高知城は現存する外観四層(内部は三層六階)の望楼型天守

高知県高知市にある高知城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の功績により土佐一国二十四万石を拝領した山内一豊《ヤマウチ・カツトヨ》が入国後に築城した城で、最初は河内中山城《コウチヤマジョウ》と呼ばれ、次に高智山城と名前を変えたのちに、現在の高知城という名前になった。この城が建つ大高坂山は、南北朝時代の大高坂松王丸など古くから軍事拠点として利用されていた。そして、戦国末期に四国の覇者となった長曾我部元親は、天正16(1588)年に岡豊城からここ大高坂山に移り築城したが、水害などにより城下町形成が十分できなかったこともあり、天正19(1591)年には土佐湾に面した浦戸城に移転している。山内一豊は大高坂山の山頂に本丸、少し下がったところに二の丸、そして東側の一段下に三の丸を配置した。なお本丸と二の丸を分断する堀切部分には詰門を配置し、南側の廊下門と一体になった縄張になっている。そして、享保12(1727)年の大火で焼失した天守は寛延2(1749)年に三層六階の望楼型天守として再建され、明治時代の廃城令や太平洋戦争の空襲からも逃れ現在に残る、非常に幸運な城となった。また、本丸に国内で唯一、本丸御殿がほぼ完全な形で残っているのも見どころ。

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