城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 戦国武将 (1 / 4 ページ)

戦国時代から安土桃山時代にかけて、軍を統率する者のうち武道に秀でた者

武田信玄公墓所 − Raise our Flag on Seta Tomorrow(TAKE2)

甲州市の塩山駅には不世出の英傑と云われた武田信玄公の像がある

元亀4(1573)年4月12日[a]新暦だと同年5月13日。に信濃国は三州街道《さんしゅうかいどう》[b]のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。の駒場[c]現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。で甲斐の武田信玄が没した。享年53。臨終に瀕して昏睡状態だった信玄はいきなり山縣昌景を呼びつけ、「其の方、明日は瀬田[d]近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。に旗を立てよ」と命じたと云う。これが公の最後の下知とされる。後世には「甲斐の虎」とも「戦国の巨星」とも呼ばれた信玄は、往時は第一流の戦上手であったと共に産業の奨励、治水・池溝《ちこう》の整備など政治家としてもまた卓抜した武将であったことは、没後450年以上たった現代でも広く知られているところである[e]現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。。甲斐武田氏は「武士」の先祖にあたる八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光《しんら・さぶろう・よしみつ》[f]河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。の末孫にあたるが、その流れは甲斐守に任じられた義光がその国で二男・武田冠者義清《たけだのかんじゃ・よしきよ》[g]逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。を授かり、義清の子から数代あって信義が甲斐武田氏の祖となった。甲斐武田氏が盛んになったのは信義から数えて十四代目の信虎からであり、その嫡男が晴信ことのちの信玄である。

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a 新暦だと同年5月13日。
b のちの伊那街道。信濃国(中山道)と三河国(東海道)を結ぶ道。現代の国道R153に相当する(愛知県名古屋市から豊田市と長野県の飯田市を経由して塩尻市へ至る)。駿河国から信濃国・甲斐国へ塩が運ばれた道とも。
c 現在の長野県飯田市阿智村。供養塔が同村の長岳寺にある。他に浪合村《なみあいむら》や根羽村《ねばむら》と云う説あり。
d 近江国南部の琵琶湖南岸に位置し、京への入口にあたる場所。
e 現に公が成した事業の遺構が歴々として残っていることがその証でもある。
f 河内源氏の二代目棟梁・源頼義《みなもと・の・よりよし》の三男・源義光《みなもと・の・よしみつ》で、近江国の新羅明神で元服したことから新羅の呼び名を持つ。
g 逸見冠者《へんみのかんじゃ》とも。義清の兄は常陸国佐竹氏の祖である。

太田道灌公墓所 − Ōta Dōkan had premonition of his master’s ruination(TAKE2)

龍穏寺の境内には太田道灌公五百忌の砌《みぎり》に建立された銅像が建つ

埼玉県入間郡の越生《おごせ》町龍ヶ谷452-1にある曹洞宗の長昌山龍穏寺《ちょうしょうさん・りゅうおんじ》[a]寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。は、桓武天皇[b]第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。在位の平安時代に修行僧らの信仰を集めて建立されたのが始まりとされる。そして室町時代には足利幕府六代将軍の義教《よしのり》が開基となり、相模国守護で扇ヶ谷上杉家当主の持朝《もちとも》が再建した。ときは戦国時代前で関東騒乱の時代。二人の公方[c]堀越公方《ほりごえ・くぼう》と古河公方《こが・くぼう》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。を取り持つ関東管領や地方武士らの対立が長く続いていた時代である。持朝が死去したあと、扇ヶ谷上杉家の家宰[d]家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。を務めていた太田資清《おおた・すけきよ》とその嫡子・資長《すけなが》が亡き主人の遺徳を継ぎ、戦乱の最前線で廃寺寸前だった龍穏寺を中興し、新たに堂宇を建立したと云う。のちの太田道真・道灌父子である。文明18(1486)年、道灌は自得軒[e]越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。で隠居していた父のもとを訪ねて詩会を楽しんだが、その翌月に主人の上杉定正《うえすぎ・さだまさ》[f]上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。に暗殺された。享年55。死に際に『当方滅亡』と言い遺したと云う。

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a 寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。
b 第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。
c 堀越公方《ほりごえ・くぼう》と古河公方《こが・くぼう》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。
d 家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。
e 越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。
f 上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。

本䏻寺の変ゆかりの地と織田信長公墓所 − We have no other way at Honnō-ji Temple(TAKE2)

大徳寺塔頭の総見院は本䏻寺の変で生涯を閉じた織田信長公の菩提寺である

天正10(1582)年6月1日夜[a]これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。、丹波国亀山[b]現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。で明智惟任日向守光秀《あけち・これとう・ひゅうがのかみ・みつひで》は主君で右大臣・信長への反逆を企て、明智左馬助秀満《あけち・さまのすけ・ひでみつ》、明智次右衛門光忠《あけち・じえもん・みつただ》、藤田伝五行政《ふじた・でんご・ゆきまさ》、斎藤内蔵助利三《さいとう・くらのすけ・としみつ》らと相談し、信長を討ち果たし天下の主となる計画を練り上げた。信長の命で、中国の毛利勢と対陣中の羽柴筑前守秀吉《はしば・ちくぜんのかみ・ひでよし》を援軍するには亀山から三草山《みくさやま》を越えるのが普通であるが、そこへは向かわずに馬首を東へ向けた。その数1万3千。兵らには「山崎を廻って摂津の地を進軍する」と触れておき、先に相談した宿老らに先陣を命じた。そして摂津街道を下り、桂川を越えた先の京都に到着したのは翌2日の早朝であった。光秀らの軍勢は信長の宿所本䏻寺[c]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。を包囲し、四方から乱入した。はじめ弓と槍で防戦していた信長は、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の口を閉めて無念にも御腹を召された。

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a これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。
b 現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。
c 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。

仙臺藩祖御霊屋・瑞鳳殿 − The Mausoleum of “Dokuganryu” Masamune

仙臺藩祖・伊達政宗公の御霊屋は仙臺城本丸と向かい合う経ヶ峯山頂に建つ

宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2にある瑞鳳殿《ずいほうでん》は、寛永13(1636)年に江戸藩邸で70年の生涯を閉じた仙臺藩[a]本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。祖・伊達権中納言政宗《だて・ごんちゅうなごん・まさむね》公の遺命により、仙臺城本丸と広瀬川を挟んで向かい合う経ヶ峯《きょうがみね》に造営された御霊屋《おたまや》である。桃山時代の遺風を伝える豪華絢爛な建築物として昭和6(1931)年には国宝に指定されたものの、昭和20(1945)年の米軍による仙台空襲で全て灰燼に帰した。現在、拝観可能な建物は昭和54(1979)年に再建されたもので、さらに平成13(2001)年には御廟の大改修が施され一部が創建当時の姿に戻った。瑞鳳殿の周辺には二代藩主・忠宗《ただむね》公の御霊屋である感仙殿《かんせんでん》と三代藩主・綱宗《つなむね》公の善応殿《ぜんのうでん》など仙臺藩主にゆかりある御廟が他にもいくつある上に、政宗公の菩提寺にあたる瑞鳳寺を含め、その一帯が「経ヶ峯伊達家墓所」として市指定史跡とされている。なお御廟再建に先立って実施された学術調査では政宗公の墓室から遺骸と共に公遺愛の太刀や脇差、そして煙管《きせる》など多くの副葬品が検出されたと云う。

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a 本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。

米澤藩上杉家御廟と林泉寺、そして善光寺 − Some mausoleums related in the Yonezawa-Domain Uesugi Clan

米沢城に眠る謙信公の霊柩が万が一の事態になったら避難させる場所に上杉家御廟がある

山形県米沢市御廟1丁目にある米澤藩主[a]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉家御廟は、藩祖で越後国春日山にて関東管領職を務めた不識院謙信《ふしきいん・けんしん》[b]云わずと知れた上杉謙信。公の御遺骸《ごいがい》をはじめとする歴代藩主の廟が杉木立《すぎこだち》の中に整然と立ち並び、森厳《しんげん》とした雰囲気に満ちた墓所として知られている。元々は公の霊柩が安置された米沢城本丸で大事が発生した場合に、その霊柩を一時的に退避させるために用意されていた場所であったが、元和9(1623)年に逝去《せいきょ》した初代米澤藩主・上杉権中納言景勝《うえすぎ・ごんちゅうなごん・かげかつ》公の御遺骸が埋葬されて以降は十一代に渡って米澤藩主が埋葬され、御霊屋《おたまや》の前には御廊下と拝殿が建ち、寄進された千基を越える石灯籠が並べられていた。それから明治6(1873)年の廃城令で米沢城本丸跡から改めて不識院謙信公の霊柩がこの場所に遷座されると、それに伴って拝殿や多数の石灯籠が撤去された上に参道も造り替えるなどして、現在観ることができる景観になったとされる。そして本御廟は昭和59(1984)年には全国の大名家墓所としては五番目となる国指定史跡に登録された。

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a 本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。
b 云わずと知れた上杉謙信。

真田幸村と大坂の陣 − Yukimura Sanada is Number One Warrior in Japan(TAKE2)

真田山・三光神社は真田丸を攻撃した徳川勢の加賀前田勢が陣を張った宰相山に建つ

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いから三年後、徳川家康は征夷大将軍に就任[a]「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。し江戸で幕府を開府した。次に、豊臣家に対して臣下の礼を要求すると両家の間に「亀裂」ができたが、依然として加藤清正ら豊臣恩顧の大名が多かったため直接的な対立に至ることはなかった[b]むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。。そして慶長16(1611)年に初めて両家の首脳である家康と豊臣秀頼の会見が実現して亀裂は埋まったかのようにみえたが、その三年後の慶長19(1614)年には世に云う「方広寺鐘銘事件」が起きた。豊臣家の総奉行であった片桐且元(かたぎり・かつもと)は両家の間を奔走して平和的に解決しようと務めたが、逆に家康の奸計に嵌って豊臣方の疑心暗鬼を誘うことになり亀裂は「溝」に変わった。この事件を宣戦布告と受け取った豊臣家は秀吉が残した莫大な金銀で兵糧と武器を買い入れ、全国の浪人に招集を呼びかけた。その一人で関ヶ原の戦いでは西軍で唯一の勝利を得た真田昌幸の次男・信繁(幸村)も蟄居先の九度山を抜けだして大坂城に入城、不本意ながら城内が籠城戦に決すると、直ちに惣構(そうがまえ)南東に隣接する平野口あたりで出城の築造に着手した。これが後世に伝わる「真田丸」である。

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a 「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。
b むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。

三崎要害/新井城 − Misaki Amphibia Fort AKA Arai Castle

相模湾に面した海水浴場側から急峻な崖が残る要害・新井城跡を眺める

神奈川県三浦市三崎町小網代[a]読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。1024にあった新井城は、北は小網代湾(こあじろわん)、南は油壺湾(あぶらつぼわん)に挟まれ、西は相模湾に突出し城域を囲む三方が海に面した半島状の要害にあって、陸路は横堀海岸から深く切られた堀に架かる北東約3kmの大手道のみであり、それも万が一の場合は切って落とすことが可能な内引橋[b]別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。であったと云う。ちなみに三浦氏の居城であった時代は三崎要害と呼ばれ、小田原北條氏の時代は油壺城、そして新井城と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。城の築城年代と築城者は不明であるが、一説に鎌倉時代は宝治元(1247)年に起こった鎌倉幕府の内乱[c]幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。で滅亡したかにみえた三浦一族にあって佐原氏の系統が生き残り、一族の拠点として築いたとも。そして元弘2(1334)年に三浦介(みうらのすけ)を継いだ三浦時継(みうら・ときつぐ)の代から城を整備・拡大し、さらには周囲の豪族ら[d]小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。と姻戚関係を結びつつ勢力を拡大して三浦半島全域と相模国南部を治めるまでに復活を果たしたが、室町時代後期には新たに伊豆国より台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[e]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。が時の三浦家当主・道寸の目の前に立ちはだかった。

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a 読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。
b 別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。
c 幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。
d 小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。
e 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money(TAKE2)

信綱寺は真田信綱が開基し、のちに弟の昌幸が長兄の牌所として改築した

真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんた・さえもんのじょう・のぶつな)は、「六連銭(むつれんせん)」を旗印にして戦国時代から江戸時代に渡って[a]真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。勇名を馳せた信濃国は小県(ちいさがた)郡の国衆の一つで、外様ながらも甲斐武田家中では『譜代衆同意』の立場まで上りつめ[b]牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。、その中興の祖と云われた真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうのじょう・ゆきつな)[c]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。の嫡男として天文6(1537)年に真田郷で生まれた。母は重臣・河原隆正(かわはら・たかまさ)の妹で、のちの恭雲院(きょううんいん)殿。兄弟は六つ下に昌輝(まさてる)、さらに四つ下に昌幸と信尹(のぶただ)、その下に信春[d]生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。と清鏡(きよあき)[e]幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。が居た。父子ともに武田信玄と勝頼の二代に仕え、信濃先方衆(しなの・さきがたしゅう)[f]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。でありながら独立した軍団をも擁していた御先衆(おさきしゅう)の筆頭として、最後は騎馬200騎持ちの侍大将になった。父が海野平合戦に敗れた幼少時は、上野国は箕輪城主・長野業政の下で過ごし、のちに武田家に臣従すると上野攻略や川中島合戦、そして西上作戦にいたる武田家の主要な戦に参陣した。しかし、元亀4(1573)年に信玄が死去、その翌年には父・幸綱が亡くなり、そしてその一年後に信綱も弟の昌輝と共に設楽原合戦で討ち死にした。

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a 真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。
b 牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。
c 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
d 生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。
e 幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。
f 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。

遠江小山城 − Tōtōmi Koyama Castle

甲州流築城術が僅かに残る小山城のニ郭跡には雰囲気を伝えるために模擬天守が建つ

かって大井川の渡しと駿河湾沿いの街道が交錯する要衝に位置し、東に湯日川(ゆいがわ)を望む舌状(ぜつじょう)台地の能満寺山(のうまんじやま)先端に築かれていた山崎の砦は、「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡きあとの元亀元(1570)年に、共に駿河国に侵攻した甲斐武田と三河徳川両軍が大井川を挟んだ領有権争いに発展した際に争奪戦を繰り広げた城砦(じょうさい)の一つであった。その翌年、武田信玄は本格的な遠江侵攻を前に2万5千の甲軍で大井川を渡河して山崎の砦を強襲・奪取した。そして駿州田中城と同様に、馬場美濃守信房に命じて砦を連郭式平山城に改修させて小山城[b]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。と改め、城主には越後浪人で足軽大将の大熊備前守朝秀(おおくま・びぜんのかみ・ともひで)を置いて高天神城攻略の拠点とした。今なお甲州流築城術の面影が残る小山城は、現在は静岡県榛原郡(しずおかけん・はいばらぐん)吉田町片岡の能満寺山公園として、台地西側には三重の三日月堀が残っている他、ニ郭跡には丸馬出が復元[c]但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。・整備されている。また昭和62(1987)年には吉田町のシンボルとして、往時には存在していない三層五階・天守閣型の展望施設を建設し、富士山や南アルプスを一望できる観光名所となっている。

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a 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。
c 但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。

岩屋城 − Iwaya Castle

衰退する大友家を支えた高橋紹運は岩屋城の甲ノ丸に立ち、島津軍と激しい攻防戦を繰り広げた

福岡県太宰府市の観世音寺(かんぜおんじ)にあった岩屋城は、太宰府政庁[a]大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。の背後にそびえる標高410mほどの四王寺山(しおうじやま)中腹にある急峻な岩屋山に築かれていた山城で、立花山城や宝満山(ほうまんやま)城とともに筑前御笠郡支配の要衝として、豊後国(ぶんごのくに)を拠点とする大友氏が城督を置いていた城郭である。その始まりは文明10(1478)年に周防国(すおうのくに)守護職の大内政弘[b]のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。が家臣を在城させていたのを初見とし、大内氏衰退後は大友氏の家臣・高橋鑑種(たかはし・あきたね)[c]大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。が宝満山城の支城とした。しかし鑑種は、永禄4(1561)年に同じ筑前の秋月種実(あきづき・たねざね)、肥前佐賀の龍造寺隆信としめし合わせて大友義鎮(おおとも・よししげ)に反旗を翻した[d]鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。。そして大友の軍勢を引きつけておいた隙に中国から毛利元就の大軍を招き入れたが、永禄10(1567)年に戸次道雪(べっき・どうせつ)[e]大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。が毛利軍を斬り崩し調略を加えて退去させた[f]実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。。鑑種は降伏して助命され入道して宗仙(そうせん)を名乗っていたが、不穏な空気をよんだ義鎮が同じ一族の吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の子・鎮理(しげまさ)に高橋家を継がせて[g]この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。対抗した。彼がのちに「忠義鎮西一」と呼ばれた高橋紹運である。

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a 大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。
b のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。
c 大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。
d 鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。
e 大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。
f 実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。
g この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。
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