城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

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日本国内にある古い城やその址

高槻城 − Takatsuki Castle

高槻城の模擬天守台は本丸跡ではなく弁財天郭跡に建っていた

戦国時代は大永7(1527)年に起こった管領家・細川氏[a]足利室町幕府で将軍に継ぐ最高職であり、将軍を補佐し幕政を統括した。他に斯波氏と畠山氏が任じられており三管領と称された。の内紛は摂津国にある足利幕府の諸城を巻き込んで桂川原の戦と呼ばれる乱[b]細川氏の家督継承を巡る内紛とした両細川の乱、あるいは永世《えいしょう》の錯乱に総称される乱の一つ。になったが、丹波国の波多野秀忠《はたの・ひでただ》[c]丹後国の名族であり室町幕府の評定衆の一人であった波多野稙通《はたの・たねみち》の嫡子。波多野氏の最後の当主・秀治《しげはる》は孫にあたる。の軍勢に追われるように摂津国守護で山崎城主であった薬師寺国長《やくしじ・くになが》が逃れてきたのが高槻入江城[d]入江氏は、足利尊氏の従者の一人で駿河国出身の入江左近将監春則《いりえ・さこんしょうげん・はるのり》を祖とし、直系は「入江」を、庶子は「高槻」を称した在地勢力の一つ。であったと云う。これが記録として初めて確認できる高槻城とされる。さらに永禄11(1568)年に織田信長が足利義秋[e]義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。を擁して上洛した際に高槻城は開城し、翌年には義秋の側近の一人・和田惟政《わだ・これまさ》が城主となり[f]足利義秋からは池田城主・池田勝正《いけだ・かつまさ》、伊丹城主・伊丹親興《いたみ・ちかおき》と共に摂津守護の一人に任命されている(摂津三守護)。、天主を建てて堀を巡らすなど大きく改修された。その後、高山右近《たかやま・うこん》[g]諱は重友。諱は他に友祥《ともなが》も。「エスト」または「ジュスト」と云う洗礼名を持つ切支丹大名の一人であり、利休七哲《りきゅうしちてつ》の一人しても有名。が城主だった天正年間、そして江戸時代に入って元和年間にも改修されて近世城郭となった。明治4(1871)年の廃藩置県で廃城になると石垣などは鉄道建設の資材となり、城跡に旧陸軍が駐屯するなどした。戦後は宅地化が進んだが、現在は城跡を位置づけるものとして大阪府高槻市城内町3に高槻城公園[h]自分が城攻めした当時は「城跡公園」という名前だった。がある。

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a 足利室町幕府で将軍に継ぐ最高職であり、将軍を補佐し幕政を統括した。他に斯波氏と畠山氏が任じられており三管領と称された。
b 細川氏の家督継承を巡る内紛とした両細川の乱、あるいは永世《えいしょう》の錯乱に総称される乱の一つ。
c 丹後国の名族であり室町幕府の評定衆の一人であった波多野稙通《はたの・たねみち》の嫡子。波多野氏の最後の当主・秀治《しげはる》は孫にあたる。
d 入江氏は、足利尊氏の従者の一人で駿河国出身の入江左近将監春則《いりえ・さこんしょうげん・はるのり》を祖とし、直系は「入江」を、庶子は「高槻」を称した在地勢力の一つ。
e 義昭とも。足利氏二十二代当主であり、室町幕府第十五代で最後の将軍。
f 足利義秋からは池田城主・池田勝正《いけだ・かつまさ》、伊丹城主・伊丹親興《いたみ・ちかおき》と共に摂津守護の一人に任命されている(摂津三守護)。
g 諱は重友。諱は他に友祥《ともなが》も。「エスト」または「ジュスト」と云う洗礼名を持つ切支丹大名の一人であり、利休七哲《りきゅうしちてつ》の一人しても有名。
h 自分が城攻めした当時は「城跡公園」という名前だった。

高遠城 − Takatō Castle

高遠城の本丸虎口に残る石垣は内藤氏の近世時代のもの

長野県伊那市高遠町東高遠にある高遠城址公園はかっての高遠城[a]別名は渭山《いすい》城、または兜山城とも。跡で、戦国時代初めに信濃国諏訪郡一帯を治めていた諏訪家一門の高遠頼継《たかとお・よりつぐ》の居城であった。そして天文10(1541)年、甲斐国の新しい主となった武田晴信は頼継と共に諏訪郡へ侵攻[b]頼継(とその一族)は諏訪の惣領家と長い間対立しており、諏訪頼重の祖父である頼満に敗れ傘下となった経緯がある。しこれ平定するが、もともと諏訪家惣領になりたがっていた頼継は若い晴信を侮ってのちに兵をおこし武田の守兵を追い払うと諏訪の上・下両社を手に入れた。怒った晴信は天文13(1544)年に頼継を一戦に打ち破って伊那郡を平定すると、山本勘助と秋山虎繁[c]諱《いみな》として有名なのは「信友《のぶとも》」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ「武田の猛牛」と渾名された。に命じて伊那谷における拠点として高遠城を改修させた。さらに永禄5(1562)には晴信と諏訪御料人との間に生まれた四郎勝頼が城主となるが、元亀4(1573)年に晴信(信玄)が没し、天正3(1575)年には長篠設楽原合戦で織田信長と徳川家康の連合軍に惨敗、そして信長らによる甲州征伐が始まると高遠城は最終防衛拠点として勝頼の異母弟である仁科五郎盛信が入城し寡兵で織田の大軍を迎え撃った。

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a 別名は渭山《いすい》城、または兜山城とも。
b 頼継(とその一族)は諏訪の惣領家と長い間対立しており、諏訪頼重の祖父である頼満に敗れ傘下となった経緯がある。
c 諱《いみな》として有名なのは「信友《のぶとも》」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ「武田の猛牛」と渾名された。

土気城 − Toke Castle

難攻不落と知られた土気城の搦手には高い切通しを持つクラン坂がある

奈良時代は神亀《じんき》年間(724〜729年)[a]この時代の天皇は第四十五代の聖武天皇《しょうむ・てんのう》。に鎮守府将軍の大野東人《おおの・の・あずまびと》が蝦夷[b]読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。の侵入に備えて陸奥国に多賀柵[c]古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つで、多賀城とも。を、そして上総国に貴船城《きふね・じょう》なる城砦[d]本稿では、こちらの城砦を「土気古城」と称す。を築いたと云う。この城は、室町時代に入ると相馬胤綱《そうま・たねつな》[e]千葉氏の庶流(御別家)で相馬氏三代当主。の家臣・土気三郎が土気荘園の地頭に任じられて入城し[f]これに関して、胤綱の子で「土気太郎」なる者が任じられたと云う説があるが、胤綱にはそのような子は居ないので家臣が入城した説が有力。土気城と呼ばれた。その後は大関城の畠山重康《はたけやま・しげやす》[g]鎌倉幕府の有力御家人の一人で、征夷大将軍・源頼朝から厚く信頼されていた畠山重忠《はたけやま・しげただ》の子孫。が居城としたが、長享元(1487)年に中野城の酒井定隆《さかい・さだたか》[h]上総酒井氏の祖とされる人物であるが、出自は複数の説があり不明。一説に酒井清伝《さかい・せいでん》と呼ばれる人物を祖とするが、この定隆と同一人物かどうかも不明。が攻め落として城を再興し改修した。それから五代約100年に亘って土気酒井氏の居城となる[i]子孫は土気酒井氏と東金酒井氏に分れた。。そして、戦国時代は永禄7(1564)年の国府台合戦[j]通説として、この年の国府台合戦を「第二次」国府台合戦と称す。で、それまで北條氏康麾下で各地を転戦していた土気城主の酒井胤治《さかい・たねはる》が突如、里見方に寝返った[k]一説に、年初めに始まった戦への出陣命令で手間取って出陣が遅れていたとき、氏康が胤治の行動に不信感を抱いているとの報を受け、これに反発して離反したのだと云う。。怒った氏康は、胤治とは同族である東金酒井胤房《とうがね・さかい・たねふさ》と、戦場では友軍として共に戦った臼井城の原胤貞《はら・たねさだ》らを土気城攻めに差し向けた。

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a この時代の天皇は第四十五代の聖武天皇《しょうむ・てんのう》。
b 読みは「えみし」。朝廷のある京都から見て、北方または東方に住む人々の総称。
c 古代日本の大和朝廷が東北地方に築いた古代城柵《こだい・じょうさく》の一つで、多賀城とも。
d 本稿では、こちらの城砦を「土気古城」と称す。
e 千葉氏の庶流(御別家)で相馬氏三代当主。
f これに関して、胤綱の子で「土気太郎」なる者が任じられたと云う説があるが、胤綱にはそのような子は居ないので家臣が入城した説が有力。
g 鎌倉幕府の有力御家人の一人で、征夷大将軍・源頼朝から厚く信頼されていた畠山重忠《はたけやま・しげただ》の子孫。
h 上総酒井氏の祖とされる人物であるが、出自は複数の説があり不明。一説に酒井清伝《さかい・せいでん》と呼ばれる人物を祖とするが、この定隆と同一人物かどうかも不明。
i 子孫は土気酒井氏と東金酒井氏に分れた。
j 通説として、この年の国府台合戦を「第二次」国府台合戦と称す。
k 一説に、年初めに始まった戦への出陣命令で手間取って出陣が遅れていたとき、氏康が胤治の行動に不信感を抱いているとの報を受け、これに反発して離反したのだと云う。

雉ヶ岡城 − Kijigaoka Castle

雉ヶ岡城の南ノ郭南側にある土塁は上下二段の構造になっていた

埼玉県本庄市児玉町八幡山446にある城山公園は、戦国時代初期に関東管領職[a]幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。に就いていた山ノ内上杉家八代当主・憲実《のりざね》の居城として築かれた雉ヶ岡城[b]あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。跡である[c]もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。。しかし城域が狭く守り難いことから、憲実は上野国の上州平井城を居城とし、この城は家臣の有田豊後守定基《ありた・ぶんごのかみ・さだもと》[d]こののちに「夏目」姓を名乗った。に与え、交通の要衝であった鎌倉街道の押さえとした。こののち相模・伊豆二ヵ国を平定し、ここ武蔵国へも積極的に手を伸ばしていた新興勢力・小田原北條氏の圧迫を受け、天文15(1546)年の河越夜戦《かわごえよいくさ》[e]合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。以後は北條氏の傘下に入って鉢形城の支城となった。天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では、加賀の前田利家、越後の上杉景勝らが率いる北国口勢が攻囲して開城させたと云う。仕置後は関八州を拝領した徳川家康の家臣・松平清宗《まつだいら・きよむね》が入城するも、慶長6(1601)年に嫡男の家清[f]竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。の代で三河国吉田城に転封され、雉ヶ岡城は廃城となった。

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a 幕府から関東へ下向した幼い鎌倉公方を補佐する役職で、山ノ内、扇ヶ谷《おうぎがやつ》、そして犬懸《いぬがけ》の上杉家が入れ替わって世襲した。一時期、公方が二人居た時は小田原北條家(北條氏綱)が拝命したと云う説あり。
b あるいは八幡山城とも。現在は「雉岡」と綴るのが一般的のようだが、本稿では説明板や案内板での表記以外は往時の地名に由来する「雉ヶ岡」と綴る。
c もともとは、鎌倉から室町時代にかけて武蔵国を中心として勢力を保持していた武蔵七党《むさししちとう》と呼ばれた同族武士団の中で最大勢力を誇った児玉党の当主・児玉時国《こだま・ときくに》の居館跡だったと云う説あり。
d こののちに「夏目」姓を名乗った。
e 合戦があった地名から砂窪合戦《すなくぼ・がっせん》とも。「日本三大奇襲」と称されるが、これは江戸時代に作り上げられた話であり、実際には夜戦ではなく夕暮れに始まった戦であると云う説がある。
f 竹谷松平家六代当主で、三河国吉田藩の初代藩主。

韮山城 − Nirayama Castle

伊勢宗瑞が伊豆国統治の拠点として龍城山に築いたのが韮山城(本城)である

伊豆半島北部に広がる田方《たがた》平野の東部に位置し、箱根山から天城山《あまぎさん》に至る山並みの中にあって独立丘の一つである天ヶ嶽《てんがだけ》[a]天ヶ岳または天狗岳とも。を中心とする尾根一帯に築かれていた韮山城跡は、はじめは応仁の乱後の文明年間(1469〜1487年)に伊豆国堀越《いずのくに・ほりごえ》[b]現在の静岡県伊豆の国市。を拠点とした堀越公方《ほりこしくぼう》・足利政知《あしかが・まさとも》[c]本来は室町幕府公認の「鎌倉公方」として関東へ下向する予定であったが、享徳の乱《きょうとくのらん》や山内・扇ヶ谷両上杉氏の内乱等により鎌倉に入ること叶わず、伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。の筆頭家老・外山豊前守の城館[d]居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。であったと云う。政和死後に起こった兄弟間の内紛[e]長男の茶々丸《ちゃちゃまる》が、嫡男で三男の潤童子《じゅんどうじ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。では室町幕府十一代将軍・足利義澄《あしかが・よしずみ》[f]足利政知の次男。が、当時は興国寺城主であった伊勢宗瑞《いせ・そうずい》[g]延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、その後は出家して早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。に命じて堀越公方となった茶々丸を追放した[h]宗瑞に攻められて自刃したと云う従来説の他、最近は伊豆国から追放されたと云う説が有力。その後に伊豆奪還を狙っていたが宗瑞の返り討ちにあって自刃したのだと云う。。この功により韮山の城館を手にいれた宗瑞は、伊豆国支配の足がかりとして本格的な城郭の造営に着手、天ヶ嶽北西に連結する龍城山に韮山城を築いた。宗瑞は、その後も勢力を拡大し小田原城を奪取して嫡男・氏綱の居城とするも、自らは永正16(1519)年に死去するまで、ここ韮山城を居城とした。

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a 天ヶ岳または天狗岳とも。
b 現在の静岡県伊豆の国市。
c 本来は室町幕府公認の「鎌倉公方」として関東へ下向する予定であったが、享徳の乱《きょうとくのらん》や山内・扇ヶ谷両上杉氏の内乱等により鎌倉に入ること叶わず、伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。
d 居住区を兼ねた大きな館。自然地形を利用し、堀で囲まれた郭が中世の典型的な居館とされている。
e 長男の茶々丸《ちゃちゃまる》が、嫡男で三男の潤童子《じゅんどうじ》と継母を殺害して二代堀越公方を継いだ変。
f 足利政知の次男。
g 延徳3(1491)年まで伊勢新九郎盛時《いせ・しんくろう・もりとき》、その後は出家して早雲庵宗瑞《そううんあん・そうずい》を名乗る。現代では小田原北條氏の祖として「北條早雲」と呼ばれている。
h 宗瑞に攻められて自刃したと云う従来説の他、最近は伊豆国から追放されたと云う説が有力。その後に伊豆奪還を狙っていたが宗瑞の返り討ちにあって自刃したのだと云う。

足利氏館 − Fortified Residence of the Ashikaga Clan

足利氏の氏寺である国宝の鑁阿寺には足利二つ引紋が掲げられていた

栃木県足利市家富町2220にある鑁阿寺《ばんなじ》とその周辺の敷地は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》から数えて三代目の源義康《みなもとの・よしやす》[a]父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。が平安時代の末期に、ここ下野国足利荘[b]現在の栃木県足利市にあった荘園。に下向して自らの邸宅に堀と土居を築いて居館としたのが始まりとされる[c]これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。。この時、自らは足利氏[d]足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。を名乗る一方で、兄の義重《よししげ》は新田氏の祖となった。そして義康の子・足利義兼《あしかが・よしかね》が発心得度して邸宅内に大日如来を本尊とする持仏堂を建立し、足利氏の氏寺《うじでら》とした。また、その子で三代目当主の足利義氏《あしかが・よしうじ》[e]戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。は父の死後に本堂を建立したが安貞3(1229)年に落雷で焼失した。その後、本堂は足利尊氏の父で、七代目当主である足利貞氏《あしかが・さだうじ》により禅宗様式を取り入れたものに再建された。これが現在の真言宗大日派・鑁阿寺の本堂にあたり、大正11(1922)年には国指定史跡[f]本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。に、さらに平成25(2013)年に本堂が国宝に指定された。

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a 父は源義家の四男・義国《よしくに》で31歳の若さで病死した。
b 現在の栃木県足利市にあった荘園。
c これが「足利氏館」と呼ぶ所以のようだ。
d 足利氏祖。ちなみに室町幕府の初代征夷大将軍の足利尊氏は、義康の八世孫にあたる。
e 戦国時代初期に古河公方《こがくぼう》と呼ばれた足利義氏とは同姓同名の別人である。
f 本堂とその敷地を含み、「史跡・足利氏宅跡」として登録された。

佐野城 − Sano Castle

郭が直線的に並んだ佐野城の本丸は二の丸と深い堀切で区切られていた

栃木県佐野市若松町504にある城山公園は、慶長7(1602)年に佐野藩が徳川家康の意向を受けて居城・唐澤山城を廃し、それにともなって新たに築いた佐野城跡にあたる。この城は秋山川東岸の独立丘陵を利用した連郭式の平山城で、南から三の丸、二の丸、本丸、そして北出丸《きた・でまる》といった郭《くるわ》を直線上に配し、それぞれ郭の間は空堀で区切り[a]これが堀切の由縁。、外郭には惣堀(水堀)を巡らせていたと云う。主郭部の規模は東西110m、南北390mを有し、築いた場所が下野国の春日岡《かすがおか》にあった惣宗寺《そうしゅうじ》[b]天台宗の寺院で開基は藤原秀郷《ふじわらのひでさと》。一般には佐野厄よけ大師の通称で知られる。の跡地であったことから春日岡城とも。藩主の佐野信吉《さの・のぶよし》は下野佐野氏の居城として相応しい近代城郭として完成させる予定であったが、築城から七年後の慶長19(1614)年に信吉は所領を没収されて改易となり、築城半ばで完成を見ることなく廃城となった。それから350年以上たった昭和63(1988)年から十年をかけて発掘調査が行われ、本丸跡から石畳の通路や石垣が検出された。現在の佐野城跡は区画整理などにより惣濠[c]内濠、外濠、その他の濠の総称。佐野城はともに水濠《みずぼり》。は消滅しているものの市指定文化財となっている。

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a これが堀切の由縁。
b 天台宗の寺院で開基は藤原秀郷《ふじわらのひでさと》。一般には佐野厄よけ大師の通称で知られる。
c 内濠、外濠、その他の濠の総称。佐野城はともに水濠《みずぼり》。

新田金山城 − Nitta-Kanayama Castle

新田金山城の水ノ手曲輪へ入る大手虎口は象徴的かつ一大防御拠点だった

新田金山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。は太田金山城または単に金山城と呼ばれ、室町時代後期の文明元(1469)年に岩松家純《いわまつ・いえずみ》[b]岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。が築いたのが始まりとされる。そして「下克上」が日ノ本での社会的風潮となった戦国時代初期は享禄元(1528)年に、岩松氏の筆頭家老であった由良成繁《ゆら・なるしげ》[c]はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。が主君を自害に追い込んで主家を乗っ取ると同時に新田金山城主の座についた。この城は、なだらかな平地にコブのように突き出た独立峰の金山山頂から樹根状に広がった尾根部を中心に縄張された山城であり、山頂部の実城、北方の北城、西方の西城、そして南方の八王子砦がそれぞれ大小の堀切によって分断されていた。古文書や発掘調査によると段階的に拡張されたとみられ、戦国時代の上野《こうずけ》の地にあって越後上杉氏、甲斐武田氏、相模北條氏といった有力大名らの抗争の狭間で改修と拡張を重ねていった結果と考えられている。現在、群馬県太田市金山町40-98にて復元整備されている金山城跡は昭和9(1934)年に国の史跡に指定され、堀切や土塁、そして石垣など中世の城郭としての遺構がよく残されている。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「上州《じょうしゅう》」を冠すのが尤もとはいえ、上野国には他にも金山城があるため、本稿のタイトルは「新田」を冠すことにした。
b 岩松家は、「八幡太郎」こと源義家《みなもとの・よしいえ》の四男・源義国《みなもとの・よしくに》を祖とする足利氏の支流にあたり、足利将軍家から新田氏の後継と認められ、新田岩松家とも。
c はじめ「横瀬」を称していたが、下克上のあとに上野新田郡由良郷から名前をとって由良氏に改名した。

猪苗代城と(附)鶴峰城 − Inawashiro Castle

磐梯山麓の小丘陵に築かれた猪苗代城の本郭は土塁で囲まれ掘立柱建物があった

福島県は耶麻郡猪苗代町字古城跡《やまぐん・いなわしろちょう・あざ・こじょうあと》7150-1にあった猪苗代城は、相模国の豪族・三浦義明《みうら・よしあき》の七男で、源頼朝の御家人であった佐原義連《さわら・よしつら》の孫・経連《つねつら》が建久2(1191)年に築いたのが始まりと伝わる。経連は、祖父が奥州合戦《おうしゅう・かっせん》[a]文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。の功で与えられた會津四郡のうち猪苗代を領し、子孫ともども猪苗代氏を称した。猪苗代氏は代々独立志向が強く、同族で黒川城(のちの會津若松城)を居城としていた會津蘆名氏とは対立と従属を繰り返していたが、のちに蘆名氏より養子を迎え一門衆に落ち着いた。しかし第十二代当主・猪苗代盛国《いなわしろ・もりくに》は嫡子・盛胤《もりたね》を猪苗代城から追い出し[b]隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ざんげん》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。伊達政宗に寝返えって摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗を招く原因を作った。以降、猪苗代城は蒲生上杉・加藤・保科ら會津領主によって城代が置かれ、幕末の戊辰戦争で焼失して廃城となった。なお猪苗代城の北西に伸びる丘陵上に築かれた鶴峰城《つるみねじょう》は猪苗代氏の隠居城として使われていたと云う。

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a 文治5(1189)年に鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で勃発した戦い。この戦により頼朝は建久3(1192)年に征夷大将軍となり武家政権が確立した。
b 隠居していた盛国は後妻との子・宗国を溺愛し、後妻からの讒言《ざんげん》に乗せられて盛胤の廃嫡を画策したと云われる。

向羽黒山城 − Mukaihaguroyama Castle

阿賀川沿いの岩崎山頂に築かれた向羽黒山城の一曲輪からは會津盆地を一望できた

鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝の有力御家人の一人であった三浦一族[a]現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《みうら・どうすん》が最後の当主となった。の流れを汲む蘆名《あしな》[b]「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。氏が恩給地であった陸奥国會津で勢力を扶植《ふしょく》し、十六代当主・盛氏《もりうじ》の代に戦国大名として最盛期を迎え、越後国東部から會津四郡と仙道七郡の大部分[c]現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。を掌握して會津守護を自称した。また盛氏は永禄4(1561)年から永禄11(1568)年までのあしかけ8年の歳月を費やし、會津の要衝にあって阿賀川《あがかわ》[d]旧名は大川。沿いにある向羽黒山(現在の岩崎山)の山頂とその山腹を城域とする壮大で巨大な山城を築いた。これが福島県大沼郡会津美里町船場にあった向羽黒山城[e]岩崎城または巌館《いわたて》とも。である。そして、幼年であった嫡男の盛興《もりおき》を本城の黒川城(のちの會津若松城)主とし、自らは止々斎《ししさい》と号して隠居の身となり、この向羽黒山城を居城とした。ただし、隠居したとはいえ実質的には大御所として家中の全権を掌握し、持ち前の外交力を発揮して隣国の伊達家と並ぶ奥州屈指の大名に育て上げた。蘆名家滅亡後は伊達政宗蒲生氏郷上杉景勝らそれぞれが要衝として城を改修し、関ヶ原の戦後に廃城となった。

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a 現在の神奈川県三浦市を拠点としていた相模国の名族が嫡流で、頼朝死後に執権・北條氏と対立し滅亡した。のちに庶流が復興させ、三崎要害(新井城)の三浦道寸《みうら・どうすん》が最後の当主となった。
b 「相模国蘆名」の地名に由来する。現在の神奈川県横須賀市芦名。従って「芦名」や「葦名」とも。
c 現在の新潟県東部から福島県のJR東北本線沿線一帯を含むほぼ全域。
d 旧名は大川。
e 岩崎城または巌館《いわたて》とも。
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