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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 現存12天守

松本城/深志城 − Matsumoto AKA Fukashi Castle

國寶に指定された月見櫓・辰巳附櫓・大天守・渡櫓・乾小天守から成る松本城の連結複合式天守

長野県松本市丸の内4-1にある松本城公園は太平洋戦争後の昭和23(1948)年頃から整備されていた市民の憩いの場で、当時は旧制松本中学校の跡地に動物園や児童遊園などが設けられたり、松本市立博物館の前身となる日本民俗資料館が建てられていた。そして公園の中心にあって、昭和11(1936)年に国宝に認定された松本城天守[a]のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。は今から400年以上前の天正18(1590)年に関白秀吉[b]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、みずからは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。による小田原仕置ののちに関八州を与えて移封させた徳川家康に代わってここ信濃国に入封した石川数正・康長(やすなが)父子が築造したとされる[c]ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。。一方で城の起源はさらに100年近く遡った戦国時代後期に、信濃国守護職にあった小笠原氏の居城である林城の支城として築かれた深志城とされている。この城は、武田信玄の信濃攻略により塩尻峠の戦い[d]「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。で大敗した小笠原長時(おがさわら・ながとき)が林城を放棄すると武田の支配下におち、重臣・馬場美濃守を城代において信濃国を経営する拠点となった。そして天正10(1582)年に武田家が滅亡織田信長が横死した後に勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)[f]武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。が旧領を回復して松本城[g]近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。と改名した。

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参照   [ + ]

a. のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。
b. 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、みずからは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。
c. ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。
d. 「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。
e. 俗に云う天正壬午の乱。
f. 武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。
g. 近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。

宇和島城 − Uwajima Castle

伊達宗利が改修した宇和島城の天守は三層三階総塗籠で、独立式層塔型

愛媛県宇和島市は「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた、日本屈指のリアス式海岸地帯にある。その市街地のほぼ中央にあるのが宇和島城である。その歴史は、慶長元(1596)年から六年の歳月をかけて、関白秀吉から伊予国7万石を拝領した藤堂高虎がそれまで中世山城だった板島丸串城を近世城郭に改修し、大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張にしたところから始まる。その際に、高虎は三層三階の望楼型天守を建てた。そして慶長19(1614)年には伊達政宗の長子である秀宗が徳川秀忠から伊予国10万石を拝領し入国、石垣や天守、矢倉などが修築された。さらに時がながれ、徳川の治世になった寛文6(1666)年、二代目の伊達宗利の頃に天守が修築されて現在の三層三階の層塔型になった。この頃には「城が軍事拠点である」という重要性が薄れた時代であったため、それまで付いていた狭間や石落としが無くなり、代わりに千鳥破風や唐破風など装飾性の高いものが取り付けられた。その後、明治維新で天守・追手門を除く全ての建築物が解体、太平洋戦争では追手門が焼失した。現在は堀がすべて埋められ、三の丸をはじめ総曲輪部分約28万平方メートルは失われているが、本丸、二の丸などの曲輪約10万平方メートルの城山は国史跡に、そして現存12天守の一つに数えられる天守は国重要文化財に指定され、搦手口にある上り立ち門は慶長期の建築物の可能性が高いとして市指定文化財になっている。

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高知城 − Kouchi Castle

高知城は現存する外観四層(内部は三層六階)の望楼型天守

高知県高知市にある高知城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の功績により土佐一国二十四万石を拝領した山内一豊(やまうち・かつとよ)が入国後に築城した城で、最初は河内中山城(こうちやまじょう)と呼ばれ、次に高智山城と名前を変えたのちに、現在の高知城という名前になった。この城が建つ大高坂山は、南北朝時代の大高坂松王丸など古くから軍事拠点として利用されていた。そして、戦国末期に四国の覇者となった長宗我部元親は、天正16(1588)年に岡豊城からここ大高坂山に移り築城したが、水害などにより城下町形成が十分できなかったこともあり、天正19(1591)年には土佐湾に面した浦戸城に移転している。
山内一豊は大高坂山の山頂に本丸、少し下がったところに二の丸、そして東側の一段下に三の丸を配置した。なお本丸と二の丸を分断する堀切部分には詰門を配置し、南側の廊下門と一体になった縄張になっている。そして、享保12(1727)年の大火で焼失した天守は寛延2(1749)年に三層六階の望楼型天守として再建され、明治時代の廃城令や太平洋戦争の空襲からも逃れ現在に残る、非常に幸運な城となった。また、本丸に国内で唯一、本丸御殿がほぼ完全な形で残っているのも見どころ。

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松江城 − Matsue Castle

松江城の五層六階望楼型の天守
2014年のGW明けの城攻め第一弾は島根県にある松江城を攻めてきた。別名は千鳥城。築城は「仏の茂助」と呼ばれ尾張時代から秀吉に付き従った堀尾吉晴(ほりおよしはる)と子息の忠晴(ただはる)。山陰に現存する城の中で唯一、天守が残っている城。2015年には天守が国宝に認定された。ちなみに、天守が国宝に認定されるのは63年ぶり8)

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伊予松山城 − Matsuyama Castle

伊予松山城の乾門と乾門東続櫓

先日の高松城攻めに続き、2014年 GW 二日目は、四国は伊予国 (現在の愛媛県) の「松山城」と「今治城」を攻めてきた。

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丸亀城 − Marugame Castle

丸亀城の三層三階層塔型の天守

一応 Google+ ではマイペースで共有しているのだけれど、そろそろ一年が過ぎてしまいそうなので記憶があるうちに Blog の方も再開しておく。
昨年の GW に我が人生で初の四国上陸を成し遂げた :)。この GW 初日は、まず四国は讃岐国 (今の香川県) にある「丸亀城」と「高松城」を攻めることにした。

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姫路城 − Himeji Castle

「に」の門の下から平成の大修理中の姫路城の本丸

今となっては三ヶ月前の城攻めになってしまったのだけれど、これはこれで自身初の姫路入り。

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備中松山城 − Bitchū Matsuyama Castle

備中松山城の二層二階層塔型の天守

これもまた二ヶ月ほど前の城攻め。

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