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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 天守あり (1 / 5 ページ)

大坂城 − Osaka Castle(TAKE2)

本丸北の山里丸から内濠を挟んで搦手口に架かる極楽橋前から眺めた復興天守

太閤秀吉[a]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。が生前に精魂を注いで築き上げた大坂城[b]ちなみに縄張は初代築城総奉行であった黒田如水が担当した。本丸を中心に広大な郭を同心円状に連ねた輪郭式平城で、郭と郭の間に堀を配した。は慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家の滅亡と時を同じくして落城した。秀吉が齢61で没してから僅か十七年後のことである。そして元和6(1620)年の徳川幕府による天下普請[c]総責任者は今治城宇和島城の築城で知られる藤堂和泉守高虎。で秀吉の大坂城は石垣と堀が全て破却され、その上に盛土して新たな石垣を積み、江戸城と同じ層塔型天守[d]秀吉が築いた天守は五層六階(地下二階)の連結式望楼型。この家康が築いた天守は「寛永度天守」とも。が築かれた。完成まで九年の歳月を費やした近世城郭は規模こそ秀吉の時代の惣構(そうがまえ)と比べて1/4に縮小されたものの、天守は遥かに凌ぐ巨大建造物となり、装飾も単調にならないように層ごとに千鳥破風の数を変え、最上部に銅瓦葺をあつらえた上に、本丸を中心に二重に配された掘割は江戸城より壮大なものに仕上がった。そして天下普請を物語るように城内の主要な虎口には巨石が使われ、郭の隅には数多くの櫓が建てられた。その数は最も多い時で本丸11棟、山里丸2棟、二の丸14棟、その他多聞櫓5棟に及ぶ[e]秀吉の時代には本丸に5棟の櫓が建っていたことしか判っていないらしい。。しかし寛文5(1665)年に天守が落雷で焼失、明治維新での大火や大戦時の空襲でその多くが焼失し、現在の大阪城公園に現存するのは千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・大手口多聞櫓の5棟のみ[f]これらは国の重要文化財に指定されているが、他に大手門・金蔵・金明水井戸・焔硝蔵・桜門などがある。である。

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a. 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。
b. ちなみに縄張は初代築城総奉行であった黒田如水が担当した。本丸を中心に広大な郭を同心円状に連ねた輪郭式平城で、郭と郭の間に堀を配した。
c. 総責任者は今治城宇和島城の築城で知られる藤堂和泉守高虎。
d. 秀吉が築いた天守は五層六階(地下二階)の連結式望楼型。この家康が築いた天守は「寛永度天守」とも。
e. 秀吉の時代には本丸に5棟の櫓が建っていたことしか判っていないらしい。
f. これらは国の重要文化財に指定されているが、他に大手門・金蔵・金明水井戸・焔硝蔵・桜門などがある。

松本城/深志城 − Matsumoto AKA Fukashi Castle

國寶に指定された月見櫓・辰巳附櫓・大天守・渡櫓・乾小天守から成る松本城の連結複合式天守

長野県松本市丸の内4-1にある松本城公園は太平洋戦争後の昭和23(1948)年頃から整備されていた市民の憩いの場で、当時は旧制松本中学校の跡地に動物園や児童遊園などが設けられたり、松本市立博物館の前身となる日本民俗資料館が建てられていた。そして公園の中心にあって、昭和11(1936)年に国宝に認定された松本城天守[a]のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。は今から400年以上前の天正18(1590)年に関白秀吉[b]豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。による小田原仕置ののちに関八州を与えて移封させた徳川家康に代わってここ信濃国に入封した石川数正・康長(やすなが)父子が築造したとされる[c]ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。。一方で城の起源はさらに100年近く遡った戦国時代後期に、信濃国守護職にあった小笠原氏の居城である林城の支城として築かれた深志城とされている。この城は、武田信玄の信濃攻略により塩尻峠の戦い[d]「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。で大敗した小笠原長時(おがさわら・ながとき)が林城を放棄すると武田の支配下におち、重臣・馬場美濃守を城代において信濃国を経営する拠点となった。そして天正10(1582)年に武田家が滅亡織田信長が横死した後に勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)[f]武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。が旧領を回復して松本城[g]近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。と改名した。

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a. のちの文化保護法に基づいて改めて国宝に指定された建造物は天守の他に乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓のあわせて5棟。
b. 豊臣秀吉が関白職を拝領したのは天正13(1585)年で、実弟・秀長と嫡子鶴松が相次いで病死した天正19(1591)年には関白職を甥の秀次に譲り、自らは前関白の尊称にあたる太閤を名乗ったとされる。
c. ただし天守の建造年には諸説あり。最も古い説が天正19(1591)年の石川数正がよるもので、現在の乾小天守であるとする説。
d. 「勝弦峠(かっつる・とうげ)の戦い」とも。
e. 俗に云う天正壬午の乱。
f. 武田信玄によって追われた小笠原長時の三男。大坂夏の陣で徳川方について戦死した小笠原秀政は嫡男にあたる。
g. 近年、別名として「烏城」(からすじょう)と云う呼び方は文献上には一切の記載がないとのことで誤りとされている。

諏訪高島城 − Suwa Takashima Castle

御神渡りで知られる諏訪湖畔に築かれた高島城の本丸跡には天守が復元されていた

信濃国一之宮として諏訪郡の中で格式の高い名神大社[a]日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。である諏訪大社にあって上社(かみやしろ)[b]「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。の大祝(おおほうり)であり諏訪郡の領主を司った諏訪氏は、平安時代から神職にありながら武士として生きてきた一族である。戦国時代に入って第19代当主・諏訪頼重(すわ・よりしげ)[c]諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。を最後に諏訪惣領家は滅亡した[d]そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。が、上社大祝職については頼重の叔父にあたる諏訪満隣(すわ・みちつか)が継承するに至った。そして武田家が滅亡織田信長が横死した後に信濃国で勃発した混乱[e]俗に云う天正壬午の乱。に乗じて満隣の三男・頼忠(よりただ)が諏訪家を再興したが、徳川家康に敗れ臣従するも、豊臣秀吉による小田原仕置後に家康が関東へ移封されるとこれに従った。代わって2万7千石で諏訪郡の領主となった日根野織部正高吉(ひねの・おりべのかみ・たかよし)は諏訪湖畔の島状を呈した場所に諏訪高島城を七年かけて築城した。城域の際まで諏訪湖の水が迫り、湿地に囲まれた連郭式平城は「諏訪の浮城」とも呼ばれ、関ヶ原の戦後に旧領復帰した諏訪頼水(すわ・よりみず)以降、廃城までの約270年の間は諏訪氏の居城となり、現在は長野県諏訪市高島1-20-1の高島公園としてその一部が残る。

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a. 日本古来から神々(明神)を祀る神社で社格の一つとされる。
b. 「お諏訪さま」または「諏訪大明神」として崇敬されている諏訪大社は諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座している。
c. 諏訪郡と国境を接していた甲斐国守護・武田氏と争い、一度は和睦し婚姻関係を結んだが、武田晴信(信玄)による信濃侵攻で敗れ、幽閉後に自刃した。
d. そののちに武田信玄の四男・勝頼が「惣領家」の名跡を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗ったとされるが、近年は継承したのは「高遠諏訪家」であるとの説が指摘されている。また、この継承が名目上のものとして諏訪家系図では歴代の当主扱いにはなっていない。
e. 俗に云う天正壬午の乱。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle(TAKE2)

蒲生氏郷が黒川城を改築にした際の外郭遺構が現存し国指定史跡になっている

天正18(1590)年に豊臣秀吉がおこした奥州仕置の功により伊勢国松坂から陸奥国會津へ入封した蒲生飛騨守氏郷は、それまで伊達政宗の居城であった黒川城をより本格的な近世城郭へと改修した際に実戦に向けた縄張の見直しを行った[a]縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。。その際には郭内に相当する武家地を外郭[b]外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。で囲む惣構えに改めて、町人地を郭外へ移動した。一説に、氏郷は秀吉が築いた巨大で絢爛豪華な大坂城に匹敵するような城郭を築き、その威容を奥州各国に知らしめようとしていたとも云われている。氏郷亡きあと、この會津若松城は會津中納言・上杉景勝と氏郷の嫡子・秀行による小規模な改修の他、加藤嘉明・明成らによって石垣を多用した郭門などの防衛施設が強化され、最終的に會津宰相・保科正之を藩祖とする會津松平家の居城として東北一の難攻不落の要塞として完成に至った。その最後は、慶応4(1868)年の會津戦争で新政府軍による力攻めでも落城せず開城後に廃城となったが、明治時代に個人に払い下げられて[c]のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。以来、一部を軍が使用していたものの大部分の史跡は保存され、昭和の時代に福島県会津若松市追手町にて現在観ることができる状態へと復元された[d]天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

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a. 縄張を担当したのは氏郷の家臣・曽根内匠昌世(そね・たくみ・まさただ)で元は武田信玄の『奥近習六人衆』の一人。會津若松城が馬出を主体とする甲州流築城術の縄張になっているのは曽根が武田家出身たったから。
b. 外堀と土塁、あるいは郭門などを組み合わた境界のこと。
c. のちに旧藩主・松平家に寄付されたという。
d. 天守は昭和40(1965)年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。

笠間城 − Kasama Castle

笠間氏の滅亡後に蒲生郷成は笠間城を石垣を多用し天守を持つ近世城郭に改修した

茨城県笠間市笠間3616に遺る笠間城は関東地方にある山城としては珍しく石垣を多用し二層の天守を持つ近世城郭であった。この地を治めていたのは鎌倉時代初めから18代続く下野守護・宇都宮氏の一族の常陸笠間氏[a]他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。で、標高182mほどの佐白山(さしろさん)の頂上に堅固な砦を築いたのが笠間城の始まりとされている。しかし天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後に宗家である宇都宮国綱との対立が表面化し、18代当主・綱家が討たれて笠間一族が滅亡[b]この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。すると国綱の側近が城主となった。その後、伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封された蒲生氏郷の嫡子・秀行は、父亡きあとに起こった家中の騒動[c]俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。を収めることができなかったため、秀吉により下野国宇都宮へ減封となったが、その際に家老の一人であった蒲生郷成(がもう・さとなり)が笠間城主となった。郷成はそれまでの砦から天然の地形を巧みに利用した近世城郭へと改修した。その実際は三の丸、二の丸、帯曲輪、そして天守曲輪を設け、各曲輪には白壁の土塀をまわし、虎口には城門を、そして要所には櫓を配置して、のちに「桂城」と称えるにふさわしい要害堅固な名城となった。

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a. 他には下野国から安芸国に下向した安芸笠間氏、九州は筑前国の筑前笠間氏がいる。
b. この説の他に、小田原仕置で豊臣方についた宗家・宇都宮氏に対し、小田原方についた笠間氏は敗戦後に宇都宮国綱に攻められて滅亡したと云う説あり。
c. 俗に云う「蒲生騒動」。氏郷が朝鮮出兵のため留守にしていた會津若松で家臣らが対立した。その後、氏郷が急死すると死人が出るお家騒動に発展した。

久留里城 − Kururi Castle

里見氏の居城であり対北条との最前線を担った久留里城の本丸跡には模擬天守が建つ

千葉県は小櫃川(おびつがわ)東にある標高145mほどの丘陵上には、かって安房上総(あわ・かずさ)の雄と云われた里見氏の居城で、ここ関東の覇権をめぐって小田原北条氏と激しい攻防戦を繰り広げたときに、その最前線を担った久留里城が建っていた。別名は「雨城(うじょう)」。この山城にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているよう見え、城の姿が隠し覆われて敵の攻撃を受けづらかったと伝わる[a]あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。。その起源は、名将・太田道灌が江戸城を築城したのと時を同じくする康正元(1455)年、上総武田氏の祖と伝わる武田信長[b]上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。の築城とするのが通説である。戦国時代に入り、武田氏を抑えて久留里城を手に入れた里見氏ではあったが、天正18(1590)年の秀吉による小田原仕置に参陣しなかったため安房一国のみの安堵となり、ここ久留里城のある上総国が関八州を賜った家康の領有となると、明治時代に入って廃城となるまで徳川譜代の居城となった。現在は東西の尾根に一部の遺構が残る他、本丸跡には江戸時代に建っていたとされる天守をイメージして、昭和54(1979)年に鉄筋コンクリート製二層三階の模擬天守が建てられ、城山公園として千葉県君津市では桜の名所の一つとなっている。

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a. あるいは、「城の完成後、三日に一度、合計21回も雨が降った」ことが由縁だとも(久留里記)。
b. 上総国守護代となった室町時代中期の武将で、甲斐国人領主。甲斐守護で天目山で自刃した武田信満の次男にあたる。ちなみに父の信満は、同じく天目山で自害に追い込まれた甲斐武田氏最後の当主・勝頼の先祖にあたる。

浜松城 − Hamamatsu Castle

浜松城の天守曲輪には天守台石垣が残るが、天守そのものの存在が不明である

静岡県浜松市中区元城町にあった浜松城は、元亀元(1570)年に徳川家康が三方原台地の東南端に築城し、駿遠経営の拠点とした城である。東に馬込川[a]もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。を天然の外堀として、遠州一帯を見渡すことが可能な三方ヶ原台地は、西進の野望に燃える甲斐の武田信玄を牽制できる位置にあり、また信州と遠州をつなぐ秋葉街道と京へ通じる東海道とが交差する要衝でもあった。この城は、駿河今川氏家臣・飯尾(いいお)氏の居城・引馬(ひくま)城[b]曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。を取り込み、その城域は最終的に南北約500m、東西約400mで、台地の斜面に沿って西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、さらに東南に三の丸を配し、これらの曲輪が一列に並んだ梯郭式平山城である[c]家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。。家康は29〜45歳までの17年間を浜松城で過ごしたが、その間は三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いなど、徳川家の存亡に関わる激動の時代であった。ちなみに、家康在城時は石垣造りではなく土の城である。その後、天正18(1590)年の秀吉による関東移封に伴い、豊臣恩顧の堀尾吉晴(ほりお・よしはる)が入城し、城域が現在の規模に拡張され近世城郭へと変貌した。一説に天守が築かれたのもこの時期と云われるが、絵図などには記録が無く、その姿も不明のままである。

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a. もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。
b. 曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。
c. 家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。

遠江小山城 − Tōtōmi Koyama Castle

甲州流築城術が僅かに残る小山城のニ郭跡には雰囲気を伝えるために模擬天守が建つ

かって大井川の渡しと駿河湾沿いの街道が交錯する要衝に位置し、東に湯日川(ゆいがわ)を望む舌状(ぜつじょう)台地の能満寺山(のうまんじやま)先端に築かれていた山崎の砦は、「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡きあとの元亀元(1570)年に、共に駿河国に侵攻した甲斐武田と三河徳川両軍が大井川を挟んだ領有権争いに発展した際に争奪戦を繰り広げた城砦(じょうさい)の一つであった。その翌年、武田信玄は本格的な遠江侵攻を前に2万5千の甲軍で大井川を渡河して山崎の砦を強襲・奪取した。そして駿州田中城と同様に、馬場美濃守信房に命じて砦を連郭式平山城に改修させて小山城[b]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。と改め、城主には越後浪人で足軽大将の大熊備前守朝秀(おおくま・びぜんのかみ・ともひで)を置いて高天神城攻略の拠点とした。今なお甲州流築城術の面影が残る小山城は、現在は静岡県榛原郡(しずおかけん・はいばらぐん)吉田町片岡の能満寺山公園として、台地西側には三重の三日月堀が残っている他、ニ郭跡には丸馬出が復元[c]但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。・整備されている。また昭和62(1987)年には吉田町のシンボルとして、往時には存在していない三層五階・天守閣型の展望施設を建設し、富士山や南アルプスを一望できる観光名所となっている。

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a. 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b. 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。
c. 但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。

白河小峰城 − Shirakawa Komine Castle

白河小峰城の本丸跡には天守の代用として「御三階」と呼ばれた三重櫓が復元されていた

鎌倉末期、倒幕勢力に加わって功績を挙げた結城親朝(ゆうき・ちかとも)が後醍醐天皇[a]鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。から陸奥白河の地に所領を与えられ、阿武隈川と谷津田川(やつだがわ)に挟まれた小峰ヶ岡(こみねがおか)と呼ばれる丘陵上に築いた砦は小峰城と呼ばれて代々白河結城氏の居城になっていたが、その結城氏が天正18(1590)年の関白秀吉による奥州仕置後に改易となったため、陸奥国會津42万石を拝領した會津若松城主・蒲生飛騨守氏郷の所領となり、その後は會津中納言・上杉景勝、さらに関ヶ原の戦後には蒲生秀行・忠郷父子が治めた。江戸初期の寛永4(1627)年、蒲生氏が伊予松山へ減封となると會津他43万石は加藤嘉明・明成父子が治め、ここ白河には「お隣」の棚倉城から丹羽長重(にわ・ながしげ)が移封されてきた。長重は二年後の寛永6(1629)年に幕命[b]江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。にて、陸奥の要衝に建つ小峰城の拡張に着手した。それから三年後の寛永9(1632)年に完成した白河小峰城は高石垣で囲まれた本丸と二之丸を持ち、天守級の三重櫓が建つ城郭となり、のちの會津戦争では激しい攻防戦が繰り広げられた。その落城時は大部分が焼失していたが、現在は福島県白河市郭内1に城山公園として三重櫓や前御門などが復元・整備されている。

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a. 鎌倉幕府滅亡後の元弘3/正慶2(1333)年に天皇自ら行う政治(親政)として建武の新政を実施したが、のちに足利尊氏と反目し、約60年間に及ぶ南北朝争乱につながる。
b. 江戸幕府が、依然として奥州の大藩である伊達政宗を警戒していたことが、その理由とされる。

會津若松城 − Aizu-Wakamatsu Castle

蒲生氏郷公が縄張した若松城の本丸跡に、現在は赤瓦葺きで五層の天守が建つ

福島県会津若松市追手町にあった會津若松城は、鎌倉時代末期に源氏の家人であった相模蘆名(さがみ・あしな)氏[a]現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。が鎌倉を引き揚げて、陸奥国會津の黒川郷小田垣山に築いた館[b]さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。が始まりで、以後は連綿伝えて會津蘆名氏の居城として鶴ヶ城と呼ばれた。しかし家中の騒動[c]まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。に便乗した伊達政宗が太閤秀吉からの惣無事令[d]刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。を無視して、ついに蘆名氏を滅ぼし、米沢から會津へ移って居城とし黒川城と呼んだ。この政宗は天正18(1590)年の小田原仕置で秀吉に臣従したが、惣無事令を無視して手に入れた黒川城を含む會津を没収され、代わりに『奥州の番人』役を命じられた蒲生氏郷が伊勢国から會津・仙道十一郡42万石で移封され黒川城に入城した。 氏郷は織田信長の娘婿であり、智・弁・勇の三徳を兼ね備え、まさに「信長イズム」を正統に継承した愛弟子の筆頭である。ここ會津に居座った氏郷には、周囲の伊達や徳川といった秀吉に完全には従属していない勢力に睨みをきかせるだけの実力があった。そんな氏郷は入国早々に城の大改修と城下町の整理拡張に着手、三年後の文禄2(1593)年には望楼型七層七階の天守[e]一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。が完成、同時にこの地を「若松」に改め、これより300年近く奥州に比類なき堅城と謳われることになる若松城[f]同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。の礎を築いた。

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参照   [ + ]

a. 現在の神奈川県は三浦半島を中心に勢力を拡げた三浦氏の一族である。
b. さらに八角(やすみ)の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神としたことが「鶴ヶ城」と云う名前の由縁である。
c. まさしく伊達家と佐竹家の代理戦争状態であった。
d. 刀狩り、喧嘩停止令など含め、大名間の私的な領土紛争を禁止する法令のこと。これに違反すると秀吉は大軍を率いて征伐した。例えば島津氏に対する九州仕置や北条氏に対する小田原仕置など。
e. 一説に、五層五階地下二階とも。そもそも「七層(七重)」とは何段にも重なると云う意味がある。
f. 同名の城が他にもあるので、現代は特に「会津若松城」と呼んでいる。なお、本訪問記の中では「若松城」で統一し、さらに「会津」についても可能な限り旧字体の「會津」で統一した。
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