Mikeforce::Castles

城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

タグ: 太田道灌 (1 / 3 ページ)

室町時代後期の武将で、武蔵守護扇ヶ谷上杉家の家宰にして稀代の軍師であった

石神井城 − Syakujii Castle

年に一度開放される石神井城の主郭は、池と急崖に囲まれ三方に堀と土塁が巡らされていた

東京都練馬区石神井台1丁目18にあった石神井城は、北は三宝寺池(さんぽうじ・いけ)、南は石神井川に挟まれた台地上に築かれた単郭もしくは連郭[a]現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。式平山城である。鎌倉時代から、葛西、江戸両氏とともに秩父平氏[b]桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。の流れをくむ有力国人・豊島(としま)氏の居城であり、石神井郷を治める拠点としていた。平氏没落により所領を失っていた豊島氏であったが、のちに鎌倉公方[c]簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。と関東管領[d]簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。との間で起こった争いで鎌倉公方・足利持氏に味方した功績から旧領を回復した。室町時代に入り京で応仁の乱が勃発すると、再び鎌倉公方と関東管領との間で争い[e]いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。が起こった上に、関東管領勢で長尾景春[f]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。が反旗を翻し、鎌倉公方と連携して対立した。この時、石神井城主の豊島泰経(としま・やすつね)は、妻の兄である景春に味方して弟の泰明(やすあき)と共に挙兵した。関東管領勢にとって江戸城河越城岩付城との連絡を遮断する位置あった石神井城の存在は脅威であったため、文明9(1477)年に関東管領勢の太田道灌は三浦義同[g]読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。、千葉自胤らと平塚城を攻めたあとに泰経・泰明兄弟らと激突、これを痛破した。この時、泰明以下一族の多くが討死にした。石神井城に逃れた泰経であったが道灌らの総攻めにあって城を脱出、石神井城は落城した。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。
b. 桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。
c. 簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。
d. 簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。
e. いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。
f. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
g. 読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。

亥鼻城 − Inohana Castle

「千葉城」の通称を持つ亥鼻城の2郭跡には四層五階の天守閣風な郷土博物館が建っている

千葉県千葉市中央区亥鼻の猪鼻(いのはな)台地の上にあった亥鼻城は、平安時代の終り頃の大治元(1126)年に、桓武天皇を祖とする平家支流の千葉常重(ちば・つねしげ)が、当時の大椎(おおじ)城[a]現在の千葉県千葉氏緑区大椎町にあった城。から居城を移転して築城したものであり、現在はその跡地に四層五階の天守閣を形を模した千葉市立郷土博物館[b]昭和42(1967)年の開館で、昭和58(1983)年に現在の館名を改められた。が建っている。ここ亥鼻城を本拠としたあとは常重の嫡子・常胤(つねたね)が源頼朝を助けて源平合戦や奥州合戦に参戦し、鎌倉幕府樹立に大きく貢献することで下総国の他に奥州や九州[c]奥州の所領は現在の福島県、九州の所領は現在の佐賀県である。に所領を拡げて千葉氏の最盛期を創った[d]常胤は拝領した所領を胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)といった6人の息子に割譲してそれぞれ治めさせ、「千葉六党(ちばりくとう)」として一族が団結した。こののちに『上総千葉氏』、『下総千葉氏』、そして『九州千葉氏』となる。。しかし、鎌倉公方(足利成氏)による関東管領(山内上杉憲忠)の謀殺を発端として、享徳3(1454)年から28年間、関東一円の国衆・地侍らを巻き込んだ享徳の乱(きょうとくのらん)では千葉家中で内紛が勃発、公方派だった馬加(千葉)康胤や原胤房は関東管領派であった千葉介胤直が籠もる亥鼻城を攻め、城は落城、多古に逃れた胤直一族を滅ぼして下総千葉氏で千葉氏本宗家を継承した。それから康胤の孫である輔胤は関東管領上杉氏や太田道灌、さらには一族である武蔵千葉氏と抗争しつつ、印旛沼と利根川の水運を掌握でき古河公方勢と連携できる地に本佐倉城を築き、亥鼻城を廃城して居城を移した。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 現在の千葉県千葉氏緑区大椎町にあった城。
b. 昭和42(1967)年の開館で、昭和58(1983)年に現在の館名を改められた。
c. 奥州の所領は現在の福島県、九州の所領は現在の佐賀県である。
d. 常胤は拝領した所領を胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)といった6人の息子に割譲してそれぞれ治めさせ、「千葉六党(ちばりくとう)」として一族が団結した。こののちに『上総千葉氏』、『下総千葉氏』、そして『九州千葉氏』となる。

津久井城 − Tsukui Castle

津久井城の本丸にあたる本城曲輪は標高375mの山頂に土塁で囲まれた狭い郭であった

北方は武蔵国、西方は甲斐国に接し相模国西北部に位置する標高532mほどの津久井山[a]この地名は永正7(1510)年)の関東管領・上杉顕定書状写から。それ以前は奥三保(おくみほ)と呼ばれていた。に築かれていた山城の津久井城は、八王子街道[b]現在の八王子から厚木・伊勢原、そして旧東海道を結ぶ街道。と甲州街道[c]江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井方面を横断して甲斐を結ぶ街道。が交差する津久井往還に近く、古来から相模川を利用した交通の要衝の地に建っていた。現在は神奈川県相模原市緑区にある県立津久井湖城山公園として、城山ダムと山城を利用した憩いの場になっている津久井は「築井」とも呼ばれ、鎌倉時代後期には幕府の直轄地であり、中世の早い時期から経財と軍事の重要拠点であったとされ、その後は享徳3(1454)年から始まった享徳の乱、長尾景春の乱、そして後に小田原北条氏の祖となる伊勢新九郎[d]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。が相模国に進出した頃にも、その舞台の一つになった。特に太田道灌とその弟・資忠らは津久井山に籠もった景春勢を攻めたり、伊勢新九郎と敵対した扇ヶ谷上杉朝良と三浦道寸(みうら・どうすん)らが津久井山を攻めたと云った記録が残っている。そして相模一国が小田原北条二代目の氏綱によって掌握された頃には既に津久井城が存在し、内藤氏なる一族が城主を務めていたとされる。三代目の氏康の頃には津久井衆が組織されて小田原城に対する支城ネットワークの「ハブ」となり、甲斐武田氏との国境を監視・守備する需要な役割を果たしていたと云う。

続きを読む

参照   [ + ]

a. この地名は永正7(1510)年)の関東管領・上杉顕定書状写から。それ以前は奥三保(おくみほ)と呼ばれていた。
b. 現在の八王子から厚木・伊勢原、そして旧東海道を結ぶ街道。
c. 江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井方面を横断して甲斐を結ぶ街道。
d. 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。

丸子城 − Mariko Castle

丸子城の本曲輪の西側には大鈩曲輪との間に麓まで落ち込む大きな竪堀が設けられていた

旧東海道の鞠子宿(まりこじゅく)[a]東海道五十三次で20番目の宿場である。東海道中で最も小さい宿だったとか。を見下ろす通称、三角山(みかどやま)の頂上に築かれた丸子(まりこ)城は東西を泉ヶ谷(いずみがや)と大鑪(おおだたら)と云う深く大きな谷に挟まれた天然の要害で、室町時代後半から戦国時代にかけて駿河国守護今川氏の拠点であった駿府防衛で西側の関門として重要な役割を担った城の一つであった。山頂の本曲輪に向かう尾根上には大小の曲輪が土塁や竪堀・横堀、そして虎口を組み合わせながら連なるように配置されている。さらに弱点とされた城の南側には出曲輪や袖曲輪を効果的に配置して補強するなど巧みな縄張りを残しており、これは甲斐武田氏の駿河侵攻後に大きく拡張されたことによるものである。築城年は不詳であるが今川氏による支配が始まった南北朝時代にまで遡る説が有力である。そして今川家第8代当主で今川義元の祖父にあたる義忠(よしただ)が隣国・遠江の国人衆らの反乱鎮圧に向かい、その流れ矢に当たって落命してしまうと、僅か6歳の嫡男・龍王丸[b]のちに駿河・遠江国守護となる今川家第9代当主・氏親。今川義元の父にあたる。とその叔父・小鹿範満(おしか・のりみつ)[c]俗に云う堀越公方の足利政和の勢力である。との間で家督争いが起こり、龍王丸の生母である北川殿は、この時期に今川家の食客であった弟の伊勢新九郎[d]北川殿の弟で、伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。の手を借りて丸子城に籠もることとなった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 東海道五十三次で20番目の宿場である。東海道中で最も小さい宿だったとか。
b. のちに駿河・遠江国守護となる今川家第9代当主・氏親。今川義元の父にあたる。
c. 俗に云う堀越公方の足利政和の勢力である。
d. 北川殿の弟で、伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。

太田道灌公墓所 − Ōta Dōkan had premonition of his master’s ruination

主君・上杉定正の居館で謀殺された太田道灌の亡骸はここ洞昌院で荼毘に付されたと云う

文明18(1486)年8月25日[a]これは西暦で換算したもので、陰暦だと7月26日にあたる。、主君・扇ヶ谷上杉定正(おうぎがやつ・うえすぎ・さだまさ)の居館である相州糟屋(かすや)館に招かれた太田道灌は入浴後に曽我兵庫祐賢(そが・ひょうご・すけかた)らに襲撃され右袈裟懸けに斬り倒された。享年55。曽我兵庫は太田家子飼いの武将の一人であって「江戸と河越との間の調停役」を務めるために定正の下へ遣わされていた人物であった[b]江戸城は太田道灌の居城、河越城は主君・上杉定正の居城で、道灌は主人との確執も予感していた。兵庫はのちに定正に重用されて重臣の一人となった。。この室町時代後期に文武両道で稀代の築城軍略家であった太田資長(おおた・すけなが)、号して備中入道道灌は扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあって父・道真と共に享徳の乱や長尾景春の乱などで活躍した。それらの功により太田家の軍事力は主家を凌駕するまでに至ったとされ、それを妬んだ定正が謀反の嫌疑で誅殺するのではなどの噂が公然とたつほどであった。また扇ヶ谷上杉氏が補佐していた関東管領・山内上杉顕定(やまのうち・うえすぎ・あきさだ)も道灌に脅威を感じていた者の一人であったと云う。道灌は死に際に『当方滅亡』[c]自分が居なくなった主家に未来はないであろうという予言らしい。『寛永資武状』(かんえいすけたけじょう)より。と言い残したというが、その予言どおり扇ヶ谷上杉氏はのちに山内上杉氏と対立し、同じ相州で台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[d]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。とその一族に所領を奪われることになった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. これは西暦で換算したもので、陰暦だと7月26日にあたる。
b. 江戸城は太田道灌の居城、河越城は主君・上杉定正の居城で、道灌は主人との確執も予感していた。兵庫はのちに定正に重用されて重臣の一人となった。
c. 自分が居なくなった主家に未来はないであろうという予言らしい。『寛永資武状』(かんえいすけたけじょう)より。
d. 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。

志村城 − Shimura Castle

志村城の二ノ丸跡には熊野神社があり、社殿は古墳の上に建てられていた

武蔵千葉氏ゆかりの城である志村城は、康正2(1456)年に千葉自胤(ちば・よりたね)が扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[a]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。の助けを借りて赤塚城に入城した際に、彼の一族である千葉隠岐守信胤(ちば・おきのかみ・のぶたね)を配して赤塚城の前衛拠点としていたと云う。ここ東京都板橋区志村にある丘陵地に築かれていた志村城の築城時期は不詳であるが、一説に南武蔵の石神井城を居城として勢力をふるい、のちに長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。の乱に乗じて小机城で太田道灌と対峙した豊島泰経(としま・やすつね)の先祖が築いたとも。この城の本丸は、現在の区立志村小学校を中心とした比高20mほどの舌状台地上にあったとされ、周囲に出井川(でいがわ)[c]かって東京都板橋区に流れていた河川であるが、現在は全区間暗渠化されている。と荒川をめぐらせ、城の北・西・南側は急崖のうえに湿地帯であったため「守るに易く攻めるに難し」と云われた堅城であった。しかし大永4(1524)年に小田原の新興勢力・伊勢氏綱[d]のちの北条氏綱。に攻められて落城し、北条氏配下に入ったが、豊臣秀吉の小田原仕置後に志村城は廃城となった。現在は宅地化の波に埋もれ遺構は殆どといってよいほど期待できないが、城山と云う台地の上にある城山熊野神社はかっての二ノ丸跡で、その社殿は古墳の上に建ち、境内には横矢掛かりの空堀の一部が残っていた。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
b. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
c. かって東京都板橋区に流れていた河川であるが、現在は全区間暗渠化されている。
d. のちの北条氏綱。

赤塚城 − Akatsuka Castle

さくら並木でも有名な赤塚公園の城址広場は往時は赤塚城本丸であった

東京都板橋区赤塚5丁目にある赤塚溜池公園[a]公園入口にある碑には「赤塚公園」と彫られていた。板橋区の公式ホームページでは「赤塚溜池公園」とあり、公園の名称が複数ある。オマケに、近くには新大宮バイパスを挟んで「都立赤塚公園」があって本当に紛らわしい。南側の台地上には、かって赤塚城が築かれていた。この城の築城年は不詳であるが一説に、康正2(1456)年に武蔵千葉氏[b]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が親の仇である古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗して下総国市川城[c]国府台城であったと云う説あり。に籠城したが寄せ手の梁田持助(やなだ・もちすけ)に敗れ、扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[d]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。を頼りに武蔵国へ落ち延び、彼らを庇護した道灌は兄の実胤を武蔵石浜城[e]現在の東京都荒川区南千住3丁目、東京ガス敷地内の石浜神社あたりとされる。へ、弟の自胤を赤塚城に置いたとされる。現在の城址公園あたりは高島平のベッドタウン化に伴って急速に開発が進み、それまで明瞭に残っていた遺構が殆ど確認できないほどに改変されてしまったと云う。その結果、現在は本丸跡と堀切跡、そして石碑が残っているだけである。城址の北と東と西の三方の台地縁は自然の谷で区画され、北側の溜池あたりは外堀であったとされ、往時の赤塚城は北側を流れる荒川の早瀬の渡しを一望し、武蔵国北部と南部、江古田に至る鎌倉街道を押さえる要衝であったが、のちに武蔵千葉氏が小田原北条氏麾下となった後は、主家と運命を共にし豊臣秀吉の小田原仕置後に赤塚城は廃城となった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 公園入口にある碑には「赤塚公園」と彫られていた。板橋区の公式ホームページでは「赤塚溜池公園」とあり、公園の名称が複数ある。オマケに、近くには新大宮バイパスを挟んで「都立赤塚公園」があって本当に紛らわしい。
b. 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。
c. 国府台城であったと云う説あり。
d. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e. 現在の東京都荒川区南千住3丁目、東京ガス敷地内の石浜神社あたりとされる。

岡城 − Oka Castle

黒目川が取り巻く舌状台地に築かれた岡城の子細は不明であるが太田道灌が関与しているとも

かって「岡の城山」(おかのしろやま)とも呼ばれていた埼玉県朝霞市岡にある城山公園は、今から約8000〜4500年前の縄文時代から遺る遺跡[a]貝塚が発見されている。であり、戦国時代前期には黒目川(くろめがわ)[b]東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。を真下に見る舌状(ぜつじょう)台地の先端部を利用した岡城[c]朝霞城(あさかじょう)とも呼ばれていた。なる連郭式平山城が築かれていたとされる。この当時の築城者や城主については現在のところ不詳であるが、文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』(しんぺん・むさし・ふどきこう)の中には名将・太田道灌資長[d]読みは「おおた・どうかん・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちに道灌と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。や、その曾孫・太田新六郎康資[e]読みは「おおた・しんろくろう・やすすけ」。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資(やすすけ)と名乗った。との関係ついて記述があると云う。築城の才が豊かな道灌は稲付城の例にあるように、台地の先端が「舌」のような形になっている舌状台地を利用して城を築くことが多いようで、北は河越城岩付城、南は赤塚城志村城、稲付城といった規模の大小を問わずに江戸城の防衛線を構築していたのではないかと見ることができる。岡城が築かれた台地は西から東へ延びており、西側にある日蓮宗・本仙寺(ほんせんじ)付近で細く括れた独立丘陵状を呈しており、標高は約19mで周囲の低地との比高は12〜14mほどで、城内は堀切や「折れひずみ」と呼ばれる空堀、そして土壇によって区分けされた郭が連なっていたとされる。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 貝塚が発見されている。
b. 東京都および埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。
c. 朝霞城(あさかじょう)とも呼ばれていた。
d. 読みは「おおた・どうかん・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちに道灌と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
e. 読みは「おおた・しんろくろう・やすすけ」。もとは太田源六郎で、太田道灌の孫・太田資高の次男。小田原の伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)の麾下にあった頃、氏康より幼名「新」の字を賜り新六郎に、さらに偏諱で「康」の字を賜り康資(やすすけ)と名乗った。

国府台城 − Kounodai Castle

江戸川沿いの下総台地西端に築かれた国府台城では土塁に古代古墳を利用していた

千葉県市川市国府台にある里見公園は埼玉県東部から千葉県北部一帯に走る下総台地の西端で、江戸川沿いの台地上にあり、往時は下総国の国府が置かれたことから国府台(こうのだい)と呼ばれ、下総国の政治や文化の中心となった場所であった上に、室町から戦国時代の関東動乱の舞台ともなった国府台城が築かれていた。その由緒としては、歴史書の『鎌倉大草紙』(かまくらおおぞうし)[a]室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。には文明10(1478)年に扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[b]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。が、ここ国府台に陣城を築いたとあり、これを始まりとする説がある。他に、それより前の康正2(1456)年に武蔵千葉氏[c]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が市川城なる砦に立て籠もって、古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗したと云われているが、この市川城と道灌の陣城との関係は不明である。その後、国府台は二度にわたり争乱の表舞台に立つことになる。まずは天文7(1538)年に伊勢氏綱[d]北条氏綱。小田原北条氏二代目当主で、北条早雲の嫡子であり、北条氏康の父である。と小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(あしかが・よしあき)・里見義堯(さとみ・よしたか)連合軍との合戦、そして永禄6(1563)年から二年に渡る北条氏康と里見義弘との合戦で、ともに里見勢は敗退し、下総から里見氏の勢力が駆逐されていくことになった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。
b. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
c. 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。
d. 北条氏綱。小田原北条氏二代目当主で、北条早雲の嫡子であり、北条氏康の父である。

稲付城と道灌山 − Inatsuke Castle and Doukan-Yama Fort

日暮里駅前には江戸城の周囲に砦城を築いた太田道灌の騎馬像が建っていた

室町時代後期の武将で、武蔵国の扇ヶ谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦を指揮した太田資長[a]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。は軍略・軍才はもちろんのこと築城の才能も抜群で、康正2(1456)年から長禄元(1457)年にかけて江戸城河越城、そして岩付城を築いたことは有名であるが、他にもこれらの城の支城や砦なども築いており、500年以上経った都内各所には現在も遺構や伝説が残っている。その中で武蔵野台地北東端に天然の地形を利用して築かれたとされる稲付(いなつけ)城は、東京都北区赤羽の静勝寺(じょうしょうじ)にあたり、道灌が築いた戦国時代初期の砦跡と伝えられている。後年、彼の子孫が城址を含めた土地を寄進し、道灌と彼の父・道真の法号により自得山静勝寺と改称したと云う。また文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「堀蹟」として記述があるのだとか。そして稲付城南東にある飛鳥山[b]現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園のこと。から上野へ向かって南下した台地の縁にある道灌山もまた道灌が江戸城の出城として築いたと云う伝承があり、現在はその一部が西日暮里公園として残されている。かって、この台地に広がる寺町あたりは「ひぐらしの里」と呼ばれ、寺社が競って庭園を造り、花見の名所でもあった他にも筑波山や日光山を展望することができたと云う。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
b. 現在の東京都北区王子にある飛鳥山公園のこと。
もっと古い投稿

© 2018 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders NorenUp ↑