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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

タグ: 日本の古城 (1 / 11 ページ)

深沢城 − Fukazawa Castle

深沢城大手側の郭を縦断する空堀跡は一部が農道になっていたが綺麗に復元されていた

静岡県御殿場市深沢大櫃160[a]読みは「しずおかけん・ごてんばし・ふかざわ・おおびつ」。にあった深沢城は、戦国時代初期に駿河国守護の今川氏によって築かれたと云われている[b]昭和55(1980)年に新人物往来社が刊行した城郭研究本の『日本城郭大系』第9巻に記載されているだけ。がその真偽は不明で、現在では永禄12(1569)年に相模国の戦国大名・北條氏康によって築かれたとされる説[c]平成8(1966)年に刊行された『戦国期東国の大名と国衆』(黒田基樹著)の第4章「北条氏の駿河防衛と諸城」。が有力である。この城が築城される前年の永禄11(1568)年冬、甲斐国の武田信玄は尾張国の田楽狭間(でんがくはざま)で斃れた今川義元亡きあと、第12代当主となった氏真(うじざね)が居る駿府に電撃的に侵攻した。氏真の正室は甲相駿三国同盟の証として相模国から輿入れしてきた氏康の長女で、氏真が駿府を捨てて掛川城へ避難した際、混乱のために妻の乗輿(じょうよ)が得られず侍女ともども寒中の野道を徒歩で辿る恥辱に耐え忍んでいたことを知った氏康は自分の娘を憂い、そして激怒して武田家との盟約を全て破棄し、上野(こうづけ)国で対峙していた関東管領・上杉輝虎[d]のちの上杉謙信。「輝」の字は足利13代将軍・義輝からの偏諱である。と急ぎ和睦を成立させ、娘婿の氏真救援のため駿河国へ出陣した。一方の信玄は氏康との直接対決を避けて一旦甲府に帰国したため、氏康は氏真と共に信玄に対する防衛ラインの再構築に乗り出し、甲斐との国境に接するこの地に「境目の城」となる深沢城を築いた。

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a. 読みは「しずおかけん・ごてんばし・ふかざわ・おおびつ」。
b. 昭和55(1980)年に新人物往来社が刊行した城郭研究本の『日本城郭大系』第9巻に記載されているだけ。
c. 平成8(1966)年に刊行された『戦国期東国の大名と国衆』(黒田基樹著)の第4章「北条氏の駿河防衛と諸城」。
d. のちの上杉謙信。「輝」の字は足利13代将軍・義輝からの偏諱である。

三枚橋城/沼津城 − Sanmaibashi AKA Numazu Castle

三枚橋城跡に築かれた沼津城の本丸跡は中央公園になっていた

永禄3(1560)年に『海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、「弓取り」とは国持大名を表すことから、東海道沿いに拠点を持つ戦国大名を指す。』の異名を持つ駿河国の戦国大名・今川義元が尾張国の田楽狭間(でんがくはざま)で斃れると、それから8年後には『越後の龍』こと上杉謙信によって北進を阻まれた『甲斐の虎』武田信玄が、それまでの甲相駿三国同盟を一方的に破棄し、のちに義元の異名を継承することになる三河国の徳川家康と共に駿河国へ侵攻した。三国同盟のもう一人の立役者である『相模の虎』こと北條氏康が謙信と対峙していた間隙をぬっての電撃的な侵略であった。さらに持ち前の軍略で氏康・氏政父子を翻弄した信玄は永禄13(1570)年、ついに駿河国を支配下に置いた。しかし3年後の元亀4(1573)年に信玄が病に斃れ、さらにその5年後の天正6(1578)年に謙信が急死すると関東周辺は風雲急を告げる。特に謙信の後継者問題は、それまで同盟関係を復活させていた武田と北條との間に修復できない溝を作ることになった[b]氏康の七男でのちに越相同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎は、上杉景勝と跡目争い(御館の乱)を起こし、この時に武田は甲越同盟と引き換えに景勝を支援、妹の菊姫を娶らせた。これらにより景虎は一転して劣勢となり、最後は自刃した。。同盟を破棄した氏政[c]正室は信玄の長女でのちの黄梅院(こうばいいん)殿。氏政は愛妻家で知られ二人の仲は睦まじかったが、信玄の駿河侵攻により離縁させられ甲斐国へ送り返された。は駿河国最前線の戸倉城や伊豆長浜城を強化した。一方、設楽原の惨敗から巻き返しを図る四郎勝頼は戸倉城の目と鼻の先に三枚橋城を築城して対北條の抑えとし、攻勢を強める徳川に抗するために西へ向かった。

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a. 「海道」は東海道を表し、「弓取り」とは国持大名を表すことから、東海道沿いに拠点を持つ戦国大名を指す。
b. 氏康の七男でのちに越相同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎は、上杉景勝と跡目争い(御館の乱)を起こし、この時に武田は甲越同盟と引き換えに景勝を支援、妹の菊姫を娶らせた。これらにより景虎は一転して劣勢となり、最後は自刃した。
c. 正室は信玄の長女でのちの黄梅院(こうばいいん)殿。氏政は愛妻家で知られ二人の仲は睦まじかったが、信玄の駿河侵攻により離縁させられ甲斐国へ送り返された。

興国寺城 − Koukokuji Castle

早雲旗揚げの城とされる興国寺城本丸北側の高土塁は江戸時代以降のものである

静岡県沼津市根古屋248にある興国寺城跡には、室町時代後期に駿河国の守護・今川義忠(いまがわ・よしただ)の食客であった伊勢新九郎盛時(いせ・しんくろう・もりとき)がこの時の今川家内紛を収めた[a]新九郎の姉(あるいは妹と云う説あり)が義忠の側室で北川殿と呼ばれ、今川義元の父である今川氏親を産んで家督争いに巻き込まれていた。功により、長享元(1487)年に幕府より伊豆国は富士下方十二郷を下賜されて入城したと云う記録が残る[b]但し、江戸時代に書かれた『今川記』や『北條五代記』であることから信憑性には疑問が投げられている。。この新九郎こそが、のちの伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)、あるいは小田原北條[c]これは旧字体。現代使う新字体だと「北条」であるが、本稿では旧字体で統一する。5代の祖で、日ノ本初の戦国大名と云われるようになった北條早雲である。早雲の旗揚げの城ともいえる興国寺城は、愛鷹山(あしたかやま)の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根の上に築かれ、山の根を通る根方道(ねがたみち)[d]現在の県道R22三島富士線で、根方街道とも。と浮島沼を縦断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点に当たり、往時は伊豆国と甲斐国とを結ぶ交通の要衝でもあった。そのため戦国期は駿河今川氏・甲斐武田氏・小田原北條氏による争奪戦の渦中にあったと云う。武田氏が滅びると、三河徳川氏が小田原北條氏の滅亡まで治めたのちに豊臣氏を経て、再び徳川氏が興国寺藩を立藩するも城主・天野康景(あまの・やすかげ)が出奔すると改易の上に廃城となった。

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a. 新九郎の姉(あるいは妹と云う説あり)が義忠の側室で北川殿と呼ばれ、今川義元の父である今川氏親を産んで家督争いに巻き込まれていた。
b. 但し、江戸時代に書かれた『今川記』や『北條五代記』であることから信憑性には疑問が投げられている。
c. これは旧字体。現代使う新字体だと「北条」であるが、本稿では旧字体で統一する。
d. 現在の県道R22三島富士線で、根方街道とも。

菅谷館 − Sugaya Castle

菅谷館には坂東武者・畠山重忠の居館があったが、現在の遺構は戦国時代の城跡である

埼玉県は比企郡嵐山(ひきぐん・らんざん)町菅谷757にある県立嵐山史跡の博物館は、鎌倉幕府で源頼朝の有力御家人の一人として重用された畠山重忠(はたけやま・しげただ)が文治2(1187)年まで居住していたと伝わる菅谷館の跡地に建っている。この館跡について築城年や築城者といった起源については明らかではなく、重忠が文久2(1205)年の武蔵国二俣川の戦い[a]この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。の際にこの小衾郡菅谷館(おぶすまぐん・すがやのたち)から出陣したと云うのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記録されているのみである。その後は戦国時代初期で太田道灌亡き後に、山内・扇ヶ谷上杉両氏が18年もの間争った長享の乱の際に城郭として改修されたと云う。この時、山内上杉氏が「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と道灌の嫡男・太田資康(おおた・すけやす)に命令したとされるが、この「須賀谷旧城」が菅谷館跡にあたるとされ、現在、博物館周辺に残る土塁や堀といった遺構はこの時代のものとするのが通説である。この城跡は、平成20(2008)年には松山城跡杉山城跡、小倉城跡と共に比企城館跡群(ひきじょうかんあとぐん)として国指定史跡となった[b]それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

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a. この戦では、同じ有力御家人であった北条時政に謀反の疑いをかけられて重忠は討ち死にした。
b. それに伴い菅谷館の正式名称は「比企城館群菅谷館跡」に変更された。

水戸城 − Mito Castle

水戸城跡で唯一現存する薬医門は本丸跡地の高校の敷地内に移設されていた

鎌倉幕府で源頼朝に重用された御家人の一人・馬場小次郎資幹(ばば・こじろう・すけもと)が常陸国の大掾職(だいじょうしき)に任じられると、常陸府中を中心に勢力を広げ[a]この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。、水戸の地にあって北は那珂川(なかがわ)、南は千波湖(せんばこ)に挟まれ、東西に長い台地の東端に居館を築いて馬場城とした。室町・戦国時代にかけては常陸江戸氏が城主となって支配を続けていたが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置時に九代当主の重通(しげみち)は小田原北條方について馬場城に籠城したが、秀吉方についていた佐竹義重(さたけ・よししげ)・義宣(よしのぶ)父子[b]往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。によって落城した。仕置後に常陸国54万石を賜った義宣は、文禄2(1593)年から城と城下町の普請を開始し、東端の一段低い丘を下の丸、その上の段丘に本丸、堀を越えて二の丸、その西側に三の丸の郭を造るなどして水戸城に改め、それまでの常陸太田城からここへ居城を移した。この時、城下町は武家地と町人地が入り交じるような町割りを採用した。佐竹氏は関ヶ原の戦後に出羽国秋田へ転封となったが、後に徳川頼房[c]読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。が修築した近世城郭は佐竹氏が築いたものが基礎となって現在に至る。

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a. この時から大掾資幹(だいじょう・すけもと)と称した。
b. 往時の佐竹氏は北に伊達氏、南に北條氏を敵に回して常陸統一を掲げていた。
c. 読みは「とくがわ・よりふさ」。徳川家康の末子で十一男。徳川御三家の一つ水戸徳川家の祖で常陸水戸藩の初代藩主。

笠間城 − Kasama Castle

笠間氏の滅亡後に蒲生郷成は笠間城を石垣を多用し天守を持つ近世城郭に改修した

茨城県笠間市笠間3616に遺る笠間城は関東地方にある山城としては珍しく石垣を多用し二層の天守を持つ近世城郭であった。この地を治めていたのは鎌倉時代初めから18代続く下野守護・宇都宮氏の一族の常陸笠間氏[a]他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。で、標高182mほどの佐白山(さしろさん)の頂上に堅固な砦を築いたのが笠間城の始まりとされている。しかし天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後に宗家である宇都宮国綱との対立が表面化し、18代当主・綱家が討たれて笠間一族が滅亡[b]この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。すると国綱の側近が城主となった。その後、伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封された蒲生氏郷の嫡子・秀行は、父亡きあとに起こった家中の騒動[c]俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。を収めることができなかったため、秀吉により下野国宇都宮へ減封となったが、その際に家老の一人であった蒲生郷成(がもう・さとなり)が笠間城主となった。郷成はそれまでの砦から天然の地形を巧みに利用した近世城郭へと改修した。その実際は三の丸、二の丸、帯曲輪、そして天守曲輪を設け、各曲輪には白壁の土塀をまわし、虎口には城門を、そして要所には櫓を配置して、のちに「桂城」と称えるにふさわしい要害堅固な名城となった。

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a. 他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。
b. この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。
c. 俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。

土浦城 − Tsuchiura Castle

幾重の水堀に囲まれた土浦城の本丸には東西2基の二重櫓が建っていた

戦国時代を経て江戸時代は慶長6(1601)年に近世城郭として大規模に整備された土浦城は、霞ヶ浦(かすみがうら)に注ぐ桜川河口の低地に築かれていた輪郭式平城であるが、本丸を含む主要な郭が幾重にも巡らされた水堀や周囲の沼地によって防御された「水城」としての一面をも持つ珍しい城である。周囲に特に高い遮蔽物がなかったこともあり、城の姿が水に浮かぶ亀に例えられたことから亀城(きじょう)とも呼ばれ関東でも代表的な土造りの城であった。現在は茨城県土浦市中央1丁目13番地で樹齢500年とも云われる県指定天然記念物のシイの木と芝生広場を有す亀城公園として市民の憩いの場となっている。江戸時代初期に結城秀康[a]読みは「ゆうき・ひでやす」。徳川家康の次男。母は正妻・築山殿の奥女中の一人で後に側室となった於万の方。長兄・信康亡きあと後継者とも云われたが、小牧長久手の戦の和睦条件として豊臣秀吉への養子兼人質として出され、後に北関東の大名・結城氏の婿養子となった。が城主となると、それ以降は土浦藩として松平氏・西尾氏・朽木氏[b]城主・朽木稙綱(くつき・たねつな)の実父は織田信長の朽木越えを助けた近江朽木城の朽木元綱(くつき・もとつな)。が継ぎ、明治時代に廃城となるまで、甲斐武田氏に最後まで従った忠臣・土屋昌恒(つちや・まさつね)を祖とする土屋氏が藩主を務めた[c]藩主・土屋数直(つちや・かずなお)の父・土屋忠直(つちや・ただなお)は土屋正恒の長男で、のちに徳川秀忠の小姓になり、上総国久留里藩の初代藩主となった。。城下に水戸街道[d]江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つで、江戸と水戸を結んでいた。を引き込み、本丸には東西2基の二重櫓が建ち、搦手口の霞門(かすみもん)、そして大手口の太鼓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝わる櫓門で、現在は関東地方で唯一本丸に現存する遺構となっている。

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a. 読みは「ゆうき・ひでやす」。徳川家康の次男。母は正妻・築山殿の奥女中の一人で後に側室となった於万の方。長兄・信康亡きあと後継者とも云われたが、小牧長久手の戦の和睦条件として豊臣秀吉への養子兼人質として出され、後に北関東の大名・結城氏の婿養子となった。
b. 城主・朽木稙綱(くつき・たねつな)の実父は織田信長の朽木越えを助けた近江朽木城の朽木元綱(くつき・もとつな)。
c. 藩主・土屋数直(つちや・かずなお)の父・土屋忠直(つちや・ただなお)は土屋正恒の長男で、のちに徳川秀忠の小姓になり、上総国久留里藩の初代藩主となった。
d. 江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つで、江戸と水戸を結んでいた。

品川御台場 − Shinagawa Daiba

東京湾埋め立てで姿を消したかっての海上砲台で残っている第三台場跡

東京都港区台場1丁目10番1号にある台場公園は、品川御台場(しながわおだいば)の一つであった第三台場の跡地を利用して昭和3(1928)年に開園し、さらに昭和50(1975)年には有明側に陸続きで連結されて、現在は砂浜や磯が広がるお台場海浜公園の一部として都会のオアシス的な憩いの場になっている[a]海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。。かっての品川御台場は、江戸時代は嘉永6(1853)年に米国合衆国海軍のペリー提督[b]マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。が「黒船」を率いて来航したことに危機感を持った幕府が江戸防衛のために建造した西洋式の海上砲台[c]「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。だった。ペリーが開国の猶予のために日本を去ったあと、江戸湾の品川沖に11基[d]海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。の台場建設を、伊豆韮山で反射炉の建造に携わった江川太郎左衛門栄達(えがわ・たろうざえもん・ひでたつ)に命じ、およそ8ヶ月で第一・第二・第三の台場が竣工、江戸湾防衛を任されていた川越藩、会津藩、忍藩がそれぞれ守備に着いた。すると翌7(1854)年に江戸湾に再来したペリーは砲台のために横浜まで引き返して上陸せざるを得なくなったと云う。同年には第五・第六の台場の他、御殿山下台場も竣工し、さらに第七台場も工事が進んでいたが、日米和親条約が締結されて以降は工事が中止となり、第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。

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a. 海のある公園という側面の他に、ドラマや映画の撮影地や花火大会の会場、都心からの充実したアクセスなどが年齢を問わず多くの人たちを呼び込む空間ともなっている。
b. マシュー・ペリーは米海軍の東インド艦隊総司令官であり、蒸気船海軍の父と呼ばれた。
c. 「台場」とは砲台を意味し、「お上」である幕府に敬意を払って「御」の字を付けて「御台場」(おだいば)と称した。廃城となった後は「お台場」と呼ばれているのはご存知のとおり。
d. 海上は11基だが、陸上に品川の高輪台地の最南端に位置する御殿山(ごてんやま)の麓に1基を建造すると云う計画だったので合計12基となる。

深大寺城 − Jindaiji Castle

深大寺城の第二郭跡からは九棟の掘立柱建物が発見され一部が平面復元されていた

関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部[a]読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。で標高50mほどの舌状(ぜつじょう)台地上に築かれていた深大寺城は現在の東京都調布市深大寺元町にあり、三つの郭(くるわ)が直線的に連なった連郭式平山城であった。戦国時代初期、関東の覇権を巡って小田原北条氏と争っていた扇ヶ谷上杉氏が南武蔵の防衛ラインを強化するため、往時「深大寺のふるき郭」と呼ばれていた砦跡を修築し、重臣の難波田憲重(なんばだのりしげ)[b]弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。を城主として反抗拠点とした。城の西側を除く三方は開折谷(かいせきだに)[c]地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。によって形成された沼沢地(しょうたくち)が広がり、その西側にも湧水を集めた支谷(しこく)を持ち、南側はさらに比高15mをほどの国分寺崖線(こくぶんじ・がいせん)によって多摩川と画され、その対岸をも望見することができたと云う。城内は横矢掛(よこやがかり)の虎口や郭を囲む土塁、郭を分断する空堀など防衛設備が強化されていた。戦国時代初期にあって名将の誉高く、扇ヶ谷上杉氏の勢力拡大の先鋒を担っていた太田道灌が謀殺されて以来、扇ヶ谷上杉氏の権勢は振るわず、山内上杉氏・古河公方との三つ巴の争いで互いに疲弊しきっていた間隙をついて、三浦道寸[d]相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。を滅ぼし相模国を奪った小田原北条氏による武蔵国への侵攻が始まった。

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a. 読みは「みなみ・えんぺん・ぶ」。台地を囲む外周のうち南側の縁(へり)の部分のこと。
b. 弾正とも。憲重は武蔵松山城代でもある。
c. 地形が侵食などにより小さな谷が複数形成され、地形面が細分化される現象のこと。
d. 相模三浦氏の最後の当主で、北条早雲との戦いに敗北し自刃した。

長篠城 − Nagashino Castle

武田と徳川の激しい争奪戦の舞台になった長篠城は二つの川が合流する断崖に築かれていた

元亀3(1572)年、反織田信長を糾合して挙兵した足利幕府第15代将軍・足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。の呼び掛けに応えるかのように満を持して西上作戦を発動した武田信玄は、信長の盟友・徳川家康が支配する三河国へ侵攻、三方ヶ原の戦いではその戦上手な軍略をもって徳川勢を痛破し、東三河の要衝・野田城を落城させたものの、自らの持病[b]肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。が悪化したことで、馬場・内藤・山縣ら古参の重臣らは涙をのんで作戦の中止と甲府への撤退を決断、しかし無念にもその帰路の信濃国駒場で急死した。享年53。この時、生前の信玄が療養のため滞在していた長篠城が現在の愛知県は新城市(しんしろし)長篠字市場にあり、城の一部が国指定史跡になっている。往時、この城は豊川と宇連川(うれかわ)という二つの川の合流点[c]これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。にある断崖上に築かれていた平城であった。もともとは奥三河の土豪・菅沼元成(すがぬま・もとなり)が築城、その子孫の居城となっていたが信玄の三河侵攻で降伏していた。そして信玄死去後に巻き返しを図った家康により城主・奥平貞昌が寝返って徳川方に入った。一方、父の遺言「自身の死を三年の間は秘匿し、侵略戦は控えよ」に従っていた武田勝頼は三河・遠江を取り戻すため、機山公[d]武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。の喪が明けぬ天正3(1575)年春に1万5千の兵で長篠城を包囲した。

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a. 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。足利幕府最後の将軍。
b. 肺結核、胃癌、はたまた野田城攻めの最中に狙撃されたなどの諸説あり。
c. これを渡合(どあい)と呼ぶ。この渡合より北側の豊川を寒狭川(かんさがわ)と呼び、同様に渡合より北にある宇連川を三輪川と呼ぶ。
d. 武田信玄の戒名である法性院機山信玄(ほっしょういん・きざん・しんげん)から。
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