田川と釜川によって侵食された宇都宮丘陵の西側を南北に延びる宇都宮台地東端にあって、東と北は田川低地、そして西に小さな沢がある南向きの段丘上に築かれていた宇都宮城は、日光街道と奥州街道が分岐する要衝に位置する。この城は藤原秀郷や宇都宮氏の祖・藤原宗円《フジワラ・ノ・ソウエン》の館跡とする説があるが定かではない。堀が何度も堀り直されていることが分かっており、宇都宮氏が城主であった戦国時代から大きく拡張されてきたと考えられる。宇都宮氏が慶長2(1597)年に太閤秀吉の命で改易された後は城主の入れ替わりがあったが、関ヶ原の戦い後に入城した本多氏による町割替や城普請、そして奥平氏による二の丸整備などで近世城郭としての宇都宮城が完成し、江戸時代後期に入城した戸田氏が幕末までの約130年を治めた。しかし慶応4(1868)年[a]明治元年でもある。の戊辰戦争で本丸をはじめ多くの建造物を焼失して廃城となった。その後は土塁や堀は破却され、昭和時代にはいっそうの都市化が進み、城の遺構は消滅した。
参照
↑a | 明治元年でもある。 |
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