Mikeforce::Castles

城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

タグ: 日本百名城 (2 / 5 ページ)

江戸城 − Edo Castle

太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城には京都伏見城から移築された伏見櫓が残る

康正2(1456)年頃というから今から500年以上も前に、相模国(現在の神奈川県や東京都)を勢力下においていた扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌資長が、ここ江戸城の原形を築いた。城はたった一年後の長禄元(1457)年に完成したと云うのだから、その規模や施設は簡素なもので、中世の城のような高石垣や幅広の水濠といったものは無く、土を穿(うが)って造った空濠や土居(土塁の古称)が主体であったと云う。とはいえ、この当時、今のJR東京駅のある丸の内あたりは松原つづきの海岸であったので、城中からの眺めはすこぶる良かったらしく、東に筑波山が、西に富士山が見えたらしい[a]太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く  富士の高嶺を軒端にぞ見る」。それから60数年後には小田原北条氏の属城となり、北条五色備(ほうじょう・ごしきぞなえ)[b]伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北条綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。の一人で青備の富永直勝や遠山綱景[c]TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。をはじめとする北条家江戸衆が城代となった。そして更に66年後の天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原仕置で小田原北条氏が滅亡すると、秀吉は徳川家康を東海道筋から江戸城を含む関東八州へ転封した。家康は、それから10数年後の慶長8(1603)年に江戸幕府を開府し、「天下普請」の名のもとに幕府200年の礎(いしずえ)とすべく江戸城の拡張に着手した。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く  富士の高嶺を軒端にぞ見る」
b. 伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北条綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。
c. TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。

箕輪城 − Minowa Castle

榛名山麓の丘陵上に築かれた箕輪城の大手門は虎韜門と呼ばれている

群馬県高崎市箕郷(みさと)町にある箕輪城は、今から500年近く前の明応から永世(1492〜1521)年間に関東管領・山内上杉氏の下で西上野を治めた箕輪衆筆頭の長野業尚(なりひさ)によって、榛名山の東南麓に広がる独立丘陵上の中心部に築かれた梯郭式平山城である。それから時代が戦国の世に移り変わるにしたがって勢力を拡大していった子の憲業(のりなり)と孫の信濃守業政(なりまさ)の代に一段と城が強化された。特に業政は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、そして越後の長尾景虎ら三雄が上州を舞台にして互いに覇権を争った時代に、あくまでも関東管領・山内上杉家の再興を図って箕輪衆を束ね、多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で孤軍奮闘した勇将である。業政死後、甲州勢の猛攻に子の右京進業盛(なりもり)は父の遺志を守り将兵一体となってよくよく防戦したが、永禄9(1566)年に箕輪城はついに落城した。信玄は内藤修理亮昌豊を城代として上野経営の拠点としたが、天正10(1582)年の滅亡後は織田家中の滝川一益が在城し、信長横死の後は北条氏康が四男氏邦が城主となった。さらに天正18(1590)年の北条氏滅亡後は徳川家康が重臣である井伊直政を封し、城の大改修と城下町を整備させた。その後、慶長3(1598)年に直政が和田城(のちの高崎城)を居城としたのにあわせて、箕輪城は廃城となった。

続きを読む

甲府城 − Kōfu Castle

徳川幕府直轄地だった甲府城は、廃城後に山梨県指定史跡として鉄門などが復元されていた

甲斐国の戦国大名であった武田氏が天正10(1582)年に滅亡した後は、織田信長・徳川家康による支配を経て、天下統一を果たした豊臣秀吉が天正18(1590)年に甥の羽柴秀勝と、尾張時代からの直臣である加藤光泰に命じて甲府城の築城を開始させた。そして、文禄2(1593)年に朝鮮へ出兵していた加藤光泰が病没[a]大洲藩祖でもある加藤光泰は、『北藤録』に拠ると文禄の役で軍監であった石田三成と対立したがために毒殺されたというが、この北藤録は三成死後およそ160年後に編纂されたものであり、にわかには信じがたい内容である。おそらく改易に対してぶつけようがない腹いせから三成を貶める内容になったのであろう。すると、浅野長政・幸長父子が入国して完成させた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後は、再び徳川家康が甲斐国を支配し、以降は徳川将軍家の子弟が城主となった。そして宝永元(1704)年に城主徳川綱豊(のちの六代将軍家宣)が五代将軍綱吉の養子になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が城代となって治めた。この柳沢氏は、甲斐武田家一門である一条氏の末裔であり、本家滅亡後は武田家遺臣の多くがそうだったように、徳川氏の家臣団に与していった一族でもある。それから、享保9(1724)年に大和郡山へ移封されるまでの約20年間は柳沢氏が甲斐国を治め、城下町が再整備されて大いに発展した。その後は幕府直轄地となって明治の時代を迎えて廃城となり、建物は全て取り壊されたものの、明治37(1904)年には山梨県甲府市の舞鶴公園(のちに舞鶴城公園)として市民に開放された。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 大洲藩祖でもある加藤光泰は、『北藤録』に拠ると文禄の役で軍監であった石田三成と対立したがために毒殺されたというが、この北藤録は三成死後およそ160年後に編纂されたものであり、にわかには信じがたい内容である。おそらく改易に対してぶつけようがない腹いせから三成を貶める内容になったのであろう。

躑躅ヶ崎館 – Tsutsujigasaki Fortified Residence

信玄の父・信虎が築いた甲斐武田家の居城・躑躅ヶ崎館は現在は武田神社として残っている

躑躅ヶ崎館は「武田氏館」とも呼ばれ、甲斐国守護であった武田信虎が永正16(1519)年に石和館(現在の山梨県甲府市川田町)からこの地に「府中」と呼ばれる居館(きょかん)を移したことから始まり、信虎の孫である四郎勝頼が新府(現在の山梨県韮崎市)へ移るまでの63年間、信虎・信玄・勝頼の三代に渡って武田家当主の館として使われた。在りし日の信玄公は、ある時はここから信濃の川中島へ、またある時は上野の箕輪城へ向かって出立したが、元亀3(1573)年には京へ上洛せんとこの門から出陣するも、その翌年には信州駒場で逝去し、自ら再びこの門をくぐることはなかった。この館は、一辺が約200mの正方形の主郭を中心として、その周りに配置したいくつかの副郭から構成された連郭式平城で、その周囲には重臣らの屋敷が立ち並び、その南方一帯には碁盤の目状に整備された城下町が開けていた。館の前方(南)には甲府盆地と富士山が、背後(北)には石水寺(現積翠寺)と詰城を持つ要害山が、そして東西を相川と藤川によって囲まれた立地にあった。天正10(1582)年3月に武田氏が滅亡した後は、織田家臣の河尻秀隆が入府し政務を取るも、同年6月の信長横死の混乱の中、武田の旧臣らに率いられた一揆勢に討たれる。その後は徳川家康の支配下に入るが、天正18(1590)年に甲府城が築かれると廃城となった。現在は大正期に造営された武田神社の境内の一部として、縄張を含め堀や土塁などが往時のままで遺されている。昭和13(1938)年に国の史蹟に指定された。

続きを読む

鉢形城 − Hachigata Castle

荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘の上にある鉢形城の本曲輪

埼玉県大里郡寄居町にある鉢形城は荒川と深沢川によって挟まれた河岸段丘の上に築かれた連郭式平山城で、川に面している南北はそれぞれ断崖絶壁で天然の要害になっている。この地は北関東の交通の要衝(ようしょう)にあたり、上州や信州方面を同時に望むことが可能な拠点であった。築城は、文明8(1476)年に関東管領だった山内上杉氏の家臣長尾景春[a]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。と伝えられている。のちに、山内上杉氏の家老で、寄居町花園城周辺の藤田郷を中心とする地域を支配した在地領主・武蔵七党と総称される猪俣党の藤田氏が治め、その十五代当主康邦に入婿した小田原の北条氏康が四男・氏邦が整備拡充し、現在に遺る規模になった。氏邦は鉢形城を上野を含む北関東支配の拠点としたが、そのため甲斐武田や越後上杉の攻撃を度々受けることとなった。天正18(1590)年には豊臣秀吉による小田原仕置がおこり、ここ鉢形城は重要な支城の一つであったが、氏邦は本城防衛のため不在で、城代黒澤上野介ら3千が籠城するも、豊臣方の北国口勢3万5千[b]加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。に包囲され、徳川軍の本多平八郎忠勝らが城の目の前にある車山から大砲を撃ちこんで被害を甚大にさせると、およそ一ヶ月後に降伏・開城した。現在は国の史跡に認定され、鉢形城公園として整備されている他、外曲輪には鉢形歴史館が設置されている。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
b. 加賀前田利家、越後上杉景勝の他、真田昌幸・信繁父子、徳川家康らそうそうたる顔ぶれ。

松代城/海津城 − Matsushiro AKA Kaidzu Castle

武田信玄が北信濃の拠点として築いた海津城は、のちに真田氏が入封し松代城と改称された

長野県長野市にある松代城は、永禄3(1560)年頃に甲斐の武田信玄が北信濃支配と越後の上杉家に対する軍事拠点として山本勘助に命じて築いた海津城が始まりと云われている。翌4(1561)年に上杉謙信が川中島へ侵攻すると、当時城代であった春日虎綱(高坂弾正昌信)は信玄ら本隊の到着を待ち、甲越両軍が八幡原で激突した(第四次川中島合戦)。そして、天正9(1582)年に武田氏が滅亡した後は織田家の森長可(もりながよし)が、そして同年の信長横死の後は上杉景勝が配下の須田満親(すだみつちか)がそれぞれ城代となり、慶長3(1598)年に上杉家が會津に転封されると豊臣秀吉の直轄地となった(城代は田丸直昌)。そして慶長5(1600)年には森忠政が城主となるが関ヶ原の戦での功績により美作(みまさか)の津山城に移封されると、慶長8(1602)年に徳川家康の六男・松平忠輝が城主となった。家康ら幕府から疎んじられていた忠輝が改易された後は、松平忠昌、酒井忠勝を経て、元和8(1622)年に上田城から真田信之が10万石で入封し松代藩を藩立した。そして三代藩主の幸道の時代に松代城と改称し、以後約250年間、明治時代の廃藩置県まで真田家の居城となった。

続きを読む

上田城 − Ueda Castle

信州真田氏の居城として有名な上田城の現在の遺構は仙石氏の時代のもの

上田城は、天正11(1583)年に真田昌幸によって上田盆地の千曲川近くにあった天然の要害「尼ヶ淵(あまがふち)」と河岸段丘を利用して築かれた平城である。北信濃の一国衆であった真田の名を一躍全国レベルに知らしめた二度に渡る上田合戦の舞台でもある。天正10(1582)年4月に武田家が滅亡した後、真田家は関東管領となった滝川一益の麾下に入り、沼田城岩櫃城が接収されていたが、同年6月の本䏻寺の変で一益が厩橋(まやばし)城を退去すると、信濃国を巡って勃発した越後上杉、小田原北条、三河徳川らによる争奪戦(天正壬午の乱)の「どさくさ」を利用して築城した。しかしながら、真田と徳川の間でくすぶりつづけていた沼田の譲渡問題が表面化すると、昌幸は「父祖伝来の土地であり徳川にとやかく言われる所存ではない」と頑として跳ねつけたことが遠因で上田合戦が始まる。第一次上田合戦時は次男・信繁を上杉家に人質として出すことで援軍を求めることができ、持っていた智謀と天然の要害を利用して、詰城である砥石城の信幸を囮にし城下町でゲリラ戦を行って徳川軍を敗走させた。そして第二次上田合戦時は、関ヶ原戦の緒戦で秀忠ら徳川本軍をきりきり舞いにし、天下分け目の大一番に遅参させることに成功した。こういうことで徳川軍を二度も蹴散らした堅城であったため、昌幸らが九度山に配流された後は、「恨み辛みをこの上田城にぶつけて」 徹底的に破却されてしまった。そのため、現存している西櫓も関ヶ原の後の上田藩仙石氏によるもの。この堅城、現在は長野県上田市で上田城跡公園として市民に開放され、花見の季節には大賑わいをみせている。

続きを読む

山中城 − Yamanaka Castle

箱根路の守備の要となった山中城は畝堀(うねぼり)など北条流築城術の宝庫である

静岡県三島市にある山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に小田原に居城を置いた北条氏康が甲州武田氏の侵攻に備え、箱根の守りとして築城された山城である。それから時が経ち、天正17(1589)年に豊臣家と手切れになった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備えて急遽、堀の整備や岱先出丸(だいさき・でまる)などの増築工事を開始、翌18(1590)年2月の開戦間際まで工事が進められた。同年3月末には、秀吉本軍が沼津の三枚橋城[a]陸奥国の津軽為信(つがる・ためのぶ)は、この城で豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。に着陣、軍議の結果、箱根路の最前線にある、ここ山中城には羽柴秀次を総大将に、中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末ら4万に及ぶ兵で攻撃することが決まり、3月29日未明には攻撃が始まった。工事が未完了のまま山中城に籠城する北条方は、小田原本城より援軍として派遣された間宮康俊を含む4千で奮戦したが、まずは岱先出丸が陥ち、本丸も程なく突き破られ、北の丸で最後の反撃をするも叶わず、城主・松田康長は討死、北条氏勝[b]黄八幡で勇名を馳せた北条綱成の孫にあたる。は玉縄城へ落ち延び、わずか半日で落城した。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 陸奥国の津軽為信(つがる・ためのぶ)は、この城で豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。
b. 黄八幡で勇名を馳せた北条綱成の孫にあたる。

八王子城 − Hachiōji Castle

八王子城の大手道から曳橋ごしに眺めた御主殿虎口

東京都八王子市にある八王子城は、小田原北条氏(後北条氏)の三代目当主・氏康の三男、北条氏照が築いた山城である。天正年間(1573〜1592)に築城が開始され、天正12(1584)年から同15(1587)年の間に、それまでの居城であった滝山城から拠点を、ここ八王子城に移した。ちなみに氏照は、信濃国木曽氏一門で武蔵滝山城主であった大石定久の娘と養子縁組して、大石源三郎氏照と名乗り、のちに大石家の家督を譲られると武蔵国の国衆を束ね、その支城のネットワーク化に尽力した。氏照は大石家の家督を継ぐと同時に滝山城を居所としたが、小田原城攻略に向かう途中だった武田信玄率いる甲州軍二万に攻め込まれ、三の丸まで突き崩されて落城寸前まで追い込まれたものの、辛くも凌いだという経験から平山城での防衛に限界を感じ、山城の築城に着手したのが八王子城のはじまり。この時、氏照が構想していた城郭は壮大で、織田信長の安土城を参考にしたとも云われている。その後、豊臣秀吉による小田原仕置が始まり、天正18(1590)年に加賀前田、越後上杉、信州真田ら北国口勢に攻められて落城した。この時、城主の氏照は本城の小田原城にて籠城していたため、八王子城防衛は城代・横地監物吉信とその家臣らの僅かな兵の他、農民や婦女子を加えた三千で籠城していたが激戦の末、一日で落城、氏照正室を始めとする婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血の色に染まったという。この落城が決め手となり、本城の小田原城も開城・降伏することになり、主戦派だった氏政と氏照は城下で切腹となった。その後、当主・氏直も配流先の九度山で亡くなり、ここに小田原北条氏は滅亡した[a]実際のところは小田原北条三代目氏康の五男で氏政の弟にあたる氏規とその子氏盛の代には、1万1000石で河内狭山藩主として大名に列している。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 実際のところは小田原北条三代目氏康の五男で氏政の弟にあたる氏規とその子氏盛の代には、1万1000石で河内狭山藩主として大名に列している。

小諸城 – Komoro Castle

重要文化財である小諸城の大手門は実戦的で、華美な装飾を省いた質実剛健な城門である

長野県小諸市にある小諸城は、平安時代末期に平家物語や源平盛衰記に登場する源氏・木曽義仲の配下の小室太郎光兼が館を構えたのが始まりで、のちに土豪・大井氏が小室氏の勢力を抑えて、その付近に鍋蓋城と支城を築いた。戦国時代になると、甲斐の武田信玄により鍋蓋城は落城し、その跡地に山本勘介と馬場信房に縄張させ築城したのが小諸城(別名:酔月城)である。武田氏が滅亡して織田信長の家臣・滝川一益が関東管領として信濃を支配するも、信長が横死した後は、相模北条、三河徳川、信州真田、越後上杉らの争奪戦が勃発、そして豊臣秀吉による小田原の役を経て、仙石権兵衛秀久が小諸五万石の大名として入国した。秀久は本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を建てたと云う。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では中山道を進んだ徳川秀忠ら徳川軍の主力が入城し、西にある上田城の真田氏を牽制するも、真田昌幸の計略に翻弄され敗退、天下分け目の戦に遅参するという失態をおかした。その後、引き続き江戸時代初期も仙石秀久・忠政父子の二代が小諸を治め、大手門や石垣などの城郭と城下町・街道の整備を行った。それから仙石氏が上田藩へ移封されるまでの32年の間に、現在の小諸の街の原型が築かれたと云う。その後は徳川氏、松平氏、牧野氏らが藩主を勤め、明治時代の廃藩置県で役割を終えた小諸城本丸では「懐古神社」を祀り、三の門より城内は「懐古園」として市民に開放された。

続きを読む

« もっと古い投稿 もっと新しい投稿 »

© 2019 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders Noren先頭へ ↑