新潟県村上市大字本町字田口979[a]所在地を示すものとして、城下町を含めると他に大字村上字牛沢60、羽黒口564-1、新町937-1、二之町932-4、そして三之町620-1がある。にある村上城跡は、標高135mの臥牛山《ガギュウザン》に築かれた山上部と山麓の居館部からなり、戦国時代には揚北衆[b]越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。《アガキタシュウ》の領袖《リョウシュウ》であった本荘繁長[c]名字は「本庄」または「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。《ホンジョウ・シゲナガ》の居城で中世城郭の本荘城[d]本庄城とも。全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「越後」を冠したが、文中では「本荘城」と綴ることにする。であり、安土桃山時代には堀秀治《ホリ・ヒデハル》[e]織田信長の側近の一人であり、豊臣秀吉の家臣でもあった堀秀政の長男。秀政が小田原仕置で陣没したため家督を継いだ。の家臣・村上頼勝《ムラカミ・ヨリカツ》が石垣を用いて改修し村上城と改称した近世城郭であった。そして江戸時代には村上藩主の堀直寄《ホリ・ナオヨリ》が望楼型三層三階の天守櫓を建て、町割りをして城下町を整備した。天守櫓はのちに播磨国から国替えとなった松平直矩《マツダイラ・ナオノリ》が建て替えたが[f]理由は老朽化に伴う再建の他、外様大名による天守を破却して譜代大名としての威勢を主張したなど諸説あり。、落雷によりわずか四年で焼失し以後再建されることはなかった。明治時代の廃藩置県で廃城が決まり、北越戊辰戦争のおりに居館部を焼失したものの、城内の門や石垣はほぼ無傷で残っていたが悉く破却された。中世と近世の城郭遺構が混在する城跡は平成5(1993)年に国の史跡に指定された。
参照
↑a | 所在地を示すものとして、城下町を含めると他に大字村上字牛沢60、羽黒口564-1、新町937-1、二之町932-4、そして三之町620-1がある。 |
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↑b | 越後国北部を流れる阿賀野川(別名は揚河)の北岸地域を所領とした国人衆の総称で、「揚北衆」または「阿賀北衆」とも。 |
↑c | 名字は「本庄」または「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。 |
↑d | 本庄城とも。全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「越後」を冠したが、文中では「本荘城」と綴ることにする。 |
↑e | 織田信長の側近の一人であり、豊臣秀吉の家臣でもあった堀秀政の長男。秀政が小田原仕置で陣没したため家督を継いだ。 |
↑f | 理由は老朽化に伴う再建の他、外様大名による天守を破却して譜代大名としての威勢を主張したなど諸説あり。 |
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