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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 天守あり (1 / 5 ページ)

天守を持つ、または持っていた古城

久留里城 − Kururi Castle

里見氏の居城であり対北条との最前線を担った久留里城の本丸跡には模擬天守が建つ

千葉県は小櫃川(おびつがわ)東にある標高145mほどの丘陵上には、かって安房上総(あわ・かずさ)の雄と云われた里見氏の居城で、ここ関東の覇権をめぐって小田原北条氏と激しい攻防戦を繰り広げたときに、その最前線を担った久留里城が建っていた。別名は「雨城(うじょう)」。この山城にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているよう見え、城の姿が隠し覆われて敵の攻撃を受けづらかったと伝わる[a]あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。。その起源は、名将・太田道灌が江戸城を築城したのと時を同じくする康正元(1455)年、上総武田氏の祖と伝わる武田信長[b]上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。の築城とするのが通説である。戦国時代に入り、武田氏を抑えて久留里城を手に入れた里見氏ではあったが、天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置に参陣しなかったため安房一国のみの安堵となり、ここ久留里城のある上総国が関八州を賜った家康の領有となると、明治時代に入って廃城となるまで徳川譜代の居城となった。現在は東西の尾根に一部の遺構が残る他、本丸跡には江戸時代に建っていたとされる天守をイメージして、昭和54(1979)年に鉄筋コンクリート製二層三階の模擬天守が建てられ、城山公園として千葉県君津市では桜の名所の一つとなっている。

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a. あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。
b. 上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。

浜松城 − Hamamatsu Castle

浜松城の天守曲輪には天守台石垣が残るが、天守そのものの存在が不明である

静岡県浜松市中区元城町にあった浜松城は、元亀元(1570)年に徳川家康が三方原台地の東南端に築城し、駿遠経営の拠点とした城である。東に馬込川[a]もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。を天然の外堀として、遠州一帯を見渡すことが可能な三方ヶ原台地は、西進の野望に燃える甲斐の武田信玄を牽制できる位置にあり、また信州と遠州をつなぐ秋葉街道と京へ通じる東海道とが交差する要衝でもあった。この城は、駿河今川氏家臣・飯尾(いいお)氏の居城・引馬(ひくま)城[b]曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。を取り込み、その城域は最終的に南北約500m、東西約400mで、台地の斜面に沿って西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、さらに東南に三の丸を配し、これらの曲輪が一列に並んだ梯郭式平山城である[c]家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。。家康は29〜45歳までの17年間を浜松城で過ごしたが、その間は三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いなど、徳川家の存亡に関わる激動の時代であった。ちなみに、家康在城時は石垣造りではなく土の城である。その後、天正18(1590)年の秀吉による関東移封に伴い、豊臣恩顧の堀尾吉晴(ほりお・よしはる)が入城し、城域が現在の規模に拡張され近世城郭へと変貌した。一説に天守が築かれたのもこの時期と云われるが、絵図などには記録が無く、その姿も不明のままである。

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a. もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。
b. 曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。
c. 家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。

遠江小山城 − Tōtōmi Koyama Castle

甲州流築城術が僅かに残る小山城のニ郭跡には雰囲気を伝えるために模擬天守が建つ

かって大井川の渡しと駿河湾沿いの街道が交錯する要衝に位置し、東に湯日川(ゆいがわ)を望む舌状(ぜつじょう)台地の能満寺山(のうまんじやま)先端に築かれていた山崎の砦は、「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡きあとの元亀元(1570)年に、共に駿河国に侵攻した甲斐武田と三河徳川両軍が大井川を挟んだ領有権争いに発展した際に争奪戦を繰り広げた城砦(じょうさい)の一つであった。その翌年、武田信玄は本格的な遠江侵攻を前に2万5千の甲軍で大井川を渡河して山崎の砦を強襲・奪取した。そして駿州田中城と同様に、馬場美濃守信房に命じて砦を連郭式平山城に改修させて小山城[b]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。と改め、城主には越後浪人で足軽大将の大熊備前守朝秀(おおくま・びぜんのかみ・ともひで)を置いて高天神城攻略の拠点とした。今なお甲州流築城術の面影が残る小山城は、現在は静岡県榛原郡(しずおかけん・はいばらぐん)吉田町片岡の能満寺山公園として、台地西側には三重の三日月堀が残っている他、ニ郭跡には丸馬出が復元[c]但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。・整備されている。また昭和62(1987)年には吉田町のシンボルとして、往時には存在していない三層五階・天守閣型の展望施設を建設し、富士山や南アルプスを一望できる観光名所となっている。

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a. 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b. 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。
c. 但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。

白河小峰城 − Shirakawa Komine Castle

白河小峰城の本丸跡には天守の代用として「御三階」と呼ばれた三重櫓が復元されていた

鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した城郭は、高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、「三重櫓」と称された天守級の櫓を持つ白河小峰城はのちの會津戦争で激しい攻防戦が繰り広げれ、落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。

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a. 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。
b. 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle

蒲生氏郷公が縄張した若松城の本丸跡に、現在は赤瓦葺きで五層の天守が建つ

福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名(さがみ・あしな)氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。

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a. 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。
b. さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。
c. まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。
d. 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。
e. 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。
f. 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。

柳川城 − Yanagawa Castle

城の内外に無数の堀を持つ柳川城の本丸には、かっては五層五階の天守閣が建っていた

筑後平野が有明海へ臨む地に、筑後川や沖端川(おきのはたがわ)、塩塚川(しおづかかわ)などの水を利用して、永禄年間(1558〜1569)に蒲池鑑盛(かまち・あきもり)[a]名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。が、それまでの砦規模から本格的な天然の要害に造作した柳川城は、現在の福岡県柳川市本城町にある。筑後南部の戦国大名で大友氏の幕閣にあった蒲池氏の本城として、水の利を十分に活かしたこの平城は、九州でも屈指の堅城で難攻不落の水城として知られていた[b]水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。。実際、鑑盛の次男・蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)は、天正8(1580)年に龍造寺隆信と鍋島直茂ら2万の軍勢を相手に数カ月に及ぶ籠城戦に勝利し、柳川城攻略を挫折させた[c]しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。。さらに龍造寺家の支配下にあった時には、大友家で筑後攻略を担当していた戸次道雪と高橋紹運らの猛攻を受けるも一指だも染め得なかった[d]戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。。その後、天正14(1583)年の関白秀吉による九州仕置では岩屋城の戦いや立花山城の戦いで功のあった立花宗茂が筑後13万石の柳川城主となり、主家の大友氏から独立して秀吉に仕えるが、秀吉死後の関ヶ原の戦いで敗れ、在城わずか十三年にして改易となり、代わって石田三成捕縛の功により、田中吉政が筑後一国32万石余の領主として入城すると、石垣を高くして天守閣を築いた。

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a. 名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。
b. 水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。
c. しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。
d. 戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。

亥鼻城 − Inohana Castle

「千葉城」の通称を持つ亥鼻城の2郭跡には四層五階の天守閣風な郷土博物館が建っている

千葉県千葉市中央区亥鼻の猪鼻(いのはな)台地の上にあった亥鼻城は、平安時代の終り頃の大治元(1126)年に、桓武天皇を祖とする平家支流の千葉常重(ちば・つねしげ)が、当時の大椎(おおじ)城[a]現在の千葉県千葉氏緑区大椎町にあった城。から居城を移転して築城したものであり、現在はその跡地に四層五階の天守閣を形を模した千葉市立郷土博物館[b]昭和42(1967)年の開館で、昭和58(1983)年に現在の館名を改められた。が建っている。ここ亥鼻城を本拠としたあとは常重の嫡子・常胤(つねたね)が源頼朝を助けて源平合戦や奥州合戦に参戦し、鎌倉幕府樹立に大きく貢献することで下総国の他に奥州や九州[c]奥州の所領は現在の福島県、九州の所領は現在の佐賀県である。に所領を拡げて千葉氏の最盛期を創った[d]常胤は拝領した所領を胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)といった6人の息子に割譲してそれぞれ治めさせ、「千葉六党(ちばりくとう)」として一族が団結した。こののちに『上総千葉氏』、『下総千葉氏』、そして『九州千葉氏』となる。。しかし、鎌倉公方(足利成氏)による関東管領(山内上杉憲忠)の謀殺を発端として、享徳3(1454)年から28年間、関東一円の国衆・地侍らを巻き込んだ享徳の乱(きょうとくのらん)では千葉家中で内紛が勃発、公方派だった馬加(千葉)康胤や原胤房は関東管領派であった千葉介胤直が籠もる亥鼻城を攻め、城は落城、多古に逃れた胤直一族を滅ぼして下総千葉氏で千葉氏本宗家を継承した。それから康胤の孫である輔胤は関東管領上杉氏や太田道灌、さらには一族である武蔵千葉氏と抗争しつつ、印旛沼と利根川の水運を掌握でき古河公方勢と連携できる地に本佐倉城を築き、亥鼻城を廃城して居城を移した。

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a. 現在の千葉県千葉氏緑区大椎町にあった城。
b. 昭和42(1967)年の開館で、昭和58(1983)年に現在の館名を改められた。
c. 奥州の所領は現在の福島県、九州の所領は現在の佐賀県である。
d. 常胤は拝領した所領を胤正(たねまさ、千葉介)、師常(もろつね)、胤盛(たねもり)、胤信(たねのぶ)、胤通(たねみち)、胤頼(たねより)といった6人の息子に割譲してそれぞれ治めさせ、「千葉六党(ちばりくとう)」として一族が団結した。こののちに『上総千葉氏』、『下総千葉氏』、そして『九州千葉氏』となる。

大多喜城 − Ōtaki Castle

江戸時代に焼失した大多喜城の天守は昭和の時代に古絵図を元にして再建された模擬天守である

千葉県夷隅郡大多喜町にある大多喜城は、夷隅川(いすみがわ)[a]江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。を天然の外堀とし、その蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に築かれ、郭を西側の山塊が東へ延びた突端に並べていた連郭式平山城である。この城は大永元(1521)年に真里谷(まりやつ)武田信清[b]真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。が築城したと云われ、往時は「小田喜(おたき)」城と呼ばれていた。戦国期は天文13(1544)年に、安房国の里見義堯(さとみ・よしたか)が配下で「槍大膳」の異名を持つ正木時茂[c]小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。によって攻め落とされ、四代にわたって[d]正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。上総正木宗家の居城となった。その後は天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置で、徳川家康が三河国から関八州に国替させられた際に重臣で徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝に上総国10万石[e]最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。を与えて里見氏の抑えとした。小田喜城に入城した忠勝は大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸に縄張し直した上に、西は尾根を断ち切る空堀、南は夷隅川に落ち込む急崖、北と東は水堀を配し、さらに城下町を建設するなどして要害堅固な「大多喜城」が完成した。慶長14(1609)年に台風で遭難し保護されたスペイン人のドン・ロドリゴが大多喜城を訪れた際[f]この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。、彼の著書『日本見聞録』にその大きく豪華な城の造りに驚いたと書き残している。

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a. 江戸時代には御禁止川(おとめがわ)と呼ばれていた。城主が魚を捕ることを禁止していたことが由来で、この川に住む「むらさき鯉」を将軍家に献上していたと云う。
b. 真里谷武田氏は上総武田氏の一族で、清和源氏の一門である源義光を始祖とする。武田家と云うと甲斐国の他に安芸国、若狭国、そしてここ上総国に庶流を持つ。
c. 小田原北条氏との国府台合戦で討死した正木大膳信茂の父にあたる。
d. 正確には、最後の当主は里見義頼の次男で、嫡男がいなかった正木氏を継承した。
e. 最初は同じ上総国の万喜城(まんぎじょう)に入城したが、翌年には小田喜に拠点を移した。
f. この当時は忠勝の次男・忠朝が城主だった。

掛川城 − Kakegawa Castle

江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕(あさひな・やすひろ)によって遠江国佐野郡にある子角山(ねずみやま)丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能(やすよし)は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山(りゅうとうざん)に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼(じゅけいに)が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北条氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊(やまうち・かつとよ)が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

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a. 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。

津和野城 − Tsuwano Castle

江戸時代に総石垣で改築された津和野城の南側は人質曲輪が三の丸に張り出していた

明治の世になるまでは津和野藩亀井氏の城下町であり、その古い町並みや佇まいをもって現在でも「山陰の小京都」と称される島根県鹿足郡(かのあしぐん)津和野町にある標高362mほどの霊亀山(れいきさん)の尾根を削平し曲輪を設け、堀切や竪堀・横堀で堅固とした津和野城は中世時代にあっては典型的な山城であった。鎌倉時代には、北九州への二度にわたる元(蒙古)軍の来襲を受けて、幕府は西石見の海岸防備を能登国の吉見頼行に命じ、ここ木曽野[a]現在の津和野町付近の旧名。へ地頭として下向させた。その頼行は永仁3(1295)年から約30年の歳月をかけて城[b]吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。を築いた。以後吉見氏は十四代300年にわたって増築補強を繰り返した。戦国時代になると吉見氏は、天文23(1554)年に大内氏・陶氏・益田氏らの大軍に包囲されながらも100日余の籠城戦にたえた「三本松城の役」を経てのちに西国の雄・毛利家の支配下に入り、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は萩へ退転した。その翌年、坂崎出羽守直盛[c]浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。が初代津和野藩主として3万石で入封し、本城を総石垣にして出丸を築き、現在みることができる近世城郭に大改修した。のちに坂崎氏が断絶すると、亀井政矩(かめい・まさのり)が入封し十一代に渡って津和野藩主を務めた。

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a. 現在の津和野町付近の旧名。
b. 吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。
c. 浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。
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