Mikeforce::Castles

城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

タグ: 日本百名城 (1 / 5 ページ)

2006年に財団法人日本城郭協会が定めた日本国内の名城の一覧

長篠城 − Nagashino Castle

武田と徳川の激しい争奪戦の舞台になった長篠城は二つの川が合流する断崖に築かれていた

元亀3(1572)年、反織田信長を糾合して挙兵した足利幕府第15代将軍・足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。の呼び掛けに応えるかのように満を持して西上作戦を発動した武田信玄は、信長の盟友・徳川家康が支配する三河国へ侵攻、三方ヶ原の戦いではその戦上手な軍略をもって徳川勢を痛破し、東三河の要衝・野田城を落城させたものの、自らの持病[b]肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。が悪化したことで、馬場・内藤・山縣ら古参の重臣らは涙をのんで作戦の中止と甲府への撤退を決断、しかし無念にもその帰路の信濃国駒場で急死した。享年53。この時、生前の信玄が療養のため滞在していた長篠城が現在の愛知県は新城市(しんしろし)長篠字市場にあり、城の一部が国指定史跡になっている。往時、この城は豊川と宇連川(うれかわ)という二つの川の合流点[c]これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。にある断崖上に築かれていた平城であった。もともとは奥三河の土豪・菅沼元成(すがぬま・もとなり)が築城、その子孫の居城となっていたが信玄の三河侵攻で降伏していた。そして信玄死去後に巻き返しを図った家康により城主・奥平貞昌が寝返って徳川方に入った。一方、父の遺言「自身の死を三年の間は秘匿し、侵略戦は控えよ」に従っていた武田勝頼は三河・遠江を取り戻すため、機山公[d]武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。の喪が明けぬ天正3(1575)年春に1万5千の兵で長篠城を包囲した。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。
b. 肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。
c. これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。
d. 武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。

白河小峰城 − Shirakawa Komine Castle

白河小峰城の本丸跡には天守の代用として「御三階」と呼ばれた三重櫓が復元されていた

鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した城郭は、高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、「三重櫓」と称された天守級の櫓を持つ白河小峰城はのちの會津戦争で激しい攻防戦が繰り広げれ、落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。
b. 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle

蒲生氏郷公が縄張した若松城の本丸跡に、現在は赤瓦葺きで五層の天守が建つ

福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名(さがみ・あしな)氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。
b. さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。
c. まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。
d. 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。
e. 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。
f. 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。

五稜郭 − Goryōkaku

江戸幕府が箱館開港を機に築いた五稜郭は西欧の城塞都市に似た稜堡式城塞だった

幕末の箱館開港を機に、それまで箱館山の麓に置かれていた箱館御役所[a]箱館奉行所の前身。の移転先として築かれ、当時ヨーロッパ各地の城塞都市で使われていた稜堡(りょうほ)式城郭を採用し、五つの突角が星形の五角形状に配置され、土塁と水堀が巡らされていることから五稜郭と呼ばれた北海道で唯一の国指定特別史跡は、現在は函館市五稜郭町にある五稜郭公園として観光の名所となっている。それまでの御役所は箱館湾そばにあって、箱館山から見下ろすと全てが丸見えといった環境にあったため、湾内にいる軍艦からの砲撃から射程外となる場所へ移設する必要があった。そこで当時の諸術調所(しょじゅつ・しらべしょ)教授で、蘭学者でもあった武田斐三郎成章(たけだ・あやさぶろう・なりあき)によって設計された城郭は、安政4(1857)年から7年をかけて竣工、主に従来の櫓や土塀ではなく、砲弾の緩衝帯となるべく幅広く高さのある土塁で庁舎他20数棟の建物を覆い隠していたと云う。そして慶応3(1867)年の大政奉還後には明治政府によって箱館府が設置されたが、その翌年の明治元(1868)年10月には榎本武揚(えのもと・たけあき)率いる旧幕府軍が五稜郭を無血占拠して「蝦夷共和国」を樹立し、約半年間に及ぶ箱館戦争が始まった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 箱館奉行所の前身。

掛川城 − Kakegawa Castle

江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕(あさひな・やすひろ)によって遠江国佐野郡にある子角山(ねずみやま)丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能(やすよし)は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山(りゅうとうざん)に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼(じゅけいに)が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北条氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊(やまうち・かつとよ)が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。

河越城 − Kawagoe Castle

小江戸川越に残る川越城本丸御殿は県庁、工場、学校を経て現在に至る

室町時代後期の長禄元(1457)年に、扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあった太田資清(道真)・資長(道灌)の親子が築城した河越城[a]現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。は関東でも要の城として上杉氏六代、小田原北条氏四代の持城となり、河越夜戦など幾多の戦いの舞台ともなった。天正18(1590)年の太閤秀吉による小田原仕置後に関東に入封した徳川家康は、譜代筆頭の酒井重忠(さかい・しげただ)を封じ、ここに「川越藩」が立藩した。そして江戸時代中期には「知恵伊豆」こと松平信綱(まつだいら・のぶつな)が近世城郭に改修し、8つの曲輪と3つの櫓、そして12の門を持つ徳川家の親藩と譜代大名の居城となった。また天守は建てられなかったが、本丸西南隅の富士見櫓が城内第一の高所にあったためその代用となっていたらしい。嘉永元(1848)年には、藩として最大の石高を有した越前松平家の松平斉典(まつだいら・なりつね)が、その二年前に焼失した二ノ丸御殿を再建する代わりに本丸御殿を造営した。これが現在、埼玉県川越市郭町で県指定有形文化財となっている本丸御殿遺構である。明治元(1868)年、明治維新政府に恭順するために堀は埋められ、老朽化した建築物が解体されて、現在では富士見櫓跡と本丸御殿、そして中ノ門堀跡の一部が残るのみとなった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。

津和野城 − Tsuwano Castle

江戸時代に総石垣で改築された津和野城の南側は人質曲輪が三の丸に張り出していた

明治の世になるまでは津和野藩亀井氏の城下町であり、その古い町並みや佇まいをもって現在でも「山陰の小京都」と称される島根県鹿足郡(かのあしぐん)津和野町にある標高362mほどの霊亀山(れいきさん)の尾根を削平し曲輪を設け、堀切や竪堀・横堀で堅固とした津和野城は中世時代にあっては典型的な山城であった。鎌倉時代には、北九州への二度にわたる元(蒙古)軍の来襲を受けて、幕府は西石見の海岸防備を能登国の吉見頼行に命じ、ここ木曽野[a]現在の津和野町付近の旧名。へ地頭として下向させた。その頼行は永仁3(1295)年から約30年の歳月をかけて城[b]吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。を築いた。以後吉見氏は十四代300年にわたって増築補強を繰り返した。戦国時代になると吉見氏は、天文23(1554)年に大内氏・陶氏・益田氏らの大軍に包囲されながらも100日余の籠城戦にたえた「三本松城の役」を経てのちに西国の雄・毛利家の支配下に入り、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は萩へ退転した。その翌年、坂崎出羽守直盛[c]浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。が初代津和野藩主として3万石で入封し、本城を総石垣にして出丸を築き、現在みることができる近世城郭に大改修した。のちに坂崎氏が断絶すると、亀井政矩(かめい・まさのり)が入封し十一代に渡って津和野藩主を務めた。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 現在の津和野町付近の旧名。
b. 吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。
c. 浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。

佐倉城 − Sakura Castle

江戸幕府の重職を数多く輩出した佐倉城の本丸南には角馬出のような出丸がある

千葉県佐倉市城内町にある佐倉城は、印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を天然の外堀とし、周囲が湿地帯である台地の上に土塁を穿って築城した連郭式平山城で、戦国時代の中頃に本佐倉城を居城としていた下総国の戦国大名・千葉親胤(ちば・ちかたね)[a]その先祖は、千葉氏宗家・千葉自胤(ちば・よりたね)と関東管領山内上杉氏に反抗し、名将・太田道灌と幾度か合戦した千葉輔胤(ちば・すけたね)・孝胤(たかたね)父子である。が大叔父にあたる鹿島幹胤(かしま・みきたね)に命じて築城が始まり、鹿島城と呼ばれていたものの、親胤が暗殺(享年17)されたために一時中断となった。その後、親胤の直系にあたる千葉氏第29代当主・千葉邦胤(ちば・くにたね)は上総の雄・里見義弘の圧迫を受けることになったため築城を急ぎ再開したものの、邦胤もまた暗殺[b]天正13(1985)年の新年の祝賀の席にて近習の放屁を叱責したところ、恨みを持たれて就寝中に短刀で刺され死亡した。享年39。嫡男は幼少だったため、小田原北条氏政の実子が千葉家を継いだ。されて再び中断となり、城が完成せぬまま天正18(1590)の豊臣秀吉による小田原仕置を迎えた。この時の当主が、北条氏政の実子で氏直の弟である直重であったため、ここに下総千葉氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東八州に入封した際に、その要害に着目し、慶長15(1610)年に土井利勝に命じて未完の鹿島城を整備拡張し七年の歳月を経て佐倉城として完成した。六世126年間11万石を領有した堀田氏による佐倉藩は、明治維新を迎えて廃城となったのち、帝国陸軍の佐倉連隊が駐屯して施設はことごとく破却されてしまった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. その先祖は、千葉氏宗家・千葉自胤(ちば・よりたね)と関東管領山内上杉氏に反抗し、名将・太田道灌と幾度か合戦した千葉輔胤(ちば・すけたね)・孝胤(たかたね)父子である。
b. 天正13(1985)年の新年の祝賀の席にて近習の放屁を叱責したところ、恨みを持たれて就寝中に短刀で刺され死亡した。享年39。嫡男は幼少だったため、小田原北条氏政の実子が千葉家を継いだ。

駿府城 − Sumpu Castle

徳川家康が大御所政治の拠点として修築・拡張した駿府城の二ノ丸南西隅に建つ坤櫓

徳川家康が慶長10(1605)年に征夷大将軍の職を三男・秀忠に譲り、その翌年には「大御所政治」の拠点とすべく駿河国へ戻り、後に天下普請として拡張・修築した駿府城は静岡県静岡市にある。ここ駿河国は家康にとって所縁多き場所であり、かって今川氏全盛期で第11代駿河国守護であった今川義元の時代、天文18(1549)年に家康が松平竹千代と呼ばれていた頃、およそ12年間人質として駿府にある今川氏館で幼少期を過ごした。義元死後、甲斐の武田信玄が我が物とした駿府を天正10(1582)年、信玄の跡を継いだ四郎勝頼から奪いとり、領国の一つとした家康は度重なる戦火で衰えた町を再築し、天正13(1585)年から4年をかけて今川氏館跡に城を築いた。ただそれも束の間、天正18(1590)年には豊臣秀吉による小田原仕置の後に関八州へ国替えさせられ、先祖代々の土地の他、せっかく手に入れた駿河をも手放すことになる。しかし、ここは「鳴くまで待とうホトトギス[a]江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山が記した「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に載せられた川柳の一部。」として辛抱強く待った結果、秀吉死後の慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で勝利し、その3年後に征夷大将軍に任じられた家康は江戸幕府を開府、その後は秀忠が継いだ将軍家を影から主導するために隠居と称して再び駿府へ戻ってきた。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山が記した「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に載せられた川柳の一部。

江戸城 − Edo Castle

太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城には京都伏見城から移築された伏見櫓が残る

康正2(1456)年頃というから今から500年以上も前に、相模国(現在の神奈川県や東京都)を勢力下においていた扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌資長が、ここ江戸城の原形を築いた。城はたった一年後の長禄元(1457)年に完成したと云うのだから、その規模や施設は簡素なもので、中世の城のような高石垣や幅広の水濠といったものは無く、土を穿(うが)って造った空濠や土居(土塁の古称)が主体であったと云う。とはいえ、この当時、今のJR東京駅のある丸の内あたりは松原つづきの海岸であったので、城中からの眺めはすこぶる良かったらしく、東に筑波山が、西に富士山が見えたらしい[a]太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く  富士の高嶺を軒端にぞ見る」。それから60数年後には小田原北条氏の属城となり、北条五色備(ほうじょう・ごしきぞなえ)[b]伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北条綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。の一人で青備の富永直勝や遠山綱景[c]TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。をはじめとする北条家江戸衆が城代となった。そして更に66年後の天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原仕置で小田原北条氏が滅亡すると、秀吉は徳川家康を東海道筋から江戸城を含む関東八州へ転封した。家康は、それから10数年後の慶長8(1603)年に江戸幕府を開府し、「天下普請」の名のもとに幕府200年の礎(いしずえ)とすべく江戸城の拡張に着手した。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く  富士の高嶺を軒端にぞ見る」
b. 伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北条綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。
c. TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。
もっと古い投稿

© 2018 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders NorenUp ↑