城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 戦国武将 (2 / 4 ページ)

戦国時代から安土桃山時代にかけて、軍を統率する者のうち武道に秀でた者

三崎要害/新井城 − Misaki Amphibia Fort AKA Arai Castle

相模湾に面した海水浴場側から急峻な崖が残る要害・新井城跡を眺める

神奈川県三浦市三崎町小網代[a]読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。1024にあった新井城は、北は小網代湾(こあじろわん)、南は油壺湾(あぶらつぼわん)に挟まれ、西は相模湾に突出し城域を囲む三方が海に面した半島状の要害にあって、陸路は横堀海岸から深く切られた堀に架かる北東約3kmの大手道のみであり、それも万が一の場合は切って落とすことが可能な内引橋[b]別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。であったと云う。ちなみに三浦氏の居城であった時代は三崎要害と呼ばれ、小田原北條氏の時代は油壺城、そして新井城と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。城の築城年代と築城者は不明であるが、一説に鎌倉時代は宝治元(1247)年に起こった鎌倉幕府の内乱[c]幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。で滅亡したかにみえた三浦一族にあって佐原氏の系統が生き残り、一族の拠点として築いたとも。そして元弘2(1334)年に三浦介(みうらのすけ)を継いだ三浦時継(みうら・ときつぐ)の代から城を整備・拡大し、さらには周囲の豪族ら[d]小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。と姻戚関係を結びつつ勢力を拡大して三浦半島全域と相模国南部を治めるまでに復活を果たしたが、室町時代後期には新たに伊豆国より台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[e]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。が時の三浦家当主・道寸の目の前に立ちはだかった。

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a 読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。
b 別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。
c 幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。
d 小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。
e 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money(TAKE2)

信綱寺は真田信綱が開基し、のちに弟の昌幸が長兄の牌所として改築した

真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんた・さえもんのじょう・のぶつな)は、「六連銭(むつれんせん)」を旗印にして戦国時代から江戸時代に渡って[a]真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。勇名を馳せた信濃国は小県(ちいさがた)郡の国衆の一つで、外様ながらも甲斐武田家中では『譜代衆同意』の立場まで上りつめ[b]牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。、その中興の祖と云われた真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうのじょう・ゆきつな)[c]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。の嫡男として天文6(1537)年に真田郷で生まれた。母は重臣・河原隆正(かわはら・たかまさ)の妹で、のちの恭雲院(きょううんいん)殿。兄弟は六つ下に昌輝(まさてる)、さらに四つ下に昌幸と信尹(のぶただ)、その下に信春[d]生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。と清鏡(きよあき)[e]幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。が居た。父子ともに武田信玄と勝頼の二代に仕え、信濃先方衆(しなの・さきがたしゅう)[f]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣団(国人衆)のこと。でありながら独立した軍団をも擁していた御先衆(おさきしゅう)の筆頭として、最後は騎馬200騎持ちの侍大将になった。父が海野平合戦に敗れた幼少時は、上野国は箕輪城主・長野業政の下で過ごし、のちに武田家に臣従すると上野攻略や川中島合戦、そして西上作戦にいたる武田家の主要な戦に参陣した。しかし、元亀4(1573)年に信玄が死去、その翌年には父・幸綱が亡くなり、そしてその一年後に信綱も弟の昌輝と共に設楽原合戦で討ち死にした。

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a 真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。
b 牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。
c 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
d 生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。
e 幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。
f 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣団(国人衆)のこと。

遠江小山城 − Tōtōmi Koyama Castle

甲州流築城術が僅かに残る小山城のニ郭跡には雰囲気を伝えるために模擬天守が建つ

かって大井川の渡しと駿河湾沿いの街道が交錯する要衝に位置し、東に湯日川(ゆいがわ)を望む舌状(ぜつじょう)台地の能満寺山(のうまんじやま)先端に築かれていた山崎の砦は、「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡きあとの元亀元(1570)年に、共に駿河国に侵攻した甲斐武田と三河徳川両軍が大井川を挟んだ領有権争いに発展した際に争奪戦を繰り広げた城砦(じょうさい)の一つであった。その翌年、武田信玄は本格的な遠江侵攻を前に2万5千の甲軍で大井川を渡河して山崎の砦を強襲・奪取した。そして駿州田中城と同様に、馬場美濃守信房に命じて砦を連郭式平山城に改修させて小山城[b]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。と改め、城主には越後浪人で足軽大将の大熊備前守朝秀(おおくま・びぜんのかみ・ともひで)を置いて高天神城攻略の拠点とした。今なお甲州流築城術の面影が残る小山城は、現在は静岡県榛原郡(しずおかけん・はいばらぐん)吉田町片岡の能満寺山公園として、台地西側には三重の三日月堀が残っている他、ニ郭跡には丸馬出が復元[c]但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。・整備されている。また昭和62(1987)年には吉田町のシンボルとして、往時には存在していない三層五階・天守閣型の展望施設を建設し、富士山や南アルプスを一望できる観光名所となっている。

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a 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。
c 但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。

岩屋城 − Iwaya Castle

衰退する大友家を支えた高橋紹運は岩屋城の甲ノ丸に立ち、島津軍と激しい攻防戦を繰り広げた

福岡県太宰府市の観世音寺(かんぜおんじ)にあった岩屋城は、太宰府政庁[a]大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。の背後にそびえる標高410mほどの四王寺山(しおうじやま)中腹にある急峻な岩屋山に築かれていた山城で、立花山城や宝満山(ほうまんやま)城とともに筑前御笠郡支配の要衝として、豊後国(ぶんごのくに)を拠点とする大友氏が城督を置いていた城郭である。その始まりは文明10(1478)年に周防国(すおうのくに)守護職の大内政弘[b]のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。が家臣を在城させていたのを初見とし、大内氏衰退後は大友氏の家臣・高橋鑑種(たかはし・あきたね)[c]大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。が宝満山城の支城とした。しかし鑑種は、永禄4(1561)年に同じ筑前の秋月種実(あきづき・たねざね)、肥前佐賀の龍造寺隆信としめし合わせて大友義鎮(おおとも・よししげ)に反旗を翻した[d]鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。。そして大友の軍勢を引きつけておいた隙に中国から毛利元就の大軍を招き入れたが、永禄10(1567)年に戸次道雪(べっき・どうせつ)[e]大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。が毛利軍を斬り崩し調略を加えて退去させた[f]実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。。鑑種は降伏して助命され入道して宗仙(そうせん)を名乗っていたが、不穏な空気をよんだ義鎮が同じ一族の吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の子・鎮理(しげまさ)に高橋家を継がせて[g]この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。対抗した。彼がのちに「忠義鎮西一」と呼ばれた高橋紹運である。

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a 大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。
b のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。
c 大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。
d 鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。
e 大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。
f 実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。
g この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。

大多喜城 − Ōtaki Castle

江戸時代に焼失した大多喜城の天守は昭和の時代に古絵図を元にして再建された模擬天守である

千葉県夷隅郡大多喜町にある大多喜城は、夷隅川(いすみがわ)[a]江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。を天然の外堀とし、その蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に築かれ、郭を西側の山塊が東へ延びた突端に並べていた連郭式平山城である。この城は大永元(1521)年に真里谷(まりやつ)武田信清[b]真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。が築城したと云われ、往時は「小田喜(おたき)」城と呼ばれていた。戦国期は天文13(1544)年に、安房国の里見義堯(さとみ・よしたか)が配下で「槍大膳」の異名を持つ正木時茂[c]小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。によって攻め落とされ、四代にわたって[d]正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。上総正木宗家の居城となった。その後は天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置で、徳川家康が三河国から関八州に国替させられた際に重臣で徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝に上総国10万石[e]最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。を与えて里見氏の抑えとした。小田喜城に入城した忠勝は大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸に縄張し直した上に、西は尾根を断ち切る空堀、南は夷隅川に落ち込む急崖、北と東は水堀を配し、さらに城下町を建設するなどして要害堅固な「大多喜城」が完成した。慶長14(1609)年に台風で遭難し保護されたスペイン人のドン・ロドリゴが大多喜城を訪れた際[f]この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。、彼の著書『日本見聞録』にその大きく豪華な城の造りに驚いたと書き残している。

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a 江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。
b 真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。
c 小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。
d 正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。
e 最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。
f この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。

太田道灌公墓所 − Ōta Dōkan had premonition of his master’s ruination

主君・上杉定正の居館で謀殺された太田道灌の亡骸はここ洞昌院で荼毘に付されたと云う

文明18(1486)年8月25日[a]これは西暦で換算したもので、陰暦だと7月26日にあたる。、主君・扇ヶ谷上杉定正(おうぎがやつ・うえすぎ・さだまさ)の居館である相州糟屋(かすや)館に招かれた太田道灌は入浴後に曽我兵庫祐賢(そが・ひょうご・すけかた)らに襲撃され右袈裟懸けに斬り倒された。享年55。曽我兵庫は太田家子飼いの武将の一人であって「江戸と河越との間の調停役」を務めるために定正の下へ遣わされていた人物であった[b]江戸城は太田道灌の居城、河越城は主君・上杉定正の居城で、道灌は主人との確執も予感していた。兵庫はのちに定正に重用されて重臣の一人となった。。この室町時代後期に文武両道で稀代の築城軍略家であった太田資長(おおた・すけなが)、号して備中入道道灌は扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあって父・道真と共に享徳の乱や長尾景春の乱などで活躍した。それらの功により太田家の軍事力は主家を凌駕するまでに至ったとされ、それを妬んだ定正が謀反の嫌疑で誅殺するのではなどの噂が公然とたつほどであった。また扇ヶ谷上杉氏が補佐していた関東管領・山内上杉顕定(やまのうち・うえすぎ・あきさだ)も道灌に脅威を感じていた者の一人であったと云う。道灌は死に際に『当方滅亡』[c]自分が居なくなった主家に未来はないであろうという予言らしい。『寛永資武状』(かんえいすけたけじょう)より。と言い残したというが、その予言どおり扇ヶ谷上杉氏はのちに山内上杉氏と対立し、同じ相州で台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎とその一族に所領を奪われることになった。 続きを読む

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a これは西暦で換算したもので、陰暦だと7月26日にあたる。
b 江戸城は太田道灌の居城、河越城は主君・上杉定正の居城で、道灌は主人との確執も予感していた。兵庫はのちに定正に重用されて重臣の一人となった。
c 自分が居なくなった主家に未来はないであろうという予言らしい。『寛永資武状』(かんえいすけたけじょう)より。

高天神城 − Takatenjin Castle

古来「高天神を制するものは遠州を制す」と謳われた高天神城は鶴翁山頂に築かれていた

静岡県は掛川市上土方嶺向(かけがわし・かみひじかた・みねむかい)にある高天神城は、小笠山(おがさやま)から南東へ延びた尾根の先端にある標高132mで比高100mほどの鶴翁山(かくおうざん)を中心に築かれていた山城である。この城は駿河国から遠江国の入口にあたり、小笠山の北を通る東海道を牽制できる要衝、通称『遠州のヘソ』に位置していたことから、古来より『高天神を制するものは遠州を制す』とも謳われ、群雄割拠の時代には三河徳川氏と甲斐武田氏との間で激しい争奪戦の舞台になった。この城の眼下には下小笠川など中小の河川が外堀を成し、城域にある尾根の三方は断崖絶壁で、残る一方が尾根続きという天然の要害であり難攻不落の城とも云われていたが、実際は東西二つの尾根のうち西峰にある西の丸や堂の尾曲輪が陥ちると、その対面の東峰にある本丸が陥とされかねないと云う弱点を抱えていた。武田四郎勝頼が父・信玄没後の天正2(1574)年に2万5千もの大軍を率いて猛攻した際、徳川方の守将・小笠原長忠[a]長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。は一ヶ月間の籠城によくよく耐えたが、弱点とされた西の丸が攻略された上に徳川家康や織田信長から後詰のないまま[b]長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。開城勧告に応じざるを得ず、ついに落城した。

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a 長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。
b 長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。

米子城 − Yonago Castle

伯耆富士・大山の眺望が素晴らしい米子城本丸の天守台脇一段下には副天守があった

鳥取県米子市久米町は湊山(みなとやま)公園にある標高90mほどの湊山山頂には米子城本丸の石垣が残されているが、今からおよそ550年前の応仁〜文明年間(1467〜1487年)に伯耆(ほうき)国の守護職であった山名教之(やまな・のりゆき)の家臣・山名宗之によって飯山(いいのやま)築かれたのが米子城の始まりとされる。そして現在のような梯郭式平山城になったのは、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった毛利一族の吉川広家が、天正19(1591)年にそれまでの居城であった月山富田城に代わって、ここ湊山に築いた頃である。しかしながら広家は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は岩国[a]吉川広家はのちに岩国城を築いている。に転封されたため築城が中断となった。代わって伯耆18万石で入封した中村一忠(なかむら・かずただ)が築城を再開し、慶長7(1602)年に近代城郭としての米子城が完成した。このような経緯であったため、広家の築いた四重櫓の隣に一忠が四層五階の天守を築いたことで、本丸には天守と副天守の二つが並ぶ威容を誇っていたと云われ、後年には鳥取藩主の居城であった鳥取城を凌ぐほどであった。そして元和元(1615)年に幕府が発布した一国一城令[b]立案は初代将軍・家康、発令は二代将軍・秀忠。一国に大名が居住あるいは政令とする一つの城郭を残し、その他の城は全て廃城にすべしと云う法令。においても、米子城は例外扱いとされて幕末までその姿を残した。

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a 吉川広家はのちに岩国城を築いている。
b 立案は初代将軍・家康、発令は二代将軍・秀忠。一国に大名が居住あるいは政令とする一つの城郭を残し、その他の城は全て廃城にすべしと云う法令。

江戸城 − Edo Castle (TAKE3)

太田道灌が築き、徳川家が拡張した江戸城で現在唯一残る多聞櫓の富士見多聞

現在、天皇の平時における宮殿であり居住地である皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家[a]江戸幕府を主導する征夷大将軍を世襲した徳川宗家のこと。初代・徳川家康から始まり、平成29(2017)年現在は第18代・徳川恒孝(とくがわ・つねなり)氏が継承している。が居城としていた江戸城跡にあり、その後は明治元(1868)年に東京城(とうけいじょう)に改名され、翌2(1869)年の東京奠都(とうきょうてんと)[b]明治維新の際にそれまでの江戸が「東京」に改名し都として定められた。これにより、京都と東京で二つの都を持つ東西両京とした上で天皇が東京に入京した。後は皇城(こうじょう)と称された。そして明治21(1888)年に明治宮殿が完成したことにより宮城(きゅうじょう)に改名され、太平洋戦争後の昭和23(1948)年には現在の「皇居」に改名された。この皇居が江戸城と呼ばれていた時代、その城の最盛期は寛永15(1638)年の天下普請で最後の天守閣が完成した頃であり、外郭にあたる総構えは周囲が約4里[c]日本の一里は約3.924kmである。(15.7㎞)、東西約50町[d]日本の一町は約109.09mである。(5.45㎞)、南北約35町(3.82㎞)、面積は2082haに及んでいたと云う。その一方で、現在の皇居にあたる内郭[e]内濠内、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、中郭の吹上、北の丸、西の丸下などのエリアを指す。の周囲は約2里(7.85㎞)、東西約21町(2.29㎞)、南北約17町(1.85㎞)、そして面積は424.8haであったとされる[f]東京都江戸東京博物館所蔵の各種資料より引用した。ちなみに現在の皇居の面積は約115ha。。外濠より内側の城域、いわゆる外郭はちょうど現在の千代田区全域と、それに隣り合う港区と新宿区との境界の一部、そして神田駿河台を掘削して造った神田川が含まれている。そして内郭に建てられていた建造物は合わせて149棟[g]天守閣1、櫓21、多聞櫓28、城門99の合計である。この他にも御殿や蔵がある。にのぼり、その外観はまさに「日の本一(ひのもといち)の城塞」と言えよう。

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a 江戸幕府を主導する征夷大将軍を世襲した徳川宗家のこと。初代・徳川家康から始まり、平成29(2017)年現在は第18代・徳川恒孝(とくがわ・つねなり)氏が継承している。
b 明治維新の際にそれまでの江戸が「東京」に改名し都として定められた。これにより、京都と東京で二つの都を持つ東西両京とした上で天皇が東京に入京した。
c 日本の一里は約3.924kmである。
d 日本の一町は約109.09mである。
e 内濠内、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、中郭の吹上、北の丸、西の丸下などのエリアを指す。
f 東京都江戸東京博物館所蔵の各種資料より引用した。ちなみに現在の皇居の面積は約115ha。
g 天守閣1、櫓21、多聞櫓28、城門99の合計である。この他にも御殿や蔵がある。

新府城 − Shinpu Castle (TAKE2)

新府城の北西隅にある搦手は七里岩の崖と水堀によって守られた喰違虎口があった

山梨県韮崎市中田町に残る新府城は、天正9(1581)年2月に甲斐国主で武田家第20代当主の勝頼により築かれた連郭式平山城で、甲斐武田家滅亡時に打ち捨てられた未完の城郭として現在に伝えられている。往時の新府城は急峻な七里岩(しちりいわ)上に北は佐久往還[a]「往還」とは、とおり道や街道のこと。と信州往還、南は甲府盆地を一望できる交通の要衝に位置していたとされ、普請奉行を任されたのは真田安房守であった[b]真田昌幸が信州先方衆の出浦(いでうら)氏に宛てた書状から天正9年2月15日に築城が始められたと記されているとか。。そして築城の最中の同年3月には遠江の高天神城が徳川家康により落城し、その二ヶ月後に勝頼は同じく普請奉行だった原隼人佑に作業を急がせるよう催促するとともに、岩尾衆へ人足の増員を指示した。急ピッチで進められた作業は開始から七ヶ月後の同年9月には「一応の」完成をみたと古文書には記載されており、勝頼が古府中の躑躅ヶ崎館から新府城へ館を移すのは暮れの12月24日であった。そして入城まもなく天正10(1582)年、戦況は悪化の一途をたどり、織田方に寝返った木曾義昌に対し勝頼は同年2月に上原城に陣を進めるが、松尾城・飯田城・大島城などが次々と陥落し、翌3月には弟の仁科盛信が守備する高遠城が落城するにいたり、新府城へ後退した翌日には在城68日の城に火をかけて退去、甲斐武田家は田野で最後の時を迎えた。

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a 「往還」とは、とおり道や街道のこと。
b 真田昌幸が信州先方衆の出浦(いでうら)氏に宛てた書状から天正9年2月15日に築城が始められたと記されているとか。
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