福岡県太宰府市の観世音寺(かんぜおんじ)にあった岩屋城は、太宰府政庁[a]大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。の背後にそびえる標高410mほどの四王寺山(しおうじやま)中腹にある急峻な岩屋山に築かれていた山城で、立花山城や宝満山(ほうまんやま)城とともに筑前御笠郡支配の要衝として、豊後国(ぶんごのくに)を拠点とする大友氏が城督を置いていた城郭である。その始まりは文明10(1478)年に周防国(すおうのくに)守護職の大内政弘[b]のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。が家臣を在城させていたのを初見とし、大内氏衰退後は大友氏の家臣・高橋鑑種(たかはし・あきたね)[c]大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。が宝満山城の支城とした。しかし鑑種は、永禄4(1561)年に同じ筑前の秋月種実(あきづき・たねざね)、肥前佐賀の龍造寺隆信としめし合わせて大友義鎮(おおとも・よししげ)に反旗を翻した[d]鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。。そして大友の軍勢を引きつけておいた隙に中国から毛利元就の大軍を招き入れたが、永禄10(1567)年に戸次道雪(べっき・どうせつ)[e]大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。が毛利軍を斬り崩し調略を加えて退去させた[f]実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。。鑑種は降伏して助命され入道して宗仙(そうせん)を名乗っていたが、不穏な空気をよんだ義鎮が同じ一族の吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の子・鎮理(しげまさ)に高橋家を継がせて[g]この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。対抗した。彼がのちに「忠義鎮西一」と呼ばれた高橋紹運である。
参照
↑a | 大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。 |
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↑b | のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。 |
↑c | 大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。 |
↑d | 鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。 |
↑e | 大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。 |
↑f | 実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。 |
↑g | この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。 |
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