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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

タグ: 日本の武将・勇将 (1 / 6 ページ)

白石城 − Shiroishi Castle

白石城本丸跡に復元された天守はかって幕府をばばかり「大櫓」と呼んでいた

西に急峻な地形を呈す奥羽山脈と南の比較的なだらかな阿武隈高地によって挟まれ、阿武隈川の支流である白石川が形成した白石盆地の独立丘陵上に築かれていた白石城[a]読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。は、初め藤原秀郷(ふじわら・の・ひでさと)[b]平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔・藤原経清(ふじわら・の・つねきよ)の次男・刈田常元(かった・つねもと)が寛治5(1091)年頃に築いたとされる。刈田氏はのちの白石氏で、南隣の伊達氏から養子を迎えて戦国時代には伊達政宗の傘下に入る。しかし白石城を含む陸奥国刈田郡は天正19(1591)年の奥州仕置で没収され蒲生飛騨守氏郷に与えられると、家老の蒲生源左衛門郷成(がもう・げんざえもん・さとなり)を城代とし城下町を整備して本丸を石垣で囲うなどの改修を施した。この後に會津転封となった上杉権中納言景勝は城代として甘糟備後守景継(あまかす・びんごのかみ・かげつぐ)を置くが、豊臣秀吉に取り上げられた旧領の回復を目論む政宗は秀吉死後に、慶長5(1600)年の徳川内府による會津上杉征伐に呼応して白石城を急襲し開城させた。その後、片倉小十郎景綱が城主となって改修した近世城郭の白石城跡が現在、宮城県白石市益岡町1-16の益岡公園で復元・整備されている。

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a. 読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。
b. 平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。

陸奥福嶋城 − Fukushima Castle

現在の福島県庁の入口にあたる県庁通りが、かっての福島城の大手門跡である

福島県福島市杉妻町2-16にある福島県庁周辺は、かっては奥州街道や米沢街道などが合流する陸奥信夫(むつ・しのぶ)郡にあって古くは室町時代から城郭が築かれ、奥州伊達氏の居城として杉妻城(すぎのめじょう)[a]「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。と呼ばれていた。伊達氏17代当主・政宗が他の奥羽諸大名らと抗争を繰り広げていた天正17(1589)年頃は杉妻城を含め伊達家にとって最大規模の領国を支配下に置いていた、まさに絶頂期であった[b]但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。。しかし天正19(1591)年の奥州仕置で豊臣秀吉によって領国の一部が召し上げられ、蒲生飛騨守氏郷が會津42万石[c]葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。に転封されると客将の木村吉清(きむら・よしきよ)[d]元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。に杉妻城を拠点とする信夫郡5万石が与えられた。この時、吉清は杉妻城を福嶋城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。に改めた。しかし氏郷が急死して蒲生氏が移封されると信夫郡を含む會津120万石は越後国から転封となった上杉権中納言景勝の領地となる。奥州仕置以降、旧領の奪還を目論む政宗との間に緊張が高まった関ヶ原の戦直前、福嶋城には猛将・本荘繁長[f]名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。が城主として派遣される。上方で西軍敗れるの報せを受け取った政宗は、すぐさま信夫山の麓まで侵攻し福嶋城に籠もる本荘繁長ら上杉軍と松川近くで激突した。

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a. 「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。
b. 但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。
c. 葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。
d. 元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。
e. 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。
f. 名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。

八王子城 − Hachiōji Castle(TAKE3)

秀吉軍襲来に備えて八王子城西端に急遽築かれた詰城の背後には大堀切が残る

小田原北條氏二代目当主の氏綱(うじつな)の嫡子で、のちに『相模の獅子』と呼ばれた三代目当主の伊勢新九郎氏康(いせ・しんくろう・うじやす)[a]初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。の子女は一説に九男・七女とされ、その正室は駿河国守護であった今川氏親(いまがわ・うじちか)[b]母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。この正室との間には長男の新九郎氏親[c]天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。、次男で嫡男の氏政、三男の氏照、四男の氏規(うじのり)、五男の氏邦(うじくに)、六男で『越後の龍』こと上杉輝虎の養子となった景虎がいる。女子には、氏康とは義兄弟であった北條綱成の嫡男・氏繁室、千葉親胤室、そして今川氏真(いまがわ・うじざね)室の早川殿らがいる。小田原北條氏は相模国の小田原城を本城として伊豆・武蔵・駿河・下総などの領国に数多くの支城を築いて整備し、いわゆる支城ネットワークを構築していた。その中で最大規模を誇っていたとされる八王子城は兄の氏政と甥の氏直を軍事と政治の両面で支えた北條陸奥守氏照の最後の居城で、現在は東京都八王子市元八王子町にて国史跡に指定されている。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、急遽、本丸の西側に石垣で囲った詰城(つめのしろ)を築いて豊臣勢の来襲に備えた。

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a. 初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。
b. 母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。
c. 天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。

真田幸村と大坂の陣 − Yukimura Sanada is Number One Warrior in Japan(TAKE2)

真田山・三光神社は真田丸を攻撃した徳川勢の加賀前田勢が陣を張った宰相山に建つ

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いから三年後、徳川家康は征夷大将軍に就任[a]「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。し江戸で幕府を開府した。次に、豊臣家に対して臣下の礼を要求すると両家の間に「亀裂」ができたが、依然として加藤清正ら豊臣恩顧の大名が多かったため直接的な対立に至ることはなかった[b]むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。。そして慶長16(1611)年に初めて両家の首脳である家康と豊臣秀頼の会見が実現して亀裂は埋まったかのようにみえたが、その三年後の慶長19(1614)年には世に云う「方広寺鐘銘事件」が起きた。豊臣家の総奉行であった片桐且元(かたぎり・かつもと)は両家の間を奔走して平和的に解決しようと務めたが、逆に家康の奸計に嵌って豊臣方の疑心暗鬼を誘うことになり亀裂は「溝」に変わった。この事件を宣戦布告と受け取った豊臣家は秀吉が残した莫大な金銀で兵糧と武器を買い入れ、全国の浪人に招集を呼びかけた。その一人で関ヶ原の戦いでは西軍で唯一の勝利を得た真田昌幸の次男・信繁(幸村)も蟄居先の九度山を抜けだして大坂城に入城、不本意ながら城内が籠城戦に決すると、直ちに惣構(そうがまえ)南東に隣接する平野口あたりで出城の築造に着手した。これが後世に伝わる「真田丸」である。

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a. 「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。
b. むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。

三崎要害/新井城 − Misaki Amphibia Fort AKA Arai Castle

相模湾に面した海水浴場側から急峻な崖が残る要害・新井城跡を眺める

神奈川県三浦市三崎町小網代[a]読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。1024にあった新井城は、北は小網代湾(こあじろわん)、南は油壺湾(あぶらつぼわん)に挟まれ、西は相模湾に突出し城域を囲む三方が海に面した半島状の要害にあって、陸路は横堀海岸から深く切られた堀に架かる北東約3kmの大手道のみであり、それも万が一の場合は切って落とすことが可能な内引橋[b]別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。であったと云う。ちなみに三浦氏の居城であった時代は三崎要害と呼ばれ、小田原北條氏の時代は油壺城、そして新井城と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。城の築城年代と築城者は不明であるが、一説に鎌倉時代は宝治元(1247)年に起こった鎌倉幕府の内乱[c]幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。で滅亡したかにみえた三浦一族にあって佐原氏の系統が生き残り、一族の拠点として築いたとも。そして元弘2(1334)年に三浦介(みうらのすけ)を継いだ三浦時継(みうら・ときつぐ)の代から城を整備・拡大し、さらには周囲の豪族ら[d]小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。と姻戚関係を結びつつ勢力を拡大して三浦半島全域と相模国南部を治めるまでに復活を果たしたが、室町時代後期には新たに伊豆国より台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[e]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。が時の三浦家当主・道寸の目の前に立ちはだかった。

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a. 読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。
b. 別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。
c. 幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。
d. 小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。
e. 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。

長篠城 − Nagashino Castle(TAKE2)

設楽原決戦の惨敗の「狼煙」となった鳶ヶ巣山砦跡には将士らの供養碑が建っていた

天正3(1575)年5月8日[a]これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。武田四郎勝頼は1万5千の兵を動員して奥平貞昌(おくだいら・さだまさ)が僅か500の兵で守備する三河国長篠城を包囲した。勝頼は、寒狭川(かんさがわ)と三輪川[b]現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川(うれがわ)。が合流する断崖に築かれた城を真北から見下ろすことができる医王寺山に陣城を築いて本陣とし、その前衛の大通寺と天神山と岩代に攻城勢、そして寒狭川対岸の有海村(あるみむら)と篠場野に遊軍、さらに三輪川の対岸は乗本(のりもと)周辺の尾根筋に五つの砦を配置して城を四方から包囲した。寡兵とはいえ城内には200丁もの鉄砲があったため、大通寺勢は巴城(はじょう)郭から、天神山勢と岩代勢が大手口から同時に正面攻撃するも苦戦を強いられた。ここで、前年に高天神城を落城させて勝気に逸る[c]父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。勝頼は守備側の不意をついて、寒狭川と三輪川の激流によって削られた渡合(どあい)あたりに攻撃隊を渡河させ、城の搦手にある野牛(やぎゅう)郭を攻撃する陽動作戦を敢行、城正面の守備隊を分散させることに成功し巴城郭と弾正郭を制圧した。これにより残るは本郭と二郭のみとなり、まさに風前の灯(ともしび)となった長篠城を見下ろす勝頼の下に宿敵「信長来る」の一報が届いた。

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a. これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。
b. 現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川(うれがわ)。
c. 父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。

菅谷館 − Sugaya Castle

菅谷館には坂東武者・畠山重忠の居館があったが、現在の遺構は戦国時代の城跡である

埼玉県は比企郡嵐山(ひきぐん・らんざん)町菅谷757にある県立嵐山史跡の博物館は、鎌倉幕府で源頼朝の有力御家人の一人として重用された畠山重忠(はたけやま・しげただ)が文治2(1187)年まで居住していたと伝わる菅谷館の跡地に建っている。この館跡について築城年や築城者といった起源については明らかではなく、重忠が文久2(1205)年の武蔵国二俣川の戦い[a]この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。の際にこの小衾郡菅谷館(おぶすまぐん・すがやのたち)から出陣したと云うのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記録されているのみである。その後は戦国時代初期で太田道灌亡き後に、山内・扇ヶ谷上杉両氏が18年もの間争った長享の乱の際に城郭として改修されたと云う。この時、山内上杉氏が「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と道灌の嫡男・太田資康(おおた・すけやす)に命令したとされるが、この「須賀谷旧城」が菅谷館跡にあたるとされ、現在、博物館周辺に残る土塁や堀といった遺構はこの時代のものとするのが通説である。この城跡は、平成20(2008)年には松山城跡杉山城跡、小倉城跡と共に比企城館跡群(ひきじょうかんあとぐん)として国指定史跡となった[b]それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

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a. この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。
b. それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

柳河藩立花家江戸屋敷跡 − Tachibana’s Edo Residences of the Yanagawa Domain

東京都台東区界隈にあった柳河藩・立花家の江戸藩邸跡には太郎稲荷が建っていた

福岡県・筑紫地方南西部に位置する柳川市は、明治の初めまで12万石の柳河藩[a]ここでは、藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。にあたり、その起藩にあたっては今から430年以上前の天正15(1587)年に豊臣秀吉が九州平定に功績のあった立花宗茂に下筑後四郡13万余石を与え、山門郡柳川を城地として定めたところまで遡る。しかし宗茂は、秀吉死後におこった関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の一人として西軍について敗戦、徳川家康により改易・牢人となる。あとを継いだのが石田三成捕縛の功により筑後一国を拝領した田中吉政で、同じく柳川で領内統治を行った。吉政は掘割と用水路、そして街道[b]田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。を整備し、現代の柳川市の基礎となる町作りに貢献したと云う。その後、田中家は無嗣断絶のために二代で改易となり、元和7(1621)年に奥州棚倉の赤館で大名に復帰していた宗茂が20年ぶりに10万石余で柳川の領主に返り咲くと、明治まで柳河藩・立花家12代が治めるに至った。宗茂はその翌年に二代将軍・秀忠への御礼言上のため江戸へ参府し、併せて江戸藩邸の普請を開始した。この藩邸は上屋敷・中屋敷・下屋敷から成り、それらは現在の東京都台東区千束(せんぞく)から下谷(したや)、そして三筋(みすじ)周辺にあたる。

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a. ここでは、藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。
b. 田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money(TAKE2)

信綱寺は真田信綱が開基し、のちに弟の昌幸が長兄の牌所として改築した

真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんた・さえもんのじょう・のぶつな)は、「六連銭(むつれんせん)」を旗印にして戦国時代から江戸時代に渡って[a]真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。勇名を馳せた信濃国は小県(ちいさがた)郡の国衆の一つで、外様ながらも甲斐武田家中では『譜代衆同意』の立場まで上りつめ[b]牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。、その中興の祖と云われた真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうのじょう・ゆきつな)[c]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。の嫡男として天文6(1537)年に真田郷で生まれた。母は重臣・河原隆正(かわはら・たかまさ)の妹で、のちの恭雲院(きょううんいん)殿。兄弟は六つ下に昌輝(まさてる)、さらに四つ下に昌幸と信尹(のぶただ)、その下に信春[d]生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。と清鏡(きよあき)[e]幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。が居た。父子ともに武田信玄と勝頼の二代に仕え、信濃先方衆(しなの・さきがたしゅう)[f]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。でありながら独立した軍団をも擁していた御先衆(おさきしゅう)の筆頭として、最後は騎馬200騎持ちの侍大将になった。父が海野平合戦に敗れた幼少時は、上野国は箕輪城主・長野業政の下で過ごし、のちに武田家に臣従すると上野攻略や川中島合戦、そして西上作戦にいたる武田家の主要な戦に参陣した。しかし、元亀4(1573)年に信玄が死去、その翌年には父・幸綱が亡くなり、そしてその一年後に信綱も弟の昌輝と共に設楽原合戦で討ち死にした。

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a. 真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。
b. 牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。
c. 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
d. 生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。
e. 幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。
f. 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。

設楽原古戦場 − The Battle of Nagashino

天正3(1575)年6月末、歴史的な野戦が行われた場所には「決戦場」の碑が建つ

天正3(1575)年5月16日[a]この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。、三河国長篠城を1万5千の兵で包囲して孤立させ、残る郭は本丸と二の丸のみとした武田勝頼は、医王寺山[b]この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。に構えた本陣にて「信長来る」との一報を受け取った。そして5月19日、宿老らを集めて軍議を開くと勝頼は織田信長・徳川家康と無二の決戦を行うことを主張し、推し量った彼我の兵力差から甲斐国へ撤退することを主張する老練な「年寄り」らの意見を退け、寒狭川(かんさがわ)[c]豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。を渡って設楽原(したらがはら)[d]別名は有海原(あるみはら)。へ陣を進めると独断した。風前の灯となった長篠城を囮にし、設楽原の連吾川(れんごがわ)対岸に陣をはる信長軍を太陽を背に見下ろすような逆落しの斜面、そして梅雨の長雨によって飛び道具を無力化できるといった優位性が勝頼の決断を後押しした。そして3千を長篠城監視部隊として残し、残る1万2千を主力として大雨の中を密かに連吾川東岸辺りまで押し出させた。一方の織田・徳川連合軍3万8千は5月13日に岡崎城を出陣、まるで長篠城の後詰など考えていないかのように設楽原までの十里[e]日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。の道のりをのらりくらりと三日もかけて行軍してきた[f]これは、まるで長篠の梅雨明けに合わせたかのような進軍にも取れる。。そして連吾川西岸に着陣するやいなや持参した大量の丸太で馬防柵の設営を開始、同時に別働隊の3千を鳶ヶ巣山(とびがすやま)へ向けて進発させた。

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a. この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。
b. この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。
c. 豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。
d. 別名は有海原(あるみはら)。
e. 日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。
f. これは、まるで長篠の梅雨明けに合わせたかのような進軍にも取れる。
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