静岡県駿東郡小山町竹之下にある足柄城址は、かっては駿河国と相模国の境目にあって、標高759mの箱根外輪山から派生した尾根上にある足柄峠と箱根の街道を押さえるために小田原北條氏が整備したとされる。この城の築城者とその年代は不詳であるが、かなり早い時代から戦略上の要衝として軍事的な施設が設けられていた形跡があると云う。戦国時代には北條氏康が駿河今川氏と甲斐武田氏の来襲に備えて相模国三田郷[a]現在の神奈川県厚木市。から人夫を出させて普請したと云う記録も残っており、その後も改修が続けられた。永禄11(1568)年に甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ゼントクジ》の会盟とも。を破って武田信玄が駿河国へ侵攻すると、北條氏の最前線であった深沢城も攻撃を受け[c]信玄は力攻めはせず、甲斐国から連れてきた金堀衆を動員し城を破壊しながら北條勢の戦意が落ちるを待ち、降伏開城させた。のちに云う「深沢城矢文」。、城代の北條綱成はここ足柄城へ退いた。また関白秀吉による小田原仕置に備えて大改修を施したが、天正18(1590)年には隣城の山中城が一日で落城したことで城主・北條氏光《ホウジョウ・ウジミツ》[d]この城には交替で城主を務める当番衆が置かれていたとも。は小田原城へ退却、山中城を陥落させた徳川家康勢に攻撃され足柄城は落城し、のちに廃城となった。
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日本の歴史として語り継がれたイベント
栃木県足利市家富町2220にある鑁阿寺《ばんなじ》とその周辺の敷地は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》から数えて三代目の源義康《みなもとの・よしやす》[a]父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。が平安時代の末期に、ここ下野国足利荘[b]現在の栃木県足利市にあった荘園。に下向して自らの邸宅に堀と土居を築いて居館としたのが始まりとされる[c]これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。。この時、自らは足利氏[d]足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。を名乗る一方で、兄の義重《よししげ》は新田氏の祖となった。そして義康の子・足利義兼《あしかが・よしかね》が発心得度して邸宅内に大日如来を本尊とする持仏堂を建立し、足利氏の氏寺《うじでら》とした。また、その子で三代目当主の足利義氏《あしかが・よしうじ》[e]戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。は父の死後に本堂を建立したが安貞3(1229)年に落雷で焼失した。その後、本堂は足利尊氏の父で、七代目当主である足利貞氏《あしかが・さだうじ》により禅宗様式を取り入れたものに再建された。これが現在の真言宗大日派・鑁阿寺の本堂にあたり、大正11(1922)年には国指定史跡[f]本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。に、さらに平成25(2013)年に本堂が国宝に指定された。
宮城県多賀市市川にある多賀城跡は、天平9(737)年に「多賀柵《たがさく》」[a]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つ。本稿では「多賀城」と「多賀柵」の両方を特に区別なく使用している。として初めて『続日本紀[b]平安時代初期に菅原道真らによって編纂された史書。六国史《りっこくし》の中では『日本書紀』に続く二作目にあたる。』に登場し、他の史書では「多賀城」と記されていた。この城は、奈良時代に陸奥国の国府及び鎮守府が置かれた行政と軍事の拠点の一つで、神亀元(724)年に大和朝廷の命を受けた大野東人《おおの・の・あずまびと》が、蝦夷[c]読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。勢力との境界線にあって、松島方面から南西に伸びた低丘陵の先端に位置し、仙台平野を一望できる多賀に築いたのが始まりとされる。不整形な方形の外郭に築地[d]読みは「ついじ」。土を突き固めながら積み上げ、上に屋根をかけた塀の一種。を巡らし、中央部に政務や儀式を行う政庁が建ち、その周囲には行政実務を担う役所や兵舎などが併設された。天平宝字6(762)年には藤原南家の四男・朝狩《あさかり》が改修し、城外には道路で区画された町並みが形成された。しかし宝亀11(780)年には伊治呰麻呂《これはり・の・あざまろ》の反乱により城は焼失、後に復興されたが貞観11(869)年の大地震で建物は全て倒壊し、のちに再興された。最後は室町時代の南北朝争乱で落城・廃城となった。大正11(1922)年に国史跡に、そして昭和41(1966)年には特別史跡に指定された。
幕末の箱館開港を機に、それまで箱館山の麓に置かれていた箱館御役所[a]箱館奉行所の前身。の移転先として築かれ、当時ヨーロッパ各地の城塞都市で使われていた稜堡(りょうほ)式城郭を採用し、五つの突角が星形の五角形状に配置され、土塁と水堀が巡らされていることから五稜郭と呼ばれた北海道で唯一の国指定特別史跡は、現在は函館市五稜郭町にある五稜郭公園として観光の名所となっている。それまでの御役所は箱館湾そばにあって、箱館山から見下ろすと全てが丸見えといった環境にあったため、湾内にいる軍艦からの砲撃から射程外となる場所へ移設する必要があった。そこで当時の諸術調所(しょじゅつ・しらべしょ)教授で、蘭学者でもあった武田斐三郎成章(たけだ・あやさぶろう・なりあき)によって設計された城郭は、安政4(1857)年から7年をかけて竣工、主に従来の櫓や土塀ではなく、砲弾の緩衝帯となるべく幅広く高さのある土塁で庁舎他20数棟の建物を覆い隠していたと云う。そして慶応3(1867)年の大政奉還後には明治政府によって箱館府が設置されたが、その翌年の明治元(1868)年10月には榎本武揚(えのもと・たけあき)率いる旧幕府軍が五稜郭を無血占拠して「蝦夷共和国」を樹立し、約半年間に及ぶ箱館戦争が始まった。
参照
↑a | 箱館奉行所の前身。 |
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肥後細川藩初代藩主の細川忠興(号して三斎)は、源氏足利系の支流である細川氏を祖とする細川兵部大輔藤孝(号して幽斎)を父とした戦国武将であり、江戸時代初期の大名であり、父譲りの知識人であり、そして利休七哲(りきゅう・しちてつ)の一人に数えられる茶人で茶道三斎流を開祖した名手であった。父の藤孝は明智光秀とともに、美濃の織田上総守(かずさのかみ)信長を頼って室町幕府第15代将軍義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。を擁立するも、のちに義秋と信長が対立すると信長に臣従した。この時に細川姓から長岡[b]由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。姓に改名し、藤孝は丹後11万石を拝領した。忠興の初陣は天正5(1577)年の紀伊雑賀攻めの大和片岡城で弟の興元ともに一番槍の武功を挙げ、信長から直々に感状を拝領した。「忠興」の名は、元服後に信長の嫡男・信忠の偏諱を享けたものである。のちに信長の命により、明智日向守光秀の三女で当時美人の誉高い玉(洗礼してガラシャ)を妻として迎えた。そういうこともあり、忠興はかなりの「信長信望者」の一人であったため、天正10(1582)年の本䏻寺の変後は岳父の光秀より味方に誘われたものの父子で拒否し、妻の玉とは離縁して幽閉し、自身は光秀の娘婿でありながら明智勢に与すること無く、剃髪して織田家や羽柴秀吉に臣従を誓った。
(試験的にタイトルに画像を貼っていたんだけど、あとで他の記事に悪影響があるのがわかったので中止しました )
最近読んでいる本は NHK テレビ Trad Japan (トラッドジャパン) のテキストと、北大は札幌農学校出身の新渡戸稲造作の Bushido の解釈本である「武士道」(講談社 / 相良亨著)。
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