城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

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日本国内にある古い城やその址

栃尾城 − Tochio Castle

東西は急峻な切岸を成し、南北に細長く弓形をした栃尾城の実城跡

新潟県長岡市栃尾町の西方に位置し、標高227.7mの鶴城山《カクジョウサン》山頂に実城[a]読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。を持つ栃尾城上杉謙信(長尾景虎)旗揚げの城として知られるが、現在見られる遺構は謙信死後に勃発した上杉景勝と上杉景虎による跡目争い(御館の乱)の時のもの。その城域は、山頂周辺の本城域、千人溜りのある中腹の中城域、そして麓の根古屋域で構成され、本城域は二の丸を中心に二つある尾根のうち、北側の尾根筋に実城・松の丸・三の丸・五島丸・北の曲輪を、西側の尾根筋に中の丸・琵琶丸・烽火台を配していた。郭はそれぞれ空堀(空濠)で区分され、中でも三の丸から千人溜りまで320mにも及ぶ大空濠は山頂から落ち込んで長大な竪堀へと変化する。また枡形の虎口を巡る大手道は意図的に屈曲させていた。これら一連の縄張は謙信在城の時代には見られず、御館の乱の時代に景虎方の本荘秀綱《ホンジョウ・ヒデツナ》らによって整備・改修されたものと考えられる。栃尾城は景勝勢による足かけ三年にわたる攻城戦で落城した。

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a 読みは《ミジョウ》。近世城郭の本丸に相当する。越後国の山城で使われる呼称の一つ。

本与板城 − Moto Yoita Castle

名門・直江氏の居城だった本与板城の実城跡には城址の碑が建つ

信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》丘陵にあって、標高98mほどの舌状台地上に形成された逆L字型の尾根筋に、複数の郭を連ねて築かれた本与板城[a]この呼び名は、のちに新城の与板城ができた後のものであり、新城が造られる前はここが与板城だった。本稿では「与板城」時代でも「本与板城」で統一する。の歴史は古く、一説に越後新田氏の一族である籠沢入道が南北朝時代の建武元(1334)年に築いた砦が始まりと云う。室町時代には越後国守護・上杉氏の重臣である飯沼氏の居城[b]有事の際の詰めの城とし、平時は麓にある御館《オタテ》で生活すると云う典型的な戦国時代の山城である。となった。そして越後永生の乱[c]読みは「エチゴ・エイショウ・ノ・ラン」。越後国の守護代・長尾為景と守護・上杉房能《ウエスギ・フサヨシ》が戦った越後国の内乱。で、城主の飯沼定頼は長尾為景に攻められて敗れ、為景に下った飯沼氏の家臣・直江親綱《ナオエ・チカツナ》の子・景綱《カゲツナ》[d]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。が本与板城を居城にして三島郡を支配した。この典型的な山城は例にもれず、実城や二の郭や三の郭といった主郭には土塁を巡らし、深い堀切あるいは二重堀切で区画していたが、さらに下段には腰郭をおき、主郭を挟むように西と南の二つの郭で防御させ、東下段には堀切が三方を囲む独立した出郭があったと云う。婿養子の信綱が城主の時代に与板城を築き居城を移したのちも、その支城として本与板城は存続していたと考えられている。

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a この呼び名は、のちに新城の与板城ができた後のものであり、新城が造られる前はここが与板城だった。本稿では「与板城」時代でも「本与板城」で統一する。
b 有事の際の詰めの城とし、平時は麓にある御館《オタテ》で生活すると云う典型的な戦国時代の山城である。
c 読みは「エチゴ・エイショウ・ノ・ラン」。越後国の守護代・長尾為景と守護・上杉房能《ウエスギ・フサヨシ》が戦った越後国の内乱。
d はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。

与板陣屋/與板城 − Yoita Jin’ya AKA Yoita Castle

与板藩の陣屋はのちに與板城になり、現在その跡地に模擬の冠木門が建つ

新潟県長岡市与板町与板甲134にある与板陣屋跡は、寛永11(1634)年に与板藩が長岡藩の支藩として立藩した際、かって越後上杉氏の執政・直江兼続の居城で既に廃城となっていた与板城の麓に構えられた藩庁跡である。この時の初代藩主は、越後長岡藩初代藩主・牧野忠成《マキノ・タダナリ》の次男・康成《ヤスナリ》[a]牧野忠成の父も同名。で、ここ越後国三島《サントウ》郡与板に1万石を領していた。元禄15(1702)年に二代藩主・康道《ヤスミチ》が信濃小諸城に転封されると、ここ与板は幕府の天領になったが、宝永2(1705)年に彦根藩・井伊氏の嫡流筋にあたる遠江掛川藩主・井伊直矩《イイ・ナオノリ》が2万石を与えられて移封されてきた。そして文化元(1804)年には六代藩主・直朗《ナオアキラ》が城主大名[b]近世江戸時代の大名の格式の一つで「城主格」とも。国許の屋敷を城として認められた大名のこと。に格上げされて、陣屋を移して城郭化し、文政6(1823)年に完成して與板《ヨイタ》城と呼ばれた[c]したがって現在、長岡市与板町には本与板城跡、与板城跡、与板陣屋跡、そして與板城跡と云う「Yoita Castle」に相当する城跡が四つある事になる。。幕末の北越戊辰戦争では戦火に巻き込まれて焼失、与板ふれあい交流センターとなった跡地には冠木門と板塀が復元されている。

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a 牧野忠成の父も同名。
b 近世江戸時代の大名の格式の一つで「城主格」とも。国許の屋敷を城として認められた大名のこと。
c したがって現在、長岡市与板町には本与板城跡、与板城跡、与板陣屋跡、そして與板城跡と云う「Yoita Castle」に相当する城跡が四つある事になる。

与板城 − Yoita Castle

与板城は舌状台地北端にある比高70mの山頂に築かれた山城である

信濃川中流左岸を南北に走る三島《サントウ》[a]この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。丘陵の中央あたりから、黒川と信濃川の合流点に向かって突き出た標高107mの舌状部北端に、越後国守護代・長尾氏を支えた直江家の居城・与板城があった。中越を一望に収めることができる山頂に実城、二ノ郭、三ノ郭の主郭群が連なり、尾根を断ち切るように深く広い堀切によって区画された豪壮な山城であった。直江氏は、はじめ本与板城主・飯沼氏の家臣であったが、飯沼氏が守護代の長尾為景に滅ぼされると為景に臣従して本与板城を与えられ、城主・直江景綱[b]はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。は為景死後、宿老の一人して上杉謙信を支えた。景綱のあとを継いだ信綱[c]惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・の婿養子となった。は、天正5(1577)年頃に与板城を築城して居城を移した。信綱は御館の乱[d]謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。上杉景勝を支持し、景勝方の拠点として与板城を守備、攻めてきた景虎方の本荘秀綱を撃退した。のちに信綱が刺殺されると、景勝の命で上田衆の樋口兼続が直江家の婿養子となり、直江兼続に改め、与板城主として城下町の整備の他、産業の奨励を推進し繁栄の礎を築いた。

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a この周辺を戦国時代には「山東」郡、江戸時代以降は「三島」郡と呼んでいた。読みは共に「サントウ」。
b はじめ実綱《サネツナ》を名乗っていたが、長尾景虎(上杉謙信)の信任が厚く、のちに偏諱を受けて景綱に改めた。
c 惣社長尾《ソウジャ・ナガオ》氏の一族で、嫡男が居なかった景綱の娘・の婿養子となった。
d 謙信死後に起こった越後上杉家の跡目争い。ともに養子であった上杉景勝と上杉景虎が家中を二分して一年近く争った。

新發田城 − Shibata Castle

新發田城跡の本丸北西隅には天守の機能を持つ三階櫓が復元されている

新潟県新発田市大手町6丁目にある新發田城 [a]これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。跡(新発田城址公園)は、慶長3(1598)年に太閤秀吉の命で加賀国は江沼郡《エヌマグン》・大聖寺城《ダイショウジ・ジョウ》から越後国は蒲原郡《カンバラグン》・新發田6万石へ入封した丹羽長秀[b]第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。の与力の一人、溝口秀勝《ミゾグチ・ヒデカツ》が、かっての国主・上杉景勝に謀反して滅んだ新發田氏の館跡[c]城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。に築城を開始し、それから56年後の承応3(1654)年、三代当主・宣直《ノブナオ》の代に完成した近世城郭であった。往時は加治川《カジガワ》と沼地を利用した城域で、本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南側に突き出た輪郭・梯郭併用型の平城であった。縄張は、新發田藩初代藩主となった秀勝の家臣で軍学者の長井清左衛門《ナガイ・セイザエモン》[d]清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。と葛西外記《カサイ・ゲキ》が担当した。寛文8(1668)年に火災で多くの建物を焼失したがのちに再建され、明治時代の廃藩置県で廃城となった。平成16(2004)年には三階櫓および辰巳櫓が古写真をもとに木造で復元された。

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a これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。
b 第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。
c 城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。
d 清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。

蔵王堂城 − Zaoudou Castle

蔵王堂城跡で唯一の遺構は本丸南東隅の土塁と水堀跡である

越後国を流れる信濃川と柿川《カキガワ》の合流点に形成された河岸段丘上に、その昔、蔵王権現[a]金剛蔵王権現とも。仏教の国である印度に起源をもたない日本独自の山嶽《サンガク》仏教の一つで、大和国(現在の奈良県)の金峯山寺《キンプセンジ》本堂(通称が蔵王堂)の本尊である。を祀る蔵王堂が建てられていたが、南北朝時代、この御堂に北朝勢力の中条氏が本陣を構えて砦化したことが蔵王堂城の始まりと伝わる。戦国時代初期、越後国守護の上杉氏と共に国入した長尾景晴《ナガオ・カゲハル》が古志《コシ》郡代となり、交通の要衝にあたる蔵王堂城を居城にした。景晴は越後長尾氏[b]長尾為景や長尾景虎(云わずとしれた上杉謙信)の家系。の分家にあたる古志長尾氏の祖となり、その後、古志長尾氏が栖吉城を居城にすると、長尾為重《ナガオ・タメシゲ》[c]長尾景虎の祖父にあたる長尾能景《ナガオ・ヨシカゲ》の子で、父・長尾為景の弟。景虎の叔父にあたる。が入城して本格的に改修したと云う。時が流れ慶長3(1598)年に越後上杉氏が會津若松へ国替えになると、代わって入国した堀秀治《ホリ・ヒデハル》の弟・親良《チカヨシ》が蔵王堂城に入城、のちに養子[d]兄・堀秀治の次男。の鶴千代が継ぐが夭逝《ヨウセイ》したため、彼の後見人であった堀直寄《ホリ・ナオヨリ》が居城の坂戸城とともに治め[e]当時、蔵王堂城は蔵王堂藩、坂戸城は坂戸藩が治めていた。長岡城移転後は廃城になり、現在は遺構の一部が残るのみである。

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a 金剛蔵王権現とも。仏教の国である印度に起源をもたない日本独自の山嶽《サンガク》仏教の一つで、大和国(現在の奈良県)の金峯山寺《キンプセンジ》本堂(通称が蔵王堂)の本尊である。
b 長尾為景や長尾景虎(云わずとしれた上杉謙信)の家系。
c 長尾景虎の祖父にあたる長尾能景《ナガオ・ヨシカゲ》の子で、父・長尾為景の弟。景虎の叔父にあたる。
d 兄・堀秀治の次男。
e 当時、蔵王堂城は蔵王堂藩、坂戸城は坂戸藩が治めていた。

村上城/越後本荘城 − Murakami AKA Honjō Castle

村上城跡の二ノ丸跡には二層二階の櫓が建っていた出櫓の台座石垣が残る

新潟県村上市大字本町字田口979[a]所在地を示すものとして、城下町を含めると他に大字村上字牛沢60、羽黒口564-1、新町937-1、二之町932-4、そして三之町620-1がある。にある村上城跡は、標高135mの臥牛山《ガギュウザン》に築かれた山上部と山麓の居館部からなり、戦国時代には揚北衆[b]越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。《アガキタシュウ》の領袖《リョウシュウ》であった本荘繁長[c]名字は「本庄」または「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。《ホンジョウ・シゲナガ》の居城で中世城郭の本荘城[d]本庄城とも。全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「越後」を冠したが、文中では「本荘城」と綴ることにする。であり、安土桃山時代には堀秀治《ホリ・ヒデハル》[e]織田信長の側近の一人であり、豊臣秀吉の家臣でもあった堀秀政の長男。秀政が小田原仕置で陣没したため家督を継いだ。の家臣・村上頼勝《ムラカミ・ヨリカツ》が石垣を用いて改修し村上城と改称した近世城郭であった。そして江戸時代には村上藩主の堀直寄《ホリ・ナオヨリ》が望楼型三層三階の天守櫓を建て、町割りをして城下町を整備した。天守櫓はのちに播磨国から国替えとなった松平直矩《マツダイラ・ナオノリ》が建て替えたが[f]理由は老朽化に伴う再建の他、外様大名による天守を破却して譜代大名としての威勢を主張したなど諸説あり。、落雷によりわずか四年で焼失し以後再建されることはなかった。明治時代の廃藩置県で廃城が決まり、北越戊辰戦争のおりに居館部を焼失したものの、城内の門や石垣はほぼ無傷で残っていたが悉く破却された。中世と近世の城郭遺構が混在する城跡は平成5(1993)年に国の史跡に指定された。

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a 所在地を示すものとして、城下町を含めると他に大字村上字牛沢60、羽黒口564-1、新町937-1、二之町932-4、そして三之町620-1がある。
b 越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。
c 名字は「本庄」または「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。
d 本庄城とも。全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「越後」を冠したが、文中では「本荘城」と綴ることにする。
e 織田信長の側近の一人であり、豊臣秀吉の家臣でもあった堀秀政の長男。秀政が小田原仕置で陣没したため家督を継いだ。
f 理由は老朽化に伴う再建の他、外様大名による天守を破却して譜代大名としての威勢を主張したなど諸説あり。

鳥羽山城 − Tobayama Castle

鳥羽山城は堀尾氏が改修し道幅6mを越えていたとされる大手道が残る

元亀3(1572)年に甲斐国の武田信玄が大軍を率いて遠江国の徳川家康領に侵攻を開始、兵数で劣る家康の手勢を分散させるため、守備の薄い城を次々に陥落させることで掛川城諏訪原城、そして浜松城といった家康の拠点を孤立させた。つづいて信玄は自軍の補給路を確保するために二俣城を包囲するも、この城の天嶮に阻まれて近寄ることができなかったが[a]もちろん家康も後詰を送れずにいた。、ついには水の手を絶つことに成功し降伏開城させた。こののち信玄は三方ヶ原台地で家康と織田信長の援軍を痛破し東海道を押し進む動きをみせたものの、翌4(1573)年に急死して上洛戦は幻となった。そして機山公[b]武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。の喪が明けた天正3(1575)年に、跡目を継いだ四郎勝頼が信長ら連合軍に無二の決戦を挑んだ長篠・設楽原合戦で惨敗すると[c]これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。、ついに家康の反撃が開始され、二俣城奪還のため旧・二俣川[d]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。対岸に鳥羽山城を築き、周囲の附城と共に包囲網を形成したと云う。この城は、現在は静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある鳥羽山公園として市民の憩いの場になってる。

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a もちろん家康も後詰を送れずにいた。
b 武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。
c これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。
d 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。

二俣城 − Futamata Castle

二俣城の本丸西側には石段を持つ野面積みの天守台が残る

静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990にある城山公園は、天竜川と旧・二俣川[a]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。が合流する天然の要害に築かれた山城跡で、戦国時代中頃に遠江国を斯波氏から奪還した駿河国の今川氏輝[b]今川家第十代当主。父は氏親、母は寿桂尼《ジュケイニ》。弟に十一代当主の義元がいる。天文5(1536)年に突然死で謀殺など死因には諸説ある。が重臣の松井貞宗に命じて築かせたのが始まりとされる。ここ二俣の地は遠江の平野部と山間部の結節点に位置し、遠江各地への街道が交差する要衝であり、今川氏衰退後は甲斐国の武田氏と三河国の徳川氏による激しい争奪戦の舞台になった。この城は、北を除く三方が川によって形成された崖地だったので、搦手にあたる北側尾根筋を遮断するだけで守りに堅固な城になった。永禄11(1568)年に武田信玄が今川義元亡き駿河国へ侵攻、同時に徳川家康も遠江国で大井川を境に西側の領土を略して二俣城を手に入れた。しかし元亀3(1572)年には信玄が大軍を率いて家康領に侵攻を開始、山縣昌景ら別働隊が二俣城を包囲するも城の天嶮に阻まれ近寄ることができなかったが家康も後詰を送れず水の手を絶たれて降伏開城するに至り、城は武田氏の手に落ちた。

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a 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。
b 今川家第十代当主。父は氏親、母は寿桂尼《ジュケイニ》。弟に十一代当主の義元がいる。天文5(1536)年に突然死で謀殺など死因には諸説ある。

烏山城 − Karasuyama Castle

室町時代に築かれ、近世城郭に改修された烏山城の吹貫門跡に残る石垣

室町時代は応永25(1418)年に、那珂川《ナカガワ》東岸にあって南北に伸びる標高200mほどの八高山《ハッコウサン》上に築かれた烏山城は、山の形が牛が寝ている姿に似ていることから臥牛城《ガギュウジョウ》の別名を持つ山城である。一説に、平安時代末期にあった讃岐国屋島での源平合戦[a]所謂、屋島の戦い。で、弓の神技を披露して名を馳せた下野国の御家人・那須与一《ナス・ノ・ヨイチ》[b]那須家二代当主の那須宗隆、または資隆。源義経の下で活躍した。兄弟の多くが平氏に与する中で源氏に与した十一男坊。の子孫[c]那須資重《ナス・スケシゲ》または沢村五郎資重とも。が築いたと云う。東西約370m、南北約510mに及ぶ城域に、本丸・古本丸・北城・中城・西城・大野曲輪・常磐曲輪・若狭曲輪からなる五城三郭を配した梯郭式の縄張りを持っていた。この典型的な中世城郭の山城は下野国の名門・那須家の居城であったが、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置に参陣せず所領没収とされたあとは忍城主だった成田氏長をはじめ多くの大名が入城し、幕末まで改修を重ねた末、明治時代に廃城となった。昭和の時代に入ると発掘調査が行われ、現在その城跡は栃木県立自然公園の一部になっている。

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a 所謂、屋島の戦い。
b 那須家二代当主の那須宗隆、または資隆。源義経の下で活躍した。兄弟の多くが平氏に与する中で源氏に与した十一男坊。
c 那須資重《ナス・スケシゲ》または沢村五郎資重とも。
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