武蔵野台地[a]約200万年前の東京多摩エリアは海であり、海底に堆積した泥や火山灰(ローム層)からなる地盤が隆起したものの一部が武蔵野台地。にあって多摩川の流れによって侵食された段丘崖《ダンキュウガイ》[b]崖地《ガケチ》とも。の連なりとして形成された崖線《ガイセン》のうち、現在の東京都立川市や国立市あたりから東京都府中市をとおり、東京都調布市や狛江市までの東西十数キロに渡って伸びた府中崖線[c]一部は立川崖線とも。他に国分寺崖線がある。の南縁辺部には、平安時代に藤原秀郷《フジワラ・ノ・ヒデサト》[d]平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の居館があり、その後跡地に市川山・見性寺[e]宗派は不明とのこと。が建立されたと云う。鎌倉時代末期の正慶2(1333)年には、新田義貞がこの寺の三方に堀を設けて城砦化し、本陣を構えて分倍河原で鎌倉幕府・執権北條氏ら幕府勢との決戦[f]義貞勢は緒戦は撃退されたが、のちに執権北條氏を見限った御家人らが合流し、最後は奇襲で大勝し幕府勢を敗走させた。に勝利した。室町時代初期、征夷大将軍の足利尊氏は「安国利生」の祈願所として見性寺を龍門山・高安護国禅寺に改称、その寺領は幕府の庇護を受けて拡大し大刹《タイセツ》[g]大きな規模を持つ立派な寺院と云う意味。に成長した。応仁の乱後、関東が騒乱の嵐に飲み込まれると鎌倉公方[h]鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。の陣所として高安寺館[i]戦国時代まで、本来の「館《ダテ》」は「やかた」ではなく「城」を指すものとされている。は一段と要害化が進んだ。一方で寺としては戦乱の度に荒廃し、本格的に復興されたのは江戸時代に入ってからだと云う。
参照
↑a | 約200万年前の東京多摩エリアは海であり、海底に堆積した泥や火山灰(ローム層)からなる地盤が隆起したものの一部が武蔵野台地。 |
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↑b | 崖地《ガケチ》とも。 |
↑c | 一部は立川崖線とも。他に国分寺崖線がある。 |
↑d | 平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。 |
↑e | 宗派は不明とのこと。 |
↑f | 義貞勢は緒戦は撃退されたが、のちに執権北條氏を見限った御家人らが合流し、最後は奇襲で大勝し幕府勢を敗走させた。 |
↑g | 大きな規模を持つ立派な寺院と云う意味。 |
↑h | 鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。 |
↑i | 戦国時代まで、本来の「館《ダテ》」は「やかた」ではなく「城」を指すものとされている。 |
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