城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 安芸国

現在の広島県で、安芸国《アキノクニ》または芸州《ゲイシュウ》と呼ばれた

古高山城 − Aki Takayama Castle

全国でも五指に入る規模を持つ古高山城は、谷を挟んで南北にある尾根上に築かれていた

広島県三原市高坂町にある安芸高山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるが、その一方で別名で呼ばれるのが一般的である。ここ安芸高山城は新高山城に対して古高山と云う別名がある。は今から800年以上も前は鎌倉時代の建栄元(1206)年に、沼田小早川氏四代目の茂平《シゲヒラ》が築城した山城である。茂平ら沼田小早川氏は源頼朝の平氏追討にあたって終始勲功を挙げた土肥実平《ドヒ・サネヒラ》を祖とし、相模国から安芸国沼田《アキノクニ・ヌタ》荘に移り住み、それまでの村名を引き続き使用して、ここ沼田でも小早川姓を名乗っていた。のちに竹原小早川家に分家したが、本家の沼田小早川家は沼田川対岸の新高山城に移るまでの四代約350年の間、ここ古高山城を居城としていた。この城は沼田川東岸にそびえる標高191mの山塊の、中央にできた谷を挟んで南と北にそれぞれ東西に延びる尾根に築かれた連郭式縄張りを持つ。その城域は約41万㎡にも及び、現在全国でも五指に数えられる広大な規模を有していた。尾根には9つの曲輪といくつかの出丸があり、中央の広く低い谷には馬場があった。天文10(1541)年に分家である竹原小早川家の養子に入っていた毛利元就の三男・徳寿丸こと小早川隆景は、若干20歳の時に病弱な本家の当主に代わって沼田小早川家を継ぎ[b]尼子氏の圧迫を受けていた周防国の戦国大名である大内義隆が病弱で盲目であった時の当主・小早川繁平《コバヤカワ・シゲヒラ》に憂慮して隠居させたと云う説が有力である。、ここに両家が統合されたが、隆景は両家と領民の「人心一新」のために古高山城を廃城として、新高山城に居城を移した。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるが、その一方で別名で呼ばれるのが一般的である。ここ安芸高山城は新高山城に対して古高山と云う別名がある。
b 尼子氏の圧迫を受けていた周防国の戦国大名である大内義隆が病弱で盲目であった時の当主・小早川繁平《コバヤカワ・シゲヒラ》に憂慮して隠居させたと云う説が有力である。

新高山城 − Niitakayama Castle

沼田川を天然の外堀として鋭く急峻な山に築かれた新高山城は小早川家の居城だった

鎌倉時代に源頼朝の平氏追討にあたって終始勲功を挙げた土肥実平《ドヒ・サネヒラ》は相模国を中心に勢力を持っていた有力豪族の相模土肥家の先祖にあたり、はじめ吉備三ヶ国(備前、備中、備後)の守護の地位を与えられ、のちに安芸国沼田荘がある沼田川《ヌタガワ》流域一帯の地頭職を得ると、一族あげて相模国から西遷してきた。彼の嫡子・遠平《トオヒラ》は相模国土肥郷の小早川村に居館を築いていたことから、ここ沼田荘でも小早川氏を名乗り、のちに沼田小早川家と竹原小早川家に分かれることになる。その遠平の孫にあたる茂平《シゲヒラ》は沼田小早川氏を相続し、居城を沼田川東岸にある古高山城[a]正式名は安芸高山城。この新高山城と区別するために古高山城または妻高山城とも呼ばれている。とした。天文10(1541)年、竹原小早川家の当主は継嗣なく早世したため、この時期に安芸国の新興勢力として台頭していた毛利元就の三男・徳寿丸[b]のちの小早川隆景。を養子に迎えた。奇しくも、この時期に沼田小早川家の当主が病気にて隠居となったため、これも継いで両家が一つになった。そのため隆景は両家と領民の人心一新[c]環境を変えるなどして、人々の心を全く新しくすること。のため、天文21(1552)年に古高山城の副塁であった新高山城の大改修を行い、後に伊予湯築城や筑前名島城といった居城をいくつか築くことになるが、慶長元(1596)年に三原城に移るまでの45年間、小早川家の本拠地とした。

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a 正式名は安芸高山城。この新高山城と区別するために古高山城または妻高山城とも呼ばれている。
b のちの小早川隆景。
c 環境を変えるなどして、人々の心を全く新しくすること。

広島城 − Hiroshima Castle (TAKE2)

三度目の広島城攻めでは前回見忘れた非常に「レアな石垣」を見てきた

広島県広島市にある広島城は、戦国時代に本拠地とした毛利家が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の敗戦により周防・長門二カ国の改易された後は、豊臣恩顧の大名でありながら東軍で戦功のあった福島正則が安芸国と備後鞆49万8000石で入城し、毛利家の監視という役目を担いつつ、領国経営と城下町の整備を行っている。翌6(1601)年の正月には家臣総出で広島城の普請を行い、わざわざ近江国から石垣普請の専門家である穴太衆《アノウシュウ》を雇い入れた。当時の広島城の外郭部分は福島氏の時代に整備されたとする説が有力で、加えて洪水対策として太田川沿いの堤防を対岸よりも高くするなどの(護岸)工事が行われていたと記録されている。しかしながら、後にその天災が「仇」となる。元和3(1617)年の大洪水で破損した石垣を幕府に無届で改修したことが、これが武家諸法度違反に問われてしまう。参勤交代で江戸にいた正則は幕府に謝罪し、改修した部分を破却することを約束して一度は治まったが、実際には本丸部分だけ破却し、二の丸や三の丸は対象外としたことが破却不十分として再び咎められ、結局、同5(1619)年に信濃国川中島二郡の4万5000石に減封・転封となる。正則は、その後、嫡男・忠勝に家督を譲り隠居した。

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亀居城 − Kamei Castle

亀居城の本丸虎口は枡形ではなく鉤形だった

広島県大竹市にある亀居城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で功績のあった東軍で豊臣恩顧の大名の福島正則が、西軍総大将だった毛利氏を監視するために安芸国西部の西国街道(山陽道)を押さえる要地の砦跡に築いた平山城である。正則は甥の福島伯耆を城主としておき[a]完成を見ることなく死去し、城代を置くことになるが。、慶長8(1603)年から五年の歳月をかけて完成した城は、瀬戸内海に面し、総面積がおよそ十万㎡で、標高88mの山頂に天守を持った本丸を配置し、この他に二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸など11個の曲輪を配置して、海に面していない側は新町川や海水を導入した水堀や空堀を巡らした巨大な堅城であった。しかしながら、築城からわずか3年後の慶長16(1611)年には廃城になってしまった。その理由は、ちょうどこの時期に徳川家と豊臣家の関係が悪化し、豊臣恩顧の猛将である福島正則は幕府からの圧力が非常に厳しかった。福島正則は幕府に対して二心が無いことを示すために、素直に命令に従って破却したと云う。

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a 完成を見ることなく死去し、城代を置くことになるが。

広島城 − Hiroshima Castle

広島城は複合連結式望楼型五層五階の天守閣

広島県広島市にある広島城は、西国の雄である毛利氏が、それまでの拠点だった安芸の吉田郡山城から広島へ本拠地を移した際に築城した輪郭式平城である。これは豊臣政権となって太平の世を迎えたことで、それまでの「戦う山城」から「商を促進する平城」への大きな転換である。制限の多い山間部では本拠地としての繁栄は望めず、また海上交易路を持つ瀬戸内海の水運を活かし、商業を中心とした城下町にするのであれば平野がある海沿いの土地へ移動すべきという考えからで、当時の毛利家第十四代当主の輝元は、天正16(1588)年に豊臣秀吉に謁見した際に大坂城と聚楽第をみて、その豪壮さと繁栄を目の当りのし、郡山城のような山城はすでに時代遅れだと悟ったとされる。しかしながら、その築城は当初の予定から大きく遅れ、完成までに10年を要した。広島の太田川河口の三角州は地盤が弱かったことが大きな原因とされる。完成が慶長4(1599)年で、次の年に起こった関ヶ原の合戦で敗れた輝元は周坊・長門の国へ転封になった:O

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吉田郡山城 − Yoshida-Koriyama Castle

吉田郡山城跡の遠景

郡山城
これもまた二ヶ月ほど前の城攻めで、郡山城跡。かなり昔に読んだ雑誌で紹介され、「毛利元就vs尼子晴久」の戦いの舞台となった城。その時のイラスト図がまさに「全山要塞化された究極の山城」といったキャッチフレーズで、複数の曲輪が独立して籠城戦を行うことが可能な備えになっていたとかで、後に陶隆房ら大内氏の援軍が来るまで、麓の農民らを加えた8000余りの軍勢で2万の尼子を翻弄したらしい。とういうことで、是非とも攻めてみたい魅力ある城跡だった。

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