城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 木造復元天守

火事・天災・破却・戦災で消失した天守を、当時の図面・文書記録・遺構などに基づき、当時使われていた材料(木材の種類)・構法・工法によって忠実に復元したもの

新發田城 − Shibata Castle

新發田城跡の本丸北西隅には天守の機能を持つ三階櫓が復元されている

新潟県新発田市大手町6丁目にある新發田城 [a]これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。跡(新発田城址公園)は、慶長3(1598)年に太閤秀吉の命で加賀国は江沼郡《エヌマグン》・大聖寺城《ダイショウジ・ジョウ》から越後国は蒲原郡《カンバラグン》・新發田6万石へ入封した丹羽長秀[b]第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。の与力の一人、溝口秀勝《ミゾグチ・ヒデカツ》が、かっての国主・上杉景勝に謀反して滅んだ新發田氏の館跡[c]城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。に築城を開始し、それから56年後の承応3(1654)年、三代当主・宣直《ノブナオ》の代に完成した近世城郭であった。往時は加治川《カジガワ》と沼地を利用した城域で、本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南側に突き出た輪郭・梯郭併用型の平城であった。縄張は、新發田藩初代藩主となった秀勝の家臣で軍学者の長井清左衛門《ナガイ・セイザエモン》[d]清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。と葛西外記《カサイ・ゲキ》が担当した。寛文8(1668)年に火災で多くの建物を焼失したがのちに再建され、明治時代の廃藩置県で廃城となった。平成16(2004)年には三階櫓および辰巳櫓が古写真をもとに木造で復元された。

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a これは旧字体を含む表記で、読みは「シバタ・ジョウ」。本稿では城名と藩名を可能な限り旧字体を含む表記とし、現代の地名や施設名は新字体を含む「新発田」と記す。
b 第六天魔王・織田信長の重臣の一人で、本䏻寺の変ののちは秀吉の麾下となり、越前国および加賀国の一部を与えられた大名。
c 城が完成した江戸時代には古丸《フルマル》と呼ばれていた。
d 清左衛門が寝食も忘れて縄張造りをしている時、どこからともなく一匹の狐が現れ、雪の上に尾っぽを引きながら縄張のヒントを教えてくれたと云う。のちに清左衛門は感謝の気持ちを込めて城下町に稲荷神社を建てて祀ったと云う伝説があるらしい。これが別称『狐尾曳ノ城《キツネオビキノシロ》』と呼ばれた所以だとか。

白石城 − Shiroishi Castle

白石城本丸跡に復元された天守はかって幕府をばばかり「大櫓」と呼んでいた

西に急峻な地形を呈す奥羽山脈と南の比較的なだらかな阿武隈高地によって挟まれ、阿武隈川の支流である白石川が形成した白石盆地の独立丘陵上に築かれていた白石城[a]読みは《シロイシ・ジョウ》。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。は、初め藤原秀郷《フジワラ・ノ・ヒデサト》[b]平安時代中期の武士。田原藤太《タワラノトウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。の末裔・藤原経清《フジワラ・ノ・ツネキヨ》の次男・刈田常元《カッタ・ツネモト》が寛治5(1091)年頃に築いたとされる。刈田氏はのちの白石氏で、南隣の伊達氏から養子を迎えて戦国時代には伊達政宗の傘下に入る。しかし白石城を含む陸奥国刈田郡は天正19(1591)年の奥州仕置で没収され蒲生飛騨守氏郷に与えられると、家老の蒲生源左衛門郷成《ガモウ・ゲンザエモン・サトナリ》を城代とし城下町を整備して本丸を石垣で囲うなどの改修を施した。この後に會津転封となった上杉権中納言景勝は城代として甘糟備後守景継《アマカス・ビンゴノカミ・カゲツグ》を置くが、豊臣秀吉に取り上げられた旧領の回復を目論む政宗は秀吉死後に、慶長5(1600)年の徳川内府による會津上杉征伐に呼応して白石城を急襲し開城させた。その後、片倉小十郎景綱が城主となって改修した近世城郭の白石城跡が現在、宮城県白石市益岡町1-16の益岡公園で復元・整備されている。

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a 読みは《シロイシ・ジョウ》。別名は「益岡城」とも「舛岡城」とも。蒲生氏郷が「白石」から「益岡」に変名したが、のちに上杉景勝が「白石」に戻した。
b 平安時代中期の武士。田原藤太《タワラノトウタ》とも。近江三上山の百足退治の伝説が有名。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となる。

白河小峰城 − Shirakawa Komine Castle

白河小峰城の本丸跡には天守の代用として「御三階」と呼ばれた三重櫓が復元されていた

鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝《ユウキ・チカトモ》が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川《ヤツダガワ》に挟まれた小峰ヶ岡《コミネガオカ》と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重《ニワ・ナガシゲ》が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した白河小峰城は高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、天守級の三重櫓が建つ城郭となり、のちの會津戦争では激しい攻防戦が繰り広げられた。その落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。

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a 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。
b 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。

掛川城 − Kakegawa Castle

江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕《アサヒナ・ヤスヒロ》によって遠江国佐野郡にある子角山《ネズミヤマ》丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能《ヤスヨシ》は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山《チュウトウザン》に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼《ジュケイニ》が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝《アサヒナ・ヤストモ》は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北條氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊《ヤマウチ・カツトヨ》が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

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a 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。

大洲城 − Ōzu Castle

清流肱川の畔に築かれた大洲城の天守は木造復元の複合連結式層塔型四層四階

愛媛県大洲市にある大洲城は肱川《ヒジカワ》の畔にある地蔵ヶ岳と呼ばれた小さな丘を中心に築かれている。時代を遡ること元弘元(1331)年、その丘に宇都宮豊房が築いた居城が大洲城の始まりと言われており、さらに近代城郭として整備されたのは、天正13(1585)年に羽柴秀吉の四国平定後に道後湯築城を本拠とした小早川隆景の枝城になってからだと云う。これは、天正13(1585)年に入城した戸田勝隆、文禄4(1595)年に大洲城を居城とした藤堂高虎、そして慶長14(1609)年に淡路洲本から入城した脇坂安治の時代であり、慶長の時代には天守も築かれたという。そして、元和3(1617)年には米子から入城した加藤貞泰により大洲藩が藩立し、明治時代の廃藩置県まで続いた。加藤氏の時代には天災により大破した三の丸南隅櫓や苧綿櫓《オワタヤグラ》、台所櫓、高欄櫓《コウランヤグラ》などが再建され、これらは昭和32(1957)年に国の重要文化財の指定を受けた現存建築物である。天守は明治時代に取り壊されたが、大洲市の市制50周年を迎えた平成16(2004)年には四層四階の天守として木造で復元された。大洲城は明治期の古写真や雛形、発掘史料が豊富であったため、往時の姿をほぼ忠実に復元できたと云う。また、一般的に建築基準法では、この規模の木造建造物は認められないが、保存建築物として適用除外の認可がおりたという。

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