城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 墓所・菩提寺 (2 / 5 ページ)

武将が静かに眠る墓所や供養塔、または菩提寺や御霊屋への訪問

太田道灌公墓所 − Ōta Dōkan had premonition of his master’s ruination(TAKE2)

龍穏寺の境内には太田道灌公五百忌の砌《みぎり》に建立された銅像が建つ

埼玉県入間郡の越生《おごせ》町龍ヶ谷452-1にある曹洞宗の長昌山龍穏寺《ちょうしょうさん・りゅうおんじ》[a]寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。は、桓武天皇[b]第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。在位の平安時代に修行僧らの信仰を集めて建立されたのが始まりとされる。そして室町時代には足利幕府六代将軍の義教《よしのり》が開基となり、相模国守護で扇ヶ谷上杉家当主の持朝《もちとも》が再建した。ときは戦国時代前で関東騒乱の時代。二人の公方[c]堀越公方《ほりごえ・くぼう》と古河公方《こが・くぼう》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。を取り持つ関東管領や地方武士らの対立が長く続いていた時代である。持朝が死去したあと、扇ヶ谷上杉家の家宰[d]家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。を務めていた太田資清《おおた・すけきよ》とその嫡子・資長《すけなが》が亡き主人の遺徳を継ぎ、戦乱の最前線で廃寺寸前だった龍穏寺を中興し、新たに堂宇を建立したと云う。のちの太田道真・道灌父子である。文明18(1486)年、道灌は自得軒[e]越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。で隠居していた父のもとを訪ねて詩会を楽しんだが、その翌月に主人の上杉定正《うえすぎ・さだまさ》[f]上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。に暗殺された。享年55。死に際に『当方滅亡』と言い遺したと云う。

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a 寺名は山に住んでいた荒ぶる龍を和尚が法力を使って大人しくさせた伝説に由来し、「龍ヶ谷」と云う地名も同じ伝説からくるらしい。
b 第五十代天皇。平城京を長岡京や平安京に遷都した。桓武平氏の始祖とも。
c 堀越公方《ほりごえ・くぼう》と古河公方《こが・くぼう》。公方とはいわゆる「将軍」のこと。天皇から任命された(征夷)大将軍とは別に、東国へ派遣された将軍のこと。
d 家主に代わって家政を取り仕切る者。家老・重臣らの筆頭に相当する。
e 越生にあった道真の隠居所。場所は不明だが、一説に龍穏寺境内だったとも、あるいは麓にある建康寺とも。
f 上杉持朝の三男。ちなみに次男は相模三浦氏の養子であり、その嫡子が三浦道寸である。

本䏻寺の変ゆかりの地と織田信長公墓所 − We have no other way at Honnō-ji Temple(TAKE2)

大徳寺塔頭の総見院は本䏻寺の変で生涯を閉じた織田信長公の菩提寺である

天正10(1582)年6月1日夜[a]これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。、丹波国亀山[b]現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。で明智惟任日向守光秀《あけち・これとう・ひゅうがのかみ・みつひで》は主君で右大臣・信長への反逆を企て、明智左馬助秀満《あけち・さまのすけ・ひでみつ》、明智次右衛門光忠《あけち・じえもん・みつただ》、藤田伝五行政《ふじた・でんご・ゆきまさ》、斎藤内蔵助利三《さいとう・くらのすけ・としみつ》らと相談し、信長を討ち果たし天下の主となる計画を練り上げた。信長の命で、中国の毛利勢と対陣中の羽柴筑前守秀吉《はしば・ちくぜんのかみ・ひでよし》を援軍するには亀山から三草山《みくさやま》を越えるのが普通であるが、そこへは向かわずに馬首を東へ向けた。その数1万3千。兵らには「山崎を廻って摂津の地を進軍する」と触れておき、先に相談した宿老らに先陣を命じた。そして摂津街道を下り、桂川を越えた先の京都に到着したのは翌2日の早朝であった。光秀らの軍勢は信長の宿所本䏻寺[c]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。を包囲し、四方から乱入した。はじめ弓と槍で防戦していた信長は、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の口を閉めて無念にも御腹を召された。

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a これは旧暦。新暦で計算すると1582年6月20日で時刻は午後10時頃。
b 現在の京都府亀岡市荒塚町近辺。
c 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本稿でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。

仙臺藩祖御霊屋・瑞鳳殿 − The Mausoleum of “Dokuganryu” Masamune

仙臺藩祖・伊達政宗公の御霊屋は仙臺城本丸と向かい合う経ヶ峯山頂に建つ

宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2にある瑞鳳殿《ずいほうでん》は、寛永13(1636)年に江戸藩邸で70年の生涯を閉じた仙臺藩[a]本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。祖・伊達権中納言政宗《だて・ごんちゅうなごん・まさむね》公の遺命により、仙臺城本丸と広瀬川を挟んで向かい合う経ヶ峯《きょうがみね》に造営された御霊屋《おたまや》である。桃山時代の遺風を伝える豪華絢爛な建築物として昭和6(1931)年には国宝に指定されたものの、昭和20(1945)年の米軍による仙台空襲で全て灰燼に帰した。現在、拝観可能な建物は昭和54(1979)年に再建されたもので、さらに平成13(2001)年には御廟の大改修が施され一部が創建当時の姿に戻った。瑞鳳殿の周辺には二代藩主・忠宗《ただむね》公の御霊屋である感仙殿《かんせんでん》と三代藩主・綱宗《つなむね》公の善応殿《ぜんのうでん》など仙臺藩主にゆかりある御廟が他にもいくつある上に、政宗公の菩提寺にあたる瑞鳳寺を含め、その一帯が「経ヶ峯伊達家墓所」として市指定史跡とされている。なお御廟再建に先立って実施された学術調査では政宗公の墓室から遺骸と共に公遺愛の太刀や脇差、そして煙管《きせる》など多くの副葬品が検出されたと云う。

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a 本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体の「仙臺」、現代の地名や施設名は新字体の「仙台」と綴ることにする。

米澤藩上杉家御廟と林泉寺、そして善光寺 − Some mausoleums related in the Yonezawa-Domain Uesugi Clan

米沢城に眠る謙信公の霊柩が万が一の事態になったら避難させる場所に上杉家御廟がある

山形県米沢市御廟1丁目にある米澤藩主[a]本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。上杉家御廟は、藩祖で越後国春日山にて関東管領職を務めた不識院謙信《ふしきいん・けんしん》[b]云わずと知れた上杉謙信。公の御遺骸《ごいがい》をはじめとする歴代藩主の廟が杉木立《すぎこだち》の中に整然と立ち並び、森厳《しんげん》とした雰囲気に満ちた墓所として知られている。元々は公の霊柩が安置された米沢城本丸で大事が発生した場合に、その霊柩を一時的に退避させるために用意されていた場所であったが、元和9(1623)年に逝去《せいきょ》した初代米澤藩主・上杉権中納言景勝《うえすぎ・ごんちゅうなごん・かげかつ》公の御遺骸が埋葬されて以降は十一代に渡って米澤藩主が埋葬され、御霊屋《おたまや》の前には御廊下と拝殿が建ち、寄進された千基を越える石灯籠が並べられていた。それから明治6(1873)年の廃城令で米沢城本丸跡から改めて不識院謙信公の霊柩がこの場所に遷座されると、それに伴って拝殿や多数の石灯籠が撤去された上に参道も造り替えるなどして、現在観ることができる景観になったとされる。そして本御廟は昭和59(1984)年には全国の大名家墓所としては五番目となる国指定史跡に登録された。

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a 本稿では藩名を「米澤」、城名と現代の地名を「米沢」と記す。
b 云わずと知れた上杉謙信。

陸奥福嶋城 − Fukushima Castle

現在の福島県庁の入口にあたる県庁通りが、かっての福島城の大手門跡である

福島県福島市杉妻町2-16にある福島県庁周辺は、かっては奥州街道や米沢街道などが合流する陸奥信夫(むつ・しのぶ)郡にあって古くは室町時代から城郭が築かれ、奥州伊達氏の居城として杉妻城(すぎのめじょう)[a]「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。と呼ばれていた。伊達氏17代当主・政宗が他の奥羽諸大名らと抗争を繰り広げていた天正17(1589)年頃は杉妻城を含め伊達家にとって最大規模の領国を支配下に置いていた、まさに絶頂期であった[b]但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。。しかし天正19(1591)年の奥州仕置で豊臣秀吉によって領国の一部が召し上げられ、蒲生飛騨守氏郷が會津42万石[c]葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。に転封されると客将の木村吉清(きむら・よしきよ)[d]元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。に杉妻城を拠点とする信夫郡5万石が与えられた。この時、吉清は杉妻城を福嶋城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。に改めた。しかし氏郷が急死して蒲生氏が移封されると信夫郡を含む會津120万石は越後国から転封となった上杉権中納言景勝の領地となる。奥州仕置以降、旧領の奪還を目論む政宗との間に緊張が高まった関ヶ原の戦直前、福嶋城には猛将・本荘繁長[f]名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。が城主として派遣される。上方で西軍敗れるの報せを受け取った政宗は、すぐさま信夫山の麓まで侵攻し福嶋城に籠もる本荘繁長ら上杉軍と松川近くで激突した。

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a 「杉目城」とも。あるいは大仏城(だいぶつじょう)とも。
b 但し杉妻城は政宗の祖父にあたる晴宗(はるむね)の隠居城扱いで、晴宗が死去したあとは晴宗夫人らの居住地として使われていたらしい。
c 葛西大崎一揆を平定したのちに92万石に加増された。
d 元・明智光秀の家臣。奥州仕置で大崎氏と葛西氏の旧領を与えられ異例の大出世となるが領内で一揆を引き起こした責任を問われて改易。その後、氏郷の客将となり信夫郡を与えられた。
e 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため「陸奥」を冠し、さらに本稿では往時の城名には異字体を使って「福嶋城」、現代の地名は「福島」と綴ることにする。
f 名字は「本庄」とも「本条」とも。本稿では旧字体の「本荘」で統一した。

八王子城 − Hachiōji Castle(TAKE3)

秀吉軍襲来に備えて八王子城西端に急遽築かれた詰城の背後には大堀切が残る

小田原北條氏二代目当主の氏綱(うじつな)の嫡子で、のちに『相模の獅子』と呼ばれた三代目当主の伊勢新九郎氏康(いせ・しんくろう・うじやす)[a]初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。の子女は一説に九男・七女とされ、その正室は駿河国守護であった今川氏親(いまがわ・うじちか)[b]母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。この正室との間には長男の新九郎氏親[c]天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。、次男で嫡男の氏政、三男の氏照、四男の氏規(うじのり)、五男の氏邦(うじくに)、六男で『越後の龍』こと上杉輝虎の養子となった景虎がいる。女子には、氏康とは義兄弟であった北條綱成の嫡男・氏繁室、千葉親胤室、そして今川氏真(いまがわ・うじざね)室の早川殿らがいる。小田原北條氏は相模国の小田原城を本城として伊豆・武蔵・駿河・下総などの領国に数多くの支城を築いて整備し、いわゆる支城ネットワークを構築していた。その中で最大規模を誇っていたとされる八王子城は兄の氏政と甥の氏直を軍事と政治の両面で支えた北條陸奥守氏照の最後の居城で、現在は東京都八王子市元八王子町にて国史跡に指定されている。天正18(1590)年の小田原仕置の際は、急遽、本丸の西側に石垣で囲った詰城(つめのしろ)を築いて豊臣勢の来襲に備えた。

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a 初代当主である伊勢盛時(いせ・もりとき)、号して宗瑞(「北條早雲」の呼称は正確ではない)から継承されていた「伊勢」の苗字は二代氏綱、そして三代氏康まで使用され、「北條」の苗字は氏綱の代から当主だけに使用が許され、氏康は元服時に拝承した。なお「新九郎」は伊勢(北條)氏の嫡男に与えられた仮名(けみょう)。
b 母は伊勢新九郎盛時(号して宗瑞)の姉の北川殿(きたがわどの)。伯父である宗瑞の後見を受けて駿河国を平定する。
c 天文21(1552)年に元服直後の16歳で死去したとされる。

真田幸村と大坂の陣 − Yukimura Sanada is Number One Warrior in Japan(TAKE2)

真田山・三光神社は真田丸を攻撃した徳川勢の加賀前田勢が陣を張った宰相山に建つ

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いから三年後、徳川家康は征夷大将軍に就任[a]「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。し江戸で幕府を開府した。次に、豊臣家に対して臣下の礼を要求すると両家の間に「亀裂」ができたが、依然として加藤清正ら豊臣恩顧の大名が多かったため直接的な対立に至ることはなかった[b]むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。。そして慶長16(1611)年に初めて両家の首脳である家康と豊臣秀頼の会見が実現して亀裂は埋まったかのようにみえたが、その三年後の慶長19(1614)年には世に云う「方広寺鐘銘事件」が起きた。豊臣家の総奉行であった片桐且元(かたぎり・かつもと)は両家の間を奔走して平和的に解決しようと務めたが、逆に家康の奸計に嵌って豊臣方の疑心暗鬼を誘うことになり亀裂は「溝」に変わった。この事件を宣戦布告と受け取った豊臣家は秀吉が残した莫大な金銀で兵糧と武器を買い入れ、全国の浪人に招集を呼びかけた。その一人で関ヶ原の戦いでは西軍で唯一の勝利を得た真田昌幸の次男・信繁(幸村)も蟄居先の九度山を抜けだして大坂城に入城、不本意ながら城内が籠城戦に決すると、直ちに惣構(そうがまえ)南東に隣接する平野口あたりで出城の築造に着手した。これが後世に伝わる「真田丸」である。

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a 「征夷」とは朝廷から北方または東方に住む人々の総称である蝦夷(えみし)を征討すると云う意味。豊臣秀吉は就任を固辞している。
b むしろ往時の家康は両家による二頭体勢を黙認し、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたり、故太閤を祀った豊國神社の祭礼なども許していた。

三崎要害/新井城 − Misaki Amphibia Fort AKA Arai Castle

相模湾に面した海水浴場側から急峻な崖が残る要害・新井城跡を眺める

神奈川県三浦市三崎町小網代[a]読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。1024にあった新井城は、北は小網代湾(こあじろわん)、南は油壺湾(あぶらつぼわん)に挟まれ、西は相模湾に突出し城域を囲む三方が海に面した半島状の要害にあって、陸路は横堀海岸から深く切られた堀に架かる北東約3kmの大手道のみであり、それも万が一の場合は切って落とすことが可能な内引橋[b]別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。であったと云う。ちなみに三浦氏の居城であった時代は三崎要害と呼ばれ、小田原北條氏の時代は油壺城、そして新井城と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。城の築城年代と築城者は不明であるが、一説に鎌倉時代は宝治元(1247)年に起こった鎌倉幕府の内乱[c]幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。で滅亡したかにみえた三浦一族にあって佐原氏の系統が生き残り、一族の拠点として築いたとも。そして元弘2(1334)年に三浦介(みうらのすけ)を継いだ三浦時継(みうら・ときつぐ)の代から城を整備・拡大し、さらには周囲の豪族ら[d]小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。と姻戚関係を結びつつ勢力を拡大して三浦半島全域と相模国南部を治めるまでに復活を果たしたが、室町時代後期には新たに伊豆国より台頭してきた新興勢力の伊勢新九郎[e]伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。が時の三浦家当主・道寸の目の前に立ちはだかった。

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a 読みは「かながわかけん・みうらし・みさきちょう・こあじろ」。神奈川県にあって相模湾と東京湾に囲まれた三浦半島の南西部に位置する。
b 別名は「内の引橋」、「引橋」、あるいは「曳橋」。
c 幕府の執権・北条氏と有力御家人であった三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじがっせん)。別名は三浦氏の乱。相模国の名族・三浦氏(三浦党)は鎌倉幕府創設で多大の貢献により御家人となった。會津の蘆名氏や猪苗代氏、あるいは下総の佐原氏や正木氏も三浦党の一族にあたる。
d 小田原の大森氏、鎌倉の上杉氏など。
e 伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)とも。のちの北條早雲で、小田原北條家の始祖となる。

長篠城 − Nagashino Castle(TAKE2)

設楽原決戦の惨敗の「狼煙」となった鳶ヶ巣山砦跡には将士らの供養碑が建っていた

天正3(1575)年5月8日[a]これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。武田四郎勝頼は1万5千の兵を動員して奥平貞昌(おくだいら・さだまさ)が僅か500の兵で守備する三河国長篠城を包囲した。勝頼は、寒狭川(かんさがわ)と三輪川[b]現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川(うれがわ)。が合流する断崖に築かれた城を真北から見下ろすことができる医王寺山に陣城を築いて本陣とし、その前衛の大通寺と天神山と岩代に攻城勢、そして寒狭川対岸の有海村(あるみむら)と篠場野に遊軍、さらに三輪川の対岸は乗本(のりもと)周辺の尾根筋に五つの砦を配置して城を四方から包囲した。寡兵とはいえ城内には200丁もの鉄砲があったため、大通寺勢は巴城(はじょう)郭から、天神山勢と岩代勢が大手口から同時に正面攻撃するも苦戦を強いられた。ここで、前年に高天神城を落城させて勝気に逸る[c]父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。勝頼は守備側の不意をついて、寒狭川と三輪川の激流によって削られた渡合(どあい)あたりに攻撃隊を渡河させ、城の搦手にある野牛(やぎゅう)郭を攻撃する陽動作戦を敢行、城正面の守備隊を分散させることに成功し巴城郭と弾正郭を制圧した。これにより残るは本郭と二郭のみとなり、まさに風前の灯(ともしび)となった長篠城を見下ろす勝頼の下に宿敵「信長来る」の一報が届いた。

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a これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。
b 現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川(うれがわ)。
c 父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle(TAKE2)

蒲生氏郷が黒川城を改築にした際の外郭遺構が現存し国指定史跡になっている

天正18(1590)年に豊臣秀吉がおこした奥州仕置の功により伊勢国松坂から陸奥国會津へ入封した蒲生飛騨守氏郷は、それまで伊達政宗の居城であった黒川城をより本格的な近世城郭へと改修した際に実戦に向けた縄張の見直しを行った[a]縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。。その際には郭内に相当する武家地を外郭[b]外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。で囲む惣構えに改めて、町人地を郭外へ移動した。一説に、氏郷は秀吉が築いた巨大で絢爛豪華な大坂城に匹敵するような城郭を築き、その威容を奥州各国に知らしめようとしていたとも云われている。氏郷亡きあと、この會津若松城は會津中納言・上杉景勝と氏郷の嫡子・秀行による小規模な改修の他、加藤嘉明・明成らによって石垣を多用した郭門などの防衛施設が強化され、最終的に會津中将・保科正之を藩祖とする會津松平家の居城として東北一の難攻不落の要塞として完成に至った。その最後は、慶応4(1868)年の會津戦争で新政府軍による力攻めでも落城せず開城後に廃城となったが、明治時代に個人に払い下げられて[c]のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。以来、一部を軍が使用していたものの大部分の史跡は保存され、昭和の時代に福島県会津若松市追手町にて現在観ることができる状態へと復元された[d]天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

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a 縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。
b 外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。
c のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。
d 天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。
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