城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 肥後国

現在の熊本県で、肥後国《ヒゴノクニ》または肥州《ヒシュウ》と呼ばれた

八代城 − Yatsushiro Castle

大天守と小天守が連結した八代城の天守台

現在の八代城は、元和元(1615)年に幕府より発布された一国一城令ののちも、熊本城とともに肥後一国を二城体制で維持することが特別に許された城である。熊本県八代市にあるこの城の特例が認められたのは、おそらく薩摩の島津家を牽制するためだと云われている。当時は熊本城と、麦島城(関白秀吉から肥後南半国を与えられた小西行長が築城した城)の二城体制であったが、元和5(1619)年の大地震により麦島城が倒壊したため、当時の熊本藩主であった加藤忠広が幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じて徳渕《トクブチ》にある津の北側に城を再建し、同8(1622)年に竣工した。これが現在の八代城である。寛永9(1632)年に加藤家が改易になり、豊前国小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父である細川三斎(忠興)が隠居城として、この八代城に入城した。その後、明治3(1870)年には廃城となり、同13(1880)年には八代町民の願いが叶い、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子懐良《カネヨシ》親王顕彰のために本丸に八代宮を設置することとなり、同16(1883)年に社殿が落成した。その際は、本丸の南側にある石垣部分を開いて参道を設けたという。八代城は、八代市の中心的な歴史公園として、今もなお親しまれている。

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人吉城 − Hitoyoshi Castle

間米蔵跡と御館北側にある武者返しの石垣を持つ人吉城

熊本県人吉市にある人吉城は、鎌倉時代のはじめに征夷大将軍である源頼朝の命を受けて、人吉庄の地頭として遠江国から着任した相良長頼《サガラ・ナガヨリ》により修築されたものであるが、本格的な山城としては文明2(1470)年頃の第十二代当主の相良為続《サガラ・タメツグ》の時と云われている。さらに羽柴秀吉の九州統一後の天正17(1589)年には、第二十代当主の相良長毎《サガラ・ナガツネ》)が豊後国から石工を招き、人吉城を石垣造りの城として改修した。慶長6(1601)年には本丸と二ノ丸、堀、櫓、御門まで完成し、慶長12(1607)年から球磨川沿いの石垣を築き始め、外曲輪が造られた。それから時は流れて、寛永16(1639)年に石垣工事は中止になるものの、この時点で近世・人吉城のほとんどが完成した。この城はいわゆる梯郭式平山城であり、水運を利用するために、球磨川と胸川を外堀に見立てて石垣を築き、多くの船着場が設けられていた。藩祖長頼が修築した際に三日月文様の石が出土したことから「繊月城」または「三日月城」とも呼ばれている。人吉城は二度の大火に見舞われ、中でも文久2(1862)年の寅助火事《トラスケカジ》では城内にあった殆どの建物を焼失した。その翌年には、防火のために槹出《ハネダシ》という西洋の工法で御館《ミタチ》北側の石垣が造られた。この工法は函館の五稜郭、江戸湾の品川御台場など近世の城では数例あるが、旧来の城跡に採用されたのは人吉城ただ一つである。明治4(1871)年の廃藩置県の後、城内の建物は立木とともに払い下げられ、現在は石垣だけが残っている。

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熊本城 − Kumamoto Castle

平左衛門丸から見上げた熊本城の大天守と小天守

国の特別史跡で日本三名城の一つに数えられ、さらには築城者で肥後熊本藩初代藩主でもある加藤清正の名前と共に、知らない日本人はいないほど有名な熊本城は熊本県熊本市の中心部に建ち、その堂々たる威容を誇って現在に至っている。時は天正15(1587)年、豊臣秀吉は九州を平定し、肥後を信長麾下で黒母衣衆筆頭だった佐々成政に与えたが、彼の検地に反抗した地侍連中が一揆を起こし、黒田、立花、島津の力を借りて、どうにか鎮圧したものの領地は召し上げられ、切腹の処分を受けた。その後、秀吉は肥後を二つに割って、北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に与えた。清正は佐々の居所であった隈本城に入り、行長は宇土城を居城とした。しかし、まもなく始まった朝鮮の役で前後七年間も朝鮮に渡っていたので、満足に城を手入れできずにいたが、秀吉が死去し、やっと帰国してみたら、その二年後に関ヶ原の戦が起こった。この時、清正は九州にいて徳川に大いに協力したので、主がいなくなった南半分も手に入れて、肥後一国五十二万石の主になった。そこで大大名に相応しい居城にすべく、慶長6(1601)年から、千葉城・隈本城があった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始め、慶長12(1607)年に完成させた。そして、この時に地名を隈本から熊本に改めた。「隈」の字は阜《オカ》に畏れる《オソレル》と書くので、それでは武士の居城としてはみっともないというのが理由だった。彼は朝鮮の役で苦労し経験したこと、そして異国でみた城壁についても学んでいたので、それらを熊本城の築城に生かしたという。その結果、城郭の周囲は5.3km、面積は98万㎡、城内に大天守と小天守、49の櫓、18の櫓門、29の城門、120以上の井戸を備えた堅牢無比の城になった。

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