城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

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主に歴史書や小説・文学書などで語り継がれ、日本人として誇ることができる武士(もののふ)たち

与板城 − Yoita Castle

与板城は舌状台地北端にある比高70mの山頂に築かれた山城である

信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》[a]この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。丘陵の中央あたりから、黒川と信濃川の合流点に向かって突き出た標高107mの舌状部北端に、越後国守護代・長尾氏を支えた直江家の居城・与板城があった。中越を一望に収めることができる山頂に実城、二ノ郭、三ノ郭の主郭群が連なり、尾根を断ち切るように深く広い堀切によって区画された豪壮な山城であった。直江氏は、はじめ本与板城主・飯沼氏の家臣であったが、飯沼氏が守護代の長尾為景に滅ぼされると為景に臣従して本与板城を与えられ、城主・直江景綱[b]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。は為景死後、宿老の一人して上杉謙信を支えた。景綱のあとを継いだ信綱[c]惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・の婿養子となった。は、天正5(1577)年頃に与板城を築城して居城を移した。信綱は御館の乱[d]謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。上杉景勝を支持し、景勝方の拠点として与板城を守備、攻めてきた景虎方の本庄秀綱を撃退した。のちに信綱が刺殺されると、景勝の命で上田衆の樋口兼続が直江家の婿養子となり、直江兼続に改め、与板城主として城下町の整備の他、産業の奨励を推進し繁栄の礎を築いた。

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a この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。
b はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。
c 惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・の婿養子となった。
d 謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。

新發田城 − Shibata Castle

新發田城跡の本丸北西隅には天守の機能を持つ三階櫓が復元されている

新潟県新発田市大手町6丁目にある新發田城 [a]これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。跡(新発田城址公園)は、慶長3(1598)年に太閤秀吉の命で加賀国は江沼郡《エヌマグン》・大聖寺城《ダイショウジ・ジョウ》から越後国は蒲原郡《カンバラグン》・新發田6万石へ入封した丹羽長秀[b]第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。の与力の一人、溝口秀勝《ミゾグチ・ヒデカツ》が、かっての国主・上杉景勝に謀反して滅んだ新發田氏の館跡[c]城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。に築城を開始し、それから56年後の承応3(1654)年、三代当主・宣直《ノブナオ》の代に完成した近世城郭であった。往時は加治川《カジガワ》と沼地を利用した城域で、本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南側に突き出た輪郭・梯郭併用型の平城であった。縄張は、新發田藩初代藩主となった秀勝の家臣で軍学者の長井清左衛門《ナガイ・セイザエモン》[d]清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。と葛西外記《カサイ・ゲキ》が担当した。寛文8(1668)年に火災で多くの建物を焼失したがのちに再建され、明治時代の廃藩置県で廃城となった。平成16(2004)年には三階櫓および辰巳櫓が古写真をもとに木造で復元された。

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a これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。
b 第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。
c 城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。
d 清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。

蔵王堂城 − Zaoudou Castle

蔵王堂城跡で唯一の遺構は本丸南東隅の土塁と水堀跡である

越後国を流れる信濃川と柿川《カキガワ》の合流点に形成された河岸段丘上に、その昔、蔵王権現[a]金剛蔵王権現とも。仏教の国である印度に起源をもたない日本独自の山嶽《サンガク》仏教の一つで、大和国(現在の奈良県)の金峯山寺《キンプセンジ》本堂(通称が蔵王堂)の本尊である。を祀る蔵王堂が建てられていたが、南北朝時代、この御堂に北朝勢力の中条氏が本陣を構えて砦化したことが蔵王堂城の始まりと伝わる。戦国時代初期、越後国守護の上杉氏と共に国入した長尾景晴《ナガオ・カゲハル》が古志《コシ》郡代となり、交通の要衝にあたる蔵王堂城を居城にした。景晴は越後長尾氏[b]長尾為景や長尾景虎(云わずとしれた上杉謙信)の家系。の分家にあたる古志長尾氏の祖となり、その後、古志長尾氏が栖吉城を居城にすると、長尾為重《ナガオ・タメシゲ》[c]長尾景虎の祖父にあたる長尾能景《ナガオ・ヨシカゲ》の子で、父・長尾為景の弟。景虎の叔父にあたる。が入城して本格的に改修したと云う。時が流れ慶長3(1598)年に越後上杉氏が會津若松へ国替えになると、代わって入国した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の弟・親良《チカヨシ》が蔵王堂城に入城、のちに養子[d]兄・堀秀治の次男。の鶴千代が継ぐが夭逝《ヨウセイ》したため、彼の後見人であった堀直寄《ホリ・ナオヨリ》が居城の坂戸城とともに治め[e]当時、蔵王堂城は蔵王堂藩、坂戸城は坂戸藩が治めていた。、長岡城移転後は廃城になり、現在は遺構の一部が残るのみである。

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a 金剛蔵王権現とも。仏教の国である印度に起源をもたない日本独自の山嶽《サンガク》仏教の一つで、大和国(現在の奈良県)の金峯山寺《キンプセンジ》本堂(通称が蔵王堂)の本尊である。
b 長尾為景や長尾景虎(云わずとしれた上杉謙信)の家系。
c 長尾景虎の祖父にあたる長尾能景《ナガオ・ヨシカゲ》の子で、父・長尾為景の弟。景虎の叔父にあたる。
d 兄・堀秀治の次男。
e 当時、蔵王堂城は蔵王堂藩、坂戸城は坂戸藩が治めていた。

祇園城/下野小山城 − Gion AKA Oyama Castle

祇園城の本丸跡と二ノ丸跡の間の堀切に架かっていた赤い祇園橋

平安末期に下野国《シモツケノクニ》最大の武士団を率い、藤原秀郷《フジワラ・ノ・ヒデサト》[a]平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔を称した小山政光《オヤマ・マサミツ》が思川《オモイガワ》東岸の河岸段丘に築いたとされる崖端《ガケバタ》城の小山城はのちの祇園城[b]城の守護神として祇園社(現在の小山市宮本町にある須賀神社)を祀ったことがその由来とされる。であり、小山氏の拠点として越後の上杉謙信や小田原の北條氏康らとの絶え間のない戦乱をくぐり抜けてきた。天正4(1576)年に城主の小山秀綱《オヤマ・ヒデツナ》が北條氏に降伏して開城したあと、小田原北條家で他国衆[c]小田原北條氏に降った外様大名らの総称。の取次を担当していた北條氏照が城代を置き、小山城も思川に沿って南北に本丸・二ノ丸(塚田曲輪)、北久保曲輪、北曲輪などを堀を使って連ねた連格式平山城に拡張・整備されたと云う。本丸にいたっては高い土塁と幅約20mに及ぶ空堀によって守られ、二ノ丸にはL字形の空堀を利用した馬出が設けられた。この祇園城は江戸時代に近世城郭としての縄張が完成し、現在は栃木県小山市城山町1丁目1番にある城山公園として市民の憩いの場となっている。

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a 平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。
b 城の守護神として祇園社(現在の小山市宮本町にある須賀神社)を祀ったことがその由来とされる。
c 小田原北條氏に降った外様大名らの総称。

小田原城惣構攻囲戦 − The Siege of Odawara Castle

秀吉は小田原城惣構を完全包囲し本丸を見通せる石垣山に本陣を置いた

天正17(1589)年10月に小田原北條氏の家臣で沼田城代を務めていた猪俣邦憲《イノマタ・クニノリ》が、利根川対岸にある信濃国小県《チイサガタ》の豪族・眞田昌幸が領する名胡桃城を奪取する変が勃発した[a]奇しくも昌幸は上洛中であり、家臣の鈴木主水重則《スズキ・モンド・シゲノリ》が名胡桃城の城代を務めていたが、偽の書状で城外に出た後に乗っ取られたと云う。。天正壬午の乱後、利根川を挟んでこれらの城がある上野国の沼田一円は越後の上杉景勝に従属していた眞田氏の支配下にあったが、のちに遠江の徳川家康と相模の北條氏直が自分達の都合だけで線引きしたことが国境問題として燻り出したため、往時ここ日の本の半分を支配下に置いて関白[b]「関白太政大臣《カンパク・ダイジョウダイジン》」のことで、天皇を補佐する朝廷の最高位。常設の職掌《ショクショウ》ではない。の座に昇りつめていた豊臣秀吉の裁定を請け、小田原北條氏の最高権力者である北條氏政の上洛を条件に新しい線引きが決められた上に、折しも関東惣無事令[c]秀吉が大名間の私戦を禁じた法令で、小田原北條氏のみならず奥州の伊達氏や蘆名氏、常陸の佐竹氏らに対するものを含めるもの。が出されていた中での事件であった。これを「天皇の裁定」に弓引くものである[d]秀吉は後陽成天皇《ゴヨウゼイ・テンノウ》から「一天下之儀」として裁定を委ねられていたと云う。と激怒した秀吉は小田原北條氏に宣戦布告を発し、翌18(1590)年3月に総勢20万もの大軍[e]兵力や参加した大名・武将には諸説あり。を率いて、関東で難攻不落とされた小田原城惣構に籠城する氏政・氏直父子らを陸と海から包囲した。

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a 奇しくも昌幸は上洛中であり、家臣の鈴木主水重則《スズキ・モンド・シゲノリ》が名胡桃城の城代を務めていたが、偽の書状で城外に出た後に乗っ取られたと云う。
b 「関白太政大臣《カンパク・ダイジョウダイジン》」のことで、天皇を補佐する朝廷の最高位。常設の職掌《ショクショウ》ではない。
c 秀吉が大名間の私戦を禁じた法令で、小田原北條氏のみならず奥州の伊達氏や蘆名氏、常陸の佐竹氏らに対するものを含めるもの。
d 秀吉は後陽成天皇《ゴヨウゼイ・テンノウ》から「一天下之儀」として裁定を委ねられていたと云う。
e 兵力や参加した大名・武将には諸説あり。

小田原北條氏と早雲寺 − Tighten your KABUTO strings in the Hour of Victory

秀吉によって焼失後、江戸時代に再建された金湯山早雲寺

自らは桓武平氏伊勢氏の流れをくむと称した相模国の小田原北條氏[a]他に後北條(略字だと北条)氏、または相模北條(北条)氏と呼ばれることがあるが、本稿では家系には略字を使わずに「小田原北條氏」と綴る。の家祖で初代当主である伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》に始まり、その嫡子で二代目の北條氏綱《ホウジョウ・ウジツナ》、三代目は戦国の世で非凡な才能を発揮した「相模の獅子」こと北條氏康、また彼の次男で小田原北條氏の勢力を最大版図へと押し上げた北條氏政が四代目、そして最後の当主である北條氏直《ホウジョウ・ウジナオ》は日の本統一の野望を担いで西国からやってきた関白秀吉に敗れて小田原北條氏の名跡を捨てた。現代の世では彼らのことを、江戸時代に仮名草紙《カナゾウシ》[b]仮名交じりで著された散文文芸の総称。として著された『北條五代記』に倣って小田原北條五代と呼ぶ[c]神奈川県小田原市では昭和39(1964)年から毎年5月に「北條五代祭り」と呼ばれる武者行列をメインとしたパレードを開催している。。この五代の供養塔が、神奈川県は足柄下郡箱根湯本《アシガラシモグン・ハコネユモト》の金湯山・早雲寺にある。この寺院は天正18(1590)年の小田原仕置で焼失し、小田原北條氏滅亡後は荒廃したが江戸時代初めに幕府によって復興した。供養塔は氏康の四男・氏規《ウジノリ》の子孫が建立したものと伝わる。

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a 他に後北條(略字だと北条)氏、または相模北條(北条)氏と呼ばれることがあるが、本稿では家系には略字を使わずに「小田原北條氏」と綴る。
b 仮名交じりで著された散文文芸の総称。
c 神奈川県小田原市では昭和39(1964)年から毎年5月に「北條五代祭り」と呼ばれる武者行列をメインとしたパレードを開催している。

武田信玄公墓所 − Raise our Flag on Seta Tomorrow(TAKE2)

甲州市の塩山駅には不世出の英傑と云われた武田信玄公の像がある

元亀4(1573)年4月12日[a]新暦だと同年5月13日。に信濃国は三州街道《さんしゅうかいどう》[b]のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。の駒場[c]現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。で甲斐の武田信玄が没した。享年53。臨終に瀕して昏睡状態だった信玄はいきなり山縣昌景を呼びつけ、「其の方、明日は瀬田[d]近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。に旗を立てよ」と命じたと云う。これが公の最後の下知とされる。後世には「甲斐の虎」とも「戦国の巨星」とも呼ばれた信玄は、往時は第一流の戦上手であったと共に産業の奨励、治水・池溝《ちこう》の整備など政治家としてもまた卓抜した武将であったことは、没後450年以上たった現代でも広く知られているところである[e]現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。。甲斐武田氏は「武士」の先祖にあたる八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光《しんら・さぶろう・よしみつ》[f]河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。の末孫にあたるが、その流れは甲斐守に任じられた義光がその国で二男・武田冠者義清《たけだのかんじゃ・よしきよ》[g]逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。を授かり、義清の子から数代あって信義が甲斐武田氏の祖となった。甲斐武田氏が盛んになったのは信義から数えて十四代目の信虎からであり、その嫡男が晴信ことのちの信玄である。

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a 新暦だと同年5月13日。
b のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。
c 現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。
d 近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。
e 現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。
f 河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。
g 逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。

太田道灌公墓所 − Ōta Dōkan had premonition of his master’s ruination(TAKE2)

龍穏寺の境内には太田道灌公五百忌の砌《みぎり》に建立された銅像が建つ

埼玉県入間郡の越生《おごせ》町龍ヶ谷452-1にある曹洞宗の長昌山龍穏寺《ちょうしょうさん・りゅうおんじ》[a]寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。は、桓武天皇[b]第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。在位の平安時代に修行僧らの信仰を集めて建立されたのが始まりとされる。そして室町時代には足利幕府六代将軍の義教《よしのり》が開基となり、相模国守護で扇ヶ谷上杉家当主の持朝《もちとも》が再建した。ときは戦国時代前で関東騒乱の時代。二人の公方[c]堀越公方《ほりごえ・くぼう》と古河公方《こが・くぼう》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。を取り持つ関東管領や地方武士らの対立が長く続いていた時代である。持朝が死去したあと、扇ヶ谷上杉家の家宰[d]家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。を務めていた太田資清《おおた・すけきよ》とその嫡子・資長《すけなが》が亡き主人の遺徳を継ぎ、戦乱の最前線で廃寺寸前だった龍穏寺を中興し、新たに堂宇を建立したと云う。のちの太田道真・道灌父子である。文明18(1486)年、道灌は自得軒[e]越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。で隠居していた父のもとを訪ねて詩会を楽しんだが、その翌月に主人の上杉定正《うえすぎ・さだまさ》[f]上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。に暗殺された。享年55。死に際に『当方滅亡』と言い遺したと云う。

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a 寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。
b 第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。
c 堀越公方《ほりごえ・くぼう》と古河公方《こが・くぼう》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。
d 家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。
e 越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。
f 上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。

本䏻寺の変ゆかりの地と織田信長公墓所 − We have no other way at Honnō-ji Temple(TAKE2)

大徳寺塔頭の総見院は本䏻寺の変で生涯を閉じた織田信長公の菩提寺である

天正10(1582)年6月1日夜[a]これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。、丹波国亀山[b]現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。で明智惟任日向守光秀《あけち・これとう・ひゅうがのかみ・みつひで》は主君で右大臣・信長への反逆を企て、明智左馬助秀満《あけち・さまのすけ・ひでみつ》、明智次右衛門光忠《あけち・じえもん・みつただ》、藤田伝五行政《ふじた・でんご・ゆきまさ》、斎藤内蔵助利三《さいとう・くらのすけ・としみつ》らと相談し、信長を討ち果たし天下の主となる計画を練り上げた。信長の命で、中国の毛利勢と対陣中の羽柴筑前守秀吉《はしば・ちくぜんのかみ・ひでよし》を援軍するには亀山から三草山《みくさやま》を越えるのが普通であるが、そこへは向かわずに馬首を東へ向けた。その数1万3千。兵らには「山崎を廻って摂津の地を進軍する」と触れておき、先に相談した宿老らに先陣を命じた。そして摂津街道を下り、桂川を越えた先の京都に到着したのは翌2日の早朝であった。光秀らの軍勢は信長の宿所本䏻寺[c]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。を包囲し、四方から乱入した。はじめ弓と槍で防戦していた信長は、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の口を閉めて無念にも御腹を召された。

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a これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。
b 現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。
c 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。

新田金山城 − Nitta-Kanayama Castle

新田金山城の水ノ手曲輪へ入る大手虎口は象徴的かつ一大防御拠点だった

新田金山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。は太田金山城または単に金山城と呼ばれ、室町時代後期の文明元(1469)年に岩松家純《いわまつ・いえずみ》[b]岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。が築いたのが始まりとされる。そして「下克上」が日ノ本での社会的風潮となった戦国時代初期は享禄元(1528)年に、岩松氏の筆頭家老であった由良成繁《ゆら・なるしげ》[c]はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。が主君を自害に追い込んで主家を乗っ取ると同時に新田金山城主の座についた。この城は、なだらかな平地にコブのように突き出た独立峰の金山山頂から樹根状に広がった尾根部を中心に縄張された山城であり、山頂部の実城、北方の北城、西方の西城、そして南方の八王子砦がそれぞれ大小の堀切によって分断されていた。古文書や発掘調査によると段階的に拡張されたとみられ、戦国時代の上野《こうずけ》の地にあって越後上杉氏、甲斐武田氏、相模北條氏といった有力大名らの抗争の狭間で改修と拡張を重ねていった結果と考えられている。現在、群馬県太田市金山町40-98にて復元整備されている金山城跡は昭和9(1934)年に国の史跡に指定され、堀切や土塁、そして石垣など中世の城郭としての遺構がよく残されている。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。
b 岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。
c はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。
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