愛知県小牧市堀の内1丁目1番地にある小牧山城跡は、戦国時代の永禄6(1563)年に尾張国をほぼ統一した織田信長が隣国の美濃攻略のために築いた城で、標高85mほどの独立丘陵に位置し、山頂部の主郭は巨石で囲われていたと云う。信長は清州城から居城を移し、城の南西麓に東西約1km四方に及ぶ城下町を整備、併せて重臣らの屋敷を城下に配した。四年後に美濃・斎藤龍興を攻略したあと居城を稲葉山城に移し、城下町を整備した上で岐阜城に改め、ここ小牧山城は廃城とした。それから十七年後の天正12(1584)年、信長亡きあとの織田家と関係が悪化した羽柴秀吉は織田信雄と対立、その信雄と同盟を結んだ三河国の徳川家康を相手に尾張で対峙した。この小牧の戦い[a]現代では「小牧・長久手の戦い」とまとめて表記されることが多いが、それぞれ別の場所での戦いなので区別して表記すべき(「小牧長久手」なんて表記は歴史について何も分かっていない 😞️。)。小牧の戦いは羽柴勢と徳川・織田勢が緒戦から対峙した戦い。で犬山城から楽田城へ本陣を移した秀吉に対し、家康は廃城となっていた小牧山城跡を修築して本陣とした[b]城としては廃城のまま。ただの山(小牧山)を陣地として利用しただけ。。この時、家康は土塁を高め、堀を深くするなどの防御工事をわずか五日間で完成させたとされ、現在はこの時代の姿が小牧山史跡公園として残っている。
タグ: 日本百名城 (1 / 6 ページ)
2006年に財団法人日本城郭協会が定めた日本国内の名城の一覧
木曽川南岸にあって標高85mの丘陵北端が最頂部を本丸とし、そこから南へ幾重もの郭《クルワ》を階段状に配し、山麓にある三ノ丸との間に濠を設けることで、大河を背にした後堅固《ウシロケンゴ》の山城[a]城郭構造としては平山城に相当する。として完成した犬山城は、桃山末期から江戸初期[b]桃山時代の慶長元(1596)年〜江戸時代の元和元(1615)年あたり。に小笠原吉次《オガサワラ・ヨシツグ》が建造したと伝わる木造天守が最終的に望楼型三層四階に改修され、明治4(1871)年の廃城後に個人の所有物となり、昭和の時代には國寳に指定されて、国内でも数少ない現存天守の一つとしてその姿を今に残している。美濃と尾張の国境をおさえる要衝に築かれたこの城の歴史は古く、戦国時代の天文6(1537)年に織田信康《オダ・ノブヤス》が築城し、甥の信長による美濃攻略、そして小牧の戦いでは池田勝入《イケダ・ショウニュウ》[c]信長とは乳兄弟である池田恒興。初め織田信雄・徳川家康方に与すると思われたが羽柴秀吉に調略された。が入城して羽柴勢の拠点となるなどした。江戸時代初めに家康の側近の一人で、尾張徳川家の附家老であった成瀬正成《ナルセ・マサナリ》が拝領すると、廃城まで犬山成瀬家13代[d]犬山藩最後の当主は9代目。廃城後も(譲渡された個人として)城主を務めた。が城主を務めた。
鎌倉時代に、政所執政の二階堂行政《ニカイドウ・ユキマサ》[a]源頼朝死後の鎌倉幕府で「十三人の合議制」に加わった文官の一人。鎌倉の二階堂に居館があった。某大河ドラマでは野中イサオ氏が演じていた。が京への押さえとして美濃国の井之口山《イノクチヤマ》[b]稲葉山、現在は満開のツブラジイで山全体が金色に輝いて見えることから金華山とも。に築いた砦は、戦国時代初めに美濃守護代を務めた斎藤利永《サイトウ・トシナガ》が城塞化した。天文7(1538)年には、巧みな話術と機転の良さを武器に伸し上がって守護代の名跡を我が物とした斎藤利政(号して斎藤道三)が稲葉山城の主となり、美濃守護の土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》を追放して美濃一国を支配する拠点とした。道三死後の永禄10(1567)年には、尾張国を統一した織田信長が攻め落として岐阜城と改め、この城を足がかりにして天下布武を推し進めた。その後、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに先立つ攻防戦では、僅か一日で落城し、翌年には廃城になった。標高330mほどの急峻な山頂に築かれた要害ではあったが七度も落城し、さらには道三以降ほとんど全ての城主が不幸な末路を遂げている[c]徳川家康が岐阜城を早々に廃城にしたのは、この不吉さがあったからかもしれない 😅️。。現在、山上部には復興天守が建ち、山麓部には信長が築いたとされる城主居館跡が残る。
新潟県新発田市大手町6丁目にある新發田城 [a]これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。跡(新発田城址公園)は、慶長3(1598)年に太閤秀吉の命で加賀国は江沼郡《エヌマグン》・大聖寺城《ダイショウジ・ジョウ》から越後国は蒲原郡《カンバラグン》・新發田6万石へ入封した丹羽長秀[b]第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。の与力の一人、溝口秀勝《ミゾグチ・ヒデカツ》が、かっての国主・上杉景勝に謀反して滅んだ新發田氏の館跡[c]城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。に築城を開始し、それから56年後の承応3(1654)年、三代当主・宣直《ノブナオ》の代に完成した近世城郭であった。往時は加治川《カジガワ》と沼地を利用した城域で、本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南側に突き出た輪郭・梯郭併用型の平城であった。縄張は、新發田藩初代藩主となった秀勝の家臣で軍学者の長井清左衛門《ナガイ・セイザエモン》[d]清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。と葛西外記《カサイ・ゲキ》が担当した。寛文8(1668)年に火災で多くの建物を焼失したがのちに再建され、明治時代の廃藩置県で廃城となった。平成16(2004)年には三階櫓および辰巳櫓が古写真をもとに木造で復元された。
参照
↑a | これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。 |
---|---|
↑b | 第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。 |
↑c | 城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。 |
↑d | 清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。 |
長野県伊那市高遠町東高遠にある高遠城址公園はかっての高遠城[a]別名は渭山《イスイ》城、または兜山城とも。跡で、戦国時代初めに信濃国諏訪郡一帯を治めていた諏訪家一門の高遠頼継《タカトオ・ヨリツグ》の居城であった。そして天文10(1541)年、甲斐国の新しい主となった武田晴信は頼継と共に諏訪郡へ侵攻[b]頼継(とその一族)は諏訪の惣領家と長い間対立しており、諏訪頼重の祖父である頼満に敗れ傘下となった経緯がある。しこれ平定するが、もともと諏訪家惣領になりたがっていた頼継は若い晴信を侮ってのちに兵をおこし武田の守兵を追い払うと諏訪の上・下両社を手に入れた。怒った晴信は天文13(1544)年に頼継を一戦に打ち破って伊那郡を平定すると、山本勘助と秋山虎繁[c]諱《イミナ》として有名なのは「信友《ノブトモ》」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ「武田の猛牛」と渾名された。に命じて伊那谷における拠点として高遠城を改修させた。さらに永禄5(1562)には晴信と諏訪御料人との間に生まれた四郎勝頼が城主となるが、元亀4(1573)年に晴信(信玄)が没し、天正3(1575)年には長篠・設楽原合戦で織田信長と徳川家康の連合軍に惨敗、そして信長らによる甲州征伐が始まると高遠城は最終防衛拠点として勝頼の異母弟である仁科五郎盛信が入城し寡兵で織田の大軍を迎え撃った。
栃木県足利市家富町2220にある鑁阿寺《バンナジ》とその周辺の敷地は、「八幡太郎」こと源義家《ミナモト・ノ・ヨシイエ》から数えて三代目の源義康《ミナモト・ノ・ヨシヤス》[a]父は源義家の四男・義国《ヨシクニ》で31歳の若さで病死した。が平安時代の末期に、ここ下野国足利荘[b]現在の栃木県足利市にあった荘園。に下向して自らの邸宅に堀と土居を築いて居館としたのが始まりとされる[c]これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。。この時、自らは足利氏[d]足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。を名乗る一方で、兄の義重は新田氏の祖となった。そして義康の子・足利義兼《アシカガ・ヨシカネ》が発心得度して邸宅内に大日如来を本尊とする持仏堂を建立し、足利氏の氏寺《ウジデラ》とした。また、その子で三代目当主の足利義氏《アシカガ・ヨシウジ》[e]戦国時代初期に古河公方《コガクボウ》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。は父の死後に本堂を建立したが安貞3(1229)年に落雷で焼失した。その後、本堂は足利尊氏の父で、七代目当主である足利貞氏《アシカガ・サダウジ》により禅宗様式を取り入れたものに再建された。これが現在の真言宗大日派・鑁阿寺の本堂にあたり、大正11(1922)年には国指定史跡[f]本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。に、さらに平成25(2013)年に本堂が国宝に指定された。
新田金山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《ジョウシュウ》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。は太田金山城または単に金山城と呼ばれ、室町時代後期の文明元(1469)年に岩松家純《イワマツ・イエズミ》[b]岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《ミナモト・ノ・ヨシイエ》の四男・源義国《ヨナモト・ノ・ヨシクニ》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。が築いたのが始まりとされる。そして「下克上」が日ノ本での社会的風潮となった戦国時代初期は享禄元(1528)年に、岩松氏の筆頭家老であった由良成繁《ユラ・ナルシゲ》[c]はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。が主君を自害に追い込んで主家を乗っ取ると同時に新田金山城主の座についた。この城は、なだらかな平地にコブのように突き出た独立峰の金山山頂から樹根状に広がった尾根部を中心に縄張された山城であり、山頂部の実城、北方の北城、西方の西城、そして南方の八王子砦がそれぞれ大小の堀切によって分断されていた。古文書や発掘調査によると段階的に拡張されたとみられ、戦国時代の上野《コウズケ》の地にあって越後上杉氏、甲斐武田氏、相模北條氏といった有力大名らの抗争の狭間で改修と拡張を重ねていった結果と考えられている。現在、群馬県太田市金山町40-98にて復元整備されている金山城跡は昭和9(1934)年に国の史跡に指定され、堀切や土塁、そして石垣など中世の城郭としての遺構がよく残されている。
関ヶ原の戦が終わった慶長5(1600)年、『独眼竜』の異名を持つ伊達左京大夫政宗《ダテ・サキョウタユウ・マサムネ》が、広瀬川西岸の切り立った段丘上に築かれていた城跡[a]千体城、または千代城。国分《コクブン》氏の居城。のちに政宗と対立して滅亡した。に、二年余の歳月をかけて築いた山城が仙臺城[b]これは旧字体で、読みは《センダイ・ジョウ》。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体で、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と記す。である。それ以降13代270年にわたって伊達氏の居城となり、仙臺藩の政庁が置かれた。初代藩主である政宗は大規模な工事を敢行して青葉山に石垣と土塁で防備した本丸を築き[c]同時に、現在は「三ノ丸」と呼ばれている「東丸《ヒガシマル》」も築いた。ちなみに本丸の西にある郭が「西丸《ニシマル》」。、東と南は広瀬川と竜ノ口《タツノクチ》渓谷の断崖、西が険しい青葉山と御裏林《オウラバヤシ》に囲まれたまさに天然の要害であったが、徳川幕府による泰平の世にはもはや時代遅れの城郭であり、二代藩主・忠宗《タダムネ》の時代には平地に二ノ丸を造営して藩政の中心とし、急峻で幾度も折れ曲がる従来の大手道を廃止し、二ノ丸に大手門を築いて新たな登城道が整備された。ここで仙臺城は中世城郭の山城から近世城郭の平山城へと変貌した。明治4(1871)年に廃城となり、その後の火災や地震、米軍による仙台空襲によって城郭及び建造物の多くが焼失した。平成15(2003)年には国史跡に指定され、現在は宮城県仙台市青葉区川内1-2の仙台城跡として整備されている[d]平成23(2011)年3月11日の東日本大震災でも甚大な被害を被った。。
宮城県多賀市市川にある多賀城跡は、天平9(737)年に「多賀柵《タガサク》」[a]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《コダイ・ジョウサク》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。として初めて『続日本紀[b]平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《リッコクシ》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。』に登場し、他の史書では「多賀城」と記されていた。この城は、奈良時代に陸奥国の国府及び鎮守府が置かれた行政と軍事の拠点の一つで、神亀元(724)年に大和朝廷の命を受けた大野東人《オオノ・ノ・アズマビト》が、蝦夷[c]読みは《エミジ》。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。勢力との境界線にあって、松島方面から南西に伸びた低丘陵の先端に位置し、仙台平野を一望できる多賀に築いたのが始まりとされる。不整形な方形の外郭に築地[d]読みは《ツイジ》。土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。を巡らし、中央部に政務や儀式を行う政庁が建ち、その周囲には行政実務を担う役所や兵舎などが併設された。天平宝字6(762)年には藤原南家の四男・朝狩《アサカリ》が改修し、城外には道路で区画された町並みが形成された。しかし宝亀11(780)年には伊治呰麻呂《コレハリ・ノ・アザマロ》の反乱により城は焼失、後に復興されたが貞観11(869)年の大地震で建物は全て倒壊し、のちに再興された。最後は室町時代の南北朝争乱で落城・廃城となった。大正11(1922)年に国史跡に、そして昭和41(1966)年には特別史跡に指定された。
山形県山形市霞城《カジョウ》町1番7号にある霞城公園は、市内の中心部にあって馬見ケ崎川《マミガサキガワ》西岸に広がる扇状地北端に築かれていた羽州探題職《ウシュウ・タンダイシキ》[a]室町幕府が出羽国に設けた役職の一つで、他に大崎氏が世襲した奥州探題職がある。・最上氏の居城であり、のちに山形藩庁がおかれた山形城である。この城の起源は初代・羽州探題であった斯波兼頼《シバ・カネヨリ》が延文元(1356)年に出羽国最上郡山形に入部して築いた館であり、このとき室町幕府により許されて「最上屋形《モガミ・ヤカタ》[b]「屋形」とは公家や武家らの館のこと。特に室町時代から「名門」を謳われた武家の当主や藩主に対する称号とされた。」と称すようになったのが最上氏の始まりとされている。近世城郭としての原型は、第十一代当主で出羽山形藩の初代藩主である最上義光《モガミ・ヨシアキ》が文禄から慶長期(1592〜1615年)に拡張したもので、この時に本丸・二ノ丸・三ノ丸が築かれ、三重の堀と土塁が巡らされた輪郭式平城が完成した。のちに藩主となった鳥居忠政《トリイ・タダマサ》[c]徳川家康の家臣で、関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城籠城戦で自刃した鳥居元忠《トリイ・モトタダ》の次男。長兄が早世していたため嫡男となる。改易された前藩主・最上氏に代わって山形藩主となった。は元和8(1622)年に現在公園で見ることができる二ノ丸の堀や石垣などを整備した他、明和4(1767)年には藩主・秋元涼朝《アキモト・スケトモ》[d]幕府の老中の一人で、武蔵国河越藩・河越城主。転封されて山形藩主となる。が三ノ丸に御殿を新造した。明治3(1870)年に廃城、そして昭和24(1949)年に本丸と二ノ丸が公園として市民に開放された。
最近のコメント