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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

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日本国内にある古い城やその址

長篠城 − Nagashino Castle

武田と徳川の激しい争奪戦の舞台になった長篠城は二つの川が合流する断崖に築かれていた

元亀3(1572)年、反織田信長を糾合して挙兵した足利幕府第15代将軍・足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。の呼び掛けに応えるかのように満を持して西上作戦を発動した武田信玄は、信長の盟友・徳川家康が支配する三河国へ侵攻、三方ヶ原の戦いではその戦上手な軍略をもって徳川勢を痛破し、東三河の要衝・野田城を落城させたものの、自らの持病[b]肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。が悪化したことで、馬場・内藤・山縣ら古参の重臣らは涙をのんで作戦の中止と甲府への撤退を決断、しかし無念にもその帰路の信濃国駒場で急死した。享年53。この時、生前の信玄が療養のため滞在していた長篠城が現在の愛知県は新城市(しんしろし)長篠字市場にあり、城の一部が国指定史跡になっている。往時、この城は豊川と宇連川(うれかわ)という二つの川の合流点[c]これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。にある断崖上に築かれていた平城であった。もともとは奥三河の土豪・菅沼元成(すがぬま・もとなり)が築城、その子孫の居城となっていたが信玄の三河侵攻で降伏していた。そして信玄死去後に巻き返しを図った家康により城主・奥平貞昌が寝返って徳川方に入った。一方、父の遺言「自身の死を三年の間は秘匿し、侵略戦は控えよ」に従っていた武田勝頼は三河・遠江を取り戻すため、機山公[d]武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。の喪が明けぬ天正3(1575)年春に1万5千の兵で長篠城を包囲した。

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a. 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。
b. 肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。
c. これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。
d. 武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。

石神井城 − Syakujii Castle

年に一度開放される石神井城の主郭は、池と急崖に囲まれ三方に堀と土塁が巡らされていた

東京都練馬区石神井台1丁目18にあった石神井城は、北は三宝寺池(さんぽうじ・いけ)、南は石神井川に挟まれた台地上に築かれた単郭もしくは連郭[a]現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。式平山城である。鎌倉時代から、葛西、江戸両氏とともに秩父平氏[b]桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。の流れをくむ有力国人・豊島(としま)氏の居城であり、石神井郷を治める拠点としていた。平氏没落により所領を失っていた豊島氏であったが、のちに鎌倉公方[c]簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。と関東管領[d]簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。との間で起こった争いで鎌倉公方・足利持氏に味方した功績から旧領を回復した。室町時代に入り京で応仁の乱が勃発すると、再び鎌倉公方と関東管領との間で争い[e]いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。が起こった上に、関東管領勢で長尾景春[f]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。が反旗を翻し、鎌倉公方と連携して対立した。この時、石神井城主の豊島泰経(としま・やすつね)は、妻の兄である景春に味方して弟の泰明(やすあき)と共に挙兵した。関東管領勢にとって江戸城河越城岩付城との連絡を遮断する位置あった石神井城の存在は脅威であったため、文明9(1477)年に関東管領勢の太田道灌は三浦義同[g]読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。、千葉自胤らと平塚城を攻めたあとに泰経・泰明兄弟らと激突、これを痛破した。この時、泰明以下一族の多くが討死にした。石神井城に逃れた泰経であったが道灌らの総攻めにあって城を脱出、石神井城は落城した。

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a. 現在でも城の形態は不明である。「居館」ではなく、籠城戦を体験した「城」の構成として郭が一つしか無いというのが考え難いことから複数の郭があったという説が専らである。
b. 桓武天皇の孫・高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東は武蔵国秩父郡に土着し、秩父氏を称したのが始まり。
c. 簡単に言うと、関東に住んでいる室町幕府の代表者で命令するだけの人。
d. 簡単に言うと、鎌倉公方を補佐し、その命令を実行する地元の人。
e. いわゆる、享徳3(1454)年から28年間続いた享徳(きょうとく)の乱。
f. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
g. 読みは「よしあつ」。号して道寸(どうすん)。相模三浦氏の最後の当主。北条早雲との戦いに敗北した時の辞世の句『討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ。くだけて後はもとの土くれ』が有名。

久留里城 − Kururi Castle

里見氏の居城であり対北条との最前線を担った久留里城の本丸跡には模擬天守が建つ

千葉県は小櫃川(おびつがわ)東にある標高145mほどの丘陵上には、かって安房上総(あわ・かずさ)の雄と云われた里見氏の居城で、ここ関東の覇権をめぐって小田原北条氏と激しい攻防戦を繰り広げたときに、その最前線を担った久留里城が建っていた。別名は「雨城(うじょう)」。この山城にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているよう見え、城の姿が隠し覆われて敵の攻撃を受けづらかったと伝わる[a]あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。。その起源は、名将・太田道灌が江戸城を築城したのと時を同じくする康正元(1455)年、上総武田氏の祖と伝わる武田信長[b]上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。の築城とするのが通説である。戦国時代に入り、武田氏を抑えて久留里城を手に入れた里見氏ではあったが、天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置に参陣しなかったため安房一国のみの安堵となり、ここ久留里城のある上総国が関八州を賜った家康の領有となると、明治時代に入って廃城となるまで徳川譜代の居城となった。現在は東西の尾根に一部の遺構が残る他、本丸跡には江戸時代に建っていたとされる天守をイメージして、昭和54(1979)年に鉄筋コンクリート製二層三階の模擬天守が建てられ、城山公園として千葉県君津市では桜の名所の一つとなっている。

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a. あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。
b. 上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。

浜松城 − Hamamatsu Castle

浜松城の天守曲輪には天守台石垣が残るが、天守そのものの存在が不明である

静岡県浜松市中区元城町にあった浜松城は、元亀元(1570)年に徳川家康が三方原台地の東南端に築城し、駿遠経営の拠点とした城である。東に馬込川[a]もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。を天然の外堀として、遠州一帯を見渡すことが可能な三方ヶ原台地は、西進の野望に燃える甲斐の武田信玄を牽制できる位置にあり、また信州と遠州をつなぐ秋葉街道と京へ通じる東海道とが交差する要衝でもあった。この城は、駿河今川氏家臣・飯尾(いいお)氏の居城・引馬(ひくま)城[b]曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。を取り込み、その城域は最終的に南北約500m、東西約400mで、台地の斜面に沿って西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、さらに東南に三の丸を配し、これらの曲輪が一列に並んだ梯郭式平山城である[c]家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。。家康は29〜45歳までの17年間を浜松城で過ごしたが、その間は三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いなど、徳川家の存亡に関わる激動の時代であった。ちなみに、家康在城時は石垣造りではなく土の城である。その後、天正18(1590)年の秀吉による関東移封に伴い、豊臣恩顧の堀尾吉晴(ほりお・よしはる)が入城し、城域が現在の規模に拡張され近世城郭へと変貌した。一説に天守が築かれたのもこの時期と云われるが、絵図などには記録が無く、その姿も不明のままである。

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a. もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。
b. 曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。
c. 家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。

遠江小山城 − Tōtōmi Koyama Castle

甲州流築城術が僅かに残る小山城のニ郭跡には雰囲気を伝えるために模擬天守が建つ

かって大井川の渡しと駿河湾沿いの街道が交錯する要衝に位置し、東に湯日川(ゆいがわ)を望む舌状(ぜつじょう)台地の能満寺山(のうまんじやま)先端に築かれていた山崎の砦は、「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡きあとの元亀元(1570)年に、共に駿河国に侵攻した甲斐武田と三河徳川両軍が大井川を挟んだ領有権争いに発展した際に争奪戦を繰り広げた城砦(じょうさい)の一つであった。その翌年、武田信玄は本格的な遠江侵攻を前に2万5千の甲軍で大井川を渡河して山崎の砦を強襲・奪取した。そして駿州田中城と同様に、馬場美濃守信房に命じて砦を連郭式平山城に改修させて小山城[b]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。と改め、城主には越後浪人で足軽大将の大熊備前守朝秀(おおくま・びぜんのかみ・ともひで)を置いて高天神城攻略の拠点とした。今なお甲州流築城術の面影が残る小山城は、現在は静岡県榛原郡(しずおかけん・はいばらぐん)吉田町片岡の能満寺山公園として、台地西側には三重の三日月堀が残っている他、ニ郭跡には丸馬出が復元[c]但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。・整備されている。また昭和62(1987)年には吉田町のシンボルとして、往時には存在していない三層五階・天守閣型の展望施設を建設し、富士山や南アルプスを一望できる観光名所となっている。

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a. 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b. 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。
c. 但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。

駿河田中城 − Suruga Tanaka Castle

四重の堀を同心円状に巡らせた田中城の本丸跡は小学校の敷地になっていた

静岡県藤枝市田中1丁目にあった駿州田中城[a]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「田中城」とした。は、鎌倉後期の駿河国にあって一色左衛門尉信茂(いっしき・さえもんのじょう・のぶしげ)[b]一色氏は足利氏の一族で、若狭国・丹後国、そして三河国の守護や、足利幕府の侍所頭人(さむらいどころとうにん)を務めた。なる豪族の居館を拡張したものがその始まりで、のちに駿河と遠江の守護・今川義元の支配下では徳一色城(とくいっしき・じょう)と呼ばれていた。そして義元死後の元亀元(1570)年に、三河国の徳川家康と共に駿河へ侵攻した甲斐国の武田信玄が、駿河湾に面した花沢城攻略の余勢をもって奪取した。信玄は馬場美濃守信房に命じて城を改修させ、ここを諏訪原城と共に大井川を境とした遠江攻略の拠点とした。その際に輪郭式の縄張となって田中城と改められた上に、甲州流築城術が取り入れられて6ヶ所も丸馬出が設けられたと云う。信玄死後の天正3(1575)年に武田勝頼が長篠設楽原の戦で惨敗すると、諏訪原城が家康の手に落ちて孤立し、天正10(1582)年に始まった甲州攻めで駿河へ侵攻した徳川勢に包囲されると、城主・依田信蕃(よだ・のぶしげ)は主家を裏切った穴山梅雪の勧告に従って開城・降伏した。そして駿府城を拠点とした家康は太閤秀吉による関八州移封で一時駿河から離れたが、江戸開府で再び戻ってくると、田中城は鷹狩や上洛時の寄宿で度々訪れるほど、お気に入りの城になったと云う。

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a. 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「田中城」とした。
b. 一色氏は足利氏の一族で、若狭国・丹後国、そして三河国の守護や、足利幕府の侍所頭人(さむらいどころとうにん)を務めた。

白河小峰城 − Shirakawa Komine Castle

白河小峰城の本丸跡には天守の代用として「御三階」と呼ばれた三重櫓が復元されていた

鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した城郭は、高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、「三重櫓」と称された天守級の櫓を持つ白河小峰城はのちの會津戦争で激しい攻防戦が繰り広げれ、落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。

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a. 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。
b. 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle

蒲生氏郷公が縄張した若松城の本丸跡に、現在は赤瓦葺きで五層の天守が建つ

福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名(さがみ・あしな)氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。

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a. 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。
b. さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。
c. まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。
d. 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。
e. 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。
f. 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。

棚倉城 − Tanagura Castle

本丸が水堀と土塁で囲まれていた棚倉城は現在も亀ケ城公園として、その一部が残っていた

赤館城主で初代棚倉藩主であった立花左近将監宗茂が、元和6(1620)年に旧領の筑後柳川藩主に返り咲くと、その二年後に二代藩主として入封したのが丹羽長重(にわ・ながしげ)である。長重は、織田信長の宿老の一人である丹羽長秀[a]当時は丹羽五郎左衛門尉長秀(にわ・ごうろぜもんい・ながひで)と名乗っており、主君の信長から「米」のように儂には欠かせない奴と褒められたことから「米五郎左」(こめごろうざ)と渾名されていた。の嫡男で、彼も前藩主・立花宗茂同様に、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では西軍に与したため改易されたが、三年後には常陸国古渡(ひたちのくに・ふっと)藩主として大名に復活、さらに慶長19(1614)年の大坂の陣で武功を挙げたことで、徳川二代将軍秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)[b]これも立花宗茂公と同じ。公と長重は共に関ヶ原の戦で改易となったが、のちに10万石以上で大名に復活している。に加えられると、常陸国江戸崎(ひたちのくに・えどさき)2万石を経て、棚倉藩に5万石で加増移封された。入封時は山城の赤館を居城とするも、寛永元(1624)年に平城の築城を幕府に願い出て、同2(1625)年に着工し、のちに完成したのが棚倉城[c]別名として、城の壁が荒土(粗壁とも)のままだったので新土城(あらつちじょう)とか、近津(ちかつ)明神の跡地に建てたので近津城とも。また、濠に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が転封されたことから亀ヶ城とも云われ、これが現在の公園名になっている。で、現在は福島県東白川郡棚倉町の中心に壮大な濠を残す亀ヶ城公園として整備されている。ただし長重は築城途中の同4(1627)年、城の粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに陸奥国白河へ10万石で移封されたため築城途中で放置されることになったが、そのあとに近江国から入封した内藤豊前守信照によって築城が再開され、ついに完成し、そして赤館は廃城となった。

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a. 当時は丹羽五郎左衛門尉長秀(にわ・ごうろぜもんい・ながひで)と名乗っており、主君の信長から「米」のように儂には欠かせない奴と褒められたことから「米五郎左」(こめごろうざ)と渾名されていた。
b. これも立花宗茂公と同じ。公と長重は共に関ヶ原の戦で改易となったが、のちに10万石以上で大名に復活している。
c. 別名として、城の壁が荒土(粗壁とも)のままだったので新土城(あらつちじょう)とか、近津(ちかつ)明神の跡地に建てたので近津城とも。また、濠に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が転封されたことから亀ヶ城とも云われ、これが現在の公園名になっている。

赤館 − Akadate Castle

赤館の主郭にあたる一番平は城内で最も広い郭で、現在は赤館公園になっていた

福島県東白川郡棚倉町にあった赤館[a]「赤楯」とも。また、現代では赤館城と記す場合もあるようだが、本来の「館(だて)」は「やかた」ではなく城を指すものとされているので、本訪問記では「赤館」の表記で統一する。は、往時「館山」と呼ばれた標高375mほどの丘陵に築かれていた山城で、北は阿武隈川、南は久慈川へ至る川を天然の外堀とし、関東と東北の分水嶺(ぶんすいれい)に位置していたことから古来より両文化の交流点であり軍事的要衝の一つであった。築城年については南北朝時代の建武(1334~1338)年間に赤館伊賀次郎が城主であったと云う記録が唯一残っているが、室町時代には白河結城(しらかわ・ゆうき)氏が城主となり、戦国時代に入ると蘆名氏、佐竹氏、そして伊達氏ら強豪のはざまで生き残りを賭けたものの、関白秀吉の奥州仕置で改易となって赤館は佐竹氏による南郷支配の拠点と一つとなった。秀吉亡きあとは慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に佐竹氏が出羽国へ転封となったため、赤館を含む棚倉は幕府の天領[b]江戸幕府の直轄地の俗称。となった。そして慶長11(1606)年には、同じく関ヶ原の戦で西軍について改易となっていた立花宗茂公が棚倉に1万石を与えられて大名として復帰し、赤館城主となった。そして豊臣家が滅亡したのちの元和6(1620)年に宗茂公は旧領へ復帰、代わって丹羽長重[c]織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男で、長重もまた関ヶ原の戦では西軍について改易されたが、大坂の陣で武功を挙げて大名に復帰した。また、前藩主・立花宗茂と共に徳川秀忠の御相伴衆の一人であった。が入封して棚倉藩主となり、のちに大坂の陣の功で加増されたことで新たに棚倉城を築くと、ここ赤館は廃城となった[d]しかし、粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに長重は白河10万石に転封となったため、築城中だった棚倉城は放置され、その後に入部した内藤信照によって完成したと云う。

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a. 「赤楯」とも。また、現代では赤館城と記す場合もあるようだが、本来の「館(だて)」は「やかた」ではなく城を指すものとされているので、本訪問記では「赤館」の表記で統一する。
b. 江戸幕府の直轄地の俗称。
c. 織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男で、長重もまた関ヶ原の戦では西軍について改易されたが、大坂の陣で武功を挙げて大名に復帰した。また、前藩主・立花宗茂と共に徳川秀忠の御相伴衆の一人であった。
d. しかし、粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに長重は白河10万石に転封となったため、築城中だった棚倉城は放置され、その後に入部した内藤信照によって完成したと云う。
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