岩国城は望楼型四層五階の模擬天守

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに敗れた毛利家は周防・長門二カ国の三十七万石に減封(改易)されたが、その一門である吉川広家は本家防衛のために伯耆の米子からここ岩国へ移り、岩国城を築城した。この岩国城は、現在の山口県岩国市にある標高200mほどの要衝・横山の山頂に築いた「横山城」と、その麓に建てた居住地ならびに政務を行うための「御土居(おどい)」という館から構成されていた。これは、戦時には横山城に籠もり、平時は麓の館で生活するという中世の流れを組む典型的な山城である。横山の三方を迂回する錦川が天然の外堀となり、川向うで町割りを行って城下町が形成され、山頂の本丸には四層五階で南蛮造りの天守が建造されいた。しかし、完成からわずか七年後の元和元(1615)年に幕府の一国一城令により、その天守や建物が破却され廃城となった。

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