山梨県甲府市古府中2611にある武田神社は、かって甲斐国の国主であった武田信虎・晴信・勝頼[a]信虎は甲斐国守護、晴信は甲斐国守護と信濃国守護、勝頼は信濃国守護。ら三代が居住し国政を司る政庁を兼ね、躑躅ヶ崎館[b]読みは《ツツジガサキ・ヤカタ》あるいは《ツツジガサキ・ノ・ヤカタ》。と呼ばれた館跡の一部である[c]国史跡としての登録名は「武田氏館跡」。。この館は三方を山に囲まれ、東に藤川、西に相川が南流し、相川によって形成された扇状地に突き出た尾根の「躑躅ヶ崎」先端に築かれた天然の要害であった。甲斐源氏第十八代[d]甲斐源氏の初代は清和源氏義光(新羅三郎義光)。甲斐武田氏の初代は武田信義。当主の信虎が、それまでの居館であった川田館《カワダヤカタ》から、この地へ守護館を移した時代は主郭のみの方形単郭の縄張であったが、その後は改修と拡張が重ねられて西曲輪・味噌曲輪・稲荷曲輪が増設された他、信仰深い晴信の招聘により多くの寺社が建立された城下町の「古府中」も発展した。しかし勝頼の時代には、この館を放棄して韮崎の新府城を新たな政庁とし古府中も移された。甲斐武田氏滅亡後は織田・徳川・豊臣の各氏が躑躅ヶ崎館を統治拠点として再利用し、主郭に天守台、そして館南西に梅翁曲輪などが築かれたが、甲府城が築かれると廃城になった。
カテゴリー: 墓所・菩提寺 (1 / 6 ページ)
武将が静かに眠る墓所や供養塔、または菩提寺や御霊屋への訪問
武蔵野台地[a]約200万年前の東京多摩エリアは海であり、海底に堆積した泥や火山灰(ローム層)からなる地盤が隆起したものの一部が武蔵野台地。にあって多摩川の流れによって侵食された段丘崖《ダンキュウガイ》[b]崖地《ガケチ》とも。の連なりとして形成された崖線《ガイセン》のうち、現在の東京都立川市や国立市あたりから東京都府中市をとおり、東京都調布市や狛江市までの東西十数キロに渡って伸びた府中崖線[c]一部は立川崖線とも。他に国分寺崖線がある。の南縁辺部には、平安時代に藤原秀郷《フジワラ・ノ・ヒデサト》[d]平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の居館があり、その後跡地に市川山・見性寺[e]宗派は不明とのこと。が建立されたと云う。鎌倉時代末期の正慶2(1333)年には、新田義貞がこの寺の三方に堀を設けて城砦化し、本陣を構えて分倍河原で鎌倉幕府・執権北條氏ら幕府勢との決戦[f]義貞勢は緒戦は撃退されたが、のちに執権北條氏を見限った御家人らが合流し、最後は奇襲で大勝し幕府勢を敗走させた。に勝利した。室町時代初期、征夷大将軍の足利尊氏は「安国利生」の祈願所として見性寺を龍門山・高安護国禅寺に改称、その寺領は幕府の庇護を受けて拡大し大刹《タイセツ》[g]大きな規模を持つ立派な寺院と云う意味。に成長した。応仁の乱後、関東が騒乱の嵐に飲み込まれると鎌倉公方[h]鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。の陣所として高安寺館[i]戦国時代まで、本来の「館《ダテ》」は「やかた」ではなく「城」を指すものとされている。は一段と要害化が進んだ。一方で寺としては戦乱の度に荒廃し、本格的に復興されたのは江戸時代に入ってからだと云う。
参照
↑a | 約200万年前の東京多摩エリアは海であり、海底に堆積した泥や火山灰(ローム層)からなる地盤が隆起したものの一部が武蔵野台地。 |
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↑b | 崖地《ガケチ》とも。 |
↑c | 一部は立川崖線とも。他に国分寺崖線がある。 |
↑d | 平安時代中期の武士。田原藤太《タワラ・ノ・トウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。 |
↑e | 宗派は不明とのこと。 |
↑f | 義貞勢は緒戦は撃退されたが、のちに執権北條氏を見限った御家人らが合流し、最後は奇襲で大勝し幕府勢を敗走させた。 |
↑g | 大きな規模を持つ立派な寺院と云う意味。 |
↑h | 鎌倉殿とも。室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長で、天下の副将軍に相当する。 |
↑i | 戦国時代まで、本来の「館《ダテ》」は「やかた」ではなく「城」を指すものとされている。 |
西美濃[a]現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称。を中心にそびえる伊吹山系東端に位置する標高402mの菩提山[b]この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。にあって南北約350m、東西150mの規模を有していた菩提山城は、天文13(1544)年に美濃国守護職・土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》が、美濃国不破郡岩手郷[c]現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。を治めていた美濃岩手氏[d]岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。に宛てた書状に初めて登場し、西美濃が接する近江国の浅井《アザイ》氏と六角氏の動静を監視する目的として築かれた山城であった。美濃岩手氏三代当主・元重の子に重道がおり、これが竹中氏の祖にあたり、美濃国を統治した斎藤山城守道三亡き永禄元(1558)年には重道の子・重元《シゲモト》が本家にあたる岩手信冬を攻めて追放し、この城を手に入れたと云う[e]これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。。岩手一帯6千貫を治める領主となった重元が隠居して、家督を継いだ半兵衛重治は斎藤龍興に仕えて稲葉山城下に居館を置く一方、ここ菩提山城は竹中氏の本城とした。山頂の主郭部を中心に大規模な堀切や複数の虎口で守られた西美濃最大級の山城は、重治の子・重門が城の機能を竹中氏陣屋に移した後に廃城となった。
千葉県野田市関宿町[a]明治時代までは東葛飾郡関宿町。昭和の時代の合併によって関宿町になる。にあった関宿城は、利根川と江戸川[b]江戸時代までは逆川《サカガワ》。が分岐する微高地上に築かれ、水運の要衝を押さえる城として中世から近世まで存続した。戦国時代には東国の中央という地理的な位置に加え、同じ下総国の小金城から栗橋城を経て、この時に関東を二分していた勢力の一人・古河公方[c]京都の足利将軍の代理として関東へ派遣されたもう一人の将軍。がいる古河城の前衛と云う政治的な位置でも要の城であった。また、もう一方の勢力の小田原北條氏をして「一国を取りなされ候にも替わるべからず候」(喜連川文書)[d]現代語訳だと、「この地を押さえることは一国を手に入れるに等しい」と云う意味。と云わしめた城でもあった。公方の片腕で関宿城主の簗田晴助《ヤナダ・ハルスケ》は形勢逆転を目論み、越後国の長尾景虎を頼るも、数度に渡る関宿合戦ののち北條氏政に屈した。そして小田原北條氏滅亡後、この城の位置付けを重要視した徳川家康は異父弟の松平康元に与え関宿藩を立藩した。明治時代に廃城となり、その後に繰り返された利根川改修と堤防建造により遺構は消滅したが、平成時代に建てられた県立関宿城博物館では城と利根川の歴史を今に語り継いでいる。
下総国北部一帯にかかる下総台地から伸びた台地と利根川(現在の江戸川[a]戦国時代の利根川は関東(埼玉)平野で多くの支川を作って江戸湾に注いでいたが、その一つが江戸時代以降の江戸川または太日川《フトイガワ》であった。)に挟まれるように形成されたいくつかの丘陵に跨って築かれ、中世城郭として最盛期には下総国北西部において最大級の南北約600m、東西約800mに及ぶ広大な城域を有していた小金城[b]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「下総」を冠したが、文中では「小金城」と綴ることにする。《コガネ・ジョウ》は、16世紀前半に千葉氏の家臣であり東葛地方[c]東葛《トウカツ》とは東葛飾の略。に勢力を誇った高城氏の居城であった。この平山城は15mほどの高低差と複雑に入り組んだ地形を利用して、高さ2mほどの土塁と深さ10m前後の空堀を縦横に巡らせ、台地を削平して複数の郭を配していたと云う。戦国時代末には小田原北條氏の配下に入り、天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置では東海道北上勢の浅野長吉《アサノ・ナガヨシ》[d]のちの浅野長政。に攻囲されて落城した[e]その際に、一度焼き払われたが、発掘調査で赤色化した表土が出土したのはそれが関連しているらしい。。その後、関東に入封した徳川家康の五男・松平信吉[f]現代は、同姓同名である藤井松平家の松平信吉と区別するために武田信吉と呼ばれる。が3万石で小金城に入城するも佐倉城に転封となった後に廃城となった。現在は宅地化で消滅した土塁や畝堀など一部の遺構が復元されて、大谷口歴史公園として公開されている。
唐沢川西岸の低湿地帯に築かれた深谷城は、室町時代中期の康生2(1456)年に山内上杉氏庶流にあたる深谷上杉家[a]山内上杉氏の庶流には他に越後国守護の越後上杉氏、相模国の宅間上杉氏があった。五代当主・上杉房憲が築いた平城であった[b]築城年や築城者には諸説あるが、本稿執筆時現在は『鎌倉大草紙』からこの説が有力。。時は、第五代鎌倉公方・足利成氏《アシカガ・シゲウジ》による関東管領・山内上杉憲忠《ヤマノウチ・ウエスギ・ノリタダ》の謀殺を発端として、関東一円を騒乱の渦に巻き込んだ享徳の乱《キョウトクノラン》の頃である。この乱で関東の政権は二分され、室町幕府と堀越公方、それを補佐する関東管領・山内上杉氏、そして相模国守護・扇ヶ谷上杉氏らの勢力は、利根川と荒川を挟んで古河公方と呼ばれるようになった成氏らの勢力と対峙した。山内上杉氏の陣営にあった房憲が拠点として築いたのが深谷城である[c]総面積は東京ドームおよそ4個分に相当する広さと云う。。江戸時代に廃城となると、その後は大部分が耕地になり、宅地化が進んだ現在は埼玉県深谷市本住町17に深谷城址公園として名が残るのみであるが、実のところ近くにある富士浅間神社には外濠跡、そして附近の高臺院と管領稲荷神社には土塁の一部が残っていた。
埼玉県本庄市本庄3丁目5-44にある城山稲荷神社は、戦国時代後期の弘治2(1556)年に本庄宮内少輔実忠《ホンジョウ・クナイショウユウ・サネタダ》が築いた本庄城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「武蔵」を冠したが、文中では「本庄城」と綴ることにする。跡である。武蔵七党《ムサシ・シチトウ》[b]鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国・相模国・下野国・上野国を勢力下に置いていた同族敵武士団の総称。で最大勢力を誇った児玉党の流れをくむ本庄氏にあって東本庄館五代館主であった実忠は、往時は関東管領・山内上杉家の配下として天文14(1545)年に河越夜戦《カワゴエ・ヨイクサ》で小田原の北條氏康勢と戦った。戦は奇襲を受けた上杉憲政《ウエスギ・ノリマサ》率いる河越城包囲軍[c]一説に総勢8万とも。前年まではお互いに敵同士であり、いわゆる烏合の衆で士気が低かった。の大敗であったが、実忠は本陣で負傷しながらも憲政の退却を助けた。その功により憲政から感服を頂戴した上に西本庄の地を賜った。その後も小田原北條氏の攻勢が続き、ついに主人である憲政は本拠の平井城を捨てて越後の長尾景虎を頼って行った。一方、実忠はこの時に氏康に下り、のちに新たな拠点として西本庄の地に本庄城を築いたと云う。この城は天正18(1590)年の関白秀吉による小田原仕置で落城し、本庄氏も滅亡した。
鎌倉時代に武蔵児玉党の流れをくむ秩父高俊《チチブ・タカトシ》[a]秩父氏は、桓武平氏四世にあたる平良文《タイラ・ノ・ヨシフミ》の子孫を称している。が西上野と北武蔵の境界にあって烏川《カラスガワ》沿いに形成された河岸段丘上に居館を建てて倉賀野氏を名乗ったと云う[b]倉賀野氏は、鎌倉幕府の記録を綴った『吾妻鏡』(国立公文書館蔵 / 重要文化財)にも登場する武士団。。一説に、南北朝時代に東山道[c]五畿七道《ゴキシチドウ》の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国を貫く幹線道路。江戸時代には中山道の一部となる。が通る交通の要衝として、この居館を拡張し戦略的な拠点としたものが倉賀野城とされる。戦国時代になると倉賀野氏は箕輪城の長野業政と共に関東管領・上杉氏に仕え、それが故に小田原北條氏・越後上杉氏・甲斐武田氏らの勢力争いに巻き込まれることとなった。箕輪城を中心に「小豪族ネットワーク」を担う倉賀野城は、主人の居城である高崎城と似た縄張だったようで、烏川の蛇行部に沿って本郭を築き、それを囲むように二ノ郭と三ノ郭を配し、更にそれらを覆うように外郭(總曲輪)を設け、堀を巡らしていた。関白秀吉による小田原仕置後に廃城となると城跡は時代を追うごとに宅地化の波に埋もれ、現在は群馬県高崎市倉賀野町1461にある公園に城址の碑が建つ他、道路になった堀跡が名残となっている。
天正17(1589)年10月に小田原北條氏の家臣で沼田城代を務めていた猪俣邦憲《イノマタ・クニノリ》が、利根川対岸にある信濃国小県《チイサガタ》の豪族・眞田昌幸が領する名胡桃城を奪取する変が勃発した[a]奇しくも昌幸は上洛中であり、家臣の鈴木主水重則《スズキ・モンド・シゲノリ》が名胡桃城の城代を務めていたが、偽の書状で城外に出た後に乗っ取られたと云う。。天正壬午の乱後、利根川を挟んでこれらの城がある上野国の沼田一円は越後の上杉景勝に従属していた眞田氏の支配下にあったが、のちに遠江の徳川家康と相模の北條氏直が自分達の都合だけで線引きしたことが国境問題として燻り出したため、往時ここ日の本の半分を支配下に置いて関白[b]「関白太政大臣《カンパク・ダイジョウダイジン》」のことで、天皇を補佐する朝廷の最高位。常設の職掌《ショクショウ》ではない。の座に昇りつめていた豊臣秀吉の裁定を請け、小田原北條氏の最高権力者である北條氏政の上洛を条件に新しい線引きが決められた上に、折しも関東惣無事令[c]秀吉が大名間の私戦を禁じた法令で、小田原北條氏のみならず奥州の伊達氏や蘆名氏、常陸の佐竹氏らに対するものを含めるもの。が出されていた中での事件であった。これを「天皇の裁定」に弓引くものである[d]秀吉は後陽成天皇《ゴヨウゼイ・テンノウ》から「一天下之儀」として裁定を委ねられていたと云う。と激怒した秀吉は小田原北條氏に宣戦布告を発し、翌18(1590)年3月に総勢20万もの大軍[e]兵力や参加した大名・武将には諸説あり。を率いて、関東で難攻不落とされた小田原城惣構に籠城する氏政・氏直父子らを陸と海から包囲した。
自らは桓武平氏伊勢氏の流れをくむと称した相模国の小田原北條氏[a]他に後北條(略字だと北条)氏、または相模北條(北条)氏と呼ばれることがあるが、本稿では家系には略字を使わずに「小田原北條氏」と綴る。の家祖で初代当主である伊勢宗瑞《イセ・ソウズイ》に始まり、その嫡子で二代目の北條氏綱《ホウジョウ・ウジツナ》、三代目は戦国の世で非凡な才能を発揮した「相模の獅子」こと北條氏康、また彼の次男で小田原北條氏の勢力を最大版図へと押し上げた北條氏政が四代目、そして最後の当主である北條氏直《ホウジョウ・ウジナオ》は日の本統一の野望を担いで西国からやってきた関白秀吉に敗れて小田原北條氏の名跡を捨てた。現代の世では彼らのことを、江戸時代に仮名草紙《カナゾウシ》[b]仮名交じりで著された散文文芸の総称。として著された『北條五代記』に倣って小田原北條五代と呼ぶ[c]神奈川県小田原市では昭和39(1964)年から毎年5月に「北條五代祭り」と呼ばれる武者行列をメインとしたパレードを開催している。。この五代の供養塔が、神奈川県は足柄下郡箱根湯本《アシガラシモグン・ハコネユモト》の金湯山・早雲寺にある。この寺院は天正18(1590)年の小田原仕置で焼失し、小田原北條氏滅亡後は荒廃したが江戸時代初めに幕府によって復興した。供養塔は氏康の四男・氏規《ウジノリ》の子孫が建立したものと伝わる。
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