城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 墓所・菩提寺 (3 / 5 ページ)

武将が静かに眠る墓所や供養塔、または菩提寺や御霊屋への訪問

太田道灌公墓所 − Ōta Dōkan had premonition of his master’s ruination

主君・上杉定正の居館で謀殺された太田道灌の亡骸はここ洞昌院で荼毘に付されたと云う

文明18(1486)年8月25日[a]これは西暦で換算したもので、陰暦だと7月26日にあたる。、主君・扇ヶ谷上杉定正(おうぎがやつ・うえすぎ・さだまさ)の居館である相州糟屋(かすや)館に招かれた太田道灌は入浴後に曽我兵庫祐賢(そが・ひょうご・すけかた)らに襲撃され右袈裟懸けに斬り倒された。享年55。曽我兵庫は太田家子飼いの武将の一人であって「江戸と河越との間の調停役」を務めるために定正の下へ遣わされていた人物であった[b]江戸城は太田道灌の居城、河越城は主君・上杉定正の居城で、道灌は主人との確執も予感していた。兵庫はのちに定正に重用されて重臣の一人となった。。この室町時代後期に文武両道で稀代の築城軍略家であった太田資長(おおた・すけなが)、号して備中入道道灌は扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあって父・道真と共に享徳の乱や長尾景春の乱などで活躍した。それらの功により太田家の軍事力は主家を凌駕するまでに至ったとされ、それを妬んだ定正が謀反の嫌疑で誅殺するのではなどの噂が公然とたつほどであった。また扇ヶ谷上杉氏が補佐していた関東管領・山内上杉顕定(やまのうち・うえすぎ・あきさだ)も道灌に脅威を感じていた者の一人であったと云う。道灌は死に際に『当方滅亡』[c]自分が居なくなった主家に未来はないであろうという予言らしい。『寛永資武状』(かんえいすけたけじょう)より。と言い残したというが、その予言どおり扇ヶ谷上杉氏はのちに山内上杉氏と対立し、同じ相州で台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[d]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。とその一族に所領を奪われることになった。

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a これは西暦で換算したもので、陰暦だと7月26日にあたる。
b 江戸城は太田道灌の居城、河越城は主君・上杉定正の居城で、道灌は主人との確執も予感していた。兵庫はのちに定正に重用されて重臣の一人となった。
c 自分が居なくなった主家に未来はないであろうという予言らしい。『寛永資武状』(かんえいすけたけじょう)より。
d 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北条早雲で、小田原北条家の始祖となる。

国府台城 − Kounodai Castle

江戸川沿いの下総台地西端に築かれた国府台城では土塁に古代古墳を利用していた

千葉県市川市国府台にある里見公園は埼玉県東部から千葉県北部一帯に走る下総台地の西端で、江戸川沿いの台地上にあり、往時は下総国の国府が置かれたことから国府台(こうのだい)と呼ばれ、下総国の政治や文化の中心となった場所であった上に、室町から戦国時代の関東動乱の舞台ともなった国府台城が築かれていた。その由緒としては、歴史書の『鎌倉大草紙』(かまくらおおぞうし)[a]室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。には文明10(1478)年に扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田資長[b]読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。が、ここ国府台に陣城を築いたとあり、これを始まりとする説がある。他に、それより前の康正2(1456)年に武蔵千葉氏[c]武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。宗家・千葉実胤(ちば・さねたね)と自胤(よりたね)兄弟が市川城なる砦に立て籠もって、古河公方・足利成氏(あしかが・しげうじ)に抵抗したと云われているが、この市川城と道灌の陣城との関係は不明である。その後、国府台は二度にわたり争乱の表舞台に立つことになる。まずは天文7(1538)年に伊勢氏綱[d]北条氏綱。小田原北条氏二代目当主で、北条早雲の嫡子であり、北条氏康の父である。と小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(あしかが・よしあき)・里見義堯(さとみ・よしたか)連合軍との合戦、そして永禄6(1563)年から二年に渡る北条氏康と里見義弘との合戦で、ともに里見勢は敗退し、下総から里見氏の勢力が駆逐されていくことになった。

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a 室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した軍記物である。
b 読みは「おおた・すけなが」。持資(もちすけ)とも。出家したのちは道灌(どうかん)と号したのはもはや言わずもがな。ちなみに公称は太田備中入道道灌。本文では「道灌」で統一する。
c 武蔵千葉氏は後に下総千葉氏に分裂し、さらに下総千葉氏は小田原北条氏が継ぎ、北条氏の滅亡と同時に千葉氏も所領を没収された。
d 北条氏綱。小田原北条氏二代目当主で、北条早雲の嫡子であり、北条氏康の父である。

高天神城 − Takatenjin Castle

古来「高天神を制するものは遠州を制す」と謳われた高天神城は鶴翁山頂に築かれていた

静岡県は掛川市上土方嶺向(かけがわし・かみひじかた・みねむかい)にある高天神城は、小笠山(おがさやま)から南東へ延びた尾根の先端にある標高132mで比高100mほどの鶴翁山(かくおうざん)を中心に築かれていた山城である。この城は駿河国から遠江国の入口にあたり、小笠山の北を通る東海道を牽制できる要衝、通称『遠州のヘソ』に位置していたことから、古来より『高天神を制するものは遠州を制す』とも謳われ、群雄割拠の時代には三河徳川氏と甲斐武田氏との間で激しい争奪戦の舞台になった。この城の眼下には下小笠川など中小の河川が外堀を成し、城域にある尾根の三方は断崖絶壁で、残る一方が尾根続きという天然の要害であり難攻不落の城とも云われていたが、実際は東西二つの尾根のうち西峰にある西の丸や堂の尾曲輪が陥ちると、その対面の東峰にある本丸が陥とされかねないと云う弱点を抱えていた。武田四郎勝頼が父・信玄没後の天正2(1574)年に2万5千もの大軍を率いて猛攻した際、徳川方の守将・小笠原長忠[a]長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。は一ヶ月間の籠城によくよく耐えたが、弱点とされた西の丸が攻略された上に徳川家康や織田信長から後詰のないまま[b]長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。開城勧告に応じざるを得ず、ついに落城した。

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a 長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。
b 長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。

肥後細川家菩提寺と大徳寺 − Hosokawa Clan from Sengoku era until Edo Period

肥後細川家の菩提寺である高桐院の参道は大判の切石が敷かれ両脇に赤松の列植が続く

肥後細川藩初代藩主の細川忠興(号して三斎)は、源氏足利系の支流である細川氏を祖とする細川兵部大輔藤孝(号して幽斎)を父とした戦国武将であり、江戸時代初期の大名であり、父譲りの知識人であり、そして利休七哲(りきゅう・しちてつ)の一人に数えられる茶人で茶道三斎流を開祖した名手であった。父の藤孝は明智光秀とともに、美濃の織田上総守(かずさのかみ)信長を頼って室町幕府第15代将軍義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。を擁立するも、のちに義秋と信長が対立すると信長に臣従した。この時に細川姓から長岡[b]由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。姓に改名し、藤孝は丹後11万石を拝領した。忠興の初陣は天正5(1577)年の紀伊雑賀攻めの大和片岡城で弟の興元ともに一番槍の武功を挙げ、信長から直々に感状を拝領した。「忠興」の名は、元服後に信長の嫡男・信忠の偏諱を享けたものである。のちに信長の命により、明智日向守光秀の三女で当時美人の誉高い玉(洗礼してガラシャ)を妻として迎えた。そういうこともあり、忠興はかなりの「信長信望者」の一人であったため、天正10(1582)年の本䏻寺の変後は岳父の光秀より味方に誘われたものの父子で拒否し、妻の玉とは離縁して幽閉し、自身は光秀の娘婿でありながら明智勢に与すること無く、剃髪して織田家や羽柴秀吉に臣従を誓った。

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a 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。
b 由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。

本䏻寺の変ゆかりの地と織田信長公墓所 − We have no other way at Honnō-ji Temple

信長公と共に炎上焼失した本䏻寺跡には、現在は石碑が建つのみである

天正10(1582)年6月2日の早暁、水色桔梗の旗にとり囲まれた信長公の宿所である本䏻寺[a]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。。明智日向守光秀の軍勢およそ1万3千が押し寄せた当初、信長もお小姓衆も下々の者らが喧嘩をしているものと思ったそうだが然に非ず、明智勢が鬨の声を上げて本䏻寺の御殿に鉄砲を撃ち込んできた。寝所に居た信長は小姓の森蘭丸に「さては謀叛だな。誰の仕業か。」と問いただすと、蘭丸が「明智日向守の軍勢と見受けします。」と応えた。信長は「是非に及ばず」(We have no other way…)と一言。明智勢は間断なく御殿へ討ち入ってくる。表の御堂に詰めていた御番衆も御殿へ合流し一団となって防戦した。信長は初めは弓をとり、二、三回取り替えて弓矢で応戦したが、どの弓も時が経つと弦(つる)が切れてしまったので、その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受け殿舎に退いた。既に殿舎は火をかけられて近くまで燃え広がっていたため、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、殿舎の奥深くへ入り、内側から納戸を閉めて無念にも自刃した。同じ頃、嫡子信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとするが京都所司代・村井貞勝父子に止められ、隣接する二条新御所[b]これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。のちに皇室に献上した。に立て籠もるが、明智勢は京都御所付近から矢や鉄砲を打ち掛け、信忠も抗戦叶わず自刃した。

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a 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。
b これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。のちに皇室に献上した。

臼井城と臼井田宿内砦 − Usui Castle and Usuida Shukuuchi Fort

臼井城の本丸からは臼井田宿内砦や師戸城などの支城を眺めることができる

永久2(1114)年に坂東平氏である下総国の豪族は千葉一族の臼井六郎常康(うすい・ろくろう・つねやす)が居を構えた千葉県佐倉市臼井田には、のちに臼井氏の中興の祖と云われる臼井興胤(うすい・おきたね)の代の14世紀中頃に、臼井城の基礎がおかれたと伝えられている。今から500年以上も前の文明10(1478)年に関東管領の重臣の一人だった長尾左衛門尉景春[a]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。が起こした反乱に乗じて古河公方と共に関東管領山内上杉氏と対立した千葉孝胤を討つべく、江戸城を発った扇谷上杉氏家宰の太田道灌資長と千葉自胤(ちば・よりたね)[b]自胤(よりたね)に反攻して、下総国千葉氏当主を自称した孝胤(たかたね)は分家筋にあたり、のちに自胤は室町幕府から千葉氏の当主として認められた。らは国府台城に布陣、境根原古戦場(さかいねはら・こせんじょう)で激戦となり、そこで敗北した孝胤はここ臼井城に籠城しなおも抵抗する。さすがの名将道灌も攻めあぐねたが、なんとか周囲にある砦や支城を攻め落とし最後の決戦で臼井城を陥落させて孝胤を父・千葉輔胤(ちば・すけたね)の居城である本佐倉城へ敗走させたが、その決戦で道灌は弟の太田図書資忠と太田家譜代の勇士らを失ってしまった。そして翌年の和議ののち文明18(1486)年に道灌が謀殺されると、孝胤は再び臼井城を奪取し、家臣の臼井景胤(うすい・かげたね)が城主となった。

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a 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。
b 自胤(よりたね)に反攻して、下総国千葉氏当主を自称した孝胤(たかたね)は分家筋にあたり、のちに自胤は室町幕府から千葉氏の当主として認められた。

甲斐武田家終焉の地と景徳院 − The Last Battle of Takeda Clan at Tano

甲斐田野の地で自刃した武田勝頼公の銅像がJR甲斐大和駅北にある

甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家は第19代当主・晴信(のちの信玄)を父とし、信濃諏訪家は第19代当主・頼重の娘(のちの諏訪御料人)を母として、天文15(1546)年に諏訪で生まれた諏訪四郎勝頼は天正元(1573)年の信玄没後に家督を継いで第20代当主となった。当初は偉大な父の功績に負けず劣らず積極的な外征政策を推し進め、織田領の明智城や、父信玄でさえ陥せなかった徳川領の堅城・高天神城を攻略した。しかし天正3(1575)年の長篠設楽原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫したところを境に勝機を逸しはじめ、家康の反撃に対して後詰を送ることができずに諸城はつぎつぎと陥落、その度に国衆らの信望を大きく落とした。果ては穴山梅雪ら親族衆までが勝頼を見限り、その機を察して本格的に侵攻を開始した織田・徳川連合軍を前に、信州・駿河からの侵攻に備えて築いていた甲斐の新府城を棄て、重臣・真田昌幸からの岩櫃城入城の勧めを断り、同じ郡内にある岩殿城を目指して落ち延びていく。しかし、そこで小山田信茂の裏切りに遭い、付き従ってきた家臣らも日に日に逃亡し、織田方の先鋒である滝川一益隊が包囲網を狭める中、武田家の先祖が眠る天目山に向かって逃避行を続けた。

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岩付城 − Iwatsuki Castle

室町時代後期に築かれた岩付城は主郭をはじめとする複数の曲輪が深い沼地によって分断されていた

埼玉県さいたま市岩槻区にある岩付城[a]岩附城または岩槻城とも。は複数の台地を利用した平城で、主郭やその北にある新正寺曲輪、そして南にある新曲輪や鍛冶曲輪がそれぞれ別々の台地の上に築かれ、それらの間には元荒川による深い沼地が広がっていた。築城時期は室町時代後期の長禄元(1457)年とされているが、築城主は扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰を務めた太田道真・道灌父子の説の他に、のちに武州忍城主となる成田氏の説があり、定かではない。道灌が暗殺された後は、彼の嫡子・資康(すけやす)[b]稀代の名将・太田道灌資長の嫡子で、彼の正室は伊勢新九郎宗瑞こと北条早雲に滅ぼされた三浦道寸の娘である。江戸城主に、そして彼の養子・資家とその子・資頼(すけより)が岩付城主になった。戦国時代に入ると関東も戦乱期を迎え、相模の伊勢氏綱(のちの北条氏綱)が武蔵国に侵攻し岩付城攻略に乗り出すが、資頼の次男で、のちの三楽斎資正(さんらくさい・すけまさ)がこれに激しく抵抗した。天文15(1546)年には主君・扇谷上杉朝定が河越夜戦で討死するが、その後も資正は孤軍奮闘する。しかしながら岩付城を伊勢新九郎氏康(のちの北条氏康)に包囲され家臣らが次々に寝返ると翌年に降った。それでも反北条の立場を崩さなかった資正は、永禄3(1560)年に越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)による関東征伐に呼応して反旗を翻し、小田原城攻めでは箕輪城主・長野業政とともに先鋒を務めた。

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a 岩附城または岩槻城とも。
b 稀代の名将・太田道灌資長の嫡子で、彼の正室は伊勢新九郎宗瑞こと北条早雲に滅ぼされた三浦道寸の娘である。

上泉城 − Kamiizumi Castle

上泉城の本丸跡に建立された四代目城主上泉伊勢守信綱の像

国盗りの攻防が激しかった戦国時代の上州にあって赤城山南麓一帯の大部分は、大胡(おおご)城を居城としていた大胡氏によって支配されていた。その支城として築かれ、大胡一族でもある上泉氏が在城していた上泉城は現在の群馬県前橋市上泉町にある。城域は推定で東西およそ600m、南北およそ400m、城の南に桃木川(もものきがわ)、西から北に藤沢川が還流することで三方を川という天然の外堀で囲まれていた。要害は本丸・二の丸・三の丸の他に、一の郭とニの郭、そして出丸を持っていた。中世の末期、剣道史に名を残した剣聖・上泉伊勢守秀綱(のちに武蔵守信綱)は永正5(1508)年に上泉城主・武蔵守義綱の次男として生誕し、のちに四代目城主となって領地と領民を守った。当時の上州は北から越後長尾氏、西から甲斐武田氏、南から相模北条氏がそれぞれの思惑をもって侵攻していた時代で、上泉伊勢守は平井城の関東管領上杉氏の被官であったが、その最後の管領だった上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)が長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後入した後は、同じ上杉方の箕輪城主で勇将の誉高い長野業政の重臣となり、ともに武田信玄率いる甲州勢と壮絶な戦いを繰り広げ「上野国一本槍」と呼ばれた。

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箕輪城 − Minowa Castle

榛名山麓の丘陵上に築かれた箕輪城の大手門は虎韜門と呼ばれている

群馬県高崎市箕郷(みさと)町にある箕輪城は、今から500年近く前の明応から永世(1492〜1521)年間に関東管領・山内上杉氏の下で西上野を治めた箕輪衆筆頭の長野業尚(なりひさ)によって、榛名山の東南麓に広がる独立丘陵上の中心部に築かれた梯郭式平山城である。それから時代が戦国の世に移り変わるにしたがって勢力を拡大していった子の憲業(のりなり)と孫の信濃守業政(なりまさ)の代に一段と城が強化された。特に業政は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、そして越後の長尾景虎ら三雄が上州を舞台にして互いに覇権を争った時代に、あくまでも関東管領・山内上杉家の再興を図って箕輪衆を束ね、多くの支城を利用した「小豪族ネットワーク」で孤軍奮闘した勇将である。業政死後、甲州勢の猛攻に子の右京進業盛(なりもり)は父の遺志を守り将兵一体となってよくよく防戦したが、永禄9(1566)年に箕輪城はついに落城した。信玄は内藤修理亮昌豊を城代として上野経営の拠点としたが、天正10(1582)年の滅亡後は織田家中の滝川一益が在城し、信長横死の後は北条氏康が四男氏邦が城主となった。さらに天正18(1590)年の北条氏滅亡後は徳川家康が重臣である井伊直政を封し、城の大改修と城下町を整備させた。その後、慶長3(1598)年に直政が上野和田城[a]のちの高崎城である。を居城としたのにあわせて箕輪城は廃城となった。

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a のちの高崎城である。
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