城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

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安土桃山時代の武将で、織田信長の婿養子であり、太閤秀吉の奥州仕置の第一人者で独眼竜の伊達政宗と唯一対等に渡り合えた猛将、「限りあれば、吹かねど花は、散るものを、心みじかき、春の山風」が辞世の句

猪苗代城と(附)鶴峰城 − Inawashiro Castle

磐梯山麓の小丘陵に築かれた猪苗代城の本郭は土塁で囲まれ掘立柱建物があった

福島県は耶麻郡猪苗代町字古城跡《やまぐん・いなわしろちょう・あざ・こじょうあと》7150-1にあった猪苗代城は、相模国の豪族・三浦義明《みうら・よしあき》の七男で、源頼朝の御家人であった佐原義連《さわら・よしつら》の孫・経連《つねつら》が建久2(1191)年に築いたのが始まりと伝わる。経連は、祖父が奥州合戦《おうしゅう・かっせん》[a]文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。の功で与えられた會津四郡のうち猪苗代を領し、子孫ともども猪苗代氏を称した。猪苗代氏は代々独立志向が強く、同族で黒川城(のちの會津若松城)を居城としていた會津蘆名氏とは対立と従属を繰り返していたが、のちに蘆名氏より養子を迎え一門衆に落ち着いた。しかし第十二代当主・猪苗代盛国《いなわしろ・もりくに》は嫡子・盛胤《もりたね》を猪苗代城から追い出し[b]隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ざんげん》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。伊達政宗に寝返えって摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗を招く原因を作った。以降、猪苗代城は蒲生上杉・加藤・保科ら會津領主によって城代が置かれ、幕末の戊辰戦争で焼失して廃城となった。なお猪苗代城の北西に伸びる丘陵上に築かれた鶴峰城《つるみねじょう》は猪苗代氏の隠居城として使われていたと云う。

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a 文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。
b 隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ざんげん》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。

向羽黒山城 − Mukaihaguroyama Castle

阿賀川沿いの岩崎山頂に築かれた向羽黒山城の一曲輪からは會津盆地を一望できた

鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人であった三浦一族[a]現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《みうら・どうすん》が最後の当主となった。の流れを汲む蘆名《あしな》[b]「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。氏が恩給地であった陸奥国會津で勢力を扶植《ふしょく》し、十六代当主・盛氏《もりうじ》の代に戦国大名として最盛期を迎え、越後国東部から會津四郡と仙道七郡の大部分[c]現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。を掌握して會津守護を自称した。また盛氏は永禄4(1561)年から永禄11(1568)年までのあしかけ8年の歳月を費やし、會津の要衝にあって阿賀川《あがかわ》[d]旧名は大川。沿いにある向羽黒山(現在の岩崎山)の山頂とその山腹を城域とする壮大で巨大な山城を築いた。これが福島県大沼郡会津美里町船場にあった向羽黒山城[e]岩崎城または巌館《いわたて》とも。である。そして、幼年であった嫡男の盛興《もりおき》を本城の黒川城(のちの會津若松城)主とし、自らは止々斎《ししさい》と号して隠居の身となり、この向羽黒山城を居城とした。ただし、隠居したとはいえ実質的には大御所として家中の全権を掌握し、持ち前の外交力を発揮して隣国の伊達家と並ぶ奥州屈指の大名に育て上げた。蘆名家滅亡後は伊達政宗蒲生氏郷上杉景勝らそれぞれが要衝として城を改修し、関ヶ原の戦後に廃城となった。

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a 現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《みうら・どうすん》が最後の当主となった。
b 「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。
c 現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。
d 旧名は大川。
e 岩崎城または巌館《いわたて》とも。

仙臺藩祖御霊屋・瑞鳳殿 − The Mausoleum of “Dokuganryu” Masamune

仙臺藩祖・伊達政宗公の御霊屋は仙臺城本丸と向かい合う経ヶ峯山頂に建つ

宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2にある瑞鳳殿《ずいほうでん》は、寛永13(1636)年に江戸藩邸で70年の生涯を閉じた仙臺藩[a]本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。祖・伊達権中納言政宗《だて・ごんちゅうなごん・まさむね》公の遺命により、仙臺城本丸と広瀬川を挟んで向かい合う経ヶ峯《きょうがみね》に造営された御霊屋《おたまや》である。桃山時代の遺風を伝える豪華絢爛な建築物として昭和6(1931)年には国宝に指定されたものの、昭和20(1945)年の米軍による仙台空襲で全て灰燼に帰した。現在、拝観可能な建物は昭和54(1979)年に再建されたもので、さらに平成13(2001)年には御廟の大改修が施され一部が創建当時の姿に戻った。瑞鳳殿の周辺には二代藩主・忠宗《ただむね》公の御霊屋である感仙殿《かんせんでん》と三代藩主・綱宗《つなむね》公の善応殿《ぜんのうでん》など仙臺藩主にゆかりある御廟が他にもいくつある上に、政宗公の菩提寺にあたる瑞鳳寺を含め、その一帯が「経ヶ峯伊達家墓所」として市指定史跡とされている。なお御廟再建に先立って実施された学術調査では政宗公の墓室から遺骸と共に公遺愛の太刀や脇差、そして煙管《きせる》など多くの副葬品が検出されたと云う。

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a 本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。

白石城 − Shiroishi Castle

白石城本丸跡に復元された天守はかって幕府をばばかり「大櫓」と呼んでいた

西に急峻な地形を呈す奥羽山脈と南の比較的なだらかな阿武隈高地によって挟まれ、阿武隈川の支流である白石川が形成した白石盆地の独立丘陵上に築かれていた白石城[a]読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。は、初め藤原秀郷(ふじわら・の・ひでさと)[b]平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔・藤原経清(ふじわら・の・つねきよ)の次男・刈田常元(かった・つねもと)が寛治5(1091)年頃に築いたとされる。刈田氏はのちの白石氏で、南隣の伊達氏から養子を迎えて戦国時代には伊達政宗の傘下に入る。しかし白石城を含む陸奥国刈田郡は天正19(1591)年の奥州仕置で没収され蒲生飛騨守氏郷に与えられると、家老の蒲生源左衛門郷成(がもう・げんざえもん・さとなり)を城代とし城下町を整備して本丸を石垣で囲うなどの改修を施した。この後に會津転封となった上杉権中納言景勝は城代として甘糟備後守景継(あまかす・びんごのかみ・かげつぐ)を置くが、豊臣秀吉に取り上げられた旧領の回復を目論む政宗は秀吉死後に、慶長5(1600)年の徳川内府による會津上杉征伐に呼応して白石城を急襲し開城させた。その後、片倉小十郎景綱が城主となって改修した近世城郭の白石城跡が現在、宮城県白石市益岡町1-16の益岡公園で復元・整備されている。

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a 読みは「しろいし・じょう」。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。
b 平安時代中期の武士。田原藤太(たわらのとうた)とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。

陸奥福嶋城 − Fukushima Castle

現在の福島県庁の入口にあたる県庁通りが、かっての福島城の大手門跡である

福島県福島市杉妻町2-16にある福島県庁周辺は、かっては奥州街道や米沢街道などが合流する陸奥信夫(むつ・しのぶ)郡にあって古くは室町時代から城郭が築かれ、奥州伊達氏の居城として杉妻城(すぎのめじょう)[a]「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。と呼ばれていた。伊達氏17代当主・政宗が他の奥羽諸大名らと抗争を繰り広げていた天正17(1589)年頃は杉妻城を含め伊達家にとって最大規模の領国を支配下に置いていた、まさに絶頂期であった[b]但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。。しかし天正19(1591)年の奥州仕置で豊臣秀吉によって領国の一部が召し上げられ、蒲生飛騨守氏郷が會津42万石[c]葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。に転封されると客将の木村吉清(きむら・よしきよ)[d]元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。に杉妻城を拠点とする信夫郡5万石が与えられた。この時、吉清は杉妻城を福嶋城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。に改めた。しかし氏郷が急死して蒲生氏が移封されると信夫郡を含む會津120万石は越後国から転封となった上杉権中納言景勝の領地となる。奥州仕置以降、旧領の奪還を目論む政宗との間に緊張が高まった関ヶ原の戦直前、福嶋城には猛将・本荘繁長[f]名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。が城主として派遣される。上方で西軍敗れるの報せを受け取った政宗は、すぐさま信夫山の麓まで侵攻し福嶋城に籠もる本荘繁長ら上杉軍と松川近くで激突した。

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a 「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。
b 但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。
c 葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。
d 元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。
e 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。
f 名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。

二本松城 − Nihonmatsu Castle

江戸時代に二本松城主・丹羽光重は石垣を多用した近世城郭に改修した

室町時代に奥州管領[a]奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。を拝命していた奥州畠山(おうしゅう・はたけやま)氏は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)[b]南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。で将軍側についたが敗北し一族の多くが討死した中で、畠山国詮(はたけやま・くにあきら)が安達郡二本松(あだちぐん・にほんまつ)まで落ち延びて二本松畠山氏[c]二本松氏、または奥州畠山氏とも。の祖となった。彼の嫡子・満泰(みつやす)の代には白旗ヶ峰(しらはたがみね)の麓に居館を移し、これがのちに二本松城となる。その後は怨敵・伊達政宗に攻められて開城[d]二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。し、伊達氏による対蘆名・佐竹の拠点となったが、豊臣秀吉による奥州仕置ののちに蒲生氏郷の所領となり城代が置かれた。氏郷が急死したあと會津120万石に移封された上杉景勝が城代を置いていたが関ヶ原の戦いで敗戦後、蒲生氏・加藤氏が続き、一度は天領になるが白河藩より転封されて二本松藩を立藩した丹羽光重(にわ・みつしげ)[e]第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。の居城となった。氏郷の時代に改修された二本松城であるが、光重の時代にはさらに大改修が施され現在、福島県二本松市郭内3丁目の霞ヶ城公園(かすみがじょうこうえん)で見る近世城郭に生まれ変わった。しかし丹羽氏10代の居城は幕末の戊辰戦争で新政府軍を迎え撃つも僅か一日で落城した。

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a 奥州は各地方をまとめるため「守護」職の代わりに「管領」職が置かれた。
b 南北朝時代、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟である直義(なおよし)とが争った内乱。
c 二本松氏、または奥州畠山氏とも。
d 二本松氏の第十代当主・義綱(よしつな)は相馬義胤(そうま・よしたね)の仲介により開城して蘆名氏のもとに落ち延びるも、のちに殺害されて二本松氏は滅亡した。享年16。
e 第六天魔王・織田信長の重臣の一人である丹羽長秀の孫。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle(TAKE2)

蒲生氏郷が黒川城を改築にした際の外郭遺構が現存し国指定史跡になっている

天正18(1590)年に豊臣秀吉がおこした奥州仕置の功により伊勢国松坂から陸奥国會津へ入封した蒲生飛騨守氏郷は、それまで伊達政宗の居城であった黒川城をより本格的な近世城郭へと改修した際に実戦に向けた縄張の見直しを行った[a]縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。。その際には郭内に相当する武家地を外郭[b]外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。で囲む惣構えに改めて、町人地を郭外へ移動した。一説に、氏郷は秀吉が築いた巨大で絢爛豪華な大坂城に匹敵するような城郭を築き、その威容を奥州各国に知らしめようとしていたとも云われている。氏郷亡きあと、この會津若松城は會津中納言・上杉景勝と氏郷の嫡子・秀行による小規模な改修の他、加藤嘉明・明成らによって石垣を多用した郭門などの防衛施設が強化され、最終的に會津中将・保科正之を藩祖とする會津松平家の居城として東北一の難攻不落の要塞として完成に至った。その最後は、慶応4(1868)年の會津戦争で新政府軍による力攻めでも落城せず開城後に廃城となったが、明治時代に個人に払い下げられて[c]のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。以来、一部を軍が使用していたものの大部分の史跡は保存され、昭和の時代に福島県会津若松市追手町にて現在観ることができる状態へと復元された[d]天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

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a 縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。
b 外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。
c のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。
d 天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

笠間城 − Kasama Castle

笠間氏の滅亡後に蒲生郷成は笠間城を石垣を多用し天守を持つ近世城郭に改修した

茨城県笠間市笠間3616に遺る笠間城は関東地方にある山城としては珍しく石垣を多用し二層の天守を持つ近世城郭であった。この地を治めていたのは鎌倉時代初めから18代続く下野守護・宇都宮氏の一族の常陸笠間氏[a]他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。で、標高182mほどの佐白山(さしろさん)の頂上に堅固な砦を築いたのが笠間城の始まりとされている。しかし天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後に宗家である宇都宮国綱との対立が表面化し、18代当主・綱家が討たれて笠間一族が滅亡[b]この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。すると国綱の側近が城主となった。その後、伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封された蒲生氏郷の嫡子・秀行は、父亡きあとに起こった家中の騒動[c]俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。を収めることができなかったため、秀吉により下野国宇都宮へ減封となったが、その際に家老の一人であった蒲生郷成(がもう・さとなり)が笠間城主となった。郷成はそれまでの砦から天然の地形を巧みに利用した近世城郭へと改修した。その実際は三の丸、二の丸、帯曲輪、そして天守曲輪を設け、各曲輪には白壁の土塀をまわし、虎口には城門を、そして要所には櫓を配置して、のちに「桂城」と称えるにふさわしい要害堅固な名城となった。

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a 他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。
b この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。
c 俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。

白河小峰城 − Shirakawa Komine Castle

白河小峰城の本丸跡には天守の代用として「御三階」と呼ばれた三重櫓が復元されていた

鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した白河小峰城は高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、天守級の三重櫓が建つ城郭となり、のちの會津戦争では激しい攻防戦が繰り広げられた。その落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。

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a 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。
b 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle

蒲生氏郷公が縄張した若松城の本丸跡に、現在は赤瓦葺きで五層の天守が建つ

福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名(さがみ・あしな)氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。

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a 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。
b さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。
c まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。
d 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。
e 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。
f 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。
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