城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 遠江国

現在の静岡県北西部(大井川以西)で、遠江国(とおとうみのくに)または遠州(えんしゅう)と呼ばれた

菩提山城 − Bodaisan Castle

標高402mの菩提山城の本曲輪跡下には急峻な切岸が残る(おしろんだい)

西美濃[a]現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称を中心にそびえる伊吹山系東端に位置する標高402mの菩提山[b]この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。にあって南北約350m、東西150mの規模を有していた菩提山城は、天文13(1544)年に美濃国守護職・土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》が、美濃国不破郡岩手郷[c]現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。を治めていた美濃岩手氏[d]岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。に宛てた書状に初めて登場し、西美濃が接する近江国の浅井《アザイ》氏と六角氏の動静を監視する目的として築かれた山城であった。美濃岩手氏三代当主・元重の子に重道がおり、これが竹中氏の祖にあたり、美濃国を統治した斎藤山城守道三亡き永禄元(1558)年には重道の子・重元《シゲモト》が本家にあたる岩手信冬を攻めて追放し、この城を手に入れたと云う[e]これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。。岩手一帯6千貫を治める領主となった重元が隠居して、家督を継いだ半兵衛重治は斎藤龍興に仕えて稲葉山城下に居館を置く一方、ここ菩提山城は竹中氏の本城とした。山頂の主郭部を中心に大規模な堀切や複数の虎口で守られた西美濃最大級の山城は、重治の子・重門が城の機能を竹中氏陣屋に移した後に廃城となった。

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a 現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称
b この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。
c 現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。
d 岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。
e これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。

鳥羽山城 − Tobayama Castle

鳥羽山城は堀尾氏が改修し道幅6mを越えていたとされる大手道が残る

元亀3(1572)年に甲斐国の武田信玄が大軍を率いて遠江国の徳川家康領に侵攻を開始、兵数で劣る家康の手勢を分散させるため、守備の薄い城を次々に陥落させることで掛川城諏訪原城、そして浜松城といった家康の拠点を孤立させた。つづいて信玄は自軍の補給路を確保するために二俣城を包囲するも、この城の天嶮に阻まれて近寄ることができなかったが[a]もちろん家康も後詰を送れずにいた。、ついには水の手を絶つことに成功し降伏開城させた。こののち信玄は三方ヶ原台地で家康と織田信長の援軍を痛破し東海道を押し進む動きをみせたものの、翌4(1573)年に急死して上洛戦は幻となった。そして機山公[b]武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。の喪が明けた天正3(1575)年に、跡目を継いだ四郎勝頼が信長ら連合軍に無二の決戦を挑んだ長篠・設楽原合戦で惨敗すると[c]これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。、ついに家康の反撃が開始され、二俣城奪還のため旧・二俣川[d]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。対岸に鳥羽山城を築き、周囲の附城と共に包囲網を形成したと云う。この城は、現在は静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある鳥羽山公園として市民の憩いの場になってる。

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a もちろん家康も後詰を送れずにいた。
b 武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。
c これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。
d 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。

二俣城 − Futamata Castle

二俣城の本丸西側には石段を持つ野面積みの天守台が残る

静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990にある城山公園は、天竜川と旧・二俣川[a]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。が合流する天然の要害に築かれた山城跡で、戦国時代中頃に遠江国を斯波氏から奪還した駿河国の今川氏輝[b]今川家第十代当主。父は氏親、母は寿桂尼《ジュケイニ》。弟に十一代当主の義元がいる。天文5(1536)年に突然死で謀殺など死因には諸説ある。が重臣の松井貞宗に命じて築かせたのが始まりとされる。ここ二俣の地は遠江の平野部と山間部の結節点に位置し、遠江各地への街道が交差する要衝であり、今川氏衰退後は甲斐国の武田氏と三河国の徳川氏による激しい争奪戦の舞台になった。この城は、北を除く三方が川によって形成された崖地だったので、搦手にあたる北側尾根筋を遮断するだけで守りに堅固な城になった。永禄11(1568)年に武田信玄が今川義元亡き駿河国へ侵攻、同時に徳川家康も遠江国で大井川を境に西側の領土を略して二俣城を手に入れた。しかし元亀3(1572)年には信玄が大軍を率いて家康領に侵攻を開始、山縣昌景ら別働隊が二俣城を包囲するも城の天嶮に阻まれ近寄ることができなかったが家康も後詰を送れず水の手を絶たれて降伏開城するに至り、城は武田氏の手に落ちた。

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a 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。
b 今川家第十代当主。父は氏親、母は寿桂尼《ジュケイニ》。弟に十一代当主の義元がいる。天文5(1536)年に突然死で謀殺など死因には諸説ある。

三方ヶ原古戦場 − The Battle of Mikatagahara

浜松城の前を素通りした武田信玄は、追撃してきた徳川家康勢を三方ヶ原で迎え撃った

永禄12(1569)年の三増峠の戦いで相模国の北條氏康を抑えて事実上、今川領への駿河侵攻を完了させた武田信玄は、元亀3(1573)年10月3日に大軍を率いて徳川家康が領する三河・遠江方面への侵攻を開始した。一方、桶狭間の戦いで旧主・今川義元が斃れてから悲願の独立を目論んでいた家康であったが、清須同盟以降、尾張国を統一した織田信長とは対等な関係ではなく「家臣の一人」として、この新しい主が推し進める天下布武の一翼を担う立場にあった。信玄は、その天下布武の蚊帳の外に追いやられていた足利義秋[a]「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。が号令した信長包囲網に応えるため、山縣昌景・秋山虎繁(あきやま・とらしげ)[b]諱(いみな)として有名なのは「信友(のぶとも)」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ、「武田の猛牛」と渾名された。ら5千を別働隊として先発させて信濃・遠江国境にある青崩峠(あおくずれとうげ)から、そして自らが率いる2万2千の本隊は駿河から大井川を渡って、それぞれ遠江国へ侵攻した。別働隊は徳川方の掛川城高天神城を結ぶ要所にある二俣城を包囲、その間に偵察に現れた本多忠勝ら徳川勢3千を苦もなく蹴散らした後、信玄率いる本隊も合流して二俣城を開城・降伏させると、12月22日には天竜川を渡って南下、甲軍2万7千は怒涛の如く家康が籠城する浜松城に迫ったが、まるで家康をあざ笑うかのように突如、城を迂回して三方ヶ原台地へと向かった。

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a 「義昭」とも。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴、兄は同第13代将軍・足利義輝である。奈良興福寺で仏門に仕えていたが、兄が三好長慶と松永久秀に暗殺されると還俗(げんぞく)し、細川藤孝らの助けで諸国流浪となった。
b 諱(いみな)として有名なのは「信友(のぶとも)」。譜代家老衆の一人で武田二十四将にも数えられ、「武田の猛牛」と渾名された。

浜松城 − Hamamatsu Castle

浜松城の天守曲輪には天守台石垣が残るが、天守そのものの存在が不明である

静岡県浜松市中区元城町にあった浜松城は、元亀元(1570)年に徳川家康が三方原台地の東南端に築城し、駿遠経営の拠点とした城である。東に馬込川[a]もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。を天然の外堀として、遠州一帯を見渡すことが可能な三方ヶ原台地は、西進の野望に燃える甲斐の武田信玄を牽制できる位置にあり、また信州と遠州をつなぐ秋葉街道と京へ通じる東海道とが交差する要衝でもあった。この城は、駿河今川氏家臣・飯尾(いいお)氏の居城・引馬(ひくま)城[b]曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。を取り込み、その城域は最終的に南北約500m、東西約400mで、台地の斜面に沿って西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、さらに東南に三の丸を配し、これらの曲輪が一列に並んだ梯郭式平山城である[c]家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。。家康は29〜45歳までの17年間を浜松城で過ごしたが、その間は三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いなど、徳川家の存亡に関わる激動の時代であった。ちなみに、家康在城時は石垣造りではなく土の城である。その後、天正18(1590)年の秀吉による関東移封に伴い、豊臣恩顧の堀尾吉晴(ほりお・よしはる)が入城し、城域が現在の規模に拡張され近世城郭へと変貌した。一説に天守が築かれたのもこの時期と云われるが、絵図などには記録が無く、その姿も不明のままである。

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a もともとは天竜川(天龍川)の本流であり、信濃国の諏訪湖から遠州平野を抜けて西と東に分離して遠州灘(太平洋)へと注いでいた。現在は東の川が本流となって天竜川と呼ばれている。
b 曳馬城とも。現在は古城跡として城塁が残っている。ちなみに「馬を引く=戦に敗れる」と云うことで縁起の悪い城の名前を、古名の浜松荘に因んで浜松に改名した。
c 家康の命を受けて築城を担当したのは普請奉行の倉橋宗三郎、木原吉次と小川家次ら惣奉行の三人で、のちに木原は徳川家の大工頭になる。

遠江小山城 − Tōtōmi Koyama Castle

甲州流築城術が僅かに残る小山城のニ郭跡には雰囲気を伝えるために模擬天守が建つ

かって大井川の渡しと駿河湾沿いの街道が交錯する要衝に位置し、東に湯日川(ゆいがわ)を望む舌状(ぜつじょう)台地の能満寺山(のうまんじやま)先端に築かれていた山崎の砦は、「海道一の弓取り[a]「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。」と云われた今川義元亡きあとの元亀元(1570)年に、共に駿河国に侵攻した甲斐武田と三河徳川両軍が大井川を挟んだ領有権争いに発展した際に争奪戦を繰り広げた城砦(じょうさい)の一つであった。その翌年、武田信玄は本格的な遠江侵攻を前に2万5千の甲軍で大井川を渡河して山崎の砦を強襲・奪取した。そして駿州田中城と同様に、馬場美濃守信房に命じて砦を連郭式平山城に改修させて小山城[b]同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。と改め、城主には越後浪人で足軽大将の大熊備前守朝秀(おおくま・びぜんのかみ・ともひで)を置いて高天神城攻略の拠点とした。今なお甲州流築城術の面影が残る小山城は、現在は静岡県榛原郡(しずおかけん・はいばらぐん)吉田町片岡の能満寺山公園として、台地西側には三重の三日月堀が残っている他、ニ郭跡には丸馬出が復元[c]但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。・整備されている。また昭和62(1987)年には吉田町のシンボルとして、往時には存在していない三層五階・天守閣型の展望施設を建設し、富士山や南アルプスを一望できる観光名所となっている。

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a 「海道」は東海道を表し、特に駿河国の戦国大名であった今川義元の異名として使われる。
b 同名の城が他の地域にもあるのでタイトルのみ国名を冠し、本文中は「小山城」とした。
c 但し、発掘調査では丸馬出の遺構は発見されていない。

横須賀城 − Yokosuka Castle

城内に船着場を持つ横須賀城本丸南下は大井川の河原石を用いた玉石垣造りだった

今から400年以上も前の天正3(1575)年、織田信長・徳川家康らの連合軍38千は三河国の設楽原付近[a]現在の愛知県新庄市長篠にあたる。で武田勝頼が率いる騎馬軍15千と決戦を行い(長篠設楽原の戦)、これに勝利した。これを機に、家康はその前年に無念にも甲斐武田の手に陥ちた高天神城の奪還に向けて準備を開始した。しかしながら長篠の戦で惨敗し多くの重臣・将兵を失った勝頼ではあったが、その強力な甲州騎馬軍団は依然として侮りがたく、家康だけで[b]おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。一気に力攻めするようなことはせずに、足掛け二年もの時間をかけて[c]この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。、まずは高天神城の周囲にある武田方の城や砦を一つづつ取り戻し、その上で周囲に六つもの附城を築き、高天神城への人的・物的補給路を完全に遮断して兵糧攻めによる攻城戦を選択した。その附城の一つとして家康の命を受けた大須賀康高が、馬伏塚(まむしづか)砦に続いて天正6(1578)年から築いた横須賀城は、現在の静岡県掛川市大渕にある。この城は、高天神城からおよそ6㎞という距離にあり、城の南側が遠州灘の入江となっているため船着場を持ち、さらに西と東にそれぞれ大手門を持つ両頭城で、高天神城攻めの軍事拠点として、そしてその周囲にある各砦の兵站拠点として活用されることになった。

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a 現在の愛知県新庄市長篠にあたる。
b おそらく、長篠の戦後に信長からは「家康だけで」三河・遠江両国を取り戻すよう指示があったとされる。
c この家康の『石橋を何度も何度も叩いてから渡る』といった異常なまでの慎重さは、今川家による幼年からの人質時代に培われたと考えられている。

高天神城 − Takatenjin Castle

古来「高天神を制するものは遠州を制す」と謳われた高天神城は鶴翁山頂に築かれていた

静岡県は掛川市上土方嶺向(かけがわし・かみひじかた・みねむかい)にある高天神城は、小笠山(おがさやま)から南東へ延びた尾根の先端にある標高132mで比高100mほどの鶴翁山(かくおうざん)を中心に築かれていた山城である。この城は駿河国から遠江国の入口にあたり、小笠山の北を通る東海道を牽制できる要衝、通称『遠州のヘソ』に位置していたことから、古来より『高天神を制するものは遠州を制す』とも謳われ、群雄割拠の時代には三河徳川氏と甲斐武田氏との間で激しい争奪戦の舞台になった。この城の眼下には下小笠川など中小の河川が外堀を成し、城域にある尾根の三方は断崖絶壁で、残る一方が尾根続きという天然の要害であり難攻不落の城とも云われていたが、実際は東西二つの尾根のうち西峰にある西の丸や堂の尾曲輪が陥ちると、その対面の東峰にある本丸が陥とされかねないと云う弱点を抱えていた。武田四郎勝頼が父・信玄没後の天正2(1574)年に2万5千もの大軍を率いて猛攻した際、徳川方の守将・小笠原長忠[a]長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。は一ヶ月間の籠城によくよく耐えたが、弱点とされた西の丸が攻略された上に徳川家康や織田信長から後詰のないまま[b]長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。開城勧告に応じざるを得ず、ついに落城した。

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a 長忠には、これより三年前の元亀2(1571)年に高天神城を武田信玄が攻めたものの落城させることができずに撤退させたと云う功績がある。
b 長忠から矢のような後詰の催促を受け取った家康は信長に援軍を依頼するものの、越前一向宗門徒の掃討に忙殺されていたため援軍が遅れることになり、結局は援軍の望みが断たれることになった。

掛川城 − Kakegawa Castle

江戸末期の東海地震で倒壊した天守は140年ぶりに戦後初の木造で再建された

室町中期、懸川城[a]現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。は今川義元の祖父・義忠の重臣であった朝比奈泰煕(あさひな・やすひろ)によって遠江国佐野郡にある子角山(ねずみやま)丘陵に築かれた城であり、朝比奈氏が代々城代を務めた。そして泰煕の子・泰能(やすよし)は手狭になった古城から現在の掛川城公園がある龍頭山(りゅうとうざん)に新しい掛川城を築いた。それから永禄3(1560)年に今川義元が桶狭間にて討死、さらにその8年後には義元亡き今川家を強く支えていた母の寿桂尼(じゅけいに)が死去して甲斐武田氏と三河徳川氏による駿河侵攻が本格化すると、当主の氏真は駿河国の今川氏館を放棄してここ掛川城へ逃げのびた。しかし家康に執拗に攻め立てられた城主・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)は後詰のない籠城戦に堪えられぬと開城を決意し、主と共に小田原北条氏の庇護下に落ちた。家康は重臣の石川家成を城代とし、その後に武田氏と敵対すると、ここから近い高天神城諏訪原城で激しい攻防戦が繰り広げられた中にあっても武田氏滅亡まで徳川氏の属城であり続けた。そして天正18(1590)年に家康が関東八州へ移封されると、秀吉の直臣である山内一豊(やまうち・かつとよ)が入って大幅な拡張を施し、三層四階の天守を建てて近世城郭へと変貌させた。

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a 現在の静岡県掛川市掛川にある掛川城と区別して『掛川古城』とも。

諏訪原城 − Suwabara Castle

甲州流築城術を駆使した諏訪原城は巨大な三日月堀と馬出を備えた後堅固な城であった

静岡県島田市金谷にある諏訪原城は、元亀4(1573)年に父信玄の跡を継いで甲斐武田家第20代当主となった四郎勝頼が、元号が改まった同年は天正元(1573)年に、筆頭家老の一人である馬場美濃守信房[a]名は信春とも氏勝とも。はじめ教来石景政(きょうらいし・かげまさ)と名乗り信玄の下で幾つもの軍功をあげ、のちに清和源氏系の馬場氏の名跡を継いで馬場信房と名乗る。甲斐武田四天王の一人。山本勘助の教授で各地に城を普請して、のちに築城の名手と云われた。を普請奉行に、そして武田典厩信豊[b]信玄の実弟である武田典厩信繁の次男にして、勝頼の従弟に当たる。をその補佐として遠江は東海道沿いの牧野原台地上にあった砦跡に築城させた城で、その名は甲斐武田家の守護神である諏訪大明神を城内に祀ったことが由来だと云う。この城は大井川を境として駿河から遠江に入る交通と軍事の要衝にあたり、そこから南西方面にある当時は徳川家康の属城であった高天神城攻略のための陣城として、そして攻略後は兵站の拠点としての役割を担うことになった。扇状の形をしたこの山城には、城から反撃するために深い三日月堀と馬出とで構成された丸馬出や桝形虎口を代表とする甲州流築城術が随所に見られ、搦手口は大井川を天然の外堀とする後堅固(うしろけんご)の城であった。そして天正3(1575)年の長篠設楽原の戦後は、徳川家康らの反撃にもよくよく持ちこたえていたものの、城主の今福浄閑斎が討ち死にした上に勝頼は後詰を送ることができず、ついには落城した。

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a 名は信春とも氏勝とも。はじめ教来石景政(きょうらいし・かげまさ)と名乗り信玄の下で幾つもの軍功をあげ、のちに清和源氏系の馬場氏の名跡を継いで馬場信房と名乗る。甲斐武田四天王の一人。山本勘助の教授で各地に城を普請して、のちに築城の名手と云われた。
b 信玄の実弟である武田典厩信繁の次男にして、勝頼の従弟に当たる。

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