城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

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日本に所在する建造物や美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき国が指定した文化財

掛川城 − Kakegawa Castle

江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕(あさひな・やすひろ)によって遠江国佐野郡にある子角山(ねずみやま)丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能(やすよし)は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山(りゅうとうざん)に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼(じゅけいに)が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北条氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊(やまうち・かつとよ)が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

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a 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。

江戸城 − Edo Castle (TAKE3)

太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城で現在唯一残る多聞櫓の富士見多聞

現在、天皇の平時における宮殿であり居住地である皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家[a]江戸幕府を主導する征夷大将軍を世襲した徳川宗家のこと。初代・徳川家康から始まり、平成29(2017)年現在は第18代・徳川恒孝(とくがわ・つねなり)氏が継承している。が居城としていた江戸城跡にあり、その後は明治元(1868)年に東京城(とうけいじょう)に改名され、翌2(1869)年の東京奠都(とうきょうてんと)[b]明治維新の際にそれまでの江戸が「東京」に改名し都として定められた。これにより、京都と東京で二つの都を持つ東西両京とした上で天皇が東京に入京した。後は皇城(こうじょう)と称された。そして明治21(1888)年に明治宮殿が完成したことにより宮城(きゅうじょう)に改名され、太平洋戦争後の昭和23(1948)年には現在の「皇居」に改名された。この皇居が江戸城と呼ばれていた時代、その城の最盛期は寛永15(1638)年の天下普請で最後の天守閣が完成した頃であり、外郭にあたる総構えは周囲が約4里[c]日本の一里は約3.924kmである。(15.7㎞)、東西約50町[d]日本の一町は約109.09mである。(5.45㎞)、南北約35町(3.82㎞)、面積は2082haに及んでいたと云う。その一方で、現在の皇居にあたる内郭[e]内濠内、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、中郭の吹上、北の丸、西の丸下などのエリアを指す。の周囲は約2里(7.85㎞)、東西約21町(2.29㎞)、南北約17町(1.85㎞)、そして面積は424.8haであったとされる[f]東京都江戸東京博物館所蔵の各種資料より引用した。ちなみに現在の皇居の面積は約115ha。。外濠より内側の城域、いわゆる外郭はちょうど現在の千代田区全域と、それに隣り合う港区と新宿区との境界の一部、そして神田駿河台を掘削して造った神田川が含まれている。そして内郭に建てられていた建造物は合わせて149棟[g]天守閣1、櫓21、多聞櫓28、城門99の合計である。この他にも御殿や蔵がある。にのぼり、その外観はまさに「日の本一(ひのもといち)の城塞」と言えよう。

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a 江戸幕府を主導する征夷大将軍を世襲した徳川宗家のこと。初代・徳川家康から始まり、平成29(2017)年現在は第18代・徳川恒孝(とくがわ・つねなり)氏が継承している。
b 明治維新の際にそれまでの江戸が「東京」に改名し都として定められた。これにより、京都と東京で二つの都を持つ東西両京とした上で天皇が東京に入京した。
c 日本の一里は約3.924kmである。
d 日本の一町は約109.09mである。
e 内濠内、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、中郭の吹上、北の丸、西の丸下などのエリアを指す。
f 東京都江戸東京博物館所蔵の各種資料より引用した。ちなみに現在の皇居の面積は約115ha。
g 天守閣1、櫓21、多聞櫓28、城門99の合計である。この他にも御殿や蔵がある。

肥後細川家菩提寺と大徳寺 − Hosokawa Clan from Sengoku era until Edo Period

肥後細川家の菩提寺である高桐院の参道は大判の切石が敷かれ両脇に赤松の列植が続く

肥後細川藩初代藩主の細川忠興(号して三斎)は、源氏足利系の支流である細川氏を祖とする細川兵部大輔藤孝(号して幽斎)を父とした戦国武将であり、江戸時代初期の大名であり、父譲りの知識人であり、そして利休七哲(りきゅう・しちてつ)の一人に数えられる茶人で茶道三斎流を開祖した名手であった。父の藤孝は明智光秀とともに、美濃の織田上総守(かずさのかみ)信長を頼って室町幕府第15代将軍義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。を擁立するも、のちに義秋と信長が対立すると信長に臣従した。この時に細川姓から長岡[b]由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。姓に改名し、藤孝は丹後11万石を拝領した。忠興の初陣は天正5(1577)年の紀伊雑賀攻めの大和片岡城で弟の興元ともに一番槍の武功を挙げ、信長から直々に感状を拝領した。「忠興」の名は、元服後に信長の嫡男・信忠の偏諱を享けたものである。のちに信長の命により、明智日向守光秀の三女で当時美人の誉高い玉(洗礼してガラシャ)を妻として迎えた。そういうこともあり、忠興はかなりの「信長信望者」の一人であったため、天正10(1582)年の本䏻寺の変後は岳父の光秀より味方に誘われたものの父子で拒否し、妻の玉とは離縁して幽閉し、自身は光秀の娘婿でありながら明智勢に与すること無く、剃髪して織田家や羽柴秀吉に臣従を誓った。

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a 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。
b 由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。

駿府城 − Sumpu Castle

徳川家康が大御所政治の拠点として修築・拡張した駿府城の二ノ丸南西隅に建つ坤櫓

徳川家康が慶長10(1605)年に征夷大将軍の職を三男・秀忠に譲り、その翌年には「大御所政治」の拠点とすべく駿河国へ戻り、後に天下普請として拡張・修築した駿府城は静岡県静岡市にある。ここ駿河国は家康にとって所縁多き場所であり、かって今川氏全盛期で第11代駿河国守護であった今川義元の時代、天文18(1549)年に家康が松平竹千代と呼ばれていた頃、およそ12年間人質として駿府にある今川氏館で幼少期を過ごした。義元死後、甲斐の武田信玄が我が物とした駿府を天正10(1582)年、信玄の跡を継いだ四郎勝頼から奪いとり、領国の一つとした家康は度重なる戦火で衰えた町を再築し、天正13(1585)年から4年をかけて今川氏館跡に城を築いた。ただそれも束の間、天正18(1590)年には豊臣秀吉による小田原仕置の後に関八州へ国替えさせられ、先祖代々の土地の他、せっかく手に入れた駿河をも手放すことになる。しかし、ここは「鳴くまで待とうホトトギス[a]江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山が記した「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に載せられた川柳の一部。」として辛抱強く待った結果、秀吉死後の慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で勝利し、その3年後に征夷大将軍に任じられた家康は江戸幕府を開府、その後は秀忠が継いだ将軍家を影から主導するために隠居と称して再び駿府へ戻ってきた。

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a 江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山が記した「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に載せられた川柳の一部。

江戸城 − Edo Castle (TAKE2)

太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城で現在残る唯一の三重櫓が富士見櫓である

東京都千代田区にある皇居は、明治元(1868)年4月4日に時の新政府軍に明け渡されるまでは江戸城として260年以上にわたり徳川氏を将軍家とする江戸幕府の中枢として機能していた。江戸城のはじまりはさらに古く、今からおよそ550年以上も前の康正2(1456)年に武蔵国守護代・扇谷上杉氏の家宰で、稀代の名将の誉高い太田道灌が、往時は武蔵国荏原(えばら)郡桜田郷と呼ばれていたこの地に築いた城と云う説が有力である[a]徳川幕府の公文書の一つである徳川実紀に記されている。。また、天正18(1590)年の小田原仕置後に豊臣秀吉から関八州[b]武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八カ国。を与えられた徳川家康であったが、その後はもっぱら京都の伏見城を居城としており、慶長8(1603)年に征夷大将軍の宣下を受けたのも伏見城と云われている。家康が江戸城に居城を移したのは慶長11(1606)年になってからで、その年から万治3(1660)年のおよそ57年間にわたり、天下普請の名の下に全国の諸大名を動員して江戸城の拡張工事が行われたと云う[c]慶長期天下普請は慶長11(1606)年から19(1614)年、元和期天下普請は元和4(1618)年から寛永元(1624)年、寛永期天下普請は寛永5(1628)年から万治3(1660)年。年はおおよそ。。そのうち天守は家康の慶長期、三男秀忠の元和期、秀忠の二男家光の寛永期にそれぞれ築かれた。三代将軍家光の時代には、現在の千代田区がすっぽりと収まる規模になり、名実ともに天下一の居城となったが、その後は度重なる火災で天守をはじめ御殿や門・櫓などを焼失しては再建が繰り返されることとなった。

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a 徳川幕府の公文書の一つである徳川実紀に記されている。
b 武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八カ国。
c 慶長期天下普請は慶長11(1606)年から19(1614)年、元和期天下普請は元和4(1618)年から寛永元(1624)年、寛永期天下普請は寛永5(1628)年から万治3(1660)年。年はおおよそ。

江戸城 − Edo Castle

太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城には京都伏見城から移築された伏見櫓が残る

康正2(1456)年頃というから今から500年以上も前に、相模国(現在の神奈川県や東京都)を勢力下においていた扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌資長が、ここ江戸城の原形を築いた。城はたった一年後の長禄元(1457)年に完成したと云うのだから、その規模や施設は簡素なもので、中世の城のような高石垣や幅広の水濠といったものは無く、土を穿(うが)って造った空濠や土居(土塁の古称)が主体であったと云う。とはいえ、この当時、今のJR東京駅のある丸の内あたりは松原つづきの海岸であったので、城中からの眺めはすこぶる良かったらしく、東に筑波山が、西に富士山が見えたらしい[a]太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く  富士の高嶺を軒端にぞ見る」。それから60数年後には小田原北条氏の属城となり、北条五色備(ほうじょう・ごしきぞなえ)[b]伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北条綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。の一人で青備の富永直勝や遠山綱景[c]TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。をはじめとする北条家江戸衆が城代となった。そして更に66年後の天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原仕置で小田原北条氏が滅亡すると、秀吉は徳川家康を東海道筋から江戸城を含む関東八州へ転封した。家康は、それから10数年後の慶長8(1603)年に江戸幕府を開府し、「天下普請」の名のもとに幕府200年の礎(いしずえ)とすべく江戸城の拡張に着手した。

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a 太田道灌が上洛した際に、時の天皇から江戸城について問われると和歌をもって返答した句が残っている:「わが庵は松原つづき海近く  富士の高嶺を軒端にぞ見る」
b 伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)麾下の部隊で、五つの色でそれぞれ染められた旗指物を使用していたことが由来。特に黄備の北条綱成は黄色地に染められた「地黄八幡」という旗指物を使用していた猛将で有名である。
c TVドラマ「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の先祖にあたる。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money

駅前に真田幸村公騎馬像がある上田市の至るところで六連銭を見ることができる

「六連銭(むつれんせん)」は清和天皇の子孫を称する信州の名族・滋野(しげの)一族の海野氏と、その嫡流である真田氏が使用していた家紋であり、三途の川の渡し賃として納棺の際に六銭入れる地蔵信仰(六道銭[a]「六道」とは仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、六道銭には死後にこれらの道に入って迷わないようにという念が込められている。)の影響を受け継いだものである。また、それが転じて「戦場で死ぬ覚悟ができている」という心構えを表すこともある。本来、この家紋は戦時に使用する旗紋として使われていたが、江戸時代に出版された講談などで真田の名前と共に知られるようになった。ちなみに、真田家はこの他に「結び雁金(むすびかりがね)」という羽を結んで円を描く結びにして横向きの雁(がん・かり)の顔を載せた紋と、「州浜(すはま)」という三角州などの水辺にできる入り組んだ浜辺の渚を表す紋を使用していた。六連銭が主流になると、後者の二つの家紋は替紋として使用されるようになったと云う。その信州真田家の中興の祖と云われる真田幸綱[b]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。は、軍神・上杉謙信から「智謀は七日の後れあり」と云わしめた[c]自分(謙信)は智謀の面では幸綱に後れを取っていると認めたという意味。人物であり、その三男・昌幸(武藤喜兵衛)は武田信玄から軍略用法の妙を学び「我が両眼の如し」と云わしめ、武田家中からは「小信玄」とも云われた。さらに、幸綱の孫にあたる真田信繁もまた、大坂の陣にて関東勢を相手に父・昌幸譲りの鬼謀を存分に発揮して散っていった。

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a 「六道」とは仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、六道銭には死後にこれらの道に入って迷わないようにという念が込められている。
b 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
c 自分(謙信)は智謀の面では幸綱に後れを取っていると認めたという意味。

小諸城 – Komoro Castle

重要文化財である小諸城の大手門は実戦的で、華美な装飾を省いた質実剛健な城門である

長野県小諸市にある小諸城は、平安時代末期に平家物語や源平盛衰記に登場する源氏・木曽義仲の配下の小室太郎光兼が館を構えたのが始まりで、のちに土豪・大井氏が小室氏の勢力を抑えて、その付近に鍋蓋城と支城を築いた。戦国時代になると、甲斐の武田信玄により鍋蓋城は落城し、その跡地に山本勘介と馬場信房に縄張させ築城したのが小諸城(別名:酔月城)である。武田氏が滅亡して織田信長の家臣・滝川一益が関東管領として信濃を支配するも、信長が横死した後は、相模北条、三河徳川、信州真田、越後上杉らの争奪戦が勃発、そして豊臣秀吉による小田原の役を経て、仙石権兵衛秀久が小諸五万石の大名として入国した。秀久は本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を建てたと云う。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では中山道を進んだ徳川秀忠ら徳川軍の主力が入城し、西にある上田城の真田氏を牽制するも、真田昌幸の計略に翻弄され敗退、天下分け目の戦に遅参するという失態をおかした。その後、引き続き江戸時代初期も仙石秀久・忠政父子の二代が小諸を治め、大手門や石垣などの城郭と城下町・街道の整備を行った。それから仙石氏が上田藩へ移封されるまでの32年の間に、現在の小諸の街の原型が築かれたと云う。その後は徳川氏、松平氏、牧野氏らが藩主を勤め、明治時代の廃藩置県で役割を終えた小諸城本丸では「懐古神社」を祀り、三の門より城内は「懐古園」として市民に開放された。

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宇和島城 − Uwajima Castle

伊達宗利が改修した宇和島城の天守は三層三階総塗籠で、独立式層塔型

愛媛県宇和島市は「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた、日本屈指のリアス式海岸地帯にある。その市街地のほぼ中央にあるのが宇和島城である。その歴史は、慶長元(1596)年から六年の歳月をかけて、関白秀吉から伊予国7万石を拝領した藤堂高虎がそれまで中世山城だった板島丸串城を近世城郭に改修し、大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張にしたところから始まる。その際に、高虎は三層三階の望楼型天守を建てた。そして慶長19(1614)年には伊達政宗の長子である秀宗が徳川秀忠から伊予国10万石を拝領し入国、石垣や天守、矢倉などが修築された。さらに時がながれ、徳川の治世になった寛文6(1666)年、二代目の伊達宗利の頃に天守が修築されて現在の三層三階の層塔型になった。この頃には「城が軍事拠点である」という重要性が薄れた時代であったため、それまで付いていた狭間や石落としが無くなり、代わりに千鳥破風や唐破風など装飾性の高いものが取り付けられた。その後、明治維新で天守・追手門を除く全ての建築物が解体、太平洋戦争では追手門が焼失した。現在は堀がすべて埋められ、三の丸をはじめ総曲輪部分約28万平方メートルは失われているが、本丸、二の丸などの曲輪約10万平方メートルの城山は国史跡に、そして現存12天守の一つに数えられる天守は国重要文化財に指定され、搦手口にある上り立ち門は慶長期の建築物の可能性が高いとして市指定文化財になっている。

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大洲城 − Ōzu Castle

清流肱川の畔に築かれた大洲城の天守は木造復元の複合連結式層塔型四層四階

愛媛県大洲市にある大洲城は肱川(ひじかわ)の畔にある地蔵ヶ岳と呼ばれた小さな丘を中心に築かれている。時代を遡ること元弘元(1331)年、その丘に宇都宮豊房が築いた居城が大洲城の始まりと言われており、さらに近代城郭として整備されたのは、天正13(1585)年に羽柴秀吉の四国平定後に道後湯築城を本拠とした小早川隆景の枝城になってからだと云う。これは、天正13(1585)年に入城した戸田勝隆、文禄4(1595)年に大洲城を居城とした藤堂高虎、そして慶長14(1609)年に淡路洲本から入城した脇坂安治の時代であり、慶長の時代には天守も築かれたという。そして、元和3(1617)年には米子から入城した加藤貞泰により大洲藩が藩立し、明治時代の廃藩置県まで続いた。加藤氏の時代には天災により大破した三の丸南隅櫓や苧綿櫓(おわたやぐら)、台所櫓、高欄櫓(こうらんやぐら)などが再建され、これらは昭和32(1957)年に国の重要文化財の指定を受けた現存建築物である。天守は明治時代に取り壊されたが、大洲市の市制50周年を迎えた平成16(2004)年には四層四階の天守として木造で復元された。大洲城は明治期の古写真や雛形、発掘史料が豊富であったため、往時の姿をほぼ忠実に復元できたと云う。また、一般的に建築基準法では、この規模の木造建造物は認められないが、保存建築物として適用除外の認可がおりたという。

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