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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 戦国大名 (page 1 of 3)

柳河藩立花家江戸屋敷跡 − Tachibana’s Edo Residences of the Yanagawa Domain

東京都台東区界隈にあった柳河藩・立花家の江戸藩邸跡には太郎稲荷が建っていた

九州は福岡県南部の筑紫地方南西部に位置する柳川市は、明治の初めの廃藩置県までは12万石の柳河藩[a]ここでは、藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。にあたり、その起藩にあたっては、今から430年以上前の天正15(1587)年に豊臣秀吉が九州平定に功績のあった立花宗茂に下筑後四郡13万2200石を与え、山門郡柳川を城地として定めたところまで遡る。しかし秀吉死後の慶長5(1600)年におこった関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の一人として西軍につき敗戦、徳川家康により改易・牢人となる。そのあとを継いだ田中吉政は石田三成捕縛の功により筑後一国を拝領し同じく柳川を本拠地として領内統治を行った。吉政は掘割と用水路、そして街道[b]田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。を整備し、現代の柳川市の基礎となる近代的な街作りに貢献したと云う。その後、田中家は二代で無嗣断絶のために改易となり、その翌年は元和7(1621)年に奥州棚倉は赤館で大名に復帰していた宗茂が20年ぶりに10万9647石余で柳川の領主に返り咲くと、明治まで柳河藩・立花家12代が治めるに至った。宗茂公はその翌年に二代将軍・秀忠への御礼言上のため江戸へ参府し、併せて江戸藩邸の普請を開始した。この藩邸は上屋敷・中屋敷・下屋敷から成り、それらは現在の東京都台東区千束(せんぞく)から下谷(したや)、そして三筋(みすじ)周辺にあたる。

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a. ここでは、藩名を「柳河」、城や町を「柳川」と記す。柳河藩は廃藩置県で柳川県、そして三瀦(みずま)県を経て福岡県に編入された。
b. 田中街道とも呼ばれた福岡県道R23など。

上田城 − Ueda Castle (TAKE2)

真田氏のあと仙石氏が大改修した上田城の本丸東虎口跡には櫓門が復元された

長野県上田市二の丸6263番地イにあった上田城は、天正11(1583)年に信濃の戦国大名・真田昌幸が千曲川を南に望む河岸段丘上に築いた城である。しかし現在、上田城跡公園の城跡に残る櫓や堀、石垣といった遺構は、江戸時代初期の元和8(1622)年に小諸から移封された仙石忠政[a]父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。が改修した時のものである。関ヶ原前哨戦で昌幸が徳川本隊を足止めした第二次上田合戦後、手塩に掛けて整備した城は徳川の手で徹底的に破却され堀も埋められたままであったが、忠政は城の普請を請い、小諸城のように櫓や石垣を多用し質実剛健な近世城郭として新たに再建した。従って真田氏時代の縄張が一部流用されているものの、城郭そのものは全く別物と云う訳である。また再建中に忠政が死去したため普請は中断となり、未完のまま仙石氏は転封、のちに藤井松平家[b]三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。が入城し、そのまま幕末を迎えた。上田城は明治時代の廃城令で破却され、建物は民間に売却されるなどして、七棟あった櫓は西櫓が残るのみとなった[c]北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。。しかしながら昭和24(1949)年には、上田市民の寄付により北櫓と南櫓の二棟が元の場所に移築復元され、平成6(1994)年には本丸東虎口櫓門と土塀が復元されるに至り、今後も二の丸土塁などの復元が予定されている。

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a. 父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。
b. 三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。
c. 北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。

六連銭と真田家菩提寺 − The Six Coins as Hell Money(TAKE2)

信綱寺は真田信綱が開基し、のちに弟の昌幸が長兄の牌所として改築した

真田源太左衛門尉信綱(さなだ・げんた・さえもんのじょう・のぶつな)は、「六連銭(むつれんせん)」を旗印にして戦国時代から江戸時代に渡って[a]真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。勇名を馳せた信濃国は小県(ちいさがた)郡の国衆の一つで、外様ながらも甲斐武田家中では『譜代衆同意』の立場まで上りつめ[b]牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。、その中興の祖と云われた真田弾正忠幸綱(さなだ・だんじょうのじょう・ゆきつな)[c]一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。の嫡男として天文6(1537)年に真田郷で生まれた。母は重臣・河原隆正(かわはら・たかまさ)の妹で、のちの恭雲院(きょううんいん)殿。兄弟は六つ下に昌輝(まさてる)、さらに四つ下に昌幸と信尹(のぶただ)、その下に信春[d]生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。と清鏡(きよあき)[e]幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。が居た。父子ともに武田信玄と勝頼の二代に仕え、信濃先方衆(しなの・さきがたしゅう)[f]先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。でありながら独立した軍団をも擁していた御先衆(おさきしゅう)の筆頭として、最後は騎馬200騎持ちの侍大将になった。父が海野平合戦に敗れた幼少時は、上野国は箕輪城主・長野業政の下で過ごし、のちに武田家に臣従すると上野攻略や川中島合戦、そして西上作戦にいたる武田家の主要な戦に参陣した。しかし、元亀4(1573)年に信玄が死去、その翌年には父・幸綱が亡くなり、そしてその一年後に信綱も弟の昌輝と共に設楽原合戦で討ち死にした。

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a. 真田家は明治時代以降も華族として名は残るが、松代藩祖の真田信之の血は江戸時代まで。明治以降は伊予宇和島藩主・伊達家から養嗣子を迎えているため。
b. 牢人出身の身分で譜代衆扱いされた国衆は他に、上野の小幡氏と越後の大熊氏がいる。
c. 一般的には「幸隆」の名で知られ、江戸幕府が編纂した家系図にも幸隆と記されているが、壮年期まで幸隆と記された史料は存在しておらず、「幸綱」は出家を契機に幸隆に改名したという説が有力である。隠居後は一徳斎とも。
d. 生誕は不明。のちに金井高勝(かない・たかかつ)を名乗る。
e. 幸綱の庶子とされるが詳細は不明。一説に次男であり、信綱の弟で昌輝の兄にあたるとも。羽黒山の修験者となったと云う説あり。
f. 先方衆とは信玄の本拠地である甲斐以外に領地を認められていた家臣のこと。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle

蒲生氏郷公が縄張した若松城の本丸跡に、現在は赤瓦葺きで五層の天守が建つ

福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名(さがみ・あしな)氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。

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a. 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。
b. さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。
c. まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。
d. 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。
e. 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。
f. 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。

赤館 − Akadate Castle

赤館の主郭にあたる一番平は城内で最も広い郭で、現在は赤館公園になっていた

福島県東白川郡棚倉町にあった赤館[a]「赤楯」とも。また、現代では赤館城と記す場合もあるようだが、本来の「館(だて)」は「やかた」ではなく城を指すものとされているので、本訪問記では「赤館」の表記で統一する。は、往時「館山」と呼ばれた標高375mほどの丘陵に築かれていた山城で、北は阿武隈川、南は久慈川へ至る川を天然の外堀とし、関東と東北の分水嶺(ぶんすいれい)に位置していたことから古来より両文化の交流点であり軍事的要衝の一つであった。築城年については南北朝時代の建武(1334~1338)年間に赤館伊賀次郎が城主であったと云う記録が唯一残っているが、室町時代には白河結城(しらかわ・ゆうき)氏が城主となり、戦国時代に入ると蘆名氏、佐竹氏、そして伊達氏ら強豪のはざまで生き残りを賭けたものの、関白秀吉の奥州仕置で改易となって赤館は佐竹氏による南郷支配の拠点と一つとなった。秀吉亡きあとは慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後に佐竹氏が出羽国へ転封となったため、赤館を含む棚倉は幕府の天領[b]江戸幕府の直轄地の俗称。となった。そして慶長11(1606)年には、同じく関ヶ原の戦で西軍について改易となっていた立花宗茂公が棚倉に1万石を与えられて大名として復帰し、赤館城主となった。そして豊臣家が滅亡したのちの元和6(1620)年に宗茂公は旧領へ復帰、代わって丹羽長重[c]織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男で、長重もまた関ヶ原の戦では西軍について改易されたが、大坂の陣で武功を挙げて大名に復帰した。また、前藩主・立花宗茂と共に徳川秀忠の御相伴衆の一人であった。が入封して棚倉藩主となり、のちに大坂の陣の功で加増されたことで新たに棚倉城を築くと、ここ赤館は廃城となった[d]しかし、粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに長重は白河10万石に転封となったため、築城中だった棚倉城は放置され、その後に入部した内藤信照によって完成したと云う。

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a. 「赤楯」とも。また、現代では赤館城と記す場合もあるようだが、本来の「館(だて)」は「やかた」ではなく城を指すものとされているので、本訪問記では「赤館」の表記で統一する。
b. 江戸幕府の直轄地の俗称。
c. 織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男で、長重もまた関ヶ原の戦では西軍について改易されたが、大坂の陣で武功を挙げて大名に復帰した。また、前藩主・立花宗茂と共に徳川秀忠の御相伴衆の一人であった。
d. しかし、粗壁(あらかべ)が乾かぬうちに長重は白河10万石に転封となったため、築城中だった棚倉城は放置され、その後に入部した内藤信照によって完成したと云う。

立花宗茂 『誠九州之一物ニ候』− Muneshige Tachibana distinguished the Greatest Warrior of Western Japan

「西国無双」と謳われた立花宗茂公所用の月輪文(がちりんもん)の脇立を持つ兜

永禄10(1567)年に豊後国・大友氏の重臣の一人である高橋鎮種(たかはし・しげたね)[a]大友氏の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男・鎮理(しげまさ)で、筑後国・高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称し、号して高橋紹運と改めた。の嫡男として生まれた幼名・千熊丸は、のちに関白秀吉から『誠九州之一物ニ候』[b]立花文書によるもので、現代文だと「九州の逸物」の意味。と激賞され、関ヶ原の戦後に江戸幕府より改易されたものの、のちに大名に復帰し旧領さえも回復した唯一無二の勇将・立花左近将監宗茂である。「宗茂」の名乗りは晩年のもので、元服後は高橋統虎(たかはし・むねとら)、鎮虎、宗虎、親成、尚政、政高、俊正などと度々改名している。また天正9(1581)年、統虎が14歳の時に大友家の重臣の一人で、父・鎮種とともに筑前・筑後国の攻略を任されていた戸次道雪(べっき・どうせつ)に請われ、高橋家の嫡男でありながら戸次家の婿養子となって戸次統虎に、さらに翌年には姓を改めて立花統虎と名乗った。ともに猛将と謳われ、最後まで主家を支え続けた二人の父を持ち、秀吉から筑後国柳川13万石余[c]筑後国の御池・山門両郡すべて、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部を含めた13万2000石。を拝領した上に直臣の大名に取り立てられ、文禄・慶長の役でも活躍し、秀吉没後の関ヶ原の戦では恩義に報いるために西軍について改易、4年近く京と江戸で浪人生活を送り、二代将軍秀忠の目に止まると奥州棚倉1万石で大名に返り咲き、豊臣家が滅びた後は旧領の柳川10万石余を拝領して20年ぶりに柳川藩主に復帰した。

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a. 大友氏の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男・鎮理(しげまさ)で、筑後国・高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称し、号して高橋紹運と改めた。
b. 立花文書によるもので、現代文だと「九州の逸物」の意味。
c. 筑後国の御池・山門両郡すべて、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部を含めた13万2000石。

本佐倉城 − Moto Sakura Castle

半島状台地上に築かれた本佐倉城は三方が湿地帯に囲まれた要害だった

千葉県の印旛郡酒々井(いんばぐん・しすい)町にある本佐倉城[a]別名は将門山城。「将門」は俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。は室町時代後期の文明年間(1469〜1486年)に千葉輔胤(ちば・すけたね)が印旛沼を望む標高約36mほどの将門山上に築いた連郭式平山城で、南西面を除く三方は湿地帯に囲まれた要害の地にあった。この輔胤は、享徳3(1455)年に始まった『応仁の乱の関東版』とも云うべき享徳の乱の最中に起こった下総守護千葉家の内乱を制して宗家を継ぎ、のちには古河公方足利氏や長尾景春[b]伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。と連携して、関東管領山内上杉氏や太田道灌、武蔵千葉氏らにたびたび抗してきた。下総千葉氏二十一代当主となった輔胤は内乱で荒廃した宗家の居城・亥鼻城を廃城とし、ここに築いた本佐倉城を、天正18(1590)年に太閤秀吉の小田原仕置によって後北条氏と共に滅亡するまでの九代、百有余年にわたり宗家の居城とした。千葉家が断絶した後は徳川家康の譜代家臣の内藤家長が入封し、本佐倉城は一旦は破却されたが、慶長15(1610)年に土井利勝が佐倉藩を起藩すると城跡に藩庁が置れた。そして元和元(1615)年には、滅亡前の千葉氏が築城に着手し未完成のままだった鹿島城を整備拡張した佐倉城へ藩庁を移転すると、本佐倉城は一国一城令に従って完全に廃城となった。

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a. 別名は将門山城。「将門」は俵籐太(たわらとうた)こと藤原秀郷が討伐した平将門の怨念伝説からきているとも。
b. 伊藤潤作の『叛鬼(はんき)』(講談社文庫)の主人公である。

新府城 − Shinpu Castle (TAKE2)

新府城の北西隅にある搦手は七里岩の崖と水堀によって守られた喰違虎口があった

山梨県韮崎市中田町に残る新府城は、天正9(1581)年2月に甲斐国主で武田家第20代当主の勝頼により築かれた連郭式平山城で、甲斐武田家滅亡時に打ち捨てられた未完の城郭として現在に伝えられている。往時の新府城は急峻な七里岩(しちりいわ)上に北は佐久往還[a]「往還」とは、とおり道や街道のこと。と信州往還、南は甲府盆地を一望できる交通の要衝に位置していたとされ、普請奉行を任されたのは真田安房守であった[b]真田昌幸が信州先方衆の出浦(いでうら)氏に宛てた書状から天正9年2月15日に築城が始められたと記されているとか。。そして築城の最中の同年3月には遠江の高天神城が徳川家康により落城し、その二ヶ月後に勝頼は同じく普請奉行だった原隼人佑に作業を急がせるよう催促するとともに、岩尾衆へ人足の増員を指示した。急ピッチで進められた作業は開始から七ヶ月後の同年9月には「一応の」完成をみたと古文書には記載されており、勝頼が古府中の躑躅ヶ崎館から新府城へ館を移すのは暮れの12月24日であった。そして入城まもなく天正10(1582)年、戦況は悪化の一途をたどり、織田方に寝返った木曾義昌に対し勝頼は同年2月に上原城に陣を進めるが、松尾城・飯田城・大島城などが次々と陥落し、翌3月には弟の仁科盛信が守備する高遠城が落城するにいたり、新府城へ後退した翌日には在城68日の城に火をかけて退去、甲斐武田家は田野で最後の時を迎えた。

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a. 「往還」とは、とおり道や街道のこと。
b. 真田昌幸が信州先方衆の出浦(いでうら)氏に宛てた書状から天正9年2月15日に築城が始められたと記されているとか。

肥後細川家菩提寺と大徳寺 − Hosokawa Clan from Sengoku era until Edo Period

肥後細川家の菩提寺である高桐院の参道は大判の切石が敷かれ両脇に赤松の列植が続く

肥後細川藩初代藩主の細川忠興(号して三斎)は、源氏足利系の支流である細川氏を祖とする細川兵部大輔藤孝(号して幽斎)を父とした戦国武将であり、江戸時代初期の大名であり、父譲りの知識人であり、そして利休七哲(りきゅう・しちてつ)の一人に数えられる茶人で茶道三斎流を開祖した名手であった。父の藤孝は明智光秀とともに、美濃の織田上総守(かずさのかみ)信長を頼って室町幕府第15代将軍義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。を擁立するも、のちに義秋と信長が対立すると信長に臣従した。この時に細川姓から長岡[b]由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。姓に改名し、藤孝は丹後11万石を拝領した。忠興の初陣は天正5(1577)年の紀伊雑賀攻めの際に大和片岡城で、弟の興元ともに一番槍の武功を挙げ信長から直々に感状を拝領した。「忠興」の名は、元服後に信長の嫡男・信忠の偏諱を享けたものである。のちに信長の命により、明智日向守光秀の三女で当時美人の誉高い玉(洗礼してガラシャ)を妻として迎えた。そういうこともあり、忠興はかなりの「信長信望者」の一人であったため、天正10(1582)年の本䏻寺の変後は岳父の光秀より味方に誘われたものの父子で拒否し、妻の玉とは離縁して幽閉し、自身は光秀の娘婿でありながら明智勢に与すること無く、剃髪して織田家や羽柴秀吉に臣従を誓った。

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a. 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。
b. 由来は山城国長岡と云う地名からきている。長岡は現在の京都府長岡京市長岡あたりで、当時は新しく領主となった支配者がその地域の地名を名乗ることが慣例だった。この改名は足利将軍による室町幕府支配から離脱し、織田信長による支配への帰属を意味している。

本䏻寺の変ゆかりの地と織田信長公墓所 − We have no other way at Honnō-ji Temple

信長公と共に炎上焼失した本䏻寺跡には、現在は石碑が建つのみである

天正10(1582)年6月2日の早暁、水色桔梗の旗にとり囲まれた信長公の宿所である本䏻寺[a]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。。明智日向守光秀の軍勢およそ1万3千が押し寄せた当初、信長もお小姓衆も下々の者らが喧嘩をしているものと思ったそうだが然に非ず、明智勢が鬨の声を上げて本䏻寺の御殿に鉄砲を撃ち込んできた。寝所に居た信長は小姓の森蘭丸に「さては謀叛だな。誰の仕業か。」と問いただすと、蘭丸が「明智日向守の軍勢と見受けします。」と応えた。信長は「是非に及ばず」(We have no other way…)と一言。明智勢は間断なく御殿へ討ち入ってくる。表の御堂に詰めていた御番衆も御殿へ合流し一団となって防戦した。信長は初めは弓をとり、二、三回取り替えて弓矢で応戦したが、どの弓も時が経つと弦(つる)が切れてしまったので、その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受け殿舎に退いた。既に殿舎は火をかけられて近くまで燃え広がっていたため、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、殿舎の奥深くへ入り、内側から納戸を閉めて無念にも自刃した。同じ頃、嫡子信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとするが京都所司代・村井貞勝父子に止められ、隣接する二条新御所[b]これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。のちに皇室に献上した。に立て籠もるが、明智勢は京都御所付近から矢や鉄砲を打ち掛け、信忠も抗戦叶わず自刃した。

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a. 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。
b. これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。のちに皇室に献上した。
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