伝わり、室町時代に美濃国の守護・土岐氏の居城であった革手城《カワデ・ジョウ》の支城となり、近くに美濃国の守護所[b]読みは《シュゴショ》。守護が居住した居館のことで、福光御構《フッコウ・オカマエ》と云われた。も置かれた。その後、土岐一族の内乱が起こるとこの城で攻防戦が繰り返された。天文5(1536)年、十一代守護に任じられた土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》は鷺山から守護所を枝広館[c]現在の長良公園あたり。に移したため、この城は新たに守護代の名跡を継いだ斎藤利政のものとなる。のちに尾張国の織田信長に嫁ぐ濃姫《ノウヒメ》はこの城の館で生まれたと云う[d]ここから、信長のもとに正妻として嫁いだ当初は「鷺山殿」と呼ばれていた。。頼芸を追放して美濃一国を手に入れた利政は、嫡男の新九郎高政《シンクロウ・タカマサ》[e]のちの斎藤義龍。に居城である稲葉山城を譲ったあと、「道三」と号して鷺山城を隠居城とした。この時、父子の関係は修復不可能なほど悪化していた。

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a 清和源氏義光(新羅三郎義光)流・常陸佐竹氏四代当主。兄が源頼朝と上総広常に討たれて降伏、のちに御家人の一人になった。戦国時代に「坂東太郎」の異名を持つ佐竹義重《サタケ・ヨシシゲ》は直系の子孫の一人。
b 読みは《シュゴショ》。守護が居住した居館のことで、福光御構《フッコウ・オカマエ》と云われた。
c 現在の長良公園あたり。
d ここから、信長のもとに正妻として嫁いだ当初は「鷺山殿」と呼ばれていた。
e のちの斎藤義龍。

関宿城 − Sekiyado Castle

利根川の利点を活かして築かれ、利根川によって遺構が消えた関宿城

千葉県野田市関宿町[a]明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。にあった関宿城は、利根川と江戸川[b]江戸時代までは逆川《サカガワ》。が分岐する微高地上に築かれ、水運の要衝を押さえる城として中世から近世まで存続した。戦国時代には東国の中央という地理的な位置に加え、同じ下総国の小金城から栗橋城を経て、この時に関東を二分していた勢力の一人・古河公方[c]京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。がいる古河城の前衛と云う政治的な位置でも要の城であった。また、もう一方の勢力の小田原北條氏をして「一国を取りなされ候にも替わるべからず候」(喜連川文書)[d]現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。と云わしめた城でもあった。公方の片腕で関宿城主の簗田晴助《ヤナダ・ハルスケ》は形勢逆転を目論み、越後国の長尾景虎を頼るも、数度に渡る関宿合戦ののち北條氏政に屈した。そして小田原北條氏滅亡後、この城の位置付けを重要視した徳川家康は異父弟の松平康元に与え関宿藩を立藩した。明治時代に廃城となり、その後に繰り返された利根川改修と堤防建造により遺構は消滅したが、平成時代に建てられた県立関宿城博物館では城と利根川の歴史を今に語り継いでいる。

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a 明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。
b 江戸時代までは逆川《サカガワ》。
c 京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。
d 現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。

下総小金城 − Kogane Castle

小金城の鬼門である艮の方角にあった達磨口跡には土塁が残る

下総国北部一帯にかかる下総台地から伸びた台地と利根川(現在の江戸川[a]戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。)に挟まれるように形成されたいくつかの丘陵に跨って築かれ、中世城郭として最盛期には下総国北西部において最大級の南北約600m、東西約800mに及ぶ広大な城域を有していた小金城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。《コガネ・ジョウ》は、16世紀前半に千葉氏の家臣であり東葛地方[c]東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。に勢力を誇った高城氏の居城であった。この平山城は15mほどの高低差と複雑に入り組んだ地形を利用して、高さ2mほどの土塁と深さ10m前後の空堀を縦横に巡らせ、台地を削平して複数の郭を配していたと云う。戦国時代末には小田原北條氏の配下に入り、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では東海道北上勢の浅野長吉[d]のちの浅野長政。《アサノ・ナガヨシ》に攻囲されて落城した[e]その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。。その後、関東に入封した徳川家康の五男・松平信吉[f]現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。が3万石で小金城に入城するも佐倉城に転封となった後に廃城となった。現在は宅地化で消滅した土塁や畝堀など一部の遺構が復元されて、大谷口歴史公園として公開されている。

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a 戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。
c 東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。
d のちの浅野長政。
e その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。
f 現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。

私市城 − Kisai Castle

廃城後に耕地化が進んだ私市城跡で僅かに残る天神曲輪の土塁

埼玉県加須《カゾ》市根古屋633-2にあった私市城[a]これは古称。現代は「騎西城」と記すことが多い。本稿では城名を可能な限り古称で、現代の地名や絵図名は「騎西」と記す。《キサイ・ジョウ》は利根川とその支流が注ぐ平野部に位置し、江戸時代に編纂された武蔵国各郡の地誌目録である『武蔵志』によると「城地平にして亀の甲の如し」と記され、沼沢《ショウタク》[b]浅い池や沼に覆われた低湿地帯のこと。に浮かぶ要害であったと伝わる。築城時期は不詳であるが、城の名は武蔵七党《ムサシ・シチトウ》を構成する武士団の私市党《キサイ・トウ》に由来すると云われる[c]ただし、その関係を示す記録が存在しないため真偽は不明。。一方で、室町時代後期の歴史書『鎌倉大草紙《カマクラ・オオオゾウシ》[d]康暦2(1380)年から百年に及ぶ関東地方の歴史を記した軍記物。主に鎌倉公方・古河公方が中心。』には、康生元(1455)年に古河公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》に攻められて落城したとあり、これが歴史上の初見とされる。その後は、戦国乱世の関東にあって関東管領・山内上杉氏、古河公方・足利氏、小田原北條氏、そして越後上杉氏らによる争奪戦の舞台ともなった。現在残る遺構は江戸時代に立藩した私市藩の一部であるが、昭和時代の発掘調査で東西320m、南北260mの範囲に複雑な形状をした障子堀[e]豊臣秀吉が築いた大坂城と同様に、水濠の中にある障子堀で、堀を渡るのを阻止することが目的。が広範囲に渡って発見された。

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a これは古称。現代は「騎西城」と記すことが多い。本稿では城名を可能な限り古称で、現代の地名や絵図名は「騎西」と記す。
b 浅い池や沼に覆われた低湿地帯のこと。
c ただし、その関係を示す記録が存在しないため真偽は不明。
d 康暦2(1380)年から百年に及ぶ関東地方の歴史を記した軍記物。主に鎌倉公方・古河公方が中心。
e 豊臣秀吉が築いた大坂城と同様に、水濠の中にある障子堀で、堀を渡るのを阻止することが目的。

深谷城 − Fukaya Castle

市の中心地にあった深谷城の遺構は失われ模擬城郭として公園化されている

唐沢川西岸の低湿地帯に築かれた深谷城は、室町時代中期の康生2(1456)年に山内上杉氏庶流にあたる深谷上杉家[a]山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。五代当主・上杉房憲が築いた平城であった[b]築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。。時は、第五代鎌倉公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》による関東管領・山内上杉憲忠《ヤマノウチ・ウエスギ・ノリタダ》の謀殺を発端として、関東一円を騒乱の渦に巻き込んだ享徳の乱《キョウトクノラン》の頃である。この乱で関東の政権は二分され、室町幕府と堀越公方、それを補佐する関東管領・山内上杉氏、そして相模国守護・扇ヶ谷上杉氏らの勢力は、利根川と荒川を挟んで古河公方と呼ばれるようになった成氏らの勢力と対峙した。山内上杉氏の陣営にあった房憲が拠点として築いたのが深谷城である[c]総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。。江戸時代に廃城となると、その後は大部分が耕地になり、宅地化が進んだ現在は埼玉県深谷市本住町17に深谷城址公園として名が残るのみであるが、実のところ近くにある富士浅間神社には外濠跡、そして附近の高臺院と管領稲荷神社には土塁の一部が残っていた。

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a 山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。
b 築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。
c 総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。

武蔵本庄城 − Musashi Honjō Castle

武蔵国の本庄城跡と伝わる城山稲荷神社前には城址の碑が建つ

埼玉県本庄市本庄3丁目5-44にある城山稲荷神社は、戦国時代後期の弘治2(1556)年に本庄宮内少輔実忠《ホンジョウ・クナイショウユウ・サネタダ》が築いた本庄城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。跡である。武蔵七党《ムサシ・シチトウ》[b]鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。で最大勢力を誇った児玉党の流れをくむ本庄氏にあって東本庄館五代館主であった実忠は、往時は関東管領・山内上杉家の配下として天文14(1545)年に河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で小田原の北條氏康勢と戦った。戦は奇襲を受けた上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》率いる河越城包囲軍[c]一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。の大敗であったが、実忠は本陣で負傷しながらも憲政の退却を助けた。その功により憲政から感服を頂戴した上に西本庄の地を賜った。その後も小田原北条氏の攻勢が続き、ついに主人である憲政は本拠の平井城を捨てて越後の長尾景虎を頼って行った。一方、実忠はこの時に氏康に下り、のちに新たな拠点として西本庄の地に本庄城を築いたと云う。この城は天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で落城し、本庄氏も滅亡した。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。
b 鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。
c 一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。

倉賀野城 − Kuragano Castle

宅地化が進んだ倉賀野城の二ノ郭跡には城址碑が建つのみである

鎌倉時代に武蔵児玉党の流れをくむ秩父高俊《チチブ・タカトシ》[a]秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。が西上野と北武蔵の境界にあって烏川《カラスガワ》沿いに形成された河岸段丘上に居館を建てて倉賀野氏を名乗ったと云う[b]倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。。一説に、南北朝時代に東山道[c]五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。が通る交通の要衝として、この居館を拡張し戦略的な拠点としたものが倉賀野城とされる。戦国時代になると倉賀野氏は箕輪城長野業政と共に関東管領・上杉氏に仕え、それが故に小田原北條氏越後上杉氏甲斐武田氏らの勢力争いに巻き込まれることとなった。箕輪城を中心に「小豪族ネットワーク」を担う倉賀野城は、主人の居城である高崎城と似た縄張だったようで、烏川の蛇行部に沿って本郭を築き、それを囲むように二ノ郭と三ノ郭を配し、更にそれらを覆うように外郭(總曲輪)を設け、堀を巡らしていた。関白秀吉による小田原仕置後に廃城となると城跡は時代を追うごとに宅地化の波に埋もれ、現在は群馬県高崎市倉賀野町1461にある公園に城址の碑が建つ他、道路になった堀跡が名残となっている。

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a 秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。
b 倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。
c 五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。
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