城攻めと古戦場巡り、そして勇将らに思いを馳せる。

カテゴリー: 北陸・東海地方 (1 / 4 ページ)

北陸と東海地方に存在する古城や古戦場

小牧山城 − Komakiyama Castle

小牧山城の大手道は戦国時代は屈曲していたが江戸時代に直線になった

愛知県小牧市堀の内1丁目1番地にある小牧山城跡は、戦国時代の永禄6(1563)年に尾張国をほぼ統一した織田信長が隣国の美濃攻略のために築いた城で、標高85mほどの独立丘陵に位置し、山頂部の主郭は巨石で囲われていたと云う。信長は清州城から居城を移し、城の南西麓に東西約1km四方に及ぶ城下町を整備、併せて重臣らの屋敷を城下に配した。四年後に美濃・斎藤龍興を攻略したあと居城を稲葉山城に移し、城下町を整備した上で岐阜城に改め、ここ小牧山城は廃城とした。それから十七年後の天正12(1584)年、信長亡きあとの織田家と関係が悪化した羽柴秀吉は織田信雄と対立、その信雄と同盟を結んだ三河国の徳川家康を相手に尾張で対峙した。この小牧の戦い[a]現代では「小牧・長久手の戦い」とまとめて表記されることが多いが、それぞれ別の場所での戦いなので区別して表記すべき(「小牧長久手」なんて表記は歴史について何も分かっていない 😞️。)。小牧の戦いは羽柴勢と徳川・織田勢が緒戦から対峙した戦い。犬山城から楽田城へ本陣を移した秀吉に対し、家康は廃城となっていた小牧山城跡を修築して本陣とした[b]城としては廃城のまま。ただの山(小牧山)を陣地として利用しただけ。。この時、家康は土塁を高め、堀を深くするなどの防御工事をわずか五日間で完成させたとされ、現在はこの時代の姿が小牧山史跡公園として残っている。

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a 現代では「小牧・長久手の戦い」とまとめて表記されることが多いが、それぞれ別の場所での戦いなので区別して表記すべき(「小牧長久手」なんて表記は歴史について何も分かっていない 😞️。)。小牧の戦いは羽柴勢と徳川・織田勢が緒戦から対峙した戦い。
b 城としては廃城のまま。ただの山(小牧山)を陣地として利用しただけ。

犬山城 − Inuyama Castle

犬山城の複合式望楼型木造天守は國寶である(落雷で鯱が破損しているが)

木曽川南岸にあって標高85mの丘陵北端が最頂部を本丸とし、そこから南へ幾重もの郭《クルワ》を階段状に配し、山麓にある三ノ丸との間に濠を設けることで、大河を背にした後堅固《ウシロケンゴ》の山城[a]城郭構造としては平山城に相当する。として完成した犬山城は、桃山末期から江戸初期[b]桃山時代の慶長元(1596)年〜江戸時代の元和元(1615)年あたり。に小笠原吉次《オガサワラ・ヨシツグ》が建造したと伝わる木造天守が最終的に望楼型三層四階に改修され、明治4(1871)年の廃城後に個人の所有物となり、昭和の時代には國寳に指定されて、国内でも数少ない現存天守の一つとしてその姿を今に残している。美濃と尾張の国境をおさえる要衝に築かれたこの城の歴史は古く、戦国時代の天文6(1537)年に織田信康《オダ・ノブヤス》が築城し、甥の信長による美濃攻略、そして小牧の戦いでは池田勝入《イケダ・ショウニュウ》[c]信長とは乳兄弟である池田恒興。初め織田信雄・徳川家康方に与すると思われたが羽柴秀吉に調略された。が入城して羽柴勢の拠点となるなどした。江戸時代初めに家康の側近の一人で、尾張徳川家の附家老であった成瀬正成《ナルセ・マサナリ》が拝領すると、廃城まで犬山成瀬家13代[d]犬山藩最後の当主は9代目。廃城後も(譲渡された個人として)城主を務めた。が城主を務めた。

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a 城郭構造としては平山城に相当する。
b 桃山時代の慶長元(1596)年〜江戸時代の元和元(1615)年あたり。
c 信長とは乳兄弟である池田恒興。初め織田信雄・徳川家康方に与すると思われたが羽柴秀吉に調略された。
d 犬山藩最後の当主は9代目。廃城後も(譲渡された個人として)城主を務めた。

大垣城 − Ōgaki Castle

大垣城本丸跡には戸田大垣藩の藩祖・氏鉄の騎馬像が建つ

岐阜県は大垣市郭町《オオガキシ・クルワマチ》2丁目52番地にある大垣城跡は、戦国時代から江戸時代に美濃国で交通の要衝にあって揖斐川《イビガワ》[a]または牛屋川《ウシヤガワ》、現在の水門川。木曽川水系の一級河川。を天然の外濠とした要害堅固な城であった。一説に天文4(1535)年に美濃国守護を務めた土岐氏一族の宮川安定が築いたと云う[b]他に、明応9(1500)年に竹越尚綱《タケコシ・ヒサツナ》が築いたと云う説あり。。古来より西美濃[c]現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称。の「要の処」として重要視され、永禄4(1561)年には美濃斎藤家重臣・氏家直元《ウジイエ・ナオモト》[d]号してト全《ボクゼン》。後世には、美濃斎藤氏の重臣だった稲葉良通(一鉄)と安東(安藤)守就と共に、西美濃三人衆と呼ばれた。が砦から城に改修、天正11(1583)年には織田家の池田恒興が石垣を使って近世城郭化し、天正16(1588)年には豊臣家の伊藤盛景《イトウ・モリカゲ》[e]祐盛《スケモリ》とも。が天守を築くなど、城主が代わる度に整備が進んだ。関ヶ原の戦い後の江戸時代には濠と郭が整備・拡張されて城下町を含む惣構えが完成し、寛永12(1635)年以降は戸田氏鉄《トダ・ウジカネ》を祖とする美濃大垣藩の居城になった。廃城後も天守や櫓は残されたが昭和20(1945)年の大垣空襲で焼失、昭和の時代に外観復元され、平成の時代に焼失前の外観に改修された。

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a または牛屋川《ウシヤガワ》、現在の水門川。木曽川水系の一級河川。
b 他に、明応9(1500)年に竹越尚綱《タケコシ・ヒサツナ》が築いたと云う説あり。
c 現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称。
d 号してト全《ボクゼン》。後世には、美濃斎藤氏の重臣だった稲葉良通(一鉄)と安東(安藤)守就と共に、西美濃三人衆と呼ばれた。
e 祐盛《スケモリ》とも。

菩提山城 − Bodaisan Castle

標高402mの菩提山城の本曲輪跡下には急峻な切岸が残る(おしろんだい)

西美濃[a]現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称を中心にそびえる伊吹山系東端に位置する標高402mの菩提山[b]この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。にあって南北約350m、東西150mの規模を有していた菩提山城は、天文13(1544)年に美濃国守護職・土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》が、美濃国不破郡岩手郷[c]現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。を治めていた美濃岩手氏[d]岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。に宛てた書状に初めて登場し、西美濃が接する近江国の浅井《アザイ》氏と六角氏の動静を監視する目的として築かれた山城であった。美濃岩手氏三代当主・元重の子に重道がおり、これが竹中氏の祖にあたり、美濃国を統治した斎藤山城守道三亡き永禄元(1558)年には重道の子・重元《シゲモト》が本家にあたる岩手信冬を攻めて追放し、この城を手に入れたと云う[e]これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。。岩手一帯6千貫を治める領主となった重元が隠居して、家督を継いだ半兵衛重治は斎藤龍興に仕えて稲葉山城下に居館を置く一方、ここ菩提山城は竹中氏の本城とした。山頂の主郭部を中心に大規模な堀切や複数の虎口で守られた西美濃最大級の山城は、重治の子・重門が城の機能を竹中氏陣屋に移した後に廃城となった。

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a 現在の岐阜県西部に位置し、大垣市など11の市町からなる地域の総称
b この名の由来は、麓にある「菩提寺」と云う寺院から。
c 現在の岐阜県不破郡垂井町岩手大字《フワグン・タルイチョウ・イワテ・オオアザ》地区。
d 岩手氏は、他に甲斐源氏一門にあたる甲斐岩手氏がいる。
e これを、美濃斎藤家の御家騒動に際し、斎藤義龍派の信冬を道三派の重元が攻めた同族争いとの説もある。

竹中氏陣屋 − Takenaka Jin’ya AKA Iwate Castle

江戸時代に旗本になった竹中氏陣屋跡には櫓門と石垣が残る

岐阜県の不破郡垂井町岩手《フワグン・タルイ・イワテ》614-1周辺は、後世には今孔明《イマ・コウメイ》[a]中国の三国時代の英傑らを物語る『三国志演義』に、天才軍師として登場する諸葛亮孔明に並ぶとの例えから。他にも三顧の礼など孔明が引き合いに出されることが多い。と呼ばれた竹中半兵衛重治《タケナカ・ハンベエ・シゲハル》の嫡男・重門《シゲカド》が天正16(1588)年頃に築いた城で、竹中氏累代の居城として戦時には詰城になる菩提山城《ボダイサン・ジョウ》に対して、平時の居館として使われた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いのあと、所領を安堵されて幕府の上級旗本[b]家格は交代寄合で、領地支配の他に江戸に家老や家臣を常駐させ、参勤交代制の対象となった。扱いとなった重門は、祖父・重元《シゲモト》の代から続く菩提山城を廃し、ここ岩手一帯における行政府としての機能を移して陣屋《ジンヤ》とした。この城は四方に濠と土塁と石垣を巡らし、大手口にあたる東側に櫓門を有していたと云う。竹中氏は明治元(1868)年の戊辰戦争まで存続し、最後の当主である十四代・重固《シゲカタ》は旧幕府軍方について敗れ、陣屋は廃城となった。現在は城域の大部分が消失しているが櫓門とその台座石垣、そして濠など一部の遺構が往時の姿で残っている。

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a 中国の三国時代の英傑らを物語る『三国志演義』に、天才軍師として登場する諸葛亮孔明に並ぶとの例えから。他にも三顧の礼など孔明が引き合いに出されることが多い。
b 家格は交代寄合で、領地支配の他に江戸に家老や家臣を常駐させ、参勤交代制の対象となった。

美濃垂井城 − Tarui Castle

垂井城跡と推定される専精寺境内には城址の碑が建つのみ

鎌倉幕府初期の御家人の一人であった長江義景《ナガエ・ヨシカゲ》[a]正妻は相模国三浦郡の豪族で衣笠城主であった三浦明明《ミウラ・ヨシアキ》の娘、側室は幕府で「十三人の合議制」に加わった八田知家《ハッタ・トモイエ》の娘。の次男・明義の孫にあたる行景《ユキカゲ》が承久の乱の恩賞地であった美濃国不破郡垂井《ミノノクニ・フワグン・タルイ》に移り住んで長屋《ナガヤ》氏の祖となる。長屋氏は垂井の地に居館(長屋氏屋敷)を建てたが、南北朝時代[b]鎌倉時代と室町時代の間、もしくは室町時代初期。には南朝方の攻撃を受けて足利義詮《アシカガ・ヨシアキラ》[c]室町幕府二代将軍。初代将軍・足利尊氏の三男。と共に、美濃国の守護・土岐氏をたよって京を脱出した北朝の後光厳天皇《ゴコウゴン・テンノウ》の仮御所として使われた[d]さらに、南朝討伐のため上洛途中の足利尊氏もまたこの居館に宿泊したと云う。。戦国時代にこの屋敷を含む高台が城塞化されて垂井城[e]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「美濃」を冠したが、文中では「垂井城」と綴ることにする。になったと云う説があるが、築城年・築城者ともに不明である。慶長5(1600)年、この城に1万2千石で平塚因幡守為広《ヒラツカ・イナバノカミ・タメヒロ》が入城した[f]この直後に大戦があったことを鑑みると、この仕置には多分に石田治部や大谷刑部の意向が優先された感がある。。為広は長江氏と同じ三浦氏の流れを持ち、かって羽柴秀吉の馬廻りとして仕え、幾多の合戦で武功をあげた勇将である。この直後の関ヶ原の合戦では西軍に属して討死した。その後、垂井城も廃城となったと云う。

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a 正妻は相模国三浦郡の豪族で衣笠城主であった三浦明明《ミウラ・ヨシアキ》の娘、側室は幕府で「十三人の合議制」に加わった八田知家《ハッタ・トモイエ》の娘。
b 鎌倉時代と室町時代の間、もしくは室町時代初期。
c 室町幕府二代将軍。初代将軍・足利尊氏の三男。
d さらに、南朝討伐のため上洛途中の足利尊氏もまたこの居館に宿泊したと云う。
e 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「美濃」を冠したが、文中では「垂井城」と綴ることにする。
f この直後に大戦があったことを鑑みると、この仕置には多分に石田治部や大谷刑部の意向が優先された感がある。

鷺山城 − Sagiyama Castle

標高68mほどの鷺山を含む鷺山公園は斎藤道三の最後の居城だった

岐阜県岐阜市鷺山150にあった鷺山城は標高68mほどの小さい丘ではあるが、平地にそびえて展望が良く、北に東山道が横切り、南に長良川が控え、古来から要の地として使われた。鎌倉時代に常陸国の佐竹秀義《サタケ・ヒデヨシ》[a]清和源氏義光(新羅三郎義光)流・常陸佐竹氏四代当主。兄が源頼朝と上総広常に討たれて降伏、のちに御家人の一人になった。戦国時代に「坂東太郎」の異名を持つ佐竹義重《サタケ・ヨシシゲ》は直系の子孫の一人。が築城したと伝わり、室町時代に美濃国の守護・土岐氏の居城であった革手城《カワデ・ジョウ》の支城となり、近くに美濃国の守護所[b]読みは《シュゴショ》。守護が居住した居館のことで、福光御構《フッコウ・オカマエ》と云われた。も置かれた。その後、土岐一族の内乱が起こるとこの城で攻防戦が繰り返された。天文5(1536)年、十一代守護に任じられた土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》は鷺山から守護所を枝広館[c]現在の長良公園あたり。に移したため、この城は新たに守護代の名跡を継いだ斎藤利政のものとなる。のちに尾張国の織田信長に嫁ぐ濃姫《ノウヒメ》はこの城の館で生まれたと云う[d]ここから、信長のもとに正妻として嫁いだ当初は「鷺山殿」と呼ばれていた。。頼芸を追放して美濃一国を手に入れた利政は、嫡男の新九郎高政《シンクロウ・タカマサ》[e]のちの斎藤義龍。に居城である稲葉山城を譲ったあと、「道三」と号して鷺山城を隠居城とした。この時、父子の関係は修復不可能なほど悪化していた。

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a 清和源氏義光(新羅三郎義光)流・常陸佐竹氏四代当主。兄が源頼朝と上総広常に討たれて降伏、のちに御家人の一人になった。戦国時代に「坂東太郎」の異名を持つ佐竹義重《サタケ・ヨシシゲ》は直系の子孫の一人。
b 読みは《シュゴショ》。守護が居住した居館のことで、福光御構《フッコウ・オカマエ》と云われた。
c 現在の長良公園あたり。
d ここから、信長のもとに正妻として嫁いだ当初は「鷺山殿」と呼ばれていた。
e のちの斎藤義龍。

岐阜城/稲葉山城 − Gifu AKA Inabayama Castle

美濃一国から天下布武の山城となった岐阜城跡に建つ復興天守

鎌倉時代に、政所執政の二階堂行政《ニカイドウ・ユキマサ》[a]源頼朝死後の鎌倉幕府で「十三人の合議制」に加わった文官の一人。鎌倉の二階堂に居館があった。某大河ドラマでは野中イサオ氏が演じていた。が京への押さえとして美濃国の井之口山《イノクチヤマ》[b]稲葉山、現在は満開のツブラジイで山全体が金色に輝いて見えることから金華山とも。に築いた砦は、戦国時代初めに美濃守護代を務めた斎藤利永《サイトウ・トシナガ》が城塞化した。天文7(1538)年には、巧みな話術と機転の良さを武器に伸し上がって守護代の名跡を我が物とした斎藤利政(号して斎藤道三)が稲葉山城の主となり、美濃守護の土岐頼芸《トキ・ヨリノリ》を追放して美濃一国を支配する拠点とした。道三死後の永禄10(1567)年には、尾張国を統一した織田信長が攻め落として岐阜城と改め、この城を足がかりにして天下布武を推し進めた。その後、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに先立つ攻防戦では、僅か一日で落城し、翌年には廃城になった。標高330mほどの急峻な山頂に築かれた要害ではあったが七度も落城し、さらには道三以降ほとんど全ての城主が不幸な末路を遂げている[c]徳川家康が岐阜城を早々に廃城にしたのは、この不吉さがあったからかもしれない 😅️。。現在、山上部には復興天守が建ち、山麓部には信長が築いたとされる城主居館跡が残る。

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a 源頼朝死後の鎌倉幕府で「十三人の合議制」に加わった文官の一人。鎌倉の二階堂に居館があった。某大河ドラマでは野中イサオ氏が演じていた。
b 稲葉山、現在は満開のツブラジイで山全体が金色に輝いて見えることから金華山とも。
c 徳川家康が岐阜城を早々に廃城にしたのは、この不吉さがあったからかもしれない 😅️。

伊豆長浜城 − Izu Nagahama Castle

重須湊を武田水軍から守るため発端丈山から駿河湾へ延びた尾根上に築かれた長浜城

静岡県は沼津市内浦重須《ヌマズシ・ウチウラ・オモス》にあった長浜城[a]全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「伊豆」を冠したが、文中では「長浜城」と綴ることにする。は、伊豆半島の発端丈山から駿河湾[b]最深部は水深2,500mに達し、日本で最も深い湾。相模湾・富山湾と並んで日本三大深海湾の一つ。へ向って延びた尾根先端にあり、深く入り込んだ重須湊を守るために、戦国時代には小田原北條氏が水軍の前線基地として運用していた。城の南側を除く三方は急峻で水深が深い海に接しており、安宅舟《アタケブネ》や小早舟といった軍船や海賊船として知られる関舟の停泊に適していたと云う。この時代の水軍の拠点としては、その多くが陸地から離れた島に置かれていたが、この城は山城の特徴を併せ持つ海城であった。すなわち、城域の最高地ある第一曲輪を中心に海側と山側に向って郭がL字型に配置され、陸側には敵の侵入に備えて、北條流築城術の特徴でもある土塁と堀切、そして畝を持つ空堀が設けられていた。天正18(1590)年に小田原北條氏が滅亡した後に廃城となったが、昭和の時代に国の史跡に指定され、平成の時代には保存整備が進み、現在は戦国時代の姿が復元された史跡公園として市民に公開されている。

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a 全国に同名の城がある場合は国名を付けるのが習慣であるため本稿のタイトルには「伊豆」を冠したが、文中では「長浜城」と綴ることにする。
b 最深部は水深2,500mに達し、日本で最も深い湾。相模湾・富山湾と並んで日本三大深海湾の一つ。

鳥羽山城 − Tobayama Castle

鳥羽山城は堀尾氏が改修し道幅6mを越えていたとされる大手道が残る

元亀3(1572)年に甲斐国の武田信玄が大軍を率いて遠江国の徳川家康領に侵攻を開始、兵数で劣る家康の手勢を分散させるため、守備の薄い城を次々に陥落させることで掛川城諏訪原城、そして浜松城といった家康の拠点を孤立させた。つづいて信玄は自軍の補給路を確保するために二俣城を包囲するも、この城の天嶮に阻まれて近寄ることができなかったが[a]もちろん家康も後詰を送れずにいた。、ついには水の手を絶つことに成功し降伏開城させた。こののち信玄は三方ヶ原台地で家康と織田信長の援軍を痛破し東海道を押し進む動きをみせたものの、翌4(1573)年に急死して上洛戦は幻となった。そして機山公[b]武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。の喪が明けた天正3(1575)年に、跡目を継いだ四郎勝頼が信長ら連合軍に無二の決戦を挑んだ長篠・設楽原合戦で惨敗すると[c]これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。、ついに家康の反撃が開始され、二俣城奪還のため旧・二俣川[d]往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。対岸に鳥羽山城を築き、周囲の附城と共に包囲網を形成したと云う。この城は、現在は静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある鳥羽山公園として市民の憩いの場になってる。

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a もちろん家康も後詰を送れずにいた。
b 武田信玄の法名「法性院機山徳栄軒信玄」。
c これ以降、勝頼の国衆らへの求心力が低下する。
d 往時は、現在の二俣川の一部が二俣城の東側から南側にかけて流れ、天竜川へ合流していた。
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