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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 復興天守

天守がかつて存在したことは確かで、元の場所に再建された天守のうち、史料不足により規模や意匠に推定の部分があるもの

小田原城 − Odawara Castle

徳川時代の小田原城は複合式層塔型三層四階の復興天守

神奈川県小田原市にある小田原城は、その昔、室町時代に西相模国一帯を支配していた大森氏が現在の県立小田原高校付近にある八幡山という高台に築いた山城が前身と云われている。そして有名な伊勢新九郎こと北条早雲が支配地の伊豆国から相模国へ勢力を拡大した際に小田原城を奪取し、以後、後北条氏が五代約100年にわたって居城とし、関東支配の中心拠点として整備拡張が繰り返され、武田信玄や上杉謙信といった名だたる名将が率いる大軍をも寄せ付けず、難攻不落の城と謳われた。特に関白秀吉による小田原仕置に備えて造られた、城下を囲む総延長9kmにも及ぶ総構(そうがまえ)は全国でも例のない規模の大改修であった。しかしながら小田原の役により後北条氏は滅亡し、徳川家康による関東支配が始まると、大久保氏が入城して近世城郭の姿に改修され、その後に入城した稲葉氏の時代にも再整備があり、城郭の規模が小さくなって、現在ある縄張程度になったと云う。その後、大久保氏が再び城主となり、明治時代まで続いたが廃城となり、城内の多くの建物が解体されたものの、のちに神奈川県庁の所在地に指定され、御用邸が建てられた。それから大正12(1923)年9月の関東大震災では、そこで建てられた御用邸の他に石垣もほぼ全壊し、徳川時代の遺構が失われてしまった。昭和35(1960)年になって、廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣がコンクリート製で復興され、続いて常盤木門(ときわぎもん)、銅門(あかがねもん)、馬出門などが復元された。

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岸和田城 − Kishiwada Castle

復興された岸和田城の天守閣は三層三階だが、本来は五層であった

大阪府岸和田市にある岸和田城はいつ、誰によって建てられたのか子細を記す古文書などは存在しておらず、伝承として建武新政期に軍神・楠木正成の一族、和田高家が岸という土地に拠点を構えたのがその始めと云われ、そこから「岸和田」と呼ばれるようになったとか。時代が中世に入ると三好義賢が改修し、織田信長が畿内を掌握した後は石山合戦の支城として、家臣の津田信張と蜂屋頼隆が在城した。豊臣秀吉の時代に入ると家臣の中村一氏を入城させて、紀州の根来寺や雑賀衆への抑えとした。一氏は紀州勢の大軍を相手に城を守りぬき、天正13(1585)年、秀吉は岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちし、泉州(せんしゅう)地域から根来寺勢を一掃した。それから秀吉は叔父の小出秀政を城主とし、城下町と城郭の整備に当たらせた。この時に、岸和田城の天守閣が建てられたと云う。豊臣家が滅亡すると、松平(松井)康重・康映を経て、寛永17(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めた。江戸時代の岸和田城は、大坂の南の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たした。この時の天守閣は五層で、他の城と同様に、天守閣の壁に立派な腰板が張られている姿が城郭普請絵図に描かれている。天守台の大きさを当時の岡山城(池田氏31万5200石)のそれと比較して換算すると、三十万石クラスの規模であったと云う。しかしながら、文政10(1827)年に落雷によって天守閣が焼失し、明治維新の動乱で櫓や門が破壊され、以後永らく再建されることはなかったが、昭和29(1954)年に鉄筋コンクリート製で三層の天守閣が復興され、昭和44(1969)年には城壁と隅櫓が再建された。

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大坂城 − Osaka Castle

大坂城の復興天守は五層八階で、徳川期と豊臣期が混ざっていた

明応5(1496)年、本願寺八世蓮如上人が四天王寺の西にある石山という小さい丘に石山御坊という一向宗の道場を開いた。この石山という地名は、はるか昔に聖徳太子が四天王寺を築くにあたって地ならしした時に出た石を集めて埋めたことが由来であるとか。そして大坂という地名は、この蓮如上人が「摂州生玉荘内大坂という在所」と書き残しているのが史料上に現れる初例だという。その後、この石山御坊は石山本願寺に昇格し、本願寺第十一世顕如光佐の時代には第六天魔王・織田信長との抗争の舞台となる。顕如が正親町(おおぎまち)天皇からの講和の勅旨(ちょくし)を受け入れて、11年間にわたる抗争に終止符を打ち、石山本願寺を退去したその跡地に、豊臣秀吉が天正11(1585)年から築城を開始し、天下人に相応しい大城郭を築きあげたのが大坂城の始まり。それからは絢爛豪華な安土桃山文化に浸り、幾度かの戦火にもまれて、ついには落城した。その後は徳川家による泰平の時代に全面再築され、幕府直轄地として西国支配の拠点になるものの、明治維新の動乱、さらには太平洋戦争の空襲などで多くの建造物を焼失した。なお、徳川家によって再築された天守閣は、江戸初期の寛永6(1629)年に落雷により焼失し、それ以来、実に300年近くも再建されることはなかった。そして戦後の昭和6(1931)年に、現在ある鉄筋コンクリート製の天守が竣工した。このような複雑な事情を持ち、今や「天守閣」の代名詞ともなっている大坂城は大阪府大阪市中央区の大阪城公園として整備されている。

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島原城 − Shimabara Castle

南東側から見た島原城の天守閣と巽櫓、そして屏風折れ高石垣
長崎県島原市にある島原城が建つ地はかっては森岳(または四壁山)と呼ばれ、肥前国大名の有馬晴信が本陣を構えて龍造寺隆信の軍を撃破した場所である。元和12(1616)年には、大和国の五条(奈良県)から入封した松倉重政が、ここに島原城を築いた。重政は、筒井家家老で島左近と共に松倉右近と呼ばれた松倉右近太夫重信の嫡男である。着工から4ないし7年の歳月を経て完成した。築城と同時に城下町の整備も行い、それまでの居所であった日之江・原城を廃城とした。島原城は、南北に本丸と二の丸と三の丸が並ぶ典型的な連格式平城で、外郭は周囲約4kmの塀を長方形に巡らし矢狭間を設け、7個の城門、33個の平櫓を配置した。内郭は堀で囲まれた本丸と二の丸を配置し、その北には藩主の居館である三の丸が設けられた。また、本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込め式で五層の天守閣をはじめ、隅櫓として3箇所に三層櫓がそびえ立つという四万石の新興大名にしては過分にして、豪壮堅固な城構えだった。築城時の過酷な夫役(ぶやく)と重税、そして前代の有馬氏は切支丹大名で布教活動も盛んだったのに対し、時代が禁教令へと変わったことも加えて、松倉氏の厳しい切支丹弾圧の結果、重政の嫡男勝家の時代、寛永14(1637)年に島原の乱が起こったことでも有名である。

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福山城 − Fukuyama Castle

福山城の五層六階層塔型の天守

もう一ヶ月以上前になるけれど、昨年の岩国城と広島城に続き、福山城を攻略してみた。

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