城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

タグ: 日本の武将・勇将 (1 / 8 ページ)

主に歴史書や小説・文学書などで語り継がれ、日本人として誇ることができる武士(もののふ)たち

関宿城 − Sekiyado Castle

利根川の利点を活かして築かれ、利根川によって遺構が消えた関宿城

千葉県野田市関宿町[a]明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。にあった関宿城は、利根川と江戸川[b]江戸時代までは逆川《サカガワ》。が分岐する微高地上に築かれ、水運の要衝を押さえる城として中世から近世まで存続した。戦国時代には東国の中央という地理的な位置に加え、同じ下総国の小金城から栗橋城を経て、この時に関東を二分していた勢力の一人・古河公方[c]京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。がいる古河城の前衛と云う政治的な位置でも要の城であった。また、もう一方の勢力の小田原北條氏をして「一国を取りなされ候にも替わるべからず候」(喜連川文書)[d]現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。と云わしめた城でもあった。公方の片腕で関宿城主の簗田晴助《ヤナダ・ハルスケ》は形勢逆転を目論み、越後国の長尾景虎を頼るも、数度に渡る関宿合戦ののち北條氏政に屈した。そして小田原北條氏滅亡後、この城の位置付けを重要視した徳川家康は異父弟の松平康元に与え関宿藩を立藩した。明治時代に廃城となり、その後に繰り返された利根川改修と堤防建造により遺構は消滅したが、平成時代に建てられた県立関宿城博物館では城と利根川の歴史を今に語り継いでいる。

続きを読む

参照

参照
a 明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。
b 江戸時代までは逆川《サカガワ》。
c 京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。
d 現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。

下総小金城 − Kogane Castle

小金城の鬼門である艮の方角にあった達磨口跡には土塁が残る

下総国北部一帯にかかる下総台地から伸びた台地と利根川(現在の江戸川[a]戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。)に挟まれるように形成されたいくつかの丘陵に跨って築かれ、中世城郭として最盛期には下総国北西部において最大級の南北約600m、東西約800mに及ぶ広大な城域を有していた小金城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。《コガネ・ジョウ》は、16世紀前半に千葉氏の家臣であり東葛地方[c]東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。に勢力を誇った高城氏の居城であった。この平山城は15mほどの高低差と複雑に入り組んだ地形を利用して、高さ2mほどの土塁と深さ10m前後の空堀を縦横に巡らせ、台地を削平して複数の郭を配していたと云う。戦国時代末には小田原北條氏の配下に入り、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では東海道北上勢の浅野長吉[d]のちの浅野長政。《アサノ・ナガヨシ》に攻囲されて落城した[e]その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。。その後、関東に入封した徳川家康の五男・松平信吉[f]現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。が3万石で小金城に入城するも佐倉城に転封となった後に廃城となった。現在は宅地化で消滅した土塁や畝堀など一部の遺構が復元されて、大谷口歴史公園として公開されている。

続きを読む

参照

参照
a 戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。
b 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。
c 東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。
d のちの浅野長政。
e その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。
f 現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。

私市城 − Kisai Castle

廃城後に耕地化が進んだ私市城跡で僅かに残る天神曲輪の土塁

埼玉県加須《カゾ》市根古屋633-2にあった私市城[a]これは古称。現代は「騎西城」と記すことが多い。本稿では城名を可能な限り古称で、現代の地名や絵図名は「騎西」と記す。《キサイ・ジョウ》は利根川とその支流が注ぐ平野部に位置し、江戸時代に編纂された武蔵国各郡の地誌目録である『武蔵志』によると「城地平にして亀の甲の如し」と記され、沼沢《ショウタク》[b]浅い池や沼に覆われた低湿地帯のこと。に浮かぶ要害であったと伝わる。築城時期は不詳であるが、城の名は武蔵七党《ムサシ・シチトウ》を構成する武士団の私市党《キサイ・トウ》に由来すると云われる[c]ただし、その関係を示す記録が存在しないため真偽は不明。。一方で、室町時代後期の歴史書『鎌倉大草紙《カマクラ・オオオゾウシ》[d]康暦2(1380)年から百年に及ぶ関東地方の歴史を記した軍記物。主に鎌倉公方・古河公方が中心。』には、康生元(1455)年に古河公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》に攻められて落城したとあり、これが歴史上の初見とされる。その後は、戦国乱世の関東にあって関東管領・山内上杉氏、古河公方・足利氏、小田原北條氏、そして越後上杉氏らによる争奪戦の舞台ともなった。現在残る遺構は江戸時代に立藩した私市藩の一部であるが、昭和時代の発掘調査で東西320m、南北260mの範囲に複雑な形状をした障子堀[e]豊臣秀吉が築いた大坂城と同様に、水濠の中にある障子堀で、堀を渡るのを阻止することが目的。が広範囲に渡って発見された。

続きを読む

参照

参照
a これは古称。現代は「騎西城」と記すことが多い。本稿では城名を可能な限り古称で、現代の地名や絵図名は「騎西」と記す。
b 浅い池や沼に覆われた低湿地帯のこと。
c ただし、その関係を示す記録が存在しないため真偽は不明。
d 康暦2(1380)年から百年に及ぶ関東地方の歴史を記した軍記物。主に鎌倉公方・古河公方が中心。
e 豊臣秀吉が築いた大坂城と同様に、水濠の中にある障子堀で、堀を渡るのを阻止することが目的。

深谷城 − Fukaya Castle

市の中心地にあった深谷城の遺構は失われ模擬城郭として公園化されている

唐沢川西岸の低湿地帯に築かれた深谷城は、室町時代中期の康生2(1456)年に山内上杉氏庶流にあたる深谷上杉家[a]山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。五代当主・上杉房憲が築いた平城であった[b]築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。。時は、第五代鎌倉公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》による関東管領・山内上杉憲忠《ヤマノウチ・ウエスギ・ノリタダ》の謀殺を発端として、関東一円を騒乱の渦に巻き込んだ享徳の乱《キョウトクノラン》の頃である。この乱で関東の政権は二分され、室町幕府と堀越公方、それを補佐する関東管領・山内上杉氏、そして相模国守護・扇ヶ谷上杉氏らの勢力は、利根川と荒川を挟んで古河公方と呼ばれるようになった成氏らの勢力と対峙した。山内上杉氏の陣営にあった房憲が拠点として築いたのが深谷城である[c]総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。。江戸時代に廃城となると、その後は大部分が耕地になり、宅地化が進んだ現在は埼玉県深谷市本住町17に深谷城址公園として名が残るのみであるが、実のところ近くにある富士浅間神社には外濠跡、そして附近の高臺院と管領稲荷神社には土塁の一部が残っていた。

続きを読む

参照

参照
a 山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。
b 築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。
c 総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。

武蔵本庄城 − Musashi Honjō Castle

武蔵国の本庄城跡と伝わる城山稲荷神社前には城址の碑が建つ

埼玉県本庄市本庄3丁目5-44にある城山稲荷神社は、戦国時代後期の弘治2(1556)年に本庄宮内少輔実忠《ホンジョウ・クナイショウユウ・サネタダ》が築いた本庄城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。跡である。武蔵七党《ムサシ・シチトウ》[b]鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。で最大勢力を誇った児玉党の流れをくむ本庄氏にあって東本庄館五代館主であった実忠は、往時は関東管領・山内上杉家の配下として天文14(1545)年に河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で小田原の北條氏康勢と戦った。戦は奇襲を受けた上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》率いる河越城包囲軍[c]一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。の大敗であったが、実忠は本陣で負傷しながらも憲政の退却を助けた。その功により憲政から感服を頂戴した上に西本庄の地を賜った。その後も小田原北条氏の攻勢が続き、ついに主人である憲政は本拠の平井城を捨てて越後の長尾景虎を頼って行った。一方、実忠はこの時に氏康に下り、のちに新たな拠点として西本庄の地に本庄城を築いたと云う。この城は天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で落城し、本庄氏も滅亡した。

続きを読む

参照

参照
a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。
b 鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。
c 一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。

倉賀野城 − Kuragano Castle

宅地化が進んだ倉賀野城の二ノ郭跡には城址碑が建つのみである

鎌倉時代に武蔵児玉党の流れをくむ秩父高俊《チチブ・タカトシ》[a]秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。が西上野と北武蔵の境界にあって烏川《カラスガワ》沿いに形成された河岸段丘上に居館を建てて倉賀野氏を名乗ったと云う[b]倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。。一説に、南北朝時代に東山道[c]五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。が通る交通の要衝として、この居館を拡張し戦略的な拠点としたものが倉賀野城とされる。戦国時代になると倉賀野氏は箕輪城長野業政と共に関東管領・上杉氏に仕え、それが故に小田原北條氏越後上杉氏甲斐武田氏らの勢力争いに巻き込まれることとなった。箕輪城を中心に「小豪族ネットワーク」を担う倉賀野城は、主人の居城である高崎城と似た縄張だったようで、烏川の蛇行部に沿って本郭を築き、それを囲むように二ノ郭と三ノ郭を配し、更にそれらを覆うように外郭(總曲輪)を設け、堀を巡らしていた。関白秀吉による小田原仕置後に廃城となると城跡は時代を追うごとに宅地化の波に埋もれ、現在は群馬県高崎市倉賀野町1461にある公園に城址の碑が建つ他、道路になった堀跡が名残となっている。

続きを読む

参照

参照
a 秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。
b 倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。
c 五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。

長岡城 − Nagaoka Castle

長尾駅近くのアオーレ長岡の敷地はかっての長岡城の二之丸跡にあたる

新潟県長岡市城内町二丁目にあるJR長岡駅は、かって越後長岡藩の藩庁が置かれていた長岡城跡にあたる。慶長3(1598)年に越後上杉氏[a]長尾上杉氏とも。のちの米沢上杉氏會津若松への国替えに伴い、代わりに国入した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の与力で、又従兄にあたる堀直寄《ホリ・ナオヨリ》は、居城である蔵王堂城の城域が信濃川の流路変動や洪水で侵食や破壊が進んできたことから、信濃川上流にある大島庄は平潟原《ヒラガタハラ》[b]現在の平潟神社や平潟公園がある辺り。に新城の築城を計画した。往時の平潟原は信濃川が形成した中洲で、直寄は水濠で囲まれ水運が利用できる近世城郭を目指したと云う。この地がのちの「長岡」である[c]その由来は低丘陵地帯の平潟原を遠くから見ると「長い丘」に見えたと云う説や、かって山城国にあった長岡京に似ているからなど諸説ある。。しかし直寄の御家騒動[d]兄や主家(堀氏)との確執によるもので、越後福嶋騒動とも。で築城は中断、のちに大名として復帰し工事を再開したが完成間近に今度は越後村上藩に転封となってしまった。代わりに徳川家の譜代大名の一人である牧野忠成《マキノ・タダナリ》が入封し、ついに長岡城と城下町を完成させて長岡藩主となった。この城は戊辰戦争で全焼し廃城となったが、江戸中期にも火災で全焼し再建されている。

続きを読む

参照

参照
a 長尾上杉氏とも。のちの米沢上杉氏
b 現在の平潟神社や平潟公園がある辺り。
c その由来は低丘陵地帯の平潟原を遠くから見ると「長い丘」に見えたと云う説や、かって山城国にあった長岡京に似ているからなど諸説ある。
d 兄や主家(堀氏)との確執によるもので、越後福嶋騒動とも。

栖吉城 − Suyoshi Castle

栖吉城の主郭虎口に設けられた外枡形は馬出として使われた

越後中郡《エチゴ・ナカゴオリ》[a]現在の新潟県の中越地方。は古志郡南部から蒲原郡三条へ連なる東山丘陵[b]現在は、同名の丘陵が愛知県にもあるので長岡東山丘陵と呼ぶ。にあって標高335mほどの城山山頂に築かれていた栖吉城は、東西に伸びる二つの尾根を利用し、西側にある本城(主郭)と東側にある古城(詰郭)からなる一城別郭[c]分郭とも。一つの城に本丸に相当する郭を二つ有する構造。他に遠江国の高天神城や陸奥国の猪苗代城(と鶴峰城)がある。の造りであった。主郭の東・西・南の三方を囲むように二ノ郭を、その南には三ノ郭をそれぞれ配し、これらの高い切岸には畝状阻塞《ウネジョウ・ソサイ》を設けた。詰郭にはその周囲に段郭を配し、東へ伸びる尾根には堀切と畝状阻塞で寄手の侵入を防ぐと云う越後の中世城郭の特徴が多く見られる縄張である。築城期は定かではなく、戦国時代の永正《エイショウ》年間(1504〜1521年)に古志長尾家五代当主・長尾孝景《ナガオ・タカカゲ》が築き、それまでの蔵王堂城から居城を移して古志長尾氏の本拠とした。その後、古志長尾家は生母の実家として長尾景虎擁立を支え、長尾上杉家の一門衆として活躍するが、御館の乱後に滅亡。栖吉城は上杉家の會津への国替え後に廃城となった。

続きを読む

参照

参照
a 現在の新潟県の中越地方。
b 現在は、同名の丘陵が愛知県にもあるので長岡東山丘陵と呼ぶ。
c 分郭とも。一つの城に本丸に相当する郭を二つ有する構造。他に遠江国の高天神城や陸奥国の猪苗代城(と鶴峰城)がある。

栃尾城 − Tochio Castle

東西は急峻な切岸を成し、南北に細長く弓形をした栃尾城の実城跡

新潟県長岡市栃尾町の西方に位置し、標高227.7mの鶴城山《カクジョウサン》山頂に実城[a]読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。を持つ栃尾城上杉謙信(長尾景虎)旗揚げの城として知られるが、現在見られる遺構は謙信死後に勃発した上杉景勝と上杉景虎による跡目争い(御館の乱)の時のもの。その城域は、山頂周辺の本城域、千人溜りのある中腹の中城域、そして麓の根古屋域で構成され、本城域は二の丸を中心に二つある尾根のうち、北側の尾根筋に実城・松の丸・三の丸・五島丸・北の曲輪を、西側の尾根筋に中の丸・琵琶丸・烽火台を配していた。郭はそれぞれ空堀(空濠)で区分され、中でも三の丸から千人溜りまで320mにも及ぶ大空濠は山頂から落ち込んで長大な竪堀へと変化する。また枡形の虎口を巡る大手道は意図的に屈曲させていた。これら一連の縄張は謙信在城の時代には見られず、御館の乱の時代に景虎方の本荘秀綱《ホンジョウ・ヒデツナ》らによって整備・改修されたものと考えられる。栃尾城は景勝勢による足かけ三年にわたる攻城戦で落城した。

続きを読む

参照

参照
a 読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。

与板城 − Yoita Castle

与板城は舌状台地北端にある比高70mの山頂に築かれた山城である

信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》[a]この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。丘陵の中央あたりから、黒川と信濃川の合流点に向かって突き出た標高107mの舌状部北端に、越後国守護代・長尾氏を支えた直江家の居城・与板城があった。中越を一望に収めることができる山頂に実城、二ノ郭、三ノ郭の主郭群が連なり、尾根を断ち切るように深く広い堀切によって区画された豪壮な山城であった。直江氏は、はじめ本与板城主・飯沼氏の家臣であったが、飯沼氏が守護代の長尾為景に滅ぼされると為景に臣従して本与板城を与えられ、城主・直江景綱[b]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。は為景死後、宿老の一人して上杉謙信を支えた。景綱のあとを継いだ信綱[c]惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・の婿養子となった。は、天正5(1577)年頃に与板城を築城して居城を移した。信綱は御館の乱[d]謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。上杉景勝を支持し、景勝方の拠点として与板城を守備、攻めてきた景虎方の本荘秀綱を撃退した。のちに信綱が刺殺されると、景勝の命で上田衆の樋口兼続が直江家の婿養子となり、直江兼続に改め、与板城主として城下町の整備の他、産業の奨励を推進し繁栄の礎を築いた。

続きを読む

参照

参照
a この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。
b はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。
c 惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・の婿養子となった。
d 謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。
« もっと古い投稿

© 2023 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders Noren先頭へ ↑