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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 四国・九州地方 (1 / 2 ページ)

四国と九州地方に存在する古城や古戦場

立花宗茂 『誠九州之一物ニ候』− Muneshige Tachibana distinguished the Greatest Warrior of Western Japan

「西国無双」と謳われた立花宗茂公所用の月輪文(がちりんもん)の脇立を持つ兜

永禄10(1567)年に豊後国・大友氏の重臣の一人である高橋鎮種(たかはし・しげたね)[a]大友氏の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男・鎮理(しげまさ)で、筑後国・高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称し、号して高橋紹運と改めた。の嫡男として生まれた幼名・千熊丸は、のちに関白秀吉から『誠九州之一物ニ候』[b]立花文書によるもので、現代文だと「九州の逸物」の意味。と激賞され、関ヶ原の戦後に江戸幕府より改易されたものの、のちに大名に復帰し旧領さえも回復した唯一無二の勇将・立花左近将監宗茂である。「宗茂」の名乗りは晩年のもので、元服後は高橋統虎(たかはし・むねとら)、鎮虎、宗虎、親成、尚政、政高、俊正などと度々改名している。また天正9(1581)年、統虎が14歳の時に大友家の重臣の一人で、父・鎮種とともに筑前・筑後国の攻略を任されていた戸次道雪(べっき・どうせつ)に請われ、高橋家の嫡男でありながら戸次家の婿養子となって戸次統虎に、さらに翌年には姓を改めて立花統虎と名乗った。ともに猛将と謳われ、最後まで主家を支え続けた二人の父を持ち、秀吉から筑後国柳川13万石余[c]筑後国の御池・山門両郡すべて、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部を含めた13万2000石。を拝領した上に直臣の大名に取り立てられ、文禄・慶長の役でも活躍し、秀吉没後の関ヶ原の戦では恩義に報いるために西軍について改易、4年近く京と江戸で浪人生活を送り、二代将軍秀忠の目に止まると奥州棚倉1万石で大名に返り咲き、豊臣家が滅びた後は旧領の柳川10万石余を拝領して20年ぶりに柳川藩主に復帰した。

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a. 大友氏の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男・鎮理(しげまさ)で、筑後国・高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種と称し、号して高橋紹運と改めた。
b. 立花文書によるもので、現代文だと「九州の逸物」の意味。
c. 筑後国の御池・山門両郡すべて、下妻・三瀦(みずま)両郡の一部を含めた13万2000石。

柳川城 − Yanagawa Castle

城の内外に無数の堀を持つ柳川城の本丸には、かっては五層五階の天守閣が建っていた

筑後平野が有明海へ臨む地に、筑後川や沖端川(おきのはたがわ)、塩塚川(しおづかかわ)などの水を利用して、永禄年間(1558〜1569)に蒲池鑑盛(かまち・あきもり)[a]名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。が、それまでの砦規模から本格的な天然の要害に造作した柳川城は、現在の福岡県柳川市本城町にある。筑後南部の戦国大名で大友氏の幕閣にあった蒲池氏の本城として、水の利を十分に活かしたこの平城は、九州でも屈指の堅城で難攻不落の水城として知られていた[b]水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。。実際、鑑盛の次男・蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)は、天正8(1580)年に龍造寺隆信と鍋島直茂ら2万の軍勢を相手に数カ月に及ぶ籠城戦に勝利し、柳川城攻略を挫折させた[c]しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。。さらに龍造寺家の支配下にあった時には、大友家で筑後攻略を担当していた戸次道雪と高橋紹運らの猛攻を受けるも一指だも染め得なかった[d]戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。。その後、天正14(1583)年の関白秀吉による九州仕置では岩屋城の戦いや立花山城の戦いで功のあった立花宗茂が筑後13万石の柳川城主となり、主家の大友氏から独立して秀吉に仕えるが、秀吉死後の関ヶ原の戦いで敗れ、在城わずか十三年にして改易となり、代わって石田三成捕縛の功により、田中吉政が筑後一国32万石余の領主として入城すると、石垣を高くして天守閣を築いた。

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a. 名の「鑑」の字は大友義鑑(のちの宗麟)からの偏諱である。忠義に篤く、一度没落した幼少の龍造寺隆信を保護した。主家の大友氏に忠節を尽くし、天正6(1578)年の耳川の大敗では宗麟を逃がすために討死した。
b. 水堀に設けられた水門の扉を開閉することによって、城内の堀の水位が増減できるようなメカニズムを導入していた。
c. しかし翌年には龍造寺隆信から再三の和議と接待の申し入れがあり、当初は固辞していたが、遂に断れずに向かった佐嘉城近くで襲撃され自害、さらに柳川にいる一族もまた皆殺しとなり、蒲池一族は滅亡した。
d. 戸次(立花)道雪公は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で没した。天正13年9月11日、享年73。

岩屋城 − Iwaya Castle

衰退する大友家を支えた高橋紹運は岩屋城の甲ノ丸に立ち、島津軍と激しい攻防戦を繰り広げた

福岡県太宰府市の観世音寺(かんぜおんじ)にあった岩屋城は、太宰府政庁[a]大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。の背後にそびえる標高410mほどの四王寺山(しおうじやま)中腹にある急峻な岩屋山に築かれていた山城で、立花山城や宝満山(ほうまんやま)城とともに筑前御笠郡支配の要衝として、豊後国(ぶんごのくに)を拠点とする大友氏が城督を置いていた城郭である。その始まりは文明10(1478)年に周防国(すおうのくに)守護職の大内政弘[b]のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。が家臣を在城させていたのを初見とし、大内氏衰退後は大友氏の家臣・高橋鑑種(たかはし・あきたね)[c]大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。が宝満山城の支城とした。しかし鑑種は、永禄4(1561)年に同じ筑前の秋月種実(あきづき・たねざね)、肥前佐賀の龍造寺隆信としめし合わせて大友義鎮(おおとも・よししげ)に反旗を翻した[d]鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。。そして大友の軍勢を引きつけておいた隙に中国から毛利元就の大軍を招き入れたが、永禄10(1567)年に戸次道雪(べっき・どうせつ)[e]大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。が毛利軍を斬り崩し調略を加えて退去させた[f]実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。。鑑種は降伏して助命され入道して宗仙(そうせん)を名乗っていたが、不穏な空気をよんだ義鎮が同じ一族の吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の子・鎮理(しげまさ)に高橋家を継がせて[g]この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。対抗した。彼がのちに「忠義鎮西一」と呼ばれた高橋紹運である。

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a. 大和朝廷が移した宮家の一つで、奈良・平安時代をとおして九州を治め、西国の防衛と外国との交渉の窓口とした役所である。
b. のちに周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城といった七カ国の守護職を務めた戦国大名・大内義興の父である。
c. 大友氏庶流の一萬田氏の一族で、筑前高橋氏を継承し、主君・大友義鑑(おおとも・よしあき)の偏諱を受けて鑑種(あきたね)と改名した。
d. 鑑種の実兄・鑑相(あきざね)の妻に、主人である大友義鎮(のちの大友宗麟)が横恋慕し、鑑相を誅殺して奪い取ったことに憤慨したという説あり。
e. 大友家内外から闘将と畏怖された戸次鑑連(べっき・あきつら)、号して道雪。後世では立花道雪とも。大友家の三宿老の一人。
f. 実際には山中鹿介率いる旧尼子勢が出雲国に攻め込んだため、元就が九州撤退を決断した。
g. この時に高橋鎮種(たかはし・しげたね)と改名した。

宇和島城 − Uwajima Castle

伊達宗利が改修した宇和島城の天守は三層三階総塗籠で、独立式層塔型

愛媛県宇和島市は「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた、日本屈指のリアス式海岸地帯にある。その市街地のほぼ中央にあるのが宇和島城である。その歴史は、慶長元(1596)年から六年の歳月をかけて、関白秀吉から伊予国7万石を拝領した藤堂高虎がそれまで中世山城だった板島丸串城を近世城郭に改修し、大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張にしたところから始まる。その際に、高虎は三層三階の望楼型天守を建てた。そして慶長19(1614)年には伊達政宗の長子である秀宗が徳川秀忠から伊予国10万石を拝領し入国、石垣や天守、矢倉などが修築された。さらに時がながれ、徳川の治世になった寛文6(1666)年、二代目の伊達宗利の頃に天守が修築されて現在の三層三階の層塔型になった。この頃には「城が軍事拠点である」という重要性が薄れた時代であったため、それまで付いていた狭間や石落としが無くなり、代わりに千鳥破風や唐破風など装飾性の高いものが取り付けられた。その後、明治維新で天守・追手門を除く全ての建築物が解体、太平洋戦争では追手門が焼失した。現在は堀がすべて埋められ、三の丸をはじめ総曲輪部分約28万平方メートルは失われているが、本丸、二の丸などの曲輪約10万平方メートルの城山は国史跡に、そして現存12天守の一つに数えられる天守は国重要文化財に指定され、搦手口にある上り立ち門は慶長期の建築物の可能性が高いとして市指定文化財になっている。

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大洲城 − Ōzu Castle

清流肱川の畔に築かれた大洲城の天守は木造復元の複合連結式層塔型四層四階

愛媛県大洲市にある大洲城は肱川(ひじかわ)の畔にある地蔵ヶ岳と呼ばれた小さな丘を中心に築かれている。時代を遡ること元弘元(1331)年、その丘に宇都宮豊房が築いた居城が大洲城の始まりと言われており、さらに近代城郭として整備されたのは、天正13(1585)年に羽柴秀吉の四国平定後に道後湯築城を本拠とした小早川隆景の枝城になってからだと云う。これは、天正13(1585)年に入城した戸田勝隆、文禄4(1595)年に大洲城を居城とした藤堂高虎、そして慶長14(1609)年に淡路洲本から入城した脇坂安治の時代であり、慶長の時代には天守も築かれたという。そして、元和3(1617)年には米子から入城した加藤貞泰により大洲藩が藩立し、明治時代の廃藩置県まで続いた。加藤氏の時代には天災により大破した三の丸南隅櫓や苧綿櫓(おわたやぐら)、台所櫓、高欄櫓(こうらんやぐら)などが再建され、これらは昭和32(1957)年に国の重要文化財の指定を受けた現存建築物である。天守は明治時代に取り壊されたが、大洲市の市制50周年を迎えた平成16(2004)年には四層四階の天守として木造で復元された。大洲城は明治期の古写真や雛形、発掘史料が豊富であったため、往時の姿をほぼ忠実に復元できたと云う。また、一般的に建築基準法では、この規模の木造建造物は認められないが、保存建築物として適用除外の認可がおりたという。

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島原城 − Shimabara Castle

南東側から見た島原城の天守閣と巽櫓、そして屏風折れ高石垣
長崎県島原市にある島原城が建つ地はかっては森岳(または四壁山)と呼ばれ、肥前国大名の有馬晴信が本陣を構えて龍造寺隆信の軍を撃破した場所である。元和12(1616)年には、大和国の五条(奈良県)から入封した松倉重政が、ここに島原城を築いた。重政は、筒井家家老で島左近と共に松倉右近と呼ばれた松倉右近太夫重信の嫡男である。着工から4ないし7年の歳月を経て完成した。築城と同時に城下町の整備も行い、それまでの居所であった日之江・原城を廃城とした。島原城は、南北に本丸と二の丸と三の丸が並ぶ典型的な連格式平城で、外郭は周囲約4kmの塀を長方形に巡らし矢狭間を設け、7個の城門、33個の平櫓を配置した。内郭は堀で囲まれた本丸と二の丸を配置し、その北には藩主の居館である三の丸が設けられた。また、本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込め式で五層の天守閣をはじめ、隅櫓として3箇所に三層櫓がそびえ立つという四万石の新興大名にしては過分にして、豪壮堅固な城構えだった。築城時の過酷な夫役(ぶやく)と重税、そして前代の有馬氏は切支丹大名で布教活動も盛んだったのに対し、時代が禁教令へと変わったことも加えて、松倉氏の厳しい切支丹弾圧の結果、重政の嫡男勝家の時代、寛永14(1637)年に島原の乱が起こったことでも有名である。

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八代城 − Yatsushiro Castle

大天守と小天守が連結した八代城の天守台

現在の八代城は、元和元(1615)年に幕府より発布された一国一城令ののちも、熊本城とともに肥後一国を二城体制で維持することが特別に許された城である。熊本県八代市にあるこの城の特例が認められたのは、おそらく薩摩の島津家を牽制するためだと云われている。当時は熊本城と、麦島城(関白秀吉から肥後南半国を与えられた小西行長が築城した城)の二城体制であったが、元和5(1619)年の大地震により麦島城が倒壊したため、当時の熊本藩主であった加藤忠広が幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じて徳渕(とくぶち)にある津の北側に城を再建し、同8(1622)年に竣工した。これが現在の八代城である。寛永9(1632)年に加藤家が改易になり、豊前国小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父である細川三斎(忠興)が隠居城として、この八代城に入城した。
明治3(1870)年に八代城は廃城となり、同13(1880)年には八代町民の願いが叶い、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子懐良(かねよし)親王顕彰(けんしょう)のために本丸に八代宮を設置することとなり、同16(1883)年に社殿が落成した。その際は、本丸の南側にある石垣部分を開いて参道を設けたという。八代城は、八代市の中心的な歴史公園として、今もなお親しまれている。

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人吉城 − Hitoyoshi Castle

間米蔵跡と御館北側にある武者返しの石垣を持つ人吉城

熊本県人吉市にある人吉城は、鎌倉時代のはじめに征夷大将軍である源頼朝の命を受けて、人吉庄の地頭として遠江国から着任した相良長頼(さがら・ながより)により修築されたものであるが、本格的な山城としては文明2(1470)年頃の第十二代当主の相良為続(ためつぐ)の時と云われている。さらに羽柴秀吉の九州統一後の天正17(1589)年には、第二十代当主の相良長毎(ながつね)が豊後国から石工を招き、人吉城を石垣造りの城として改修した。慶長6(1601)年には本丸と二ノ丸、堀、櫓、御門まで完成し、慶長12(1607)年から球磨川沿いの石垣を築き始め、外曲輪が造られた。それから時は流れて、寛永16(1639)年に石垣工事は中止になるものの、この時点で近世人吉城のほとんどが完成した。この城はいわゆる梯郭式平山城であり、水運を利用するために、球磨川と胸川を外堀に見立てて石垣を築き、多くの船着場が設けられていた。藩祖長頼が修築した際に三日月文様の石が出土したことから「繊月城」または「三日月城」とも呼ばれている。人吉城は二度の大火に見舞われ、中でも文久2(1862)年の寅助火事(とらすけかじ)では城内にあった殆どの建物を焼失した。その翌年には、防火のために槹出(はねだし)という西洋の工法で御館(みたち)北側の石垣が造られた。この工法は函館の五稜郭、江戸湾の品川台場など近世の城では数例あるが、旧来の城跡に採用されたのは人吉城ただ一つである。明治4(1871)年の廃藩置県の後、城内の建物は立木とともに払い下げられ、現在は石垣だけが残っている。

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熊本城 − Kumamoto Castle

平左衛門丸から見上げた熊本城の大天守と小天守

国の特別史跡で日本三名城の一つに数えられ、さらには築城者で肥後熊本藩初代藩主でもある加藤清正の名前と共に、知らない日本人はいないほど有名な熊本城は熊本県熊本市の中心部に建ち、その堂々たる威容を誇って現在に至っている。時は天正15(1587)年、豊臣秀吉は九州を平定し、肥後を信長麾下で黒母衣衆筆頭だった佐々成政に与えたが、彼の検地に反抗した地侍連中が一揆を起こし、黒田、立花、島津の力を借りて、どうにか鎮圧したものの領地は召し上げられ、切腹の処分を受けた。その後、秀吉は肥後を二つに割って、北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に与えた。清正は佐々の居所であった隈本城に入り、行長は宇土城を居城とした。しかし、まもなく始まった朝鮮の役で前後七年間も朝鮮に渡っていたので、満足に城を手入れできずにいたが、秀吉が死去し、やっと帰国してみたら、その二年後に関ヶ原の戦が起こった。この時、清正は九州にいて徳川に大いに協力したので、主がいなくなった南半分も手に入れて、肥後一国五十二万石の主になった。そこで大大名に相応しい居城にすべく、慶長6(1601)年から、千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始め、慶長12(1607)年に完成させた。そして、この時に地名を隈本から熊本に改めた。「隈」の字は阜(おか)に畏(おそ)れると書くので、それでは武士の居城としてはみっともないというのが理由だった。彼は朝鮮の役で苦労し経験したこと、そして異国でみた城壁についても学んでいたので、それらを熊本城の築城に生かしたという。その結果、城郭の周囲は5.3km、面積は98万㎡、城内に大天守と小天守、49の櫓、18の櫓門、29の城門、120以上の井戸を備えた堅牢無比の城になった。

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徳島城 − Tokushima Castle

徳島城の三木曲輪からみた下乗橋(げじょうばし)と内堀

徳島県徳島市の徳島城は、秀吉が木下藤吉郎と呼ばれていた頃からの古参である小六こと蜂須賀正勝の嫡男・家政が、天正13(1585)年に吉野川河口に立つ標高約61mの渭山(いのやま)に築いた悌郭式平山城である。もともとは秀吉の側近として常に付き従っていた小六が、四国攻めの取次ぎ後に長曽我部元親に対する抑えとして阿波一国を与えられたものの、自分はいつまでも秀吉の近くで仕えることを希望してこれを辞退し、家政に拝領させたものである。家政は、渭山の山頂に本丸を置き、その周囲に西二の丸、西三の丸と東二の丸を配置して詰城とし、麓には御殿を建てた。築城にあたっては、伊予の小早川隆景や土佐の長曽我部元親、比叡山の僧侶らが協力したと云う。本丸にあった初代の天守は元和期に取り壊されたため、なんと、その後は本丸の一段下にある東二の丸に天守が建てられた。石垣は阿波の「緑色片岩」(りょくしょくへんがん)を用い、特に本丸周囲の高石垣は緑色の石垣になっている。一方、西の丸の石垣は屈折を繰り返し、横矢がかりの工夫が際立つものになっている。徳島城は、その後、藩主の居城として徳島藩のシンボルであったものの、明治時代の廃城令で解体され、さらに太平洋戦争で鷲の門が焼失するなどしたが、現在は市民の善意で鷲の門が再建されたり、見応えのある石垣や庭園などが残っている。

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