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城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 近畿・中国地方 (1 / 3 ページ)

近畿と中国地方に存在する古城や古戦場

古高山城 − Aki Takayama Castle

全国でも五指に入る規模を持つ古高山城は、谷を挟んで南北にある尾根上に築かれていた

広島県三原市高坂町にある安芸高山城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるが、その一方で別名で呼ばれるのが一般的である。ここ安芸高山城は新高山城に対して古高山と云う別名がある。は今から800年以上も前は鎌倉時代の建栄元(1206)年に、沼田小早川氏四代目の茂平(しげひら)が築城した山城である。茂平ら沼田小早川氏は源頼朝の平氏追討にあたって終始勲功を挙げた土肥実平(どひ・さねひら)を祖とし、相模国から安芸国沼田(ぬた)荘に移り住み、それまでの村名を引き続き使用して、ここ沼田でも小早川姓を名乗っていた。のちに竹原小早川家に分家したが、本家の沼田小早川家は沼田川対岸の新高山城に移るまでの四代約350年の間、ここ古高山城を居城としていた。この城は沼田川東岸にそびえる標高191mの山塊の、中央にできた谷を挟んで南と北にそれぞれ東西に延びる尾根に築かれた連郭式縄張りを持つ。その城域は約41万㎡にも及び、現在全国でも五指に数えられる広大な規模を有していた。尾根には9つの曲輪といくつかの出丸があり、中央の広く低い谷には馬場があった。天文10(1541)年に分家である竹原小早川家の養子に入っていた毛利元就の三男・徳寿丸こと小早川隆景は、若干20歳の時に病弱な本家の当主に代わって沼田小早川家を継ぎ[b]尼子氏の圧迫を受けていた周防国の戦国大名である大内義隆が病弱で盲目であった時の当主・小早川繁平(しげひら)に憂慮して隠居させたと云う説が有力である。、ここに両家が統合されたが、隆景は両家と領民の「人心一新」のために古高山城を廃城として、新高山城に居城を移した。

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a. 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるが、その一方で別名で呼ばれるのが一般的である。ここ安芸高山城は新高山城に対して古高山と云う別名がある。
b. 尼子氏の圧迫を受けていた周防国の戦国大名である大内義隆が病弱で盲目であった時の当主・小早川繁平(しげひら)に憂慮して隠居させたと云う説が有力である。

津和野城 − Tsuwano Castle

江戸時代に総石垣で改築された津和野城の南側は人質曲輪が三の丸に張り出していた

明治の世になるまでは津和野藩亀井氏の城下町であり、その古い町並みや佇まいをもって現在でも「山陰の小京都」と称される島根県鹿足郡(かのあしぐん)津和野町にある標高362mほどの霊亀山(れいきさん)の尾根を削平し曲輪を設け、堀切や竪堀・横堀で堅固とした津和野城は中世時代にあっては典型的な山城であった。鎌倉時代には、北九州への二度にわたる元(蒙古)軍の来襲を受けて、幕府は西石見の海岸防備を能登国の吉見頼行に命じ、ここ木曽野[a]現在の津和野町付近の旧名。へ地頭として下向させた。その頼行は永仁3(1295)年から約30年の歳月をかけて城[b]吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。を築いた。以後吉見氏は十四代300年にわたって増築補強を繰り返した。戦国時代になると吉見氏は、天文23(1554)年に大内氏・陶氏・益田氏らの大軍に包囲されながらも100日余の籠城戦にたえた「三本松城の役」を経てのちに西国の雄・毛利家の支配下に入り、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は萩へ退転した。その翌年、坂崎出羽守直盛[c]浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。が初代津和野藩主として3万石で入封し、本城を総石垣にして出丸を築き、現在みることができる近世城郭に大改修した。のちに坂崎氏が断絶すると、亀井政矩(かめい・まさのり)が入封し十一代に渡って津和野藩主を務めた。

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a. 現在の津和野町付近の旧名。
b. 吉見氏が築いた時は一本松城と呼んでいたが、いつの間にか三本松城と呼ばれるようになったらしい。
c. 浮田忠家の長男で初名は浮田詮家(うきた・あきいえ)で、宇喜多直家の甥であり宇喜多秀家の従兄にあたる。秀家とは折り合いが悪く、御家騒動後の関ヶ原の戦では主家と袂を分かち東軍に与し、浮田の名を棄てて坂崎と改めた。

新高山城 − Niitakayama Castle

沼田川を天然の外堀として鋭く急峻な山に築かれた新高山城は小早川家の居城だった

鎌倉時代に源頼朝の平氏追討にあたって終始勲功を挙げた土肥実平(どひ・さねひら)は相模国を中心に勢力を持っていた有力豪族の相模土肥家の先祖にあたり、はじめ吉備三ヶ国(備前、備中、備後)の守護の地位を与えられ、のちに安芸国沼田荘がある沼田川(ぬたがわ)流域一帯の地頭職を得ると、一族あげて相模国から西遷してきた。彼の嫡子・遠平(とおひら)は相模国土肥郷の小早川村に居館を築いていたことから、ここ沼田荘でも小早川氏を名乗り、のちに沼田小早川家と竹原小早川家に分かれることになる。その遠平の孫にあたる茂平(しげひら)は沼田小早川氏を相続し、居城を沼田川東岸にある古高山城[a]正式名は安芸高山城。この新高山城と区別するために古高山城または妻高山城とも呼ばれている。とした。天文10(1541)年、竹原小早川家の当主は継嗣なく早世したため、この時期に安芸国の新興勢力として台頭していた毛利元就の三男・徳寿丸[b]のちの小早川隆景。を養子に迎えた。奇しくも、この時期に沼田小早川家の当主が病気にて隠居となったため、これも継いで両家が一つになった。そのため隆景は両家と領民の人心一新[c]環境を変えるなどして、人々の心を全く新しくすること。のため、天文21(1552)年に古高山城の副塁であった新高山城の大改修を行い、後に伊予湯築城や筑前名島城といった居城をいくつか築くことになるが、慶長元(1596)年に三原城に移るまでの45年間、小早川家の本拠地とした。

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a. 正式名は安芸高山城。この新高山城と区別するために古高山城または妻高山城とも呼ばれている。
b. のちの小早川隆景。
c. 環境を変えるなどして、人々の心を全く新しくすること。

米子城 − Yonago Castle

伯耆富士・大山の眺望が素晴らしい米子城本丸の天守台脇一段下には副天守があった

鳥取県米子市久米町は湊山(みなとやま)公園にある標高90mほどの湊山山頂には米子城本丸の石垣が残されているが、今からおよそ550年前の応仁〜文明年間(1467〜1487年)に伯耆(ほうき)国の守護職であった山名教之(やまな・のりゆき)の家臣・山名宗之によって飯山(いいのやま)築かれたのが米子城の始まりとされる。そして現在のような梯郭式平山城になったのは、西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった毛利一族の吉川広家が、天正19(1591)年にそれまでの居城であった月山富田城に代わって、ここ湊山に築いた頃である。しかしながら広家は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では主家に従って西軍につき、戦後は岩国[a]吉川広家はのちに岩国城を築いている。に転封されたため築城が中断となった。代わって伯耆18万石で入封した中村一忠(なかむら・かずただ)が築城を再開し、慶長7(1602)年に近代城郭としての米子城が完成した。このような経緯であったため、広家の築いた四重櫓の隣に一忠が四層五階の天守を築いたことで、本丸には天守と副天守の二つが並ぶ威容を誇っていたと云われ、後年には鳥取藩主の居城であった鳥取城を凌ぐほどであった。そして元和元(1615)年に幕府が発布した一国一城令[b]立案は初代将軍・家康、発令は二代将軍・秀忠。一国に大名が居住あるいは政令とする一つの城郭を残し、その他の城は全て廃城にすべしと云う法令。においても、米子城は例外扱いとされて幕末までその姿を残した。

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a. 吉川広家はのちに岩国城を築いている。
b. 立案は初代将軍・家康、発令は二代将軍・秀忠。一国に大名が居住あるいは政令とする一つの城郭を残し、その他の城は全て廃城にすべしと云う法令。

本䏻寺の変ゆかりの地と織田信長公墓所 − We have no other way at Honnō-ji Temple

信長公と共に炎上焼失した本䏻寺跡には、現在は石碑が建つのみである

天正10(1582)年6月2日の早暁、水色桔梗の旗にとり囲まれた信長公の宿所である本䏻寺[a]本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。。明智日向守光秀の軍勢およそ1万3千が押し寄せた当初、信長もお小姓衆も下々の者らが喧嘩をしているものと思ったそうだが然に非ず、明智勢が鬨の声を上げて本䏻寺の御殿に鉄砲を撃ち込んできた。寝所に居た信長は小姓の森蘭丸に「さては謀叛だな。誰の仕業か。」と問いただすと、蘭丸が「明智日向守の軍勢と見受けします。」と応えた。信長は「是非に及ばず」(We have no other way…)と一言。明智勢は間断なく御殿へ討ち入ってくる。表の御堂に詰めていた御番衆も御殿へ合流し一団となって防戦した。信長は初めは弓をとり、二、三回取り替えて弓矢で応戦したが、どの弓も時が経つと弦(つる)が切れてしまったので、その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受け殿舎に退いた。既に殿舎は火をかけられて近くまで燃え広がっていたため、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、殿舎の奥深くへ入り、内側から納戸を閉めて無念にも自刃した。同じ頃、嫡子信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとするが京都所司代・村井貞勝父子に止められ、隣接する二条新御所[b]これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。のちに皇室に献上した。に立て籠もるが、明智勢は京都御所付近から矢や鉄砲を打ち掛け、信忠も抗戦叶わず自刃した。

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a. 本能寺は幾度か火災に遭遇したため「匕」(火)を重ねるを忌み、「能」の字を特に「䏻」と記述するのが慣わしとなった。また、ここで発掘された瓦にも「䏻」という字がはっきりと刻まれていたらしい。本記事でも特に断りがない限り「本䏻寺」と記す。
b. これは織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築いた旧二条城ではなく、天正4(1576)年に二条衣棚にあった妙覚寺に隣接する関白二条晴良の屋敷跡を信長自らの宿所とするために築いた邸宅で、小さいながらも堀を持つ砦であった。のちに皇室に献上した。

広島城 − Hiroshima Castle (TAKE2)

三度目の広島城攻めでは前回見忘れた非常に「レアな石垣」を見てきた

広島県広島市にある広島城は、戦国時代に本拠地とした毛利家が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の敗戦により周防・長門二カ国の改易された後は、豊臣恩顧の大名でありながら東軍で戦功のあった福島正則が安芸国と備後鞆49万8000石で入城し、毛利家の監視という役目を担いつつ、領国経営と城下町の整備を行っている。翌6(1601)年の正月には家臣総出で広島城の普請を行い、わざわざ近江国から石垣普請の専門家である穴太衆(あのうしゅう)を雇い入れた。当時の広島城の外郭部分は福島氏の時代に整備されたとする説が有力で、加えて洪水対策として太田川沿いの堤防を対岸よりも高くするなどの(護岸)工事が行われていたと記録されている。しかしながら、後にその天災が「仇」となる。元和3(1617)年の大洪水で破損した石垣を幕府に無届で改修するが、これが武家諸法度違反に問われてしまう。参勤交代で江戸にいた正則は幕府に謝罪し、改修した部分を破却することを約束して一度は治まったが、実際には本丸部分だけ破却し、二の丸や三の丸は対象外としたことが破却不十分として再び咎められ、結局、同5(1619)年に信濃国川中島二郡の4万5000石に減封・転封となる。正則は、その後、嫡男・忠勝に家督を譲り隠居した。

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和歌山城 − Wakayama Castle

外観が復興された和歌山城の天守閣は浅野幸長が手がけた連立式層塔型三層三階

和歌山県和歌山市にある和歌山城は、天正13(1585)年に羽柴秀吉が紀州を平定したのちに、異父兄弟の秀長に命じて虎伏山(とらふすやま)の峰に築城させたものがはじまりだとか。この時、藤堂高虎らが普請奉行を務め、彼が手がけた最初の本格的な近世城郭となった。この時、大納言秀長は大和郡山城を居城としていたため、城代として桑山重晴が入城した。その後、秀長のお家が断絶すると、桑山重晴が城主となった。彼の時代に山嶺部分や大手口として岡口が整備された。それから慶長5(1600)年の関ヶ原の戦ののちに、浅野幸長(あさのよしなが)が37万6千石で領主となり、城の大規模な増築を進めた。この時に連立式天守閣が建てられ、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷が造営された。さらに大手門を岡口門から一の橋の門に変えて、本町通りを大手筋として城下町が整備された。元和5(1619)年には、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が藩立する。頼宣の時代に、二の丸を拡張し南の丸と砂の丸が内郭に取り込まれて、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。紀州徳川家は「南海の鎮(しずめ)」として、西日本を監視する中心的な存在となり、のちに八代将軍吉宗や十四代将軍家茂を輩出した。明治4(1871)年の廃藩置県により、陸軍の管轄下に置かれ、明治34(1901)年に和歌山公園として開放された。豊臣期、浅野期、徳川期の3期に渡ってそれぞれ築かれた石垣は、石の種類や工法(野面積み→打込接→切込接)が異なっており、それが見所の一つとなっている。

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岸和田城 − Kishiwada Castle

復興された岸和田城の天守閣は三層三階だが、本来は五層であった

大阪府岸和田市にある岸和田城はいつ、誰によって建てられたのか子細を記す古文書などは存在しておらず、伝承として建武新政期に軍神・楠木正成の一族、和田高家が岸という土地に拠点を構えたのがその始めと云われ、そこから「岸和田」と呼ばれるようになったとか。時代が中世に入ると三好義賢が改修し、織田信長が畿内を掌握した後は石山合戦の支城として、家臣の津田信張と蜂屋頼隆が在城した。豊臣秀吉の時代に入ると家臣の中村一氏を入城させて、紀州の根来寺や雑賀衆への抑えとした。一氏は紀州勢の大軍を相手に城を守りぬき、天正13(1585)年、秀吉は岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちし、泉州(せんしゅう)地域から根来寺勢を一掃した。それから秀吉は叔父の小出秀政を城主とし、城下町と城郭の整備に当たらせた。この時に、岸和田城の天守閣が建てられたと云う。豊臣家が滅亡すると、松平(松井)康重・康映を経て、寛永17(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めた。江戸時代の岸和田城は、大坂の南の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たした。この時の天守閣は五層で、他の城と同様に、天守閣の壁に立派な腰板が張られている姿が城郭普請絵図に描かれている。天守台の大きさを当時の岡山城(池田氏31万5200石)のそれと比較して換算すると、三十万石クラスの規模であったと云う。しかしながら、文政10(1827)年に落雷によって天守閣が焼失し、明治維新の動乱で櫓や門が破壊され、以後永らく再建されることはなかったが、昭和29(1954)年に鉄筋コンクリート製で三層の天守閣が復興され、昭和44(1969)年には城壁と隅櫓が再建された。

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真田幸村と大坂の陣 − Yukimura Sanada is Number One Warrior in Japan

あたかも真田丸から采配を振るっているかのような真田幸村の銅像

天下分け目の関ヶ原から十四年後の慶長19(1614)年、方広寺鐘銘事件で江戸に幕府を開いた徳川家との緊張が頂点に達していた豊臣家。内府こと徳川家康は淀君人質や大坂の国替えなど無理難渋を豊臣家に突きつけ、ついには東西手切れに傾き、その年の12月に大坂冬の陣が始まった。徳川側の兵力約20万人に対し、豊臣側はその半分の10万人程。緒戦の豊臣軍は城外に出て木津川口や鴻野・今福と言ったいくつかの砦で激戦を繰り広げたが、結局は大坂城へ撤退する。この時齢49歳の真田幸村こと真田左衛佐(さえもんのすけ)信繁は、配流先の九度山を息子の大助(幸昌)や旧臣らと共に脱出し、大坂城に入城していた。当初、幸村は進撃してくる徳川軍を近江の瀬田川辺りで迎撃し、冬の川を渡る敵軍に銃撃を浴びせ、足止めする間に寝返る大名らが出てくるだろうと主張したのに対し、淀の御方の「鶴の一声」によって難攻不落と謳われた大坂城での籠城策に決した。そこで幸村は大坂城で唯一の弱点とされていた城の南東にある玉造口(たまづくりぐち)の外に大きな出丸(真田丸)を築く。この真田丸は、まさに甲州流軍学の流れをくむ三日月形の堀と柵を備えた巨大な馬出であった。徳川側も大坂城の弱点となる、この地には前田利常、井伊直孝、松平忠直といった多くの大名を配置し、その後方には徳川家康・秀忠らの本陣を置いた。幸村は5千の兵でこれら2万の兵と対峙することになる。一方の家康は、関ヶ原の戦などで幸村の父・昌幸に散々に蹴散らされた苦い経験があることから、諸将には無闇な攻撃を自重してプレッシャーをかけてほころびが出るのを待つ戦略を言い含めていたが、真田丸と向かい合っていた前田利常ら加賀勢が真田丸からの執拗な挑発に苛立ち、ついに策略に釣られて真田丸へ押し出してきた。そして、赤備えで軍装を統一し士気を高めていた幸村ら真田丸からの一斉射撃で、大坂城攻防戦の幕が切って落とされた。

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大坂城 − Osaka Castle

大坂城の復興天守は五層八階で、徳川期と豊臣期が混ざっていた

明応5(1496)年、本願寺八世蓮如上人が四天王寺の西にある石山という小さい丘に石山御坊という一向宗の道場を開いた。この石山という地名は、はるか昔に聖徳太子が四天王寺を築くにあたって地ならしした時に出た石を集めて埋めたことが由来であるとか。そして大坂という地名は、この蓮如上人が「摂州生玉荘内大坂という在所」と書き残しているのが史料上に現れる初例だという。その後、この石山御坊は石山本願寺に昇格し、本願寺第十一世顕如光佐の時代には第六天魔王・織田信長との抗争の舞台となる。顕如が正親町(おおぎまち)天皇からの講和の勅旨(ちょくし)を受け入れて、11年間にわたる抗争に終止符を打ち、石山本願寺を退去したその跡地に、豊臣秀吉が天正11(1585)年から築城を開始し、天下人に相応しい大城郭を築きあげたのが大坂城の始まり。それからは絢爛豪華な安土桃山文化に浸り、幾度かの戦火にもまれて、ついには落城した。その後は徳川家による泰平の時代に全面再築され、幕府直轄地として西国支配の拠点になるものの、明治維新の動乱、さらには太平洋戦争の空襲などで多くの建造物を焼失した。なお、徳川家によって再築された天守閣は、江戸初期の寛永6(1629)年に落雷により焼失し、それ以来、実に300年近くも再建されることはなかった。そして戦後の昭和6(1931)年に、現在ある鉄筋コンクリート製の天守が竣工した。このような複雑な事情を持ち、今や「天守閣」の代名詞ともなっている大坂城は大阪府大阪市中央区の大阪城公園として整備されている。

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