城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 墓所・菩提寺 (2 / 5 ページ)

武将が静かに眠る墓所や供養塔、または菩提寺や御霊屋への訪問

長篠城 − Nagashino Castle(TAKE2)

設楽原決戦の惨敗の「狼煙」となった鳶ヶ巣山砦跡には将士らの供養碑が建っていた

天正3(1575)年5月8日[a]これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。武田四郎勝頼は1万5千の兵を動員して奥平貞昌(おくだいら・さだまさ)が僅か500の兵で守備する三河国長篠城を包囲した。勝頼は、寒狭川(かんさがわ)と三輪川[b]現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川(うれがわ)。が合流する断崖に築かれた城を真北から見下ろすことができる医王寺山に陣城を築いて本陣とし、その前衛の大通寺と天神山と岩代に攻城勢、そして寒狭川対岸の有海村(あるみむら)と篠場野に遊軍、さらに三輪川の対岸は乗本(のりもと)周辺の尾根筋に五つの砦を配置して城を四方から包囲した。寡兵とはいえ城内には200丁もの鉄砲があったため、大通寺勢は巴城(はじょう)郭から、天神山勢と岩代勢が大手口から同時に正面攻撃するも苦戦を強いられた。ここで、前年に高天神城を落城させて勝気に逸る[c]父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。勝頼は守備側の不意をついて、寒狭川と三輪川の激流によって削られた渡合(どあい)あたりに攻撃隊を渡河させ、城の搦手にある野牛(やぎゅう)郭を攻撃する陽動作戦を敢行、城正面の守備隊を分散させることに成功し巴城郭と弾正郭を制圧した。これにより残るは本郭と二郭のみとなり、まさに風前の灯(ともしび)となった長篠城を見下ろす勝頼の下に宿敵「信長来る」の一報が届いた。

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a これは旧暦。新暦でいうと1575年6月16日にあたる。以後、本稿での日付は旧暦で記す。
b 現在の呼び名はそれぞれ豊川と宇連川(うれがわ)。
c 父である武田信玄でさえも陥とせなかった遠江国の山城。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle(TAKE2)

蒲生氏郷が黒川城を改築にした際の外郭遺構が現存し国指定史跡になっている

天正18(1590)年に豊臣秀吉がおこした奥州仕置の功により伊勢国松坂から陸奥国會津へ入封した蒲生飛騨守氏郷は、それまで伊達政宗の居城であった黒川城をより本格的な近世城郭へと改修した際に実戦に向けた縄張の見直しを行った[a]縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。。その際には郭内に相当する武家地を外郭[b]外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。で囲む惣構えに改めて、町人地を郭外へ移動した。一説に、氏郷は秀吉が築いた巨大で絢爛豪華な大坂城に匹敵するような城郭を築き、その威容を奥州各国に知らしめようとしていたとも云われている。氏郷亡きあと、この會津若松城は會津中納言・上杉景勝と氏郷の嫡子・秀行による小規模な改修の他、加藤嘉明・明成らによって石垣を多用した郭門などの防衛施設が強化され、最終的に會津中将・保科正之を藩祖とする會津松平家の居城として東北一の難攻不落の要塞として完成に至った。その最後は、慶応4(1868)年の會津戦争で新政府軍による力攻めでも落城せず開城後に廃城となったが、明治時代に個人に払い下げられて[c]のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。以来、一部を軍が使用していたものの大部分の史跡は保存され、昭和の時代に福島県会津若松市追手町にて現在観ることができる状態へと復元された[d]天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

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a 縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。
b 外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。
c のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。
d 天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

柳河藩立花家江戸屋敷跡 − Tachibana’s Edo Residences of the Yanagawa Domain

東京都台東区界隈にあった柳河藩・立花家の江戸藩邸跡には太郎稲荷が建っていた

福岡県・筑紫地方南西部に位置する柳川市は、明治の初めまで12万石の柳河藩[a]本稿では藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。にあたり、その起藩にあたっては今から430年以上前の天正15(1587)年に豊臣秀吉が九州平定に功績のあった立花宗茂に下筑後四郡13万余石を与え、山門郡柳川を城地として定めたところまで遡る。しかし宗茂は、秀吉死後におこった関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の一人として西軍について敗戦、徳川家康により改易・牢人となる。あとを継いだのが石田三成捕縛の功により筑後一国を拝領した田中吉政で、同じく柳川で領内統治を行った。吉政は掘割と用水路、そして街道[b]田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。を整備し、現代の柳川市の基礎となる町作りに貢献したと云う。その後、田中家は無嗣断絶のために二代で改易となり、元和7(1621)年に奥州棚倉の赤館で大名に復帰していた宗茂が20年ぶりに10万石余で柳川の領主に返り咲くと、明治まで柳河藩・立花家12代が治めるに至った。宗茂はその翌年に二代将軍・秀忠への御礼言上のため江戸へ参府し、併せて江戸藩邸の普請を開始した。この藩邸は上屋敷・中屋敷・下屋敷から成り、それらは現在の東京都台東区千束(せんぞく)から下谷(したや)、そして三筋(みすじ)周辺にあたる。

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a 本稿では藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。
b 田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money(TAKE2)

信綱寺は真田信綱が開基し、のちに弟の昌幸が長兄の牌所として改築した

真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんた・さえもんのじょう・のぶつな)は、「六連銭(むつれんせん)」を旗印にして戦国時代から江戸時代に渡って[a]真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。勇名を馳せた信濃国は小県(ちいさがた)郡の国衆の一つで、外様ながらも甲斐武田家中では『譜代衆同意』の立場まで上りつめ[b]牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。、その中興の祖と云われた真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうのじょう・ゆきつな)[c]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。の嫡男として天文6(1537)年に真田郷で生まれた。母は重臣・河原隆正(かわはら・たかまさ)の妹で、のちの恭雲院(きょううんいん)殿。兄弟は六つ下に昌輝(まさてる)、さらに四つ下に昌幸と信尹(のぶただ)、その下に信春[d]生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。と清鏡(きよあき)[e]幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。が居た。父子ともに武田信玄と勝頼の二代に仕え、信濃先方衆(しなの・さきがたしゅう)[f]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。でありながら独立した軍団をも擁していた御先衆(おさきしゅう)の筆頭として、最後は騎馬200騎持ちの侍大将になった。父が海野平合戦に敗れた幼少時は、上野国は箕輪城主・長野業政の下で過ごし、のちに武田家に臣従すると上野攻略や川中島合戦、そして西上作戦にいたる武田家の主要な戦に参陣した。しかし、元亀4(1573)年に信玄が死去、その翌年には父・幸綱が亡くなり、そしてその一年後に信綱も弟の昌輝と共に設楽原合戦で討ち死にした。

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a 真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。
b 牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。
c 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
d 生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。
e 幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。
f 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。

設楽原古戦場 − The Battle of Nagashino

天正3(1575)年6月末、歴史的な野戦が行われた場所には「決戦場」の碑が建つ

天正3(1575)年5月16日[a]この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。、三河国長篠城を1万5千の兵で包囲して孤立させ、残る郭は本丸と二の丸のみとした武田勝頼は、医王寺山[b]この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。に構えた本陣にて「信長来る」との一報を受け取った。そして5月19日、宿老らを集めて軍議を開くと勝頼は織田信長・徳川家康と無二の決戦を行うことを主張し、推し量った彼我の兵力差から甲斐国へ撤退することを主張する老練な「年寄り」らの意見を退け、寒狭川(かんさがわ)[c]豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。を渡って設楽原(したらがはら)[d]別名は有海原(あるみはら)。へ陣を進めると独断した。風前の灯となった長篠城を囮にし、設楽原の連吾川(れんごがわ)対岸に陣をはる信長軍を太陽を背に見下ろすような逆落しの斜面、そして梅雨の長雨によって飛び道具を無力化できるといった優位性が勝頼の決断を後押しした。そして3千を長篠城監視部隊として残し、残る1万2千を主力として大雨の中を密かに連吾川東岸辺りまで押し出させた。一方の織田・徳川連合軍3万8千は5月13日に岡崎城を出陣、まるで長篠城の後詰など考えていないかのように設楽原までの十里[e]日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。の道のりをのらりくらりと三日もかけて行軍してきた[f]これは、まるで長篠の梅雨明けに合わせたかのような進軍にも取れる。。そして連吾川西岸に着陣するやいなや持参した大量の丸太で馬防柵の設営を開始、同時に別働隊の3千を鳶ヶ巣山(とびがすやま)へ向けて進発させた。

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a この日付は旧暦。新暦(太陽暦)で換算すると6月24日(水曜日)にあたる。
b この山からは長篠城を一望できる。麓に医王寺があり、伝説の「片葉の葦」が茂る弥陀の池がある。
c 豊川は長篠城南端にある渡合(どあい)で分岐し、それぞれ北西から流れてくる川を寒狭川、北東から流れてくる川を宇連川(うれかわ)と呼ぶ。現在は寒狭川のことも豊川と呼んでいる。
d 別名は有海原(あるみはら)。
e 日本では一里は約3.9㎞なので、岡崎城と設楽原の間は約39㎞。
f これは、まるで長篠の梅雨明けに合わせたかのような進軍にも取れる。

立花宗茂 『誠九州之一物ニ候』− Muneshige Tachibana is distinguished the Greatest Warrior of Western Japan

「西国無双」と謳われた立花宗茂公所用の月輪文(がちりんもん)の脇立を持つ兜

永禄10(1567)年に豊後国・大友氏の重臣の一人である高橋鎮種(たかはし・しげたね)[a]大友氏の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男・鎮理(しげまさ)で、筑後国・高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称し、号して高橋紹運と改めた。の嫡男として生まれた幼名・千熊丸は、のちに関白秀吉から『誠九州之一物ニ候』[b]立花文書によるもので、現代文だと「九州の逸物」の意味。と激賞され、関ヶ原の戦後に江戸幕府より改易されたものの、のちに大名に復帰し旧領さえも回復した唯一無二の勇将・立花左近将監宗茂である。「宗茂」の名乗りは晩年のもので、元服後は高橋統虎(たかはし・むねとら)、鎮虎、宗虎、親成、尚政、政高、俊正などと度々改名している。また天正9(1581)年、統虎が14歳の時に大友家の重臣の一人で、父・鎮種とともに筑前・筑後国の攻略を任されていた戸次道雪(べっき・どうせつ)に請われ、高橋家の嫡男でありながら戸次家の婿養子となって戸次統虎に、さらに翌年には姓を改めて立花統虎と名乗った。ともに猛将と謳われ、最後まで主家を支え続けた二人の父を持ち、秀吉から筑後国柳川13万石余[c]筑後国の御池・山門両郡すべて、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部を含めた13万2000石。を拝領した上に直臣の大名に取り立てられ、文禄・慶長の役でも活躍し、秀吉没後の関ヶ原の戦では恩義に報いるために西軍について改易、4年近く京と江戸で浪人生活を送り、二代将軍秀忠の目に止まると奥州棚倉1万石で大名に返り咲き、豊臣家が滅びた後は旧領の柳川10万石余を拝領して20年ぶりに柳川藩主に復帰した。

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a 大友氏の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男・鎮理(しげまさ)で、筑後国・高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称し、号して高橋紹運と改めた。
b 立花文書によるもので、現代文だと「九州の逸物」の意味。
c 筑後国の御池・山門両郡すべて、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部を含めた13万2000石。

柳川城 − Yanagawa Castle

城の内外に無数の堀を持つ柳川城の本丸には、かっては五層五階の天守閣が建っていた

筑後平野が有明海へ臨む地に、筑後川や沖端川(おきのはたがわ)、塩塚川(しおづかかわ)などの水を利用して、永禄年間(1558〜1569)に蒲池鑑盛(かまち・あきもり)[a]名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。が、それまでの砦規模から本格的な天然の要害に造作した柳川城は、現在の福岡県柳川市本城町にある。筑後南部の戦国大名で大友氏の幕閣にあった蒲池氏の本城として、水の利を十分に活かしたこの平城は、九州でも屈指の堅城で難攻不落の水城として知られていた[b]水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。。実際、鑑盛の次男・蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)は、天正8(1580)年に龍造寺隆信と鍋島直茂ら2万の軍勢を相手に数カ月に及ぶ籠城戦に勝利し、柳川城攻略を挫折させた[c]しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。。さらに龍造寺家の支配下にあった時には、大友家で筑後攻略を担当していた戸次道雪と高橋紹運らの猛攻を受けるも一指だも染め得なかった[d]戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。。その後、天正14(1583)年の関白秀吉による九州仕置では岩屋城の戦いや立花山城の戦いで功のあった立花宗茂が筑後13万石の柳川城主となり、主家の大友氏から独立して秀吉に仕えるが、秀吉死後の関ヶ原の戦いで敗れ、在城わずか十三年にして改易となり、代わって石田三成捕縛の功により、田中吉政が筑後一国32万石余の領主として入城すると、石垣を高くして天守閣を築いた。

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a 名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。
b 水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。
c しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。
d 戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。

岩屋城 − Iwaya Castle

衰退する大友家を支えた高橋紹運は岩屋城の甲ノ丸に立ち、島津軍と激しい攻防戦を繰り広げた

福岡県太宰府市の観世音寺(かんぜおんじ)にあった岩屋城は、太宰府政庁[a]大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。の背後にそびえる標高410mほどの四王寺山(しおうじやま)中腹にある急峻な岩屋山に築かれていた山城で、立花山城や宝満山(ほうまんやま)城とともに筑前御笠郡支配の要衝として、豊後国(ぶんごのくに)を拠点とする大友氏が城督を置いていた城郭である。その始まりは文明10(1478)年に周防国(すおうのくに)守護職の大内政弘[b]のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。が家臣を在城させていたのを初見とし、大内氏衰退後は大友氏の家臣・高橋鑑種(たかはし・あきたね)[c]大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。が宝満山城の支城とした。しかし鑑種は、永禄4(1561)年に同じ筑前の秋月種実(あきづき・たねざね)、肥前佐賀の龍造寺隆信としめし合わせて大友義鎮(おおとも・よししげ)に反旗を翻した[d]鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。。そして大友の軍勢を引きつけておいた隙に中国から毛利元就の大軍を招き入れたが、永禄10(1567)年に戸次道雪(べっき・どうせつ)[e]大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。が毛利軍を斬り崩し調略を加えて退去させた[f]実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。。鑑種は降伏して助命され入道して宗仙(そうせん)を名乗っていたが、不穏な空気をよんだ義鎮が同じ一族の吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の子・鎮理(しげまさ)に高橋家を継がせて[g]この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。対抗した。彼がのちに「忠義鎮西一」と呼ばれた高橋紹運である。

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a 大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。
b のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。
c 大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。
d 鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。
e 大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。
f 実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。
g この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。

三増峠古戦場 − The Battle of Mimasetōge

小田原城を包囲した武田信玄は、その帰途に追撃してきた小田原北条勢を三増峠で迎え撃った

永禄11(1568)年に甲斐国の武田信玄は形骸化した甲相駿三国同盟を一方的に破棄して、三河国の徳川家康と共に駿河国の今川領に侵攻した。かって「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡き名門今川家当主の氏真は、甲州勢の怒涛の猛攻に堪えられず、三国同盟の絆である正室・早川殿のつてで、舅である相模国の北条氏康に支援を求めた[b]氏真は越後国の上杉輝虎にも駿河を奪われた事情を知らせ、関東で対峙している小田原北条氏と和睦して共に信玄を征伐して欲しいと懇願している。。氏真は駿府を捨てて掛川城へ避難するが、混乱のために妻の乗輿(じょうよ)が得られず侍女ともども寒中の野道を徒歩で辿る恥辱に耐え忍んでいたことを知った氏康は自分の娘を憂い、そして激怒して武田家との盟約を全て破棄、さらに急ぎ越後国の上杉輝虎[c]のちの上杉謙信。関東管領の上杉家を継いで長尾景虎から改名した。「輝」は将軍・足利義輝からの偏諱である。と和睦を成立させて信玄に対抗した。信玄は翌12(1569)年6月に伊豆まで侵攻して氏康を牽制、その本隊が伊豆に集合した隙をついて8月には2万の軍勢を率いて上野国から鉢形城滝山城といった拠点を攻撃しつつ、10月に小田原城を包囲した。しかし籠城勢が挑発に応じないため無理な城攻めはせずに、城下を焼き払うと相模川沿いに三増峠を経由して帰国の途についた。小田原城を固く守備させていた氏康は、氏照と氏邦ら2万の軍勢を三増峠へ向かわせ、自らも伊豆を退陣し、氏政と共に2万の軍勢をもって帰路の信玄を挟撃する作戦を開始した。

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a 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b 氏真は越後国の上杉輝虎にも駿河を奪われた事情を知らせ、関東で対峙している小田原北条氏と和睦して共に信玄を征伐して欲しいと懇願している。
c のちの上杉謙信。関東管領の上杉家を継いで長尾景虎から改名した。「輝」は将軍・足利義輝からの偏諱である。

大多喜城 − Ōtaki Castle

江戸時代に焼失した大多喜城の天守は昭和の時代に古絵図を元にして再建された模擬天守である

千葉県夷隅郡大多喜町にある大多喜城は、夷隅川(いすみがわ)[a]江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。を天然の外堀とし、その蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に築かれ、郭を西側の山塊が東へ延びた突端に並べていた連郭式平山城である。この城は大永元(1521)年に真里谷(まりやつ)武田信清[b]真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。が築城したと云われ、往時は「小田喜(おたき)」城と呼ばれていた。戦国期は天文13(1544)年に、安房国の里見義堯(さとみ・よしたか)が配下で「槍大膳」の異名を持つ正木時茂[c]小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。によって攻め落とされ、四代にわたって[d]正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。上総正木宗家の居城となった。その後は天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置で、徳川家康が三河国から関八州に国替させられた際に重臣で徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝に上総国10万石[e]最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。を与えて里見氏の抑えとした。小田喜城に入城した忠勝は大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸に縄張し直した上に、西は尾根を断ち切る空堀、南は夷隅川に落ち込む急崖、北と東は水堀を配し、さらに城下町を建設するなどして要害堅固な「大多喜城」が完成した。慶長14(1609)年に台風で遭難し保護されたスペイン人のドン・ロドリゴが大多喜城を訪れた際[f]この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。、彼の著書『日本見聞録』にその大きく豪華な城の造りに驚いたと書き残している。

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a 江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。
b 真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。
c 小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。
d 正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。
e 最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。
f この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。
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