静岡県は沼津市内浦重須《ヌマズシ・ウチウラ・オモス》にあった長浜城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「伊豆」を冠したが、文中では「長浜城」と綴ることにする。は、伊豆半島の発端丈山から駿河湾[b]最深部は水深2,500mに達し、日本で最も深い湾。相模湾・富山湾と並んで日本三大深海湾の一つ。へ向って延びた尾根先端にあり、深く入り込んだ重須湊を守るために、戦国時代には小田原北條氏が水軍の前線基地として運用していた。城の南側を除く三方は急峻で水深が深い海に接しており、安宅舟《アタケブネ》や小早舟といった軍船や海賊船として知られる関舟の停泊に適していたと云う。この時代の水軍の拠点としては、その多くが陸地から離れた島に置かれていたが、この城は山城の特徴を併せ持つ海城であった。すなわち、城域の最高地ある第一曲輪を中心に海側と山側に向って郭がL字型に配置され、陸側には敵の侵入に備えて、北條流築城術の特徴でもある土塁と堀切、そして畝を持つ空堀が設けられていた。天正18(1590)年に小田原北條氏が滅亡した後に廃城となったが、昭和の時代に国の史跡に指定され、平成の時代には保存整備が進み、現在は戦国時代の姿が復元された史跡公園として市民に公開されている。
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日本各地で歴史に残る「いくさ」が行われた戦場跡の記録
天正17(1589)年10月に小田原北條氏の家臣で沼田城代を務めていた猪俣邦憲《イノマタ・クニノリ》が、利根川対岸にある信濃国小県《チイサガタ》の豪族・眞田昌幸が領する名胡桃城を奪取する変が勃発した[a]奇しくも昌幸は上洛中であり、家臣の鈴木主水重則《スズキ・モンド・シゲノリ》が名胡桃城の城代を務めていたが、偽の書状で城外に出た後に乗っ取られたと云う。。天正壬午の乱後、利根川を挟んでこれらの城がある上野国の沼田一円は越後の上杉景勝に従属していた眞田氏の支配下にあったが、のちに遠江の徳川家康と相模の北條氏直が自分達の都合だけで線引きしたことが国境問題として燻り出したため、往時ここ日の本の半分を支配下に置いて関白[b]「関白太政大臣《カンパク・ダイジョウダイジン》」のことで、天皇を補佐する朝廷の最高位。常設の職掌《ショクショウ》ではない。の座に昇りつめていた豊臣秀吉の裁定を請け、小田原北條氏の最高権力者である北條氏政の上洛を条件に新しい線引きが決められた上に、折しも関東惣無事令[c]秀吉が大名間の私戦を禁じた法令で、小田原北條氏のみならず奥州の伊達氏や蘆名氏、常陸の佐竹氏らに対するものを含めるもの。が出されていた中での事件であった。これを「天皇の裁定」に弓引くものである[d]秀吉は後陽成天皇《ゴヨウゼイ・テンノウ》から「一天下之儀」として裁定を委ねられていたと云う。と激怒した秀吉は小田原北條氏に宣戦布告を発し、翌18(1590)年3月に総勢20万もの大軍[e]兵力や参加した大名・武将には諸説あり。を率いて、関東で難攻不落とされた小田原城惣構に籠城する氏政・氏直父子らを陸と海から包囲した。
関東で越後の上杉政虎[a]のちの上杉謙信。永禄4(1561)年3月の小田原城包囲の後、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した際に社前で山内上杉氏の名跡を継承し、さらに関東管領職の家職を拝領した。これにより政虎は関東の国衆らから「山内殿」と呼ばれた。と攻防戦を繰り広げていた小田原の北條氏康は、甲相駿三国同盟[b]善徳寺《ぜんとくじ》の会盟とも。の誼で、甲斐の武田信玄による信濃国での軍事行動で政虎を牽制することに成功、これによって政虎が越後へ帰国するや反撃を開始し上杉方についていた国衆らを従属させ、河越城まで後退していた勢力圏の回復に務めた。氏康もまた信玄の要請に応じ、北條綱成らを川中島合戦の援軍として派遣するなど、同盟の一翼を担っていた駿河の今川義元亡きあとも[c]永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで討死し、嫡男の氏真《うじざね》が当主となっていた。両国の関係は悪くはなかった。しかし永禄11(1568)年に信玄が三河の徳川家康と共に駿河今川領へ侵攻すると、氏康は相駿同盟[d]氏康の娘は今川氏真正室で早川殿と呼ばれていた。したがって氏真にとって氏康は舅にあたる。を重視して信玄に対抗した。翌12(1569)年、信玄は伊豆に駐屯する氏康らを牽制すると、2万の軍勢を率い上野国の碓氷峠を越えて武蔵国へ侵攻、鉢形城を包囲した後に南進して滝山城と多摩川を挟んだ拝島に着陣した。一方、城主・氏照が守備を北側に集中している間、信玄が送り込んだ別働隊が甲斐国の郡内より小仏峠を越えて城の南西から静かに近づいていた。
福島県福島市杉妻町2-16にある福島県庁周辺は、かっては奥州街道や米沢街道などが合流する陸奥信夫(むつ・しのぶ)郡にあって古くは室町時代から城郭が築かれ、奥州伊達氏の居城として杉妻城(すぎのめじょう)[a]「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。と呼ばれていた。伊達氏17代当主・政宗が他の奥羽諸大名らと抗争を繰り広げていた天正17(1589)年頃は杉妻城を含め伊達家にとって最大規模の領国を支配下に置いていた、まさに絶頂期であった[b]但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。。しかし天正19(1591)年の奥州仕置で豊臣秀吉によって領国の一部が召し上げられ、蒲生飛騨守氏郷が會津42万石[c]葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。に転封されると客将の木村吉清(きむら・よしきよ)[d]元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。に杉妻城を拠点とする信夫郡5万石が与えられた。この時、吉清は杉妻城を福嶋城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。に改めた。しかし氏郷が急死して蒲生氏が移封されると信夫郡を含む會津120万石は越後国から転封となった上杉権中納言景勝の領地となる。奥州仕置以降、旧領の奪還を目論む政宗との間に緊張が高まった関ヶ原の戦直前、福嶋城には猛将・本荘繁長[f]名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。が城主として派遣される。上方で西軍敗れるの報せを受け取った政宗は、すぐさま信夫山の麓まで侵攻し福嶋城に籠もる本荘繁長ら上杉軍と松川近くで激突した。
参照
↑a | 「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。 |
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↑b | 但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。 |
↑c | 葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。 |
↑d | 元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。 |
↑e | 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。 |
↑f | 名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。 |
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いから三年後、徳川家康は征夷大将軍に就任[a]「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。し江戸で幕府を開府した。次に、豊臣家に対して臣下の礼を要求すると両家の間に「亀裂」ができたが、依然として加藤清正ら豊臣恩顧の大名が多かったため直接的な対立に至ることはなかった[b]むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。。そして慶長16(1611)年に初めて両家の首脳である家康と豊臣秀頼の会見が実現して亀裂は埋まったかのようにみえたが、その三年後の慶長19(1614)年には世に云う「方広寺鐘銘事件」が起きた。豊臣家の総奉行であった片桐且元(かたぎり・かつもと)は両家の間を奔走して平和的に解決しようと務めたが、逆に家康の奸計に嵌って豊臣方の疑心暗鬼を誘うことになり亀裂は「溝」に変わった。この事件を宣戦布告と受け取った豊臣家は秀吉が残した莫大な金銀で兵糧と武器を買い入れ、全国の浪人に招集を呼びかけた。その一人で関ヶ原の戦いでは西軍で唯一の勝利を得た真田昌幸の次男・信繁(幸村)も蟄居先の九度山を抜けだして大坂城に入城、不本意ながら城内が籠城戦に決すると、直ちに惣構(そうがまえ)南東に隣接する平野口あたりで出城の築造に着手した。これが後世に伝わる「真田丸」である。
天正3(1575)年5月16日[a]この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。、三河国長篠城を1万5千の兵で包囲して孤立させ、残る郭は本丸と二の丸のみとした武田勝頼は、医王寺山[b]この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。に構えた本陣にて「信長来る」との一報を受け取った。そして5月19日、宿老らを集めて軍議を開くと勝頼は織田信長・徳川家康と無二の決戦を行うことを主張し、推し量った彼我の兵力差から甲斐国へ撤退することを主張する老練な「年寄り」らの意見を退け、寒狭川(かんさがわ)[c]豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。を渡って設楽原(したらがはら)[d]別名は有海原(あるみはら)。へ陣を進めると独断した。風前の灯となった長篠城を囮にし、設楽原の連吾川(れんごがわ)対岸に陣をはる信長軍を太陽を背に見下ろすような逆落しの斜面、そして梅雨の長雨によって飛び道具を無力化できるといった優位性が勝頼の決断を後押しした。そして3千を長篠城監視部隊として残し、残る1万2千を主力として大雨の中を密かに連吾川東岸辺りまで押し出させた。一方の織田・徳川連合軍3万8千は5月13日に岡崎城を出陣、まるで長篠城の後詰など考えていないかのように設楽原までの十里[e]日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。の道のりをのらりくらりと三日もかけて行軍してきた[f]これは、まるで長篠の梅雨明けに合わせたかのような進軍にも取れる。。そして連吾川西岸に着陣するやいなや持参した大量の丸太で馬防柵の設営を開始、同時に別働隊の3千を鳶ヶ巣山(とびがすやま)へ向けて進発させた。
永禄12(1569)年の三増峠の戦いで相模国の北條氏康を抑えて事実上、今川領への駿河侵攻を完了させた武田信玄は、元亀3(1573)年10月3日に大軍を率いて徳川家康が領する三河・遠江方面への侵攻を開始した。一方、桶狭間の戦いで旧主・今川義元が斃れてから悲願の独立を目論んでいた家康であったが、清須同盟以降、尾張国を統一した織田信長とは対等な関係ではなく「家臣の一人」として、この新しい主が推し進める天下布武の一翼を担う立場にあった。信玄は、その天下布武の蚊帳の外に追いやられていた足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。が号令した信長包囲網に応えるため、山縣昌景・秋山虎繁(あきやま・とらしげ)[b]諱(いみな)として有名なのは「信友(のぶとも)」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ、「武田の猛牛」と渾名された。ら5千を別働隊として先発させて信濃・遠江国境にある青崩峠(あおくずれとうげ)から、そして自らが率いる2万2千の本隊は駿河から大井川を渡って、それぞれ遠江国へ侵攻した。別働隊は徳川方の掛川城や高天神城を結ぶ要所にある二俣城を包囲、その間に偵察に現れた本多忠勝ら徳川勢3千を苦もなく蹴散らした後、信玄率いる本隊も合流して二俣城を開城・降伏させると、12月22日には天竜川を渡って南下、甲軍2万7千は怒涛の如く家康が籠城する浜松城に迫ったが、まるで家康をあざ笑うかのように突如、城を迂回して三方ヶ原台地へと向かった。
永禄11(1568)年に甲斐国の武田信玄は形骸化した甲相駿三国同盟を一方的に破棄して、三河国の徳川家康と共に駿河国の今川領に侵攻した。かって「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡き名門今川家当主の氏真は、甲州勢の怒涛の猛攻に堪えられず、三国同盟の絆である正室・早川殿のつてで、舅である相模国の北条氏康に支援を求めた[b]氏真は越後国の上杉輝虎にも駿河を奪われた事情を知らせ、関東で対峙している小田原北条氏と和睦して共に信玄を征伐して欲しいと懇願している。。氏真は駿府を捨てて掛川城へ避難するが、混乱のために妻の乗輿(じょうよ)が得られず侍女ともども寒中の野道を徒歩で辿る恥辱に耐え忍んでいたことを知った氏康は自分の娘を憂い、そして激怒して武田家との盟約を全て破棄、さらに急ぎ越後国の上杉輝虎[c]のちの上杉謙信。関東管領の上杉家を継いで長尾景虎から改名した。「輝」は将軍・足利義輝からの偏諱である。と和睦を成立させて信玄に対抗した。信玄は翌12(1569)年6月に伊豆まで侵攻して氏康を牽制、その本隊が伊豆に集合した隙をついて8月には2万の軍勢を率いて上野国から鉢形城や滝山城といった拠点を攻撃しつつ、10月に小田原城を包囲した。しかし籠城勢が挑発に応じないため無理な城攻めはせずに、城下を焼き払うと相模川沿いに三増峠を経由して帰国の途についた。小田原城を固く守備させていた氏康は、氏照と氏邦ら2万の軍勢を三増峠へ向かわせ、自らも伊豆を退陣し、氏政と共に2万の軍勢をもって帰路の信玄を挟撃する作戦を開始した。
千葉県市川市国府台にある里見公園は埼玉県東部から千葉県北部一帯に走る下総台地の西端で、江戸川沿いの台地上にあり、往時は下総国の国府が置かれたことから国府台(こうのだい)と呼ばれ、下総国の政治や文化の中心となった場所であった上に、室町から戦国時代の関東動乱の舞台ともなった国府台城が築かれていた。その由緒としては、歴史書の『鎌倉大草紙』(かまくらおおぞうし)[a]室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。には文明10(1478)年に扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[b]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。が、ここ国府台に陣城を築いたとあり、これを始まりとする説がある。他に、それより前の康正2(1456)年に武蔵千葉氏[c]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が市川城なる砦に立て籠もって、古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗したと云われているが、この市川城と道灌の陣城との関係は不明である。その後、国府台は二度にわたり争乱の表舞台に立つことになる。まずは天文7(1538)年に伊勢氏綱と小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(あしかが・よしあき)・里見義堯(さとみ・よしたか)連合軍との合戦、そして永禄6(1563)年から二年に渡る北条氏康と里見義弘との合戦で、ともに里見勢は敗退し、下総から里見氏の勢力が駆逐されていくことになった。
室町時代後期の長禄元(1457)年に、扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあった太田資清(道真)・資長(道灌)の親子が築城した河越城[a]現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。は関東でも要の城として上杉氏六代、小田原北条氏四代の持城となり、河越夜戦など幾多の戦いの舞台ともなった。天正18(1590)年の太閤秀吉による小田原仕置後に関東に入封した徳川家康は、譜代筆頭の酒井重忠(さかい・しげただ)を封じ、ここに「川越藩」が立藩した。そして江戸時代中期には「知恵伊豆」こと松平信綱(まつだいら・のぶつな)が近世城郭に改修し、8つの曲輪と3つの櫓、そして12の門を持つ徳川家の親藩と譜代大名の居城となった。また天守は建てられなかったが、本丸西南隅の富士見櫓が城内第一の高所にあったためその代用となっていたらしい。嘉永元(1848)年には、藩として最大の石高を有した越前松平家の松平斉典(まつだいら・なりつね)が、その二年前に焼失した二ノ丸御殿を再建する代わりに本丸御殿を造営した。これが現在、埼玉県川越市郭町で県指定有形文化財となっている本丸御殿遺構である。明治元(1868)年、明治維新政府に恭順するために堀は埋められ、老朽化した建築物が解体されて、現在では富士見櫓跡と本丸御殿、そして中ノ門堀跡の一部が残るのみとなった。
参照
↑a | 現在は、築城時から中世頃までを「河越城」、江戸初期を含む近世以降は「川越城」と表記するのが一般的である。 |
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