Mikeforce::Castles

城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 天守不明 (1 / 2 ページ)

三枚橋城/沼津城 − Sanmaibashi AKA Numazu Castle

三枚橋城跡に築かれた沼津城の本丸跡は中央公園になっていた

永禄3(1560)年に『海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、「弓取り」とは国持大名を表すことから、東海道沿いに拠点を持つ戦国大名を指す。』の異名を持つ駿河国の戦国大名・今川義元が尾張国の田楽狭間(でんがくはざま)で斃れると、それから8年後には『越後の龍』こと上杉謙信によって北進を阻まれた『甲斐の虎』武田信玄が、それまでの甲相駿三国同盟を一方的に破棄し、のちに義元の異名を継承することになる三河国の徳川家康と共に駿河国へ侵攻した。三国同盟のもう一人の立役者である『相模の虎』こと北條氏康が謙信と対峙していた間隙をぬっての電撃的な侵略であった。さらに持ち前の軍略で氏康・氏政父子を翻弄した信玄は永禄13(1570)年、ついに駿河国を支配下に置いた。しかし3年後の元亀4(1573)年に信玄が病に斃れ、さらにその5年後の天正6(1578)年に謙信が急死すると関東周辺は風雲急を告げる。特に謙信の後継者問題は、それまで同盟関係を復活させていた武田と北條との間に修復できない溝を作ることになった[b]氏康の七男でのちに越相同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎は、上杉景勝と跡目争い(御館の乱)を起こし、この時に武田は甲越同盟と引き換えに景勝を支援、妹の菊姫を娶らせた。これらにより景虎は一転して劣勢となり、最後は自刃した。。同盟を破棄した氏政[c]正室は信玄の長女でのちの黄梅院(こうばいいん)殿。氏政は愛妻家で知られ二人の仲は睦まじかったが、信玄の駿河侵攻により離縁させられ甲斐国へ送り返された。は駿河国最前線の戸倉城や伊豆長浜城を強化した。一方、設楽原の惨敗から巻き返しを図る四郎勝頼は戸倉城の目と鼻の先に三枚橋城を築城して対北條の抑えとし、攻勢を強める徳川に抗するために西へ向かった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 「海道」は東海道を表し、「弓取り」とは国持大名を表すことから、東海道沿いに拠点を持つ戦国大名を指す。
b. 氏康の七男でのちに越相同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎は、上杉景勝と跡目争い(御館の乱)を起こし、この時に武田は甲越同盟と引き換えに景勝を支援、妹の菊姫を娶らせた。これらにより景虎は一転して劣勢となり、最後は自刃した。
c. 正室は信玄の長女でのちの黄梅院(こうばいいん)殿。氏政は愛妻家で知られ二人の仲は睦まじかったが、信玄の駿河侵攻により離縁させられ甲斐国へ送り返された。

興国寺城 − Koukokuji Castle

早雲旗揚げの城とされる興国寺城本丸北側の高土塁は江戸時代以降のものである

静岡県沼津市根古屋248にある興国寺城跡には、室町時代後期に駿河国の守護・今川義忠(いまがわ・よしただ)の食客であった伊勢新九郎盛時(いせ・しんくろう・もりとき)がこの時の今川家内紛を収めた[a]新九郎の姉(あるいは妹と云う説あり)が義忠の側室で北川殿と呼ばれ、今川義元の父である今川氏親を産んで家督争いに巻き込まれていた。功により、長享元(1487)年に幕府より伊豆国は富士下方十二郷を下賜されて入城したと云う記録が残る[b]但し、江戸時代に書かれた『今川記』や『北條五代記』であることから信憑性には疑問が投げられている。。この新九郎こそが、のちの伊勢宗瑞(いせ・そうずい)または早雲庵宗瑞(そううんあん・そうずい)、あるいは小田原北條[c]これは旧字体。現代使う新字体だと「北条」であるが、本稿では旧字体で統一する。5代の祖で、日ノ本初の戦国大名と云われるようになった北條早雲である。早雲の旗揚げの城ともいえる興国寺城は、愛鷹山(あしたかやま)の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根の上に築かれ、山の根を通る根方道(ねがたみち)[d]現在の県道R22三島富士線で、根方街道とも。と浮島沼を縦断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点に当たり、往時は伊豆国と甲斐国とを結ぶ交通の要衝でもあった。そのため戦国期は駿河今川氏・甲斐武田氏・小田原北條氏による争奪戦の渦中にあったと云う。武田氏が滅びると、三河徳川氏が小田原北條氏の滅亡まで治めたのちに豊臣氏を経て、再び徳川氏が興国寺藩を立藩するも城主・天野康景(あまの・やすかげ)が出奔すると改易の上に廃城となった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 新九郎の姉(あるいは妹と云う説あり)が義忠の側室で北川殿と呼ばれ、今川義元の父である今川氏親を産んで家督争いに巻き込まれていた。
b. 但し、江戸時代に書かれた『今川記』や『北條五代記』であることから信憑性には疑問が投げられている。
c. これは旧字体。現代使う新字体だと「北条」であるが、本稿では旧字体で統一する。
d. 現在の県道R22三島富士線で、根方街道とも。

上田城 − Ueda Castle (TAKE2)

真田氏のあと仙石氏が大改修した上田城の本丸東虎口跡には櫓門が復元された

長野県上田市二の丸6263番地イにあった上田城は、天正11(1583)年に信濃の戦国大名・真田昌幸が千曲川を南に望む河岸段丘上に築いた城である。しかし現在、上田城跡公園の城跡に残る櫓や堀、石垣といった遺構は、江戸時代初期の元和8(1622)年に小諸から移封された仙石忠政[a]父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。が改修した時のものである。関ヶ原前哨戦で昌幸が徳川本隊を足止めした第二次上田合戦後、手塩に掛けて整備した城は徳川の手で徹底的に破却され堀も埋められたままであったが、忠政は幕府に城の普請を請い、小諸城のように櫓や石垣を多用し質実剛健な近世城郭として新たに再建しようとした。従って現在の城跡は真田氏時代の縄張が一部流用されているものの、城郭そのものは全く別物である。また再建中に忠政が死去したため普請は中断となり、未完のまま仙石氏は転封、のちに藤井松平家[b]三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。が入城し、そのまま幕末を迎えた。上田城は明治時代の廃城令で破却され、建物は民間に売却されるなどして、七棟あった櫓は西櫓が残るのみとなった[c]北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。。しかしながら昭和24(1949)年には、上田市民の寄付により北櫓と南櫓の二棟が元の場所に移築復元され、平成6(1994)年には本丸東虎口櫓門と土塀が復元されるに至り、今後も二の丸土塁などの復元が予定されている。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 父は秀吉・家康に仕えた仙石権兵衛秀久。忠政は三男。
b. 三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を領した松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。
c. 北櫓と南櫓は遊郭に払い下げられてお座敷として利用されていたとか。

大多喜城 − Ōtaki Castle

江戸時代に焼失した大多喜城の天守は昭和の時代に古絵図を元にして再建された模擬天守である

千葉県夷隅郡大多喜町にある大多喜城は、夷隅川(いすみがわ)[a]江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。を天然の外堀とし、その蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に築かれ、郭を西側の山塊が東へ延びた突端に並べていた連郭式平山城である。この城は大永元(1521)年に真里谷(まりやつ)武田信清[b]真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。が築城したと云われ、往時は「小田喜(おたき)」城と呼ばれていた。戦国期は天文13(1544)年に、安房国の里見義堯(さとみ・よしたか)が配下で「槍大膳」の異名を持つ正木時茂[c]小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。によって攻め落とされ、四代にわたって[d]正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。上総正木宗家の居城となった。その後は天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置で、徳川家康が三河国から関八州に国替させられた際に重臣で徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝に上総国10万石[e]最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。を与えて里見氏の抑えとした。小田喜城に入城した忠勝は大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸に縄張し直した上に、西は尾根を断ち切る空堀、南は夷隅川に落ち込む急崖、北と東は水堀を配し、さらに城下町を建設するなどして要害堅固な「大多喜城」が完成した。慶長14(1609)年に台風で遭難し保護されたスペイン人のドン・ロドリゴが大多喜城を訪れた際[f]この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。、彼の著書『日本見聞録』にその大きく豪華な城の造りに驚いたと書き残している。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。
b. 真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。
c. 小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。
d. 正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。
e. 最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。
f. この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。

唐澤山城 − Karasawayama Castle

唐澤山城の本丸南側にある高石垣は藤原秀郷の子孫・佐野氏が拡張した時の姿を現在に残していた

栃木県佐野市富士町にある唐澤山城[a]現代は「唐沢山城」と綴るが、ここでは固有名である城名は『唐澤山城』、その他の地名などは当用漢字の「唐沢山」とした。は県南部の唐沢山一帯に複数の曲輪を配し、標高242mの山頂に本丸を持つ連郭式山城で、周囲を急崖と深い谷に囲まれた天然の要塞をなし、山麓に広がる根小屋(ねごや)地区との比高差は約180mにも及ぶと云う。その城域からの眺望は関東八州を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山や秩父、南アルプス、秀峰富士、そして東に筑波山を眺めることができたと云う。築城は田原藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)公により、今から一千年以上前の平安時代中期は延長年間(923〜931年)とされている。公は下野国(しもつけのくに)の在庁官人である押領使(おうりょうし)[b]現代で云う軍人または警察官職のこと。の役に任ぜられ、父祖伝来の此の地に城を築いて善政を施したと云う。公が征東大将軍に任じられ平将門追討で功をなした後はその末裔が代々城主となり、戦国時代には後裔氏族[c]藤原秀郷の子孫は中央(京都)には進出しなかったため、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。の一つである下野佐野氏の居城として中世山城の城郭に整えられたとされる。そして佐野氏第15代当主・昌綱(まさつな)は小田原の北条氏康と越後の長尾景虎の二大勢力のはざまにあった中で長尾氏につくと、永禄3(1560)年に唐澤山城は北条氏政率いる35千人の大軍に包囲された。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 現代は「唐沢山城」と綴るが、ここでは固有名である城名は『唐澤山城』、その他の地名などは当用漢字の「唐沢山」とした。
b. 現代で云う軍人または警察官職のこと。
c. 藤原秀郷の子孫は中央(京都)には進出しなかったため、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。

横須賀城 − Yokosuka Castle

城内に船着場を持つ横須賀城本丸南下は大井川の河原石を用いた玉石垣造りだった

今から400年以上も前の天正3(1575)年、織田信長・徳川家康らの連合軍38千は三河国の設楽原付近[a]現在の愛知県新庄市長篠にあたる。で武田勝頼が率いる騎馬軍15千と決戦を行い(長篠設楽原の戦)、これに勝利した。これを機に、家康はその前年に無念にも甲斐武田の手に陥ちた高天神城の奪還に向けて準備を開始した。しかしながら長篠の戦で惨敗し多くの重臣・将兵を失った勝頼ではあったが、その強力な甲州騎馬軍団は依然として侮りがたく、家康だけで[b]おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。一気に力攻めするようなことはせずに、足掛け二年もの時間をかけて[c]この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。、まずは高天神城の周囲にある武田方の城や砦を一つづつ取り戻し、その上で周囲に六つもの附城を築き、高天神城への人的・物的補給路を完全に遮断して兵糧攻めによる攻城戦を選択した。その附城の一つとして家康の命を受けた大須賀康高が、馬伏塚(まむしづか)砦に続いて天正6(1578)年から築いた横須賀城は、現在の静岡県掛川市大渕にある。この城は、高天神城からおよそ6㎞という距離にあり、城の南側が遠州灘の入江となっているため船着場を持ち、さらに西と東にそれぞれ大手門を持つ両頭城で、高天神城攻めの軍事拠点として、そしてその周囲にある各砦の兵站拠点として活用されることになった。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 現在の愛知県新庄市長篠にあたる。
b. おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。
c. この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。

甲府城 − Kōfu Castle

徳川幕府直轄地だった甲府城は、廃城後に山梨県指定史跡として鉄門などが復元されていた

甲斐国の戦国大名であった武田氏が天正10(1582)年に滅亡した後は、織田信長・徳川家康による支配を経て、天下統一を果たした豊臣秀吉が天正18(1590)年に甥の羽柴秀勝と、尾張時代からの直臣である加藤光泰に命じて甲府城の築城を開始させた。そして、文禄2(1593)年に朝鮮へ出兵していた加藤光泰が病没[a]大洲藩祖でもある加藤光泰は、『北藤録』に拠ると文禄の役で軍監であった石田三成と対立したがために毒殺されたというが、この北藤録は三成死後およそ160年後に編纂されたものであり、にわかには信じがたい内容である。おそらく改易に対してぶつけようがない腹いせから三成を貶める内容になったのであろう。すると、浅野長政・幸長父子が入国して完成させた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦後は、再び徳川家康が甲斐国を支配し、以降は徳川将軍家の子弟が城主となった。そして宝永元(1704)年に城主徳川綱豊(のちの六代将軍家宣)が五代将軍綱吉の養子になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が城代となって治めた。この柳沢氏は、甲斐武田家一門である一条氏の末裔であり、本家滅亡後は武田家遺臣の多くがそうだったように、徳川氏の家臣団に与していった一族でもある。それから、享保9(1724)年に大和郡山へ移封されるまでの約20年間は柳沢氏が甲斐国を治め、城下町が再整備されて大いに発展した。その後は幕府直轄地となって明治の時代を迎えて廃城となり、建物は全て取り壊されたものの、明治37(1904)年には山梨県甲府市の舞鶴公園(のちに舞鶴城公園)として市民に開放された。

続きを読む

参照   [ + ]

a. 大洲藩祖でもある加藤光泰は、『北藤録』に拠ると文禄の役で軍監であった石田三成と対立したがために毒殺されたというが、この北藤録は三成死後およそ160年後に編纂されたものであり、にわかには信じがたい内容である。おそらく改易に対してぶつけようがない腹いせから三成を貶める内容になったのであろう。

松代城/海津城 − Matsushiro AKA Kaidzu Castle

武田信玄が北信濃の拠点として築いた海津城は、のちに真田氏が入封し松代城と改称された

長野県長野市にある松代城は、永禄3(1560)年頃に甲斐の武田信玄が北信濃支配と越後の上杉家に対する軍事拠点として山本勘助に命じて築いた海津城が始まりと云われている。翌4(1561)年に上杉謙信が川中島へ侵攻すると、当時城代であった春日虎綱(高坂弾正昌信)は信玄ら本隊の到着を待ち、甲越両軍が八幡原で激突した(第四次川中島合戦)。そして、天正9(1582)年に武田氏が滅亡した後は織田家の森長可(もりながよし)が、そして同年の信長横死の後は上杉景勝が配下の須田満親(すだみつちか)がそれぞれ城代となり、慶長3(1598)年に上杉家が會津に転封されると豊臣秀吉の直轄地となった(城代は田丸直昌)。そして慶長5(1600)年には森忠政が城主となるが関ヶ原の戦での功績により美作(みまさか)の津山城に移封されると、慶長8(1602)年に徳川家康の六男・松平忠輝が城主となった。家康ら幕府から疎んじられていた忠輝が改易された後は、松平忠昌、酒井忠勝を経て、元和8(1622)年に上田城から真田信之が10万石で入封し松代藩を藩立した。そして三代藩主の幸道の時代に松代城と改称し、以後約250年間、明治時代の廃藩置県まで真田家の居城となった。

続きを読む

上田城 − Ueda Castle

信州真田氏の居城として有名な上田城の現在の遺構は仙石氏の時代のもの

上田城は、天正11(1583)年に真田昌幸によって上田盆地の千曲川近くにあった天然の要害「尼ヶ淵(あまがふち)」と河岸段丘を利用して築かれた平城である。北信濃の一国衆であった真田の名を一躍全国レベルに知らしめた二度に渡る上田合戦の舞台でもある。天正10(1582)年4月に武田家が滅亡した後、真田家は関東管領となった滝川一益の麾下に入り、沼田城岩櫃城が接収されていたが、同年6月の本䏻寺の変で一益が厩橋(まやばし)城を退去すると、信濃国を巡って勃発した越後上杉、小田原北条、三河徳川らによる争奪戦(天正壬午の乱)の「どさくさ」を利用して築城した。しかしながら、真田と徳川の間でくすぶりつづけていた沼田の譲渡問題が表面化すると、昌幸は「父祖伝来の土地であり徳川にとやかく言われる所存ではない」と頑として跳ねつけたことが遠因で上田合戦が始まる。第一次上田合戦時は次男・信繁を上杉家に人質として出すことで援軍を求めることができ、持っていた智謀と天然の要害を利用して、詰城である砥石城の信幸を囮にし城下町でゲリラ戦を行って徳川軍を敗走させた。そして第二次上田合戦時は、関ヶ原戦の緒戦で秀忠ら徳川本軍をきりきり舞いにし、天下分け目の大一番に遅参させることに成功した。こういうことで徳川軍を二度も蹴散らした堅城であったため、昌幸らが九度山に配流された後は、「恨み辛みをこの上田城にぶつけて」 徹底的に破却されてしまった。そのため、現存している西櫓も関ヶ原の後の上田藩仙石氏によるもの。この堅城、現在は長野県上田市で上田城跡公園として市民に開放され、花見の季節には大賑わいをみせている。

続きを読む

小諸城 – Komoro Castle

重要文化財である小諸城の大手門は実戦的で、華美な装飾を省いた質実剛健な城門である

長野県小諸市にある小諸城は、平安時代末期に平家物語や源平盛衰記に登場する源氏・木曽義仲の配下の小室太郎光兼が館を構えたのが始まりで、のちに土豪・大井氏が小室氏の勢力を抑えて、その付近に鍋蓋城と支城を築いた。戦国時代になると、甲斐の武田信玄により鍋蓋城は落城し、その跡地に山本勘介と馬場信房に縄張させ築城したのが小諸城(別名:酔月城)である。武田氏が滅亡して織田信長の家臣・滝川一益が関東管領として信濃を支配するも、信長が横死した後は、相模北条、三河徳川、信州真田、越後上杉らの争奪戦が勃発、そして豊臣秀吉による小田原の役を経て、仙石権兵衛秀久が小諸五万石の大名として入国した。秀久は本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を建てたと云う。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では中山道を進んだ徳川秀忠ら徳川軍の主力が入城し、西にある上田城の真田氏を牽制するも、真田昌幸の計略に翻弄され敗退、天下分け目の戦に遅参するという失態をおかした。その後、引き続き江戸時代初期も仙石秀久・忠政父子の二代が小諸を治め、大手門や石垣などの城郭と城下町・街道の整備を行った。それから仙石氏が上田藩へ移封されるまでの32年の間に、現在の小諸の街の原型が築かれたと云う。その後は徳川氏、松平氏、牧野氏らが藩主を勤め、明治時代の廃藩置県で役割を終えた小諸城本丸では「懐古神社」を祀り、三の門より城内は「懐古園」として市民に開放された。

続きを読む

« もっと古い投稿

© 2019 Mikeforce::Castles

テーマの提供は Anders Noren先頭へ ↑